121 ◇ 自分の浅はかさが悔やまれる ◇
(どうするんだろう?)
宇喜多さんがお誕生日に休暇を取ることが決まってから今日で三日目だ。お休みするならどこかで待ち合わせなくちゃならないのに、何も言ってくれない。夜でも朝でも、話す時間はあったのに。
要するに、あの約束は無しってこと?
(まだほぼ二週間あるけど……)
あのとき原さんに、「その日は用事が」って言っていた。ってことは、あのときまでは行くつもりだったってことだよね? だけど、あらためて約束し直すのは面倒……?
(あんなこと言ったから、面倒くさいって思われちゃったかな……)
そうかも知れない。もう、わたしのことなんかどうでもいいのかも。
(ああ……)
仕事中でも気になって困る。今日は会議で出張が入っててちょうど良かった。電車でぼんやりできるから。
(いろんなことが一気に起こったからなあ……)
土曜日のお出かけ。樫森くんと会ったこと。お母さんからの電話。宇喜多さんからの告白。落ち着く暇もない三日間だった。
で、その翌日に宇喜多さんのお誕生日のお休みが決まって、それからは何も言ってくれないことにもやもやしてる。
(言ってくれないことだけじゃないかな……)
宇喜多さんがあまりにもあっさりしていることも。なんて言うか……本当にただの仲良しの先輩みたいな。前はもう少し何かがあったような気がするんだけど。
(こんなの自分勝手だよね……)
この状態を望んだのは自分なのに、今さら物足りないと思うなんて。
(あーあ……)
本当に、自分が嫌になる。
だって、告白してくれたのに「今のままで」なんて中途半端な返事、すごく失礼だ。気持ちだけもらっておいて、何も返さないみたいだもの。しかも、その状態を維持するってことは、自分は応えられないけど、ずっと自分を好きでいてくれって要求するのと同じだものね。
これじゃあ、宇喜多さんの気持ちが消えてしまっても文句は言えない。それどころか、怒られても当然だ。
(そんな意味で言ったんじゃなかったけどな……)
樫森くんに宇喜多さんとの可能性を指摘されたときは、今までの状態を維持するのが一番良いことだと思った。それしかないって。そうしたら、次の日に急に告白されて……。
(あの答え以外、思い浮かばなかったんだよね……)
でもあれは、宇喜多さんが葵先輩を好きだという前提に立ってのことだった……って今なら分かる。宇喜多さんが葵先輩を好きなら、わたしが我慢をすれば済むという話だったのだ。自分の気持ちを隠し通せば。
でも、宇喜多さんはわたしを想ってくれていた。そして、それを伝えてくれた。それに対してわたしは中途半端な返事をして、勝手な要求を突き付けた……。
(ああ……)
そんなことに気付かないなんて、わたし、馬鹿なんだ、きっと。そのうえ、そのとおりになったら今度は物足りないなんて、本当にわがままだ。
(でも……)
あの話はとりあえず保留ってことだったと思うんだけどな。「また今度」って言われたのだから。宇喜多さんは怒っていなかったし――。
(あ、降りなきゃ)
とにかく、今日は出張がありがたい。
「お疲れさまでしたー」
「さよならー」
担当者会議は無事終了。今日はこのまま帰宅だ。会議室の並ぶ廊下を通ってどんどん人が消えていく。
「ふう」
仕事が終わった途端に宇喜多さんのことが再浮上してきた。
本当は、この帰りに宇喜多さんのお誕生日のプレゼントを見に行こうと思っていた。でも今は、お誕生日の企画は無くなるかも、という状態。それどころか、もう嫌われてるかも知れないし……。
「蒼井、お疲れ」
「あ、花澤さん、お疲れさまでした」
今日の会議に進行役で参加していた花澤さん。顔を合わせるのは海以来だ。離れて時間が経っても、こうやって声をかけてもらえるのはとても嬉しい。
「なんかあったか?」
「え?」
「なんだか新人のころみたいな顔してるぞ。仕事忙しいか?」
「いいえ、忙しさは普通です」
(新人のころみたいな顔……)
あのころは自分には夢も希望も無くなったと思っていた。確かに、今のわたしも同じ気分だ。好きなひとと幸せになれる希望は無いのだから。
「そうか。まあ、蒼井なら仕事は問題ないだろうな」
「うわ、そんなことないですよ。いつミスするかってびくびくしてます。この前も計算ミスあったし」
「でも、間に合って直せるだろ? 蒼井はいつも余裕持って仕事してるから」
「それが花澤さんの教えですからね」
花澤さんと話しているだけで気分が晴れる。滅多に会えないけれど、花澤さんの存在は今でもわたしの支えになっているのだと分かる。
「宇喜多とは仲良くやってるか?」
(あ)
突然、宇喜多さんの名前。一瞬、ドキッとしたけれど、おとといのことを花澤さんが知っているはずがない。海で一緒だったし、新人さんだから元気にしているか心配してるのだろう。
「大丈夫ですよ。あ、でも宇喜多さん、夏休み一日も取ってなくて、原さんに日程調整されてました」
「一日も取ってなかったのか? せっかくだからふたりで出かけたらいいのに」
「え?」
「ん?」
お互いに眉をひそめて顔を見合わせる。
「ええと……?」
もしかしたら、花澤さんが言った「仲良く」は違う意味の……?
不意に花澤さんがササッと周囲を見回し、わたしの肘を引っ張って廊下の隅へ。そこで小声で。
「お前たち、付き合ってないの?」
「え、いいえ、付き合ってません」
否定しているのに頬が熱くなった。気付かれたらどうしよう?
「なんだよ……」
ひどくがっかりされたみたい。でも、どうして? そういう期待をされていたってこと?
「あいつ、約束したのに」
怒ったような顔で花澤さんがつぶやいた。
「約束……?」
わたしの頬はまだ熱い。顔を伏せたいけれど、それも不自然だ。
「そうだよ、俺と」
(花澤さんと? いったい何を?)
ぼんやり考えていたら、じっと見られていて焦った。
「蒼井、宇喜多と何も無かった?」
「う」
思わず返事に詰まった。
(失敗した……)
何かあったことがバレバレだ。
数秒の無言のあと、あきらめと情けない気持ちで力が抜ける。下を向いたわたしの耳に、花澤さんの大きなため息が聞こえた。
「あいつならちょうどいいと思ったんだけどなあ。一途過ぎて蒼井には重かったか……」
「あ、ち、違います」
慌てて顔を上げた。
「わたしがダメなんです。宇喜多さんには何も足りないことなんかありません。悪いのはわたしだけで」
「かばう必要なんか無いよ。こういうことは仕方がないんだから。好きになれないことを気に病む必要なんか無いんだ」
ズキンと胸が痛んだ。人が去った廊下で保護者のような花澤さんと二人だという安心感も手伝って気が緩む。
「そうじゃないんです……」
あのときの気持ちがよみがえる。胸の痛みも。苦しさも。
「わたしが……ダメなんです。宇喜多さんに相応しくないから。だから――」
「蒼井」
花澤さんが遮った。その真剣な表情に驚いた。
「宇喜多に言われたのか、相応しくないって?」
「いいえ! 違います。宇喜多さんはそんなこと言いません」
否定するとすぐに花澤さんから緊張感が消えた。
「じゃあ、そんなこと言うな。お前はどこに出しても恥ずかしくないうちの娘だぞ」
(娘……?)
思いがけない言葉。そんなふうにわたしのことを思ってくれていたのだろうか。その温かい気持ちに胸がいっぱいになる。
花澤さんが小さく微笑んだ。
「先々困らないように手堅い選択をするのは賢明なことだよ。でも、人生のうち何度かは賭けに出なくちゃならないこともあるんだ」
(賭け……)
宇喜多さんのこと? 恋をすること?
「でも、賭けに失敗したら、いろんなものがなくなっちゃいます」
失くしたくない。宇喜多さんとの楽しい時間を。仲良しでいられることを。
「でも、残るものもある」
(残るもの……)
宇喜多さんと過ごした時間。幸せな思い出。もらった勇気……。
「失くすものなんて、一生の中ではほんのわずかだよ」
「そうでしょうか? それで人生が変わってしまうかもしれないのに?」
「変わったら変わったで、そこから新しく始めればいいじゃないか。蒼井がこれから生きる年数を考えたら、失敗して一、二年まわり道してもたいしたことないだろ?」
「そう言われてみると、そんな気もしますけど……」
「ははは、蒼井より十年も長く生きてる俺が言うんだから間違いないんだよ」
わたしは宇喜多さんとのことを重く考え過ぎていたのだろうか……。
「蒼井はさあ、もっと欲を出していいと思うぞ」
「欲?」
「そう。幸せになろうとすること。チャンスが来てるのに見送ってばっかりじゃもったいない。交差点の合流で怖気づいてるのと同じだよ」
「交差点?」
「そう。目の前をほかの車が過ぎて行くのを見てるだけ。入れてくれようとする車もあるのに、頑なに拒んで」
(頑なに拒んで……)
幸せになれるチャンスがあるのに見送っている? 幸せになれないのではなく、幸せになるのを拒んでいる?
「一旦乗ってみて、その道が無理だと思ったら、次の交差点で降りればいいんだよ。ほかの道を探せばいいんだ。いくらでもやり直せる」
(やり直せる……)
失敗してもやり直せる。人生は長い。その中のほんの一時。
「宇喜多なら蒼井にはピッタリだと思うけどな」
花澤さんがにやりとした。
「う……」
そうだったら嬉しいけど……。
「海で蒼井に甘えられた宇喜多がどんだけ嬉しそうな顔してたか知らないのか?」
(宇喜多さんが……?)
嬉しそうだった? わたしと一緒にいて?
それは、わたしが宇喜多さんを幸せにできるってこと……?
(交差点……)
目の前を流れる幸せへの可能性。
どうぞ、と言ってくれるひと。
勇気を出せばいいのだろうか。
賭けに出てみるとき……なのだろうか。




