124 伝えられない何か
「じゃあ姫、今日は実家に泊まるんだ? のんびりできそうで良かったな」
土曜日の午後三時過ぎ、テニス帰りの車の中で、助手席の宗屋が蒼井さんに話しかけた。
「あ、いいえ、泊まらないんです。夕飯食べたら帰ります」
「え、泊まらないの?」
俺もそれは初耳だ。いつものテニス以外の荷物が無さそうだと思っていたけれど、必要なものは実家にあるのだと勝手に納得していた。
「はい。明日は大学の試験があるし、うちの実家、狭いから」
バックミラーに少しおどけて肩をすくめる蒼井さんが映る。
「今の団地はわたしが家を出てから引っ越したところだから、わたしが寝るスペースは無いんです」
彼女の言葉が「わたしの居場所は無い」という意味に聞こえた。その淋しさに、思わず言葉が口を突いて出た。
「遅くなるなら迎えに来てあげようか?」
「おう、そうだ、そうしてもらえ。夜は物騒だからな」
宗屋がすかさず同意してくれる。けれど彼女は笑って、「何時になるか分からないし、バスがたくさんあるから」と辞退した。遠慮はしない約束なのに。
「なあ、姫のお母さんってどんなひと?」
一方、宗屋の方は至って遠慮は無しだ。
でも、俺は少しあわててしまった。今までの蒼井さんとの付き合いの中で、彼女があまり家族のことは話したがらないことに気付いていたから。尋ねれば話してくれるけれど、自分から家族の話題を持ち出したことは無かったのだ。それに、実家に帰るという話も今回初めて聞いた。
「うちの母ですか? 普通のおばさんです」
それでもやっぱり蒼井さんは笑顔で答えた。
「あはは、まあ、子どもから見たら親はたいていそうだよな。姫と似てるのか?」
「背が低いところは似てますね。声も似てるって言われたことがあります。顔は……どうかな? よくわかりません」
「ふうん。性格は?」
「そうですねえ……、社交的? 仕事を伝手で見付けるのも早かったし、ご近所付き合いもわりと上手にしていますね」
「宗屋、どうしてそんなこと急に訊くんだよ? もしかして宗屋って年上好み? 確かに蒼井さんのお母さんは独身だけどさ」
話題を変えられないかと、さり気なく話を混ぜっ返した。すると宗屋は軽く俺をにらみ、後ろで蒼井さんはくすくす笑って「やめた方がいいですよ」と言った。
「そうじゃなくて」
宗屋が俺に説明する。
「どうやったら姫みたいないい子が育つのかと思って」
「ああ、なるほど」
そういう疑問なら分かる。蒼井さんは本当に素直で頑張り屋だから。
バックミラーの中では蒼井さんが目をパチパチしていた。それから可笑しそうに笑って。
「わたし、べつにいい子じゃないです」
「んー、いい子っていうよりもしっかり者、かな。その年でそこまでしっかりしてるって、なかなか無いよ」
「それは、そういう部分だけを宗屋さんが見ているからです。わたし、『外面だけはいい』って、昔から母に言われてて。小中学生のときは忘れ物いっぱいしたし、部屋の片づけとか本当に苦手でできてないから、家では怒られてばっかり」
気さくに話してくれたけれど、一つの言葉が心に引っかかった。
(外面だけは……って)
それは人格を否定する言葉じゃないだろうか。外でどんなに良いことをしても、真実の姿は評価に値しない、と。そんなふうに言われてきたのだ、彼女は。お母さんから、何度も。
「ふうん。姫のお母さんって厳しそうだな」
「厳しいですよ。怒るとすごく恐いです」
「へえ、そうなんだ? 姫なんか、怒るところ無さそうなのに」
「あはは、そんなことないですってば。それに仕方ないです。わたし、長女だから」
笑顔でさらりと答えた彼女。でも俺には、今度は「長女だから」という言葉が引っかかる。
蒼井さんには弟さんがいる。「長女だから」厳しくされたということは、弟さんは違うということではないだろうか。お母さんの厳しさは、蒼井さんだけに向けられたものという意味ではないだろうか……?
(「仕方ない」……って、言うんだなあ……。)
蒼井さんはどんな思いで口にしているのだろう。まだ十九歳の女の子が、まるで運命を受け入れるみたいに。
「姫みたいに育つなら、俺も厳しく育てたいなあ」
のんきな宗屋の言葉に蒼井さんが笑った。
「厳しいのもほどほどがいいですよ。宗屋さんが大きな声で怒ったらすごく恐そう」
(「ほどほど」か……)
それは蒼井さんが「ほどほど」以上を知っているからこその言葉ではないのだろうか。それは俺の考え過ぎだろうか。
蒼井さんはいつも大きな声で怒られてきたのだろうか。お母さんから。厳しい言葉で。
彼女が笑顔で「仕方ない」と言えるまでの背景を考えたら、孤独な彼女の姿が見えるような気がした。
「やっぱり迎えに行くよ」
宗屋を降ろしたあと、密かに決めていたことを伝えた。助手席に移っていた蒼井さんが驚いてこちらを見る。
「バスと電車じゃ、けっこう時間がかかるよね? だから行くよ」
「でも、宇喜多さんの家からじゃ、かなり遠いですよ。帰ってからもう一度来るのは面倒だし、何時になるか分からないからいいです。ちゃんと自分で帰ります」
「夕飯を食べて帰るなら、夜までこっちにいるんだよね? この時間なら俺も十分に余裕があるよ。だいたいの予定が分かれば、それに合わせて家を出るよ。途中で時間をつぶすこともできるからね」
「でも大丈夫です、今までも何度もバスで帰ってますから。バス停までも近いし――」
「蒼井さん」
そっと呼ぶと、彼女は言い訳をする口を閉じた。
「遠慮はしない約束だよ。これはまだ有効のはずだよね?」
静かに俺を見つめたあと、彼女がうつむく。少し悲しそうに。
重くなりかけた空気を振り払うため、今度は明るい声で言う。
「だってね、蒼井さん。俺、すごく心配なんだよ、夜に蒼井さんが一人で帰ってると思うと。いろいろ怖いニュースあるでしょう? ああいうのを思い出しちゃって、今だって不安になるよ、この前の話とは関係なく」
顔を上げた蒼井さんを視界の隅で確認して。
「だから迎えに行かせてほしいな。その方が安心なんだよ。べつに家まで行くとは言わないよ。近くで待ってるから。それでも迷惑?」
彼女が無言で首を横に振った。
「そんなこと…ありません」
そう言いながらも、彼女はやっぱり悲しそうで。そんな彼女を励ますため、俺は微笑んで続ける。
「じゃあ、決まりだね。いつも何時ごろ帰るの?」
「いつもは……八時から九時の間くらいに出ます」
「わかった。八時には着けるように家を出るよ。あ、でも、だからって何がなんでも八時に帰らなくてもいいからね? ちゃんとゆっくりして来て。こっちはどこででも時間調整できるから」
「宇喜多さん……」
蒼井さんが続けて何か言おうとした。けれど、それはとても難しいことらしく、何度か試みられたけれど声にはならなかった。最後に彼女はあきらめた様子で息を吐き、「ありがとうございます」とだけ言った。そうして膝の上で握りしめた両手に目を落とした。
俺はその一連の動作に彼女の迷いを感じながら、彼女が背負っている何かを思った。おそらくそれが、彼女が俺の気持ちに「イエス」と言えない原因なのだろう。
俺は聞かなくてもいいと思っている。でも、彼女は話さなければならないと思っている。それはどんなことなのだろう。
話す必要は無いのだと、俺は知らなくても蒼井さんへの気持ちは変わらないのだと伝えたい。けれど、その存在に俺が気付いていることを知らせても良いのかどうか、それさえも分からない。
何か少しでも伝えたくて、次の信号で止まったとき、彼女の膝の上の手に自分の手を重ねた。ハッとこちらを向いた彼女を見返しながら、そのてのひらに指を滑り込ませる。抵抗なく俺の手に収まった小さな手をそっと握りしめると……初めて力が返って来た。そして彼女の瞳は……。
蒼井さんの気持ちは俺に向いている、と、今度こそ確信した。




