127 蒼井さんの気持ち その1
いつまでも待てる……とは思っても、やっぱり気がはやるのは確かで。
(いつ紹介できるかなあ?)
蒼井さんを迎えに行く車中でこれからのことばかり考えてしまう。ふたりでできるいろいろなことを想像すると、待ち遠しくて仕方がない。でも、それには蒼井さんに「イエス」の返事をもらわなければならない。
(今日は無理だよな……)
気持ちを伝えたのが月曜日だ。保留にしたその話を週末に蒸し返すのはいくら何でも早すぎだ。それに、夕方の彼女の様子では、まだ「イエス」と言える状態ではなさそうだ。だとすると。
一つの節目は今月の半ば、俺の誕生日。
(きっかけとしては良いと思うけど……)
ふたりで出かけるイベントだし、蒼井さんも何らかの心の準備をしてきている可能性はある。あれから半月という時期もちょうど良さそうな気がする。
でも、一方で誕生日というのが逆に良くない気もする。蒼井さんに気を遣わせてしまいそうで。オーケーの場合は思い出になって良いけれど。
(あーあ……)
どうするのが適切なのかまったく分からない。どこかに手順書でもないだろうか……。
約束の場所に着いてほとんどすぐ、蒼井さんが急ぎ足でやって来た。
街灯の下、横断歩道を渡った彼女は、俺の車を見付けてほっとしたように表情を緩めた。たったそれだけで十分に報われた気分になる。
「本当にすみません」
窓を開けると、近付いた彼女が深々と頭を下げた。
「全然」
俺は蒼井さんに会えるなら、何時間かかったって平気だ。
「蒼井さん、ちゃんとゆっくりしてきた? 気を遣って早く出て来たりしてない?」
「そんなことありません。宇喜多さんこそお夕飯は? ちゃんと食べました?」
「ああ、まあ、簡単に」
「じゃあ今、何か買ってきます、ここのスーパーで。そのくらいはさせてください」
あたふたと店に向かおうとする彼女を急いで車から降りて追いかける。
「一緒に行くよ」
隣に並ぶと、彼女が真面目な顔で俺を見上げた。
「でも、お金を払うのはわたしですよ?」
「うん。ちゃんとおごってもらう」
それで蒼井さんの気が休まるなら。俺は一秒でも長く蒼井さんと一緒にいられたら幸せだ。
テニスの荷物を持ったままだった蒼井さんに買い物カゴを持った俺がくっついてスーパーの中を見てまわる。そんな自分たちが新婚夫婦に見えそうで、照れくさいながらもテンションが上がる。
総菜コーナーは時間的に品薄だったけれど、ほとんどのものが安くなっていた。冷めていることを気に病む蒼井さんをなだめながら唐揚げとペットボトルのお茶を選び、蒼井さんは朝食用の食パンをカゴに入れた。買い物が済んで車に落ち着くと、蒼井さんは「ふう…」と深く息を吐いた。
「疲れた? 朝からテニスもあったしね」
「あ、すみません!」
あわてた様子で背筋を伸ばす。
「宇喜多さんの方が疲れてますよね? 運転してるし、二往復だし」
「俺? 俺は平気だよ。運転は嫌いじゃないから」
「そうですか? すみません……」
俺が気楽に言ったのに、蒼井さんは元気無くうつむき、もう一つ小さく息を吐いた。
「やっぱり疲れてるみたいだね」
車をスタートさせながら話しかけてみる。疲れているというよりも、気がかりなことがあると言う方が当たっているかも知れない。彼女とお母さんの関係がまた気になってくる。
「家に着くまで寝てていいよ」
せめて俺には気を遣わないでほしい。それに、寝顔もきっとかわいいだろう。
「いいえ、眠いわけじゃないです。あ、そうだ!」
そこでやっと微笑んでくれた。
「さっき買ったもの、食べますよね?」
返事を待たずに彼女はスーパーのビニール袋を探り、お茶のふたを一旦はずして閉めなおしてからボトルホルダーに入れてくれた。それから唐揚げのパックを開けると、迷いなく割り箸を割る。
「はい、あ〜ん」
「ん?」
横から差し出された唐揚げと蒼井さんの笑顔を素早く確認。
(こ、これは……)
こんな展開が待っているとは思わなかった! 信号待ちのときにでも自分で食べるつもりでいたのに。
(照れくさいけど……)
非常にラッキーだ。外では絶対にやってもらえないだろう。俺からだって絶対に言えない。
対向車から見えるかも…という気恥ずかしさを振り払い「あーん」と口を開けると、蒼井さんが覗きこむようにして唐揚げを口に入れてくれた。思ったよりも大きくて、しばらくしゃべれそうにない。でも、ニヤニヤ笑いを隠すにはちょうどいい。
(やっぱり蒼井さんは俺のことを好きでいてくれるんだ!)
好きでもない男にこんなことをするはずがない!
「美味しいですか?」
真面目な顔で尋ねる彼女にうなずきで応える。実のところ、舞い上がってしまって味などよく分からない。
「もう一つ? それともお茶?」
頃合いを見計らって尋ねてくれる蒼井さん。気を配ってもらえることが嬉しくて、同時に、そんな彼女が本当に愛おしくて……。
(ぎゅーっと抱き締めたい!)
運転中で手がふさがっていることがもどかしい。
(降りる直前ならできるかなあ……)
夜だし、あの道は人通りも少ない。そして、「抱き締める」はオーケーの行為のはずだ。
信号待ちでお茶を飲みながら、さり気なくシートの間隔を確認してみたりする。その後も二つ目の「あーん」は箸が唇に痛かったし、四つ目はほっぺたに食べさせられそうになったけれど、一緒にたくさん笑えて楽しかった。
唐揚げを食べ、ひとしきり笑ったあと、彼女はふと、真面目な顔になった。それからゴミを片付けながらしばらく下を向いていた。無言の時間に一定の間隔ですれ違う対向車のライトが心を穏やかにしてくれる。…と、蒼井さんは顔を上げ、前を向いたままゆっくりと深呼吸をした。まるで何かを決心するように。
「わたし……本当は、お断りしなくちゃいけないんじゃないかと……思うんです」
ゆっくりと、ためらうように彼女が言った。すぐに、それが俺の気持ちに対する返事だと分かった。
(ふ)
断ると言われているのに、思わず笑ってしまった。だって、「思うんです」なんて、まるで俺に相談しているみたいだ。相談されて「じゃあ、そうしよう」なんて、俺が言うはずがないのに。
それに、俺はもう彼女の気持ちが分かっている。
「その話はまだしないつもりだったんだけど」
「すみません……」
「ううん、なんだか蒼井さんらしいよ。……たぶん、俺に申し訳ないとか思ってるんじゃないのかな? ずるずる引き延ばしたら悪い、とか」
蒼井さんが目を見開いて俺を見た。読みが当たっていたようだ。
「どうしたらいいか分からないんです……」
しょんぼりと肩を落とす彼女。混乱した気持ちを素直に打ち明けてくれる、そういうところも好きだな、と思った。
「俺もだよ。手順書があればいいのにって思ってた。くく…」
彼女が情けなさそうな表情を向けてくる。ふたりともどうしたら良いのか分からないのだから、そんな顔をされるのも仕方ない。
「こんなこと言ったら自惚れてるって言われちゃうかも知れないけど」
気付いたら出ていた言葉に一瞬、ためらう。けれど、夜の大胆さなのか、思い切って続ける気になった。
「蒼井さん、俺のこと、好きだよね?」
「!!」
さっきよりもっと驚いた彼女は顔の下半分をパッと両手で隠した。大きな目で俺を凝視して。
「驚かせてごめん。でも……、いや、こんなセリフ、俺なんかには似合わないなあ。あはは、ごめん」
あやまる俺に、彼女が無言で首を横に振る。それから「ああ……」と小さくうめいて、力無くシートに身を沈めた。ぼんやりと前を向いた横顔に浮かぶのはあきらめだろうか。それとも……?
やがて彼女が口を開いた。
「わたし、宇喜多さんに何もお返しできません……」
(ああ、そうか)
その一言で納得が行った。蒼井さんは自分の価値がまったく分かっていないのだ。俺にとっての彼女の価値が。
「そう思ってるの?」
俺が微笑んでいるのに、彼女は悲しそうに見返してくる。
「何も返す必要なんか無いよ。一緒にいさせてくれるだけで、俺は嬉しいんだから」
「でも……」
「本当だよ。それに、一緒にいるとき、蒼井さんにはいろんなものをもらってる」
懐疑的な顔の蒼井さんにかまわず続ける。
「楽しい会話とか、驚きとか、俺が知らなかった深い……感情とか。くくっ、さっきの『あーん』みたいな体験もね? そういうの、ほかの人とじゃ味わえない。……って言うか、蒼井さんとだから楽しいわけで。だから特別なものは何もいらない」
蒼井さんから懐疑的な表情が消え、困ったような、何とも言えない表情に変わった。
「俺は、今までのままでもいいよ」
話しながら自分も納得した。さっきはなるべく早く返事をもらいたいと思っていたけれど。
「無理に結論を出さなくてもいい。もちろん、いつまでもってわけではないけど、しばらくの間は待てるから」
蒼井さんが視線を落とした。きっと、いろいろな可能性を考えているのだろう。
やがて、彼女が顔を上げた。そうしてまっすぐに俺に視線を向けた。




