113 複雑な気分
「だいたい、蒼井はニブ過ぎるんすよぉ。」
気付いたときには樫森くんがやけに元気になっていた。手には来たばかりのハイボールのグラスを握っている。テーブルにはほぼ完食した料理の皿が三つほど。
「俺の気持ちを知ってるヤツがいてぇ、だから合唱大会の指揮者に俺の名前が挙がったのに。」
「指揮者?」
「そうっす。蒼井が伴奏に決まったから。ちょっと冷やかされたりもしたんすよ?」
「へえ。蒼井さんは気付かなかったんだ?」
「なんか……、俺が指揮者に決まった経過には興味が無かったみたいで……。」
「ああ、そうなんだ?」
ふて腐れる様子が子どもっぽくて微笑ましい。
「でも、それで仲良くなれたんじゃないの?」
「それほどでもなかったんですけどぉ……。」
そこでくすくす笑った。
「何かで必要かも知れないから連絡先交換してって頼んだら、あっさり教えてくれて……、えへへへへ。」
「良かったねえ。」
蒼井さんはやっぱり昔から素直だったらしい。
「でもぉ、蒼井からは何も来ないんです。」
今度は不満顔。
「用事が無かったんだね。自分から何かしなかったの?」
こんなことを訊けるのも、すでに断られていると分かっているからだ。
「や、先輩、そこは恥ずかしいじゃないですかー。」
「そう?」
「いや、俺も何度も思いましたよ? だけど、いざとなると、次の日どんな顔して会えばいいのかとか……。」
「ああ、それはそうだよね。」
樫森くんって、もしかしたら俺よりも奥手じゃないだろうか。宗屋は俺が特別ダメみたいに言うけれど、俺より上手がここにいる。
「でも、勇気を出してメールしたんっすよ、合唱大会のあとに。」
「そうなんだ?」
「俺、考えに考えて、二時間もかかってやっと書いたんすよぉ。でも、返事が……。」
そう言って、スマホを取り出した。
「これだけで……。」
「とってあるんだ?」
「記念ですから。」
彼がどれほど蒼井さんを好きだったのか分かる気がする。けれど、見せてくれた画面には。
『いろいろとありがとうございました。ご迷惑をおかけしてすみませんでした。 蒼井春希』
(……。)
感想を言いづらい。
そっと彼を見ると、「だけどね、先輩!」と身を乗り出してきた。
「俺と話すとき、にこっとするんっすよ。」
「ああ、そうなんだ。」
「クラスが別れちゃってからも、目が合うとちょっとあいさつしてくれるし。」
「ああ、そうかー……。」
「話しかけると目をまん丸にして驚くんです。そんで、恥ずかしそうに下向いたりして。」
「うん……。」
そのくらいはおとなしい女の子の反応としては普通じゃないだろうか……。
(でも……。)
なんとなく目に浮かぶ。
照れ屋の樫森くんの嬉しそうな顔。そして、おとなしくて人見知りの蒼井さん。お似合いだろうと思うけれど、この二人では、カップルとして成立するところまで行くのは至難の業だ。万が一、蒼井さんも彼を好きだったとしても。
(きっと、周りはもどかしく思っていただろうなあ……。)
樫森くんの友だちは彼の気持ちを知っていたのだから。
……もしかしたら、今の宗屋も同じ?
「やっと決心したのに、呆気なく終わりだなんて……。」
「それは……悲しいよね。」
複雑な気分だ。俺としては助かったわけだし。
「……え? なに?」
いきなりニヤニヤしてるなんて……?
「俺、聞いちゃいました。」
「何を?」
「先輩も苦労しますよね。」
「何が?」
「蒼井がニブいから、いろいろやってもね。」
「な……!」
一気に警戒モードに突入。余計なことは言わない。
「そうかな?」
「さっき、蒼井から宇喜多先輩の話、たくさん聞きました。」
「ああ……。」
そう言えば、自慢されたって言ってたな。
「宴会のあとに送ってくれるとか、困ってるときに気付いてくれるとか。」
「ああ、うん。」
「何かっていうと車出してくれるって言ってましたよ?」
「う、まあ、一緒に出かけることが多いからね。」
それは蒼井さんが俺に感謝してるってこと……かな、たぶん。でも聞きたいのは彼女の気持ちなんだけど。
「やさしくてぇ、真面目でぇ、テニスが上手でぇ……」
(おお!)
なんだか彼氏の自慢みたいじゃないか!
(ふ。)
思わず口元がゆるむ。
「でも。」
そこで彼は鋭く俺を見た。そして。
「あいつは分かってませんよ!」
俺に人差し指を突き付けた。今度は蒼井さんを「あいつ」呼ばわりだ。
「あいつは何にも分かってません。宇喜多先輩の愛情表現を親切だと思い込んでます。」
「いや、ちょっと。」
(愛情表現…って、そんなにはっきり言わなくても!)
まわりに聞こえたらはずかしいのに!
声もそこそこ大きいし。お酒で羞恥心が飛んで行っちゃっているのかも。
「はっきり言わなくちゃ通じませんよ? 俺だってそれで失敗したんすから。」
「言葉よりも大事なものがあるんだよ。俺と蒼井さんはそういうものでつながってるんだからいいの。」
酔っ払いに真面目に説明しても無駄な気がする。
「それですよ、それ!」
「は?」
「どうして先輩は『蒼井さん』なんて呼ぶんれすか?」
「え? だって職場の先輩だよ?」
「俺はほかの男が遠慮して「さん」付けで呼ぶところを呼び捨てにしましたよ。特別感出すために。」
「え……?」
(それが特別なのか?)
まあ、確かにそういうのはあるだろう。ただし、下の名前の場合だ。俺が葵を呼び捨てにし始めたときに相河が微妙な態度だったわけも今はちゃんと知っている。
「とにかくいいの、名前のことは。仕事中に間違えて呼んだら困るでしょ。」
「それだけですか〜?」
にやにや笑いはやめてほしい。
「本当は恥ずかしいんでしょう? 俺、自分がそうだから分かるもん。」
分かるなら言うなよ! ……と思うけれど、そんな弱味を白状する気はない。
「そんなこと無いよ。俺は純粋に仕事中のことを考えてそうしてるんだよ。」
「ふうーん。まーじめー。」
その言い方は馬鹿にしてるんじゃないか? この辺できっちり言っておいた方が良いかも知れない。
「あのねえ、心配してくれてるみたいだけど、俺と蒼井さんは上手く行ってるの。心配しなくていいよ。」
もうすぐ告白して、早ければ年末には結婚なのだから!
「でも、蒼井本人が否定してますからね〜♪」
「く……、まあそれは、恥ずかしがってるだけじゃない?」
「そうですか〜?」
思わせぶりな態度につい不安になってしまう。
「実は俺、先輩にとって重要な情報を握ってるんです。」
突然の真面目な顔。でも、彼は酔ってるし……。
「さっき蒼井から聞いたんです。」
「蒼井さんから?」
「はい。」
真面目な顔は変わらない。
(本当に蒼井さんが言ったことだとしたら……。)
確かに俺にとって重要な情報の可能性はある。
「それは」
「でも、教えな〜い!」
「はあ?!」
思わずムカッとした。その前で彼はいかにも楽しそうにくすくす笑っている。
「だって、誰にも言わない約束だも〜ん。うくくくくく。」
「約束? 何それ? どういうこと?」
俺にとって重要な情報なのに、この子と蒼井さんの二人の秘密って!
「話したら蒼井に会ってもらえなくなっちゃうんです〜。だから話しませ〜ん♪」
「会ってもらえなくなる……?」
(これからも会うつもりなのかよ?!)
フラれたんだから、もう用事は無いんじゃないのか?
「はい! 蒼井が友だちとしてならこれからも会ってもいいって。あ、まさか先輩、自分以外の男とは会っちゃダメ、なんて言いませんよね?」
(く……っ。)
先回りされた!
「あはは、そんなこと言うわけがないだろう? 友だちだよね? だったら問題ないよ。俺はそんな狭量な男じゃないよ。」
「うわ〜、やっぱり先輩はカッコいいよなあ。俺、憧れるっす。」
「いやあ、そう? ありがとう。」
(この子はもうフラれたんだ。フラれたんだフラれたんだフラれたんだ……。)
「あ、先輩、もう一杯頼んでもいいっすか?」
「え、そろそろやめといた方が」
「すいませーん! グラスワインの赤、お願いしまーす!」
まだ五時を過ぎたばかりなのに、こんなに酔ってたら目立つよ……。
「先輩。俺、先輩を信じます。蒼井のこと、絶対に大事にしてくださいね?」
今度は手を握ってきた。やっぱりかなり酔っているようだ。
「ああ、うん、大丈夫だよ。」
でも、蒼井さんのことにあきらめがついたのは本当らしい。さわやかな見た目に似合って潔い子だ。
「俺、蒼井のそばで見張ってますからね?」
「え? そばで?」
「はい。俺、蒼井の親友になるんで。」
「親友?」
「はい♪」
(ただの「友だち」じゃなくて……?)
樫森くんは堂々と胸を張って笑顔で続けた。
「今日、久しぶりに話してみて分かったんです。蒼井と俺、すごく合うんすよぉ。」
(それって! 俺に言う?!)
俺は蒼井さんの彼氏――「ほぼ」だけど――だよ?!
「蒼井も俺といるの楽しいって言ってくれたしぃ。」
「へ、へえ……。」
蒼井さんが言ったのはあくまでも「友だち」としてだ。単なる、単っなる「友だち」だ!
「だから俺たち、親友になれると思うんっす。蒼井が先輩に言いづらいことでも聞いてあげられるし、先輩の愚痴とかもね。」
「ああ……、そう……だね。」
その相手が男だっていうのが引っかかってるのに……。
「あ、先輩、もしかして心配してます? 俺がまだ蒼井のこと狙ってるんじゃないかって?」
「いや、まあ、うーん……。」
「あはは、大丈夫っすよ〜。もうあきらめがつきましたから〜。それにぃ、俺、宇喜多先輩のこと好きですしー。」
「あ、ああ、そう? ありがとう。」
それが樫森くんの本当の気持ちなのかも知れないけれど……。
(ああ、そうか。こういう気分なんだ……。)
相河の気持ちがよーく分かった。




