112 樫森くんと
飲みに行こうと言ったって、日中の三時から開いている居酒屋など俺は知らない。言った本人も心当たりは無かったようで、店を探して、二人で暑い中を歩きまわってしまった。大学生になったばかりの樫森くんは、居酒屋は夕方に開店するということに気付かなかったらしい。
あまりの蒸し暑さに彼は「アイスコーヒーでも」と言い直した。けれど、そのころには俺はもうビールを飲むこと以外考えられなくなっていた。
やっと見つけたのは地下街の奥にあるビアホール。少し高級な店構えに樫森くんは尻込みしたけれど、俺はとにかくビール気分だし、初対面の、しかもライバルかも知れない男の子と長居はしないだろうと思い、そこに決めた。
「かんぱい。」
「どうも。」
これほどビールが待ち遠しかったのは久しぶりだ。向かい合う相手が不思議ではあるけれど。
「あー……。」
「うまー……。」
冷たいビールが心地良い。ジョッキの中身はあっという間に残りわずかだ。つまみのポテトやソーセージを持ってきてくれたウェイターに二杯目を頼んだ。
「あの、大丈夫でしょうか。ここ、高そうですけど……。」
ウェイターがいなくなると、樫森くんが小声で言った。確かに大学生には贅沢な店だろう。
「俺、あんまり持ち合わせが……。」
「いいよ、俺が多めに出すから。今日は暑くて疲れたし。」
「……すんません。俺が誘ったのに。」
広い肩を小さくすぼめて頭を下げる姿にこっそり微笑んでしまった。警戒心も闘争心も抱きにくい相手だ。
「まあ、今は飲みなよ。」
目の前で遠慮されていたら俺も飲みづらい。
俺は就職して給料をもらっているわけだし、彼は実際に九重の後輩だ。俺が多めに出すくらいのことはしてもおかしくはないだろう。暑い中を歩き回ってやっと美味しいビールにありつけたことで、細かいことはもうどうでもよくなっているのも確かだ。
「ええと、それで?」
二杯目が来て一息ついたところで彼に水を向ける。先輩風を吹かせたおかげもあるのか、今は彼が何を言おうと動じない気がする。
「何か、俺に言いたいことがあるんじゃないの? それとも訊きたいこと?」
「あ、ええと……。」
樫森くんは箸を置き、居住まいを正した。うつむいてしばらくじっとテーブルを見つめ、ふっと息を吐いてから顔を上げた。
「蒼井は……職場ではどんな様子ですか?」
その表情を見て分かった。彼が蒼井さんを心配していたのだということが。だから、真剣に答えてあげようと思った。
「俺は今年の四月に入ったんだけど……」
初日の蒼井さんを思い出す。
「明るくて親切で……かわいらしいひとだなあと思ったよ。」
自己紹介の笑顔。文房具の心配をしてくれたこと。俺の真面目さを面白がってくれたこと。
「先輩たちにも可愛がられてるよ。『蒼ちゃん』って呼ばれて。」
中でも花澤さんは彼女に仕事だけじゃなく、楽しく過ごすことも教え、娘のように心配していた……。
「俺の同期の一人は『姫』なんて呼んでる。そいつと蒼井さんと俺は同じ課で、よく三人でふざけてる。仕事以外でも一緒にいることが多いかな。」
「そうなんですか。元気でやってるんですね。」
樫森くんが少し淋しそうに微笑んだ。
「蒼井さんに会ったのは久しぶりなのかな?」
「ああ……、はい、そうです。俺、浪人してて、蒼井が就職したことも知らなくて。」
「そうだったんだ……。」
蒼井さんが自分の進路を積極的に話さなかった気持ちはわかる。彼が知ったのもこの前のクラス会のときだろう。そのとき、どう思ったのだろう。
淋しそうにしている彼に、彼女のことをもっと教えてあげようと思った。安心できるように。
「蒼井さんは仕事も真面目で優秀だよ。もちろん、まだ勉強中のこともたくさんあるけど、わからないことはどんどん覚えようとしてる。電話とか窓口も丁寧でしっかりしてるし。」
そう。仕事に専念している彼女もとても魅力的だ。
「そういう姿勢は尊敬してるんだ。俺の目標でもあるんだよ。」
「そう言えば、授業で先生に指されたとき、はきはき答えるところがカッコ良かったんですよ。休み時間はいるかいないか分からないくらいおとなしいのに……。」
「ああ、分かる気がするなあ。」
立ち上がって答えている彼女が目に浮かぶ。
「今もちゃんと頑張ってるんですね。さすがだな。良かった……。」
「良かった」と言う割には淋しそうだ。ため息もついたりして。
「高校のときは仲良かったの? 蒼井さんと。」
つまみを取り分けてあげながら、気になっていたことをさり気なく訊いてみる。
「あ……いや、仲が良いってほどでは……。でも、あのころは蒼井と話す男は少なかったから、たぶん男では……。」
「一番だったかも?」
からかい気味に言ってしまってからふと気付いた。俺だって、勝手に蒼井さんと一番仲が良いのは自分だと思っているのだ。
「そう思ってたんですけど……」
樫森くんは俺のからかいなど気付かない様子でテーブルを見つめてため息をついた。
「俺なんかいなくても全然平気なんだなあって思ったら……。」
この落ち込みよう。やっぱり彼は蒼井さんのことを好きなのだ。たぶん、高校のときからずっと。
「俺が一番、蒼井のことをわかってると思ってたのに……。」
「卒業してからもうすぐ一年半になるんだよ? その間、会ってなかったんだよね? 状況が変わっても仕方ないよ。」
「そうなんですけど……。」
がっくりする彼が気の毒になって、フォークを握らせてあげた。半分ぼんやりしたままソーセージを口に運んだ彼は、そこで目が覚めたように「これ、美味いです」とひとこと言って、あっという間に完食してしまった。そんな素直な無邪気さは俺は好きだし、うらやましいとも思った。
「宇喜多先輩……は、蒼井のことが好きなんですよね?」
一瞬、ハッとした。けれど彼のまっすぐな目にすぐに覚悟を決めた。
「うん。好きだよ。」
ためらいなく答える。
「それだけじゃなくて、すごく大切に思ってる。これからもずっと大事にするつもりだよ。」
「そうですか……。」
樫森くんがそっと言った。それはほっとしたようにも、がっかりしたようにも、諦めたようにも聞こえた。
「そんなひとがそばにいたら、フラれても仕方ないよな……。」
(え? フラれた?)
いきなり核心が来た! たぶん、彼は今日、告白したのだ。で、蒼井さんは断った……。
「ああ……そうなんだ?」
ポーカーフェイスはお手の物。失恋はかわいそうだけど、ライバルには脱落してもらわないと困る。
「フラれて当たり前ですよね、俺なんか。浪人してるし、思い切りが悪いし。うじうじ先延ばしにしないでもっと早く決心していたら、違う結果だったかも知れないのに……。」
(うわ。思い切りが悪くて先延ばしって、俺のことを言われてるみたいな……。)
少しばかり気まずい。でも、先延ばしにしてくれて助かった。
話しているとなんとなくわかる。たぶん、蒼井さんと樫森くんはお似合いだ。高校生のときに告白していたら、蒼井さんがオーケーした可能性はかなり高い。そして、葵と相河のように何年でも信頼し合って付き合っていただろう。
でも。
彼はもう脅威じゃない。目の前で落ち込んでいるのは失恋した気の毒な男の子に過ぎない。
「浪人したことなんて、蒼井さんは気にしてないと思うよ。そういう人、いっぱいいるし。」
「そうですけど……。」
「悩むのだって、みんな同じだよ。」
「そうですか? 宇喜多先輩も?」
「うん。たくさん悩むよ。」
(かなりキミと似てると思う。)
告白する勇気が無くて、宗屋に呆れられているのだから。
偉そうに慰めていることがなんだか申し訳ない気がしてきた。落ち込んでいる姿もかわいそうで。
「ねえ、もう少し頼もうか。ビールがいろいろあるよ。料理も美味しそうだし。」
「あ、でも――。」
「いいから。今日はおごるよ。せっかく普段は入らない店に入ったんだから、いろいろ試してみようよ。」
「……いいんですか?」
「うん。これでも社会人としてちゃんと収入があるんだからね。」
そう言えば、大学生のときにOBがキャバクラに連れて行ってくれたっけ。あのときは五人くらいいたはずだ。あれに比べたら、この店で二人分払うくらいどうってことはない。いざとなればクレジットカードもある。
「蒼井が言ったとおりだ。先輩、ホントにやさしいっすね……。」
「あはは、そんなことないよ。」
感動したように見つめられるなんて気恥ずかしい。でも、蒼井さんが俺のことを「やさしい」と思ってくれていると思うと……。
「そう言われたら、お腹が空いてきました。俺、朝ごはんのあと、かき氷しか食べてないんです。あれ、ほぼ水ですもんね。」
「かき氷?」
「はい。蒼井と入った店で。あ、少しだけ、蒼井のワッフルも分けてもらいましたけど。」
「ふうん……。」
樫森くんに対する気持ちがちょっと冷える。彼と蒼井さんが楽し気にカフェのテーブルに向かい合っている景色が浮かんできて。
(いやいやいや。)
それを急いで振り払う。
(樫森くんはフラれたんだから。)
そうだ。そうはっきりと言った。そしてものすごく落ち込んでいた。だからこうやって慰める気になったわけで。
「先輩、俺、このビールのカクテルっていうのを頼んでみてもいいですか?」
「いいよ。食べ物はどれがいい?」
「ええと……、うわー、悩むー。肉、美味そう。」
(やっぱり憎めないなあ……。)
無邪気な感じが蒼井さんに似ているかも知れない。そしてきっと、二人はかわいらしいカップルになったという気がする。相河たちも、二人で楽しそうだったと言っていたし。
彼が告白を先延ばしにしてくれて本当にラッキーだった。それに比べたら、飲み代を払うくらいどうってことはない。




