115 波立つ心
「宇喜多さん。ちょっといいですか。」
「はい。」
顔を上げると蒼井さんが硬い表情で小さく手招きしている。背後の窓口にはお客様がいるようだ。
(何かミスしちゃったかな?)
俺がどこかで間違った説明をしてトラブってしまったのかも。
出て行く途中で、蒼井さんがささっと寄って来た。そのこっそりした様子にますます不安がつのる。
「あの、樫森くんが来てるんですけど……。」
「かしもりくん……?」
一拍遅れて思い出し、「ああ」とうなずく。蒼井さんの<自称>親友だ。仕事のことではないらしい。
カウンターのお客様を見ると……確かにきのうの彼だ。俺を認めてぺこりと頭を下げた。
「きのう、おごっていただいたそうで……。」
申し訳なさそうに蒼井さんが見上げてくる。この様子だと、樫森くんは俺の秘密をばらしに来たわけではないようだ。
「ああ……、まあ、たいした金額じゃないですから。」
この話なら知られても問題は無い。言わなかったのは、蒼井さんが責任を感じてしまうと思ったからだ。こんなふうに。
「それに、飲み過ぎてタクシーで送っていただいたとか……。」
「あれ、それも聞いたんですか? 正直だなあ。」
自分の格好悪い話なんて、好きな女の子には黙っていたっていいのに。でも、樫森くんのそういうところが、蒼井さんがこれからも「会ってもいい」と思う所以なのだろう。
「すみませんでした。」
蒼井さんが頭を下げた。
「蒼井さんは何も悪くないよ。」
「だって、わたしの友だちですから。宇喜多さんにお世話になる理由なんてないのに。」
「そんなこと無いよ。九重の後輩だし、いろいろ話せて楽しかったから、気にしないで。」
「でも……」
「本当に気にしないで。待ってるから行くね。」
今の話と彼の様子だと、たぶん、彼はあやまりに来たんだろう。
「すみませんでした!」
廊下のすみっこまで移動すると、予想どおり、樫森くんがびしっとあやまってくれた。
「調子に乗って飲み過ぎたりして、本当に申し訳なかったです。普段はあんなに酔わないんで大丈夫かと思って……。」
しきりに恐縮して、お母さんに渡されたというタクシー代とお菓子の袋を差し出した。断っても「親に怒られるから」と引っ込めないので、どちらもいただくことにした。お菓子の紙袋には白い箱が入っている。
「それ、プリンなんですけど……。」
樫森くんが頭を掻きながら言った。
「何を買ったらいいのか分からなくて……。」
「そうなんだ? わざわざありがとう。」
プリンは蒼井さんの好物だ。この箱の大きさだと二個かな。樫森くんが帰ったら、蒼井さんと一緒にいただこう。
そんなことを思ったら、カウンターで店じまいをしている蒼井さんに目が行った。終業時間まであと少し。つられたのか樫森くんも彼女を見た。
「蒼井、カッコいいっすね。」
「うん、そうでしょう?」
はきはきしていて、颯爽としていて、親切さが笑顔からにじみ出ていて。俺の憧れの先輩だ。そして大切なひと。
「さっき、叱られちゃいました。」
「蒼井さんに? 本当?」
「はい。あんな蒼井、初めてで……、ちょっと嬉しかったっす。」
そう言って照れくさそうに笑った。
「ああ……、そうかもね。」
叱るってことは相手と距離が近付くってことかも知れない。ケンカをすることも。
「俺、一つだけ……」
樫森くんが俺に視線を戻した。
「宇喜多先輩にどうしても言っておかなくちゃって思ったことがあって。」
「どうしても?」
あらたまった真面目な表情だ。
「はい。蒼井のこと……なんですけど。」
「蒼井さんの?」
「あの……、上手く言えないんですけど、蒼井のこと、絶対にあきらめないでください。」
「え?」
あきらめないで…って、どういうことだろう。
「宇喜多先輩、蒼井のこと幸せにするって言いましたよね? そのこと……。」
「あきらめるつもりはないけど……。」
そんなこと、まったく考えていない。蒼井さんが全然気付いてくれなくてがっかりはしていても。
「絶対ですよ? 蒼井が何を言ってもですよ?」
「うん。大丈夫だよ。」
うなずきながら、「何を言っても」という言葉が引っかかる。彼は何かを知っているのだろうか?
考え込んでいた耳に「姫〜」という声が聞こえた。見ると、カウンターに力なく寄りかかった宗屋が蒼井さんに何か訴えている。樫森くんもじっとそれを見ていた。
「俺の同期なんだ。蒼井さんと仲良しなんだよ。」
心の中で「俺以外では」と付け加える。カウンターの中で蒼井さんが何かに喜んで笑顔で手を叩いている。……と、カウンターを出て、ちょこちょことやって来た。その後ろからのんびりと宗屋も。
「あのね、宗屋さんがカレー食べに行こうって。」
笑顔と一緒に楽しい気分がふわりと広がる。
「カレー? 前に行った店?」
「そう。」
宗屋が疲れ切った様子でうなずいた。
「今日、俺、未申告調査でさあ……。」
「ああ、朝、言ってたね。」
「蒸し暑い中、何時間も歩きまわってもうくたくた。」
「なるほど。それでカレーね。」
気持ちは分かる。
「樫森くんもどうぞって。」
「姫の同級生なんだって? 宇喜多とも知り合いなら問題ないよ。一緒に行こう。」
俺も特に文句は無い。きのうのことでお酒は懲りているだろうし。
樫森くんは遠慮しようとしたけれど、三人に説得される形で一緒に行くことになった。
急ぎの仕事だけ片付けるからと戻ろうとした蒼井さんを呼び止めて、樫森くんにもらった箱を開けてみせる。
「プリンだ!」
目を輝かせる蒼井さんに微笑まずにはいられない。予想どおり二個入っていて良かった。
「樫森くんにもらったんだ。一個どうぞ。」
「ホントに? いいの? 嬉しい♪ 樫森くん、ごちそうさま。」
面食らった様子の樫森くんにプリンは蒼井さんの好物であることを伝えると、隣で蒼井さんがコクコクとうなずいた。
「今かな? 明日かな? 今食べたいけど、あ〜、仕事片付けないと!」
蒼井さんが無邪気に悩む。
「やっぱり明日だ! 冷蔵庫に入れる前に名前書いておこう。ペン取って来ます。」
終業のチャイムの中、慌てて戻って行く蒼井さんを呆気にとられて見ている樫森くんに、思わず「かわいいでしょう」と自慢してしまった。樫森くんはハッと目が覚めたような顔をしてから、懐かしそうに、そして少し淋しそうに微笑んだ。
「九重のころよりもずっと元気だ……。」
「そう?」
それは嬉しい。そうなったことに俺も貢献しているのかなと思うと誇らしくもある。だって、樫森くんにはできなかったことなのだから。
「いいなあ、あんな蒼井を毎日見られるなんて。うらやましいっす。」
「あはははは、まあね。樫森くんにもいつか現れるよ。」
そう。蒼井さんはキミのものじゃない。
……なのに。
(どうして……。)
インド料理屋での食事中に、次第に自信が薄れてきた。蒼井さんと樫森くんがあんまり楽しそうに話しているから。
もちろん、会話には宗屋も俺も混ざっている。特別な空気になっているわけではない。
けれど、蒼井さんは樫森くんと話す回数が多いように見える。彼をからかうことも。料理を勧めることも。
(樫森くんは蒼井さんにフラれたんだよね?)
笑い合っているふたりを見ながら、心の中で何度も念を押す。けれど、複雑な気分は消えない。
蒼井さんは冗談を交えつつ樫森くんにやさしい心遣いをみせ、樫森くんはそんな蒼井さんに感激した様子で視線を向ける。
(そりゃあ、俺は真面目しか取り柄が無いけどさ……。)
俺なんかよりも、爽やかで愛嬌のある同い年の男の子と話す方が楽しいに決まってる。でも、樫森くんとはずっと会っていなかったはずなのに。俺は春からずっと一緒にいるのに。その時間は何も意味が無かったのか?
「ウィスキー。ロックで。」
通りかかった店員に注文すると、樫森くんが俺を見た。ペースが速いことに驚いたようだ。
「大丈夫。宇喜多さん、強いから。」
蒼井さんが気付いて説明し、俺に確認するように笑いかけた。宗屋も口を添える。
「姫が無理やり飲ませなければ平気だよ。そうやって飲まされても、二日酔いにもならないしな。」
「そうなんですか……。」
感心する樫森くんに「そうなんだよね」と笑ってみせた。話題はそこから宴会で起きた面白い話へと突入。
(ふん。)
一緒にしゃべったり笑ったり食べたりしながら考える。
(どうせ俺のことなんか、誰も心配してくれないんだ。)
酒のペースがいつもよりも速いことにも誰も気付かない。
(ねえ、蒼井さん。俺、いつもこんな飲み方しないんだよ?)
気付かないみたいだ。俺のことなんか、ときどきしか見ないし。
それになんだろう? 樫森くんと何度か意味ありげな視線を交わしている気がする。
(そうだ。何か内緒のことがあるって。)
きのう、樫森くんが言っていた。話してしまったら蒼井さんに会えなくなるって。
(秘密があるんだ……。)
俺と蒼井さんのあいだには、そんなふうにペナルティーを科すほどの秘密は無い。二人で出かけたことだって、ただ恥ずかしいのと言う必要が無いのとで黙っているだけで。
(蒼井さんはやっぱり、俺よりも樫森くんの方がいいんだ。)
あれほど一緒にいた俺よりも、久しぶりに会った樫森くんの方が。




