116 ◇ パニック寸前! ◇
(なんか……、宇喜多さん、機嫌が悪い?)
梅谷駅で電車を降りるときに思った。みんなと別れてからあんまり話してないし、あんまり笑わない。どうしちゃったんだろう?
(お店にいるときには普通だったと思うけど……。)
今日は樫森くんがいて、いつもよりもにぎやかだった。樫森くんは遠慮気味だったけど、宗屋さんが上手に話題を振ってくれたし、わたしも少しはフォローした。宇喜多さんのことで意味あり気に目配せをされるのは困ってしまったけれど。
宇喜多さんも楽しそうにしていたのに。
(……あれ?)
宇喜多さんが見当たらない。ぼんやりしていたから?
人の波の間を探すと、少し先を階段を下りて行くところ。見失わないようにしないと。
改札口を出たところで待っていてくれた宇喜多さんに「すみません」と駆け寄った。それに軽くうなずいただけで、またすぐに歩き出してしまった。
(やっぱり機嫌悪い……?)
駅から道路へとついて行きながら不安になってきた。
(何かやっちゃったかな……。)
この感じだと、わたしのことを怒ってるんだよね? でも、心当たりがない。
(なんでだろう……?)
一緒に帰れるのを楽しみにしていたのに。こんなふうに歩いていたらすぐに家に着いてしまう。そんなの悲しい。それに、このままサヨナラしたら、あやまるチャンスが無くなりそう。
夜の道路で街灯のあかりに浮かび上がる宇喜多さんの白いシャツ。その後ろ姿がまるでわたしを拒否しているみたい。
(背中……。)
ふと気付いた。
(背中をじっくり見ていたことって、無かった気がする……。)
確かにそうだ。いつも並んで歩いていたから。
(本当に怒ってるんだ……。)
あんなにどんどん行ってしまうのだから。
わたし、何をしちゃったんだろう。失礼なことを言っちゃったのかな。それとも生意気な態度だった? 常識が足りないから、うっかり何かした可能性はいくらでもある。
(どうしよう?)
あやまったら許してくれるのかな? それとも、あやまるくらいじゃ足りない?
「蒼井さん。」
いつの間にか足元を見ていた。顔を上げると、宇喜多さんがだいぶ先で振り返っている。
(やっぱり怒ってる。)
無表情だもの。あんな顔、今まで見たことが無い。
(とにかく早くあやまろう。)
小走りになって考える。
気まずいことって、遅くなると言い出しにくくなってしまうから。でも、何をあやまればいいの?
(あ、そうか。)
すんなりと心が決まった。
「あの、ごめんなさい。」
宇喜多さんがまた歩き出してしまう前に頭を下げた。
「わたし、何か失礼なことしたんですよね? 気が付かなくてごめんなさい。」
それから、宇喜多さんを見上げて。
「でも、宇喜多さんが何を怒っているのかわからないんです。だから教えてください。」
その途端、宇喜多さんの表情がこわばった。
(失敗した!)
心臓がぎゅっと縮んだ。
(もっと怒っちゃったかも!)
思わず目を閉じて身構える。
生意気な言い方だったかも知れない。そもそも怒らせていたのに。
だけど遠慮しないって約束があったし、分からないことはちゃんと訊かなくちゃと思ったから。宇喜多さんなら、訊けばちゃんと答えてくれると思ったし。
(でも……、)
まだ何も聞こえない……?
きっと気持ちを抑えようとしてるんだ。こんな場所だし、わたしが子どもだから怒鳴っても仕方ないって――。
(あれ?)
からだがふわりと包まれた。
(え? え? これ?)
顔に当たる布。リュックごとやさしく押される背中。お尻に当たっているのはカバン?
(まさか……。)
目を開けるとワイシャツの肩。その向こうには夜の景色。
(これ……、宇喜多さんは怒って行っちゃって、痴漢に襲われてるとかじゃ……ない?)
「ごめんね。悪いのは俺の方なんだ。」
(あ、宇喜多さんだ。)
「蒼井さんは何も悪いことなんかしてないよ。」
この声は間違いなく宇喜多さん。静かに、やさしく。そして……悪いのは自分だって。
(もう怒ってないの? わたしは何もやってない?)
ほっとして力が抜ける。もう一度目を閉じかけて気付いた。安心してる場合じゃない。
「あの、あの、人に見られてしまいます。」
いくら夜とは言え、ここは道路だ。自分も通る人も気まずい。失礼にならない程度にもがいてみるけれど、予想に反して宇喜多さんの腕は動かない。
「大丈夫だよ。いつもここ、誰も通らないじゃない。」
(うそ?!)
宇喜多さんがそんなこと言うなんて! それにこれは……何かいけない気がする!
(い、いや、疑っちゃダメだ。)
宇喜多さんが変な気なんて起こすはずが無い。これはきっと、純粋にお詫びの気持ちだ。だってほら、宇喜多さんは前からときどきあったもの、こういう行動に出ることが。
(でも、やっぱり恥ずかしいよ!)
いくら人通りが無くても外だもの。それに、よく考えると、だんだん大胆になってきているような気もするし……。
「あの、だけど。でも。」
頑張って宇喜多さんの胸を押した。やっぱりこんな場所でこんなことをしていてはいけない。
今度は腕が緩んで上半身は離せた。けれど、ウエストに手をまわされたままで、それ以上は動けない。困ると訴えようとしたけれど、わたしを見つめて微笑んでいる宇喜多さんを見た途端、言葉が消えてしまった。代わりに新たな危機感と、そしてもう一つ、甘くて強い何かが胸の中で騒ぎ出す。
(まずい気がする……。)
離れなくちゃと思う。でも、口も体も動かない。頬に血が上る。視線が逸らせない。
「ごめんね。俺のこと、許してくれる?」
ただそれだけの言葉に負けそうになる。いつの間にか心臓が暴れてる。
「え、ええっ、もちろんで、す。」
なんでもない顔で笑い返したつもりだけど、激しい鼓動で上手くしゃべれない。
(つ、つらいよ。)
こんなふうに見つめ合っていたら。宇喜多さんの力を感じていたら。
もしかしたら……って思いそうになる。願望に身を任せたくなる。だって、わたしは宇喜多さんのことが好きなんだもの。
「そう。良かった。」
その途端、またぎゅーっと……。
(うわあああああああ……!)
心臓が破れそう! ……と思ったのは一瞬で、今度はすぐに解放された。よろめきながらもほっとしたのも束の間、今度は手が引っ張られた。
「仲直り。ね?」
つないだ手を宇喜多さんが楽しそうに持ち上げた。体が離れて安心した勢いで、思わず何度もうなずいてしまった。そして、今度は並んで歩き出す。のんびりと。
(なんでもないなんでもないなんでもないなんでもない……。)
頭がクラクラする。ドキドキが静まってほしい。宇喜多さんの手を握り返さないようにしないと。そして。そして。
このまま続いてほしいなんて思っちゃいけない!
(これは前にもあった。うん、そうだ。おととい。ダムに行ったとき。)
そうだ。あれはまだおとといのことだった。いろいろあって記憶が薄れていたけれど。
そう。手をつないだ。何回も。だから、今日が特別ってわけじゃない。あれはもっと短い時間だったけど。
(そうだ!)
そう言えば今日の宇喜多さん、お酒をたくさん飲んでいた気がする。前にあのお店に行ったときよりも。
もともとお酒には強いけど、普段は自分だけどんどん頼んでしまうような飲み方はしない。今日はそれが違ってた。
(そうだ。酔っ払ってるんだ。)
そう考えると少し納得が行く。今のこれも、さっきのも。
(だけど……。)
そう。だけど。
一つの可能性が引っかかったまま消えない。
(ああ……、樫森くんがあんなこと言うから!)
そうだよ。樫森くんのせいだ! 樫森くんが、宇喜多さんが葵先輩を好きなことを疑ったりするから。
あんな話を聞いたから、こんなふうにされると、まるで宇喜多さんが――。
(いや、だめだ。)
宇喜多さんの気持ちは考えちゃいけない。考えれば考えるほど危ない。「もしかしたら」なんて言葉は封印だ!
今のこれは仲直りのしるしだ。さっき、宇喜多さんがそう言った。だから間違いない。
(だけど……。)
本当に大丈夫?
もしも……、もしも宇喜多さんの気持ちがわたしに向いてたら……。
(そんなのだめだ。絶対にだめ。)
それは何としてでも阻止しなくちゃ。
だって。
だって、そうなったら。
宇喜多さんはいつかわたしに失望する。
やさしいからそれを隠そうとするかもしれないけど、そんなことはさせたくない。真面目な宇喜多さんにウソをつかせるなんてとんでもない!
宇喜多さんにはちゃんと幸せをつかんでほしい。わたしがその妨げになるのは嫌だ。
重荷になるのは嫌だ。宇喜多さんがわたしから離れてしまうのも嫌。宇喜多さんに嫌われてしまうのも。
だから、今のままがいい。
だから……。
絶対に阻止しなくちゃ。




