11 花澤さんと蒼井さん
ゴールデンウィークの直前におこなわれた歓送迎会は、日本料理店の二階にある座敷が会場だった。参加者は転出者も含めて約五十名。二列に並んだ黒塗りの座卓の上には、船盛や天ぷらなど、おなじみの宴会料理が並んでいる。
転出者である花澤さんは課長の隣、俺の向かいの席に座っている。宴会が始まる前に、俺は自己紹介を済ませた。名前を言うと、「ああ、俺の後任の」とすぐに気付いてくれた。
どんなひとかと言うと……大きい。年齢は三十歳だそうだ。身長があるし、肩幅も広い。日焼けしていて、低く響くバリトンの声が男前だ。そして、意志の強そうな顔。このひとのテニスはきっととても力強いだろう。
花澤さんの異動先は、うちの課の取りまとめにあたる部署、財政局税務課だ。この春に昇進してそこの納税係長になった。体の大きさも、顔つきも、声も、何をとっても安心して任せられる雰囲気がある。
それでいながら威圧感が無い。話していると、知識の幅が広くて話題に事欠かない。話すのも聞くのも上手だ。誰もが花澤さんと話すことが楽しいらしく、宴会中はあいさつに来たひとがみんな、その場に長く腰を落ち着けている。にぎやかな会場に、何度も花澤さんの楽しげな声が響き渡っている。
宴会も中盤を過ぎたころ、原さんと高品さんと話しているときにそんな花澤さんの声が聞こえて、ふと視線をめぐらした。すると、蒼井さんが花澤さんのそばに座っているのが見えた。大きな花澤さんの横にちょこんと座った蒼井さんは、職場で見るよりも元気そうで、身振り手振りもつけながら、大きな声で笑ったりしゃべったりしていた。
「花澤さんと蒼ちゃんは面白いコンビだったよなあ。」
「ああ、そうそう。あの二人にはずいぶん笑わせてもらったよね。」
原さんと高品さんが二人をながめながら懐かしそうに言った。
「そうだったんですか?」
面白いコンビという表現は、職場での蒼井さんの様子からはよくわからない。俺から見ると、彼女は何事にも真面目な先輩だ。
「何て言うんだろうね、もちろん蒼ちゃんは花澤さんのことをちゃんと立ててるし、仕事を教わるときは真剣なんだけど。」
「花澤さんと蒼ちゃんって、なんだかボケとツッコミみたいなんだよね。」
「うん、確かに。師匠と弟子の漫才みたいな。」
「十歳以上離れてるんだもんね。ジェネレーションギャップをからかい合ってるのも可笑しくてね。」
「そうなんですか……。」
花澤さんは蒼井さんのチューターだったと聞いた。今の俺の席に蒼井さんが座っていて、彼女の席に花澤さんがいたそうだ。
「花澤さんが蒼ちゃんのチューターになったのは正解だったと思うな。」
原さんが少し考えながら言った。
「宇喜多くんが入ってから、ときどき去年の蒼ちゃんのことを思い出すんだよ。高校を卒業したばっかりでさあ、世の中のこと全然わからないって感じで緊張しててさあ。」
小さくため息をつく。
「緊張だけじゃなくて、なんていうか、……必死の覚悟みたいな悲壮感も漂っててね。最初の何日かは花澤さんの話に返事をするくらいしか声を出さないし、笑わないし、この子はコミュニケーション能力が低いか、俺たちを拒否してるか、どっちかだなって思ったよ。」
「そうだったんだ?」
高品さんが信じられない様子で言った。
「あたしが育休明けで戻ったときには、楽しそうにしてるなあ、って思っただけだったけど。」
「そうだよね。まあ、蒼ちゃんが緊張してた期間はそんなに長くなかったけどね。花澤さんはいつもの調子で蒼ちゃんに話しかけててさ、断れない蒼ちゃんをテニス部に入部させてさ、蒼ちゃんは自分でもよくわからないうちに花澤さんのペースに巻き込まれていたんじゃないかな。」
原さんがそのころを思い出したのか、少し笑った。
「でも、それが良かったんだよね。五月に入ってからだんだん花澤さんに遠慮しなくなってきて、いつの間にか、花澤さんもびっくりするようなことを言うようになっててね。」
「そうそう! あの花澤さんが、困った顔して『蒼井、お前なあ』って言うのを見たときは笑っちゃった!」
(あおい?)
一瞬、ドキッとした。友人と同じ呼び名に。普段、「蒼井さん」と呼んだり考えたりしても思い出さなくなっていたのに。
「蒼ちゃんのおかげで、この一年、楽しかったよ。でもそれって、花澤さんがいたからだと思うんだ。」
そう言いながら、原さんは花澤さんのそばで笑っている蒼井さんに目を向けた。高品さんと俺も、つられて視線を向ける。
「花澤さんは蒼ちゃんには何が必要かを考えていたんだよね、きっと。蒼ちゃんもそれを感じて、それに応えるために努力したんだと思う。」
「ああ、きっとそうだよね。頑張ってるのがわかるから、花澤さんは蒼ちゃんをかわいがるしね。」
「そりゃあかわいいよなあ。自分が教えることを、なんでも素直に一生懸命やるんだから。」
「蒼ちゃんも、花澤さんのことは全面的に信用して、なついてたしね。」
「うーん、まさに師匠と弟子だね。」
(師匠と弟子、か……。)
ほかのひとたちとは違う、強い絆だ。
「でもね、あたしは花澤さんの教育には一つ不満があるの。」
ウーロンハイを一口飲んで、高品さんが真面目な顔で言った。
「不満? 足りないってこと?」
「そう。」
原さんの問いに、高品さんが重々しくうなずく。
「それって何ですか?」
俺も知りたい。今の蒼井さんは、俺には十分に尊敬できる先輩なのに、足りないなんて。
「服のセンスよ!」
高品さんが人差し指を立てて宣言した。
「蒼ちゃんの服を見てよ! 地味すぎるでしょ!」
「え、そう……?」
「そうですか……?」
戸惑う原さんと俺を見て、高品さんが眉間にしわを寄せる。
「高品さんとあんまり変わらないと思いますけど……?」
「何言ってるの……。」
高品さんが脱力する。
「あたしは子持ちだよ? 二十代後半。蒼ちゃんはもうすぐ二十歳。女の子が一番きれいなときだよ? あたしと同じような服なんか着てちゃダメよ。」
(女の子が一番きれいなとき……。)
高品さんの言葉で、大学の女子学生を思い出そうとしてみた。けれど具体的な姿が浮かばない。そこで思い付いて、葵を思い出してみる。記憶の中の彼女は、言われてみれば、花柄やきれいな色の服を身に付けていたように思う。
それと比べると、確かに蒼井さんの服装は地味だ。ワイシャツ風のブラウスにおとなしい色のスカートやパンツなど、何歳のひとでも着られるような組み合わせを着ている。でも。
「社会人だからじゃないんですか?」
「そんなことないって。」
蒼井さんを庇おうと思った俺の気持ちは即座に否定されてしまった。
「もう少しおしゃれしてもいいんだよ。そりゃあね、肩を出したり、アクセサリーじゃらじゃらっていうのはNGだけど、要するに清潔感がある服装ならいいんだから、もっとかわいい服を着たっていいわけ。うちの課の女性陣だって、おしゃれなひとはいるでしょう?」
言われて見回してみて、なるほど、と思った。ブラウスのデザインが凝っていたり、綺麗な色のニットを着ていたりしている。
「あたしがチューターだったらそういうことも教えてあげられたのにって、復職してからずっと思ってるんだよね。」
高品さんは本当に残念そうだ。
「今からでも言ってあげたら?」
原さんが手っ取り早い提案をした。
「それは今さらかわいそうな気がしてね。」
「かわいそう?」
「うん。服のセンスを他人に言われるのって嫌だと思うのよ。新人で入ってすぐならいいけど、一年も経ってからじゃねえ。それに、あたしはまだ一緒に働いた期間が短いし。なんとかしてあげたいんだけどねえ……。」
そう言って、高品さんはまたため息をついた。
(ふうん……。)
もう一度、蒼井さんを見てみる。
今日は白いシャツに茶色のスカート。邪魔にならないようにピンで留めてある髪。毎日見ている俺には、そのスタイルは彼女のイメージそのものだ。
(悪いってわけじゃないと思うけど……。)
どんな服が良いのかなんて、俺にはさっぱりわからない。そもそも、ほかの服装をしている蒼井さんなど想像がつかない。
(でも、そうだ。)
連休中にテニス部で会うんだった。休日なのだから、蒼井さんは私服で来るはずだ。
(もしかしたら、案外かわいい服で来るのかも知れない。)
いつもと違う彼女を見られるのだと思ったら、久しぶりのテニスよりも楽しみな気がしてきた。女の子の服装を思ってこんな気分になるなんて初めてだ。
(あ。)
蒼井さんが笑ってる。あんなに大きな口を開けて。今度は彼女が何かを言って、それに花澤さんが何か言い返した。そしてまた笑って。
(あんなふうに笑うんだ……。)
職場で見る笑顔を無邪気な笑顔だと思っていた。でも、彼女の本当の笑顔は今のあの笑顔だ。いつも俺たちに見せているのは、行儀の良いよそ行きの笑顔だ。
(あんなふうに笑わせてあげたいなあ。)
俺に気を遣ったりしないでほしい。笑うだけじゃなくて、怒ってくれてもかまわない。よそ行きじゃなく、ありのままで俺には接してほしい。
(そうだよ。)
後輩の俺が蒼井さんに気を遣われるのは申し訳ない。それに……。
なんだか、それではさみしい。
読んでくださって、ありがとうございます。
第一章「社会人になりました。」はここまでです。
次からは第二章「仲良くなりましょう。」に入ります。




