105 ◇ 今? ◇
「ふぅ……。」
宇喜多さんの車を見送った窓を閉めたら一気に力が抜けた。そのまま窓に背を預けて床にペタンと座る。
(なんか……、今日は接触が多かった気がする……。)
思い出すとまたドキドキしてくる。
手が……何回? 頭ぽんが二回。それから肩をぎゅっていうのが一回。朝、髪に触られたのなんか、気にする方がおかしいような気がするくらいだ。極め付きは「ケチャップがついてるよ」って……。
(うわあ……。)
あれは息が止まるかと思った。恥ずかしすぎる。ほっぺが熱い。
お弁当をロールパンのサンドにしたのは失敗だったかな。外でも食べやすいと思って作ったのだけど……。
(あーあ。)
気にする必要はないのに……。
どれもほんの一瞬のこと。長くても五秒くらい。そして全部、理由もあった。宇喜多さんもいつもと変わりなかった。だから、気にする必要などあるはずがない。けれど。
(うーーーーーー……。)
平気でなんていられない。だって、宇喜多さんはわたしの好きなひとなんだから。そもそも二人で出かけることだってドキドキだったのに。それをやっと抑えて落ち着いたと思ったら、あんなふうに次々と……。
(深呼吸、深呼吸。)
「ふぅーーーーー……。」
わかってる。ちゃんとわかってる。あれには特別な意味なんて無い。ただ、かわいがってくれているだけ。九重の後輩で同僚の、年下の女の子として。
そう。年下の女の子だからああいうかわいがり方になっているだけ。特に意味なんてあるはずがない。そうじゃなくちゃ、月曜日から困る!
(うん。そうだよね。)
だいたい宇喜多さんがわたしなんかに触って何の得があるの? 無いよね?
(うん。無いよ。)
女性なら誰でもいい、なんていうひとではない。そんなひとだったら、わたしが今まで無事ではいられなかったはずだ。ひと気の無い場所やこの部屋の玄関にだって二人きりでいたことがあるけれど、危険なことなんて一度も無かった。いつもわたしを守ることを考えてくれていて。
要するに、なんでもないってことだ。
(よし。)
これで大丈夫。落ち着ける。それよりも。
(たくさんおしゃべりしたよね……。)
くだらないことも、真面目なことも。
たくさん笑ったし、仕事のことならわたしが教えてあげられることもあった。でも、一番印象に残っているのはコンプレックスの話。
(外見を気にしているなんて。)
まったく考えたことも無かった。
まあ、スーツの着こなしを評価すること自体がわたしにはわからないけれど。でも、仕事以外で会うときも、いつも宇喜多さんらしい服を着ていると思っていた。今日の服も似合っていたし。
(うわ。)
思い出しちゃった。宇喜多さん、ときどきじーっと見ていることがあるよね。やわらかい表情で、頬杖をついたりして……。
そんなとき……、触られたときもそうだけど、頑張って平気な顔をしなくちゃならないから大変。恥ずかしがったら変な空気になっちゃうものね。
どんなにドキドキしても、ほっぺが熱くても、何でもないふりをしなくちゃ。
(だけど。)
そういうときって、本当はなんだか甘えたいような気がする。そんな気持ちを振り払って、平気な顔で元気におしゃべりして。
だって、隠し通さなくちゃならないから。
宇喜多さんは葵先輩が好きだから。そして、わたしは宇喜多さんとは釣り合わないから。
(仕方ないよね……。)
それよりも、楽しかったことを考えよう。
あの霧は面白かった。帰るころには薄れてきて良かった。ダムは本当に大きかった。お弁当を喜んでくれて良かった。宇喜多さんとは黙っているときでも居心地がいい。
(そりゃあ、そうだよね。)
好きなひとを独り占めしているわけだから。
ああ、なんて贅沢な時間! 片思いでもこんなに楽しいなんて!
(いや、もしかしたら……)
片思いだからこんなに楽しいのかも?
(あれ? 電話だ。)
まさか宇喜多さん…っていうのは贅沢すぎる……って?!
(え?! うそ?!)
一気に頭が混乱した。
(え? なんで? 見間違い? でも確かに。だけど。でも。こんな時期に?)
早く出ないと不在になってしまう。
(あ、そうか。)
間違い電話かも知れない。この番号、もうほかのひとが使っているのかも。だから……。
「あの……はい?」
「あ、ええと、蒼井……春希さん、かな?」
「あ、ええ、はい。」
この声。この声は。
「ああ、良かった。」
この前、聞いた。笑顔も見た。
「あの……、俺、樫森だけど。樫森修二。九重高校の。わかる?」
「あの、うん。わかるよ。うん。この前……会ったよね?」
「会ったって言うか、すれ違っただけみたいなものだけどな。はは。」
「うん……、そうだったね。」
クラス会の夜。突然現れた樫森くんは、あっという間に沙織と一緒に行ってしまった。
「電話……は、初めてだったかな?」
「うん。あのときはメールだけだったよ。」
あのとき。高校二年生の秋。たった一往復のメール。思い出すと今でも……。
「だよな。もう電話番号変わっちゃってるかも知れないって思ったけど、つながって良かった。」
「あたしも、同じ番号の知らないひとかも知れないって思ったよ。偶然の間違い電話かも……って。」
「あ、じゃあ……」
樫森くんの声が止まってしまった。
「どうしたの?」
「……いや、何でもない。」
また声が止まった。何か迷っていることがある……?
無言の時間がわたしを落ち着かせた。
(この電話の目的はなんだろう?)
わたしとおしゃべりをしたくて……っていうのはあり得ない。高校のときだって、特に仲良くしいていたわけではないのだから。あれは完璧にわたしの片思いで……。
「実はさ、」
(あ、来た。)
思い切った様子が伝わってくる。
「頼みたいことがあるんだ。」
「頼みたいこと? あたしに?」
「うん。」
(そうか。頼みたいことか。)
ただ「知っている」という程度のわたしに頼みごとだなんて、よほど切羽詰まってるのかな。でも、わたしが役に立つことなんてあるの?
「ええと、どんなこと?」
「ああ、その……、明日、時間ある?」
「明日?」
日曜日だ。大学の勉強をするつもりではいたけれど……。
「まあ……、特別な用事はないよ。」
「ああ、良かった。じゃあ、ちょっと会ってもらえないかな?」
「え、会うの? 頼みたいことって、それ?」
「え? ふ……あははは!」
(笑われた……。)
つまり、解釈が間違っていたってことね。
「蒼井、変わってないなあ。」
なんだか懐かしそうに言われてしまった。
「しっかりしてるのに、ときどき天然なんだよな。」
「ああ……、そんなふうに言われてもいたけど……。」
樫森くんに気付かれるほど話したことなんて無いはずなのに……。
「今のを頼みごとに数えるとしたら、全部で三つか四つくらい頼むことになるかな。」
「あ、そうなんだ……。」
そんなにいくつも? わたしが樫森くんの役に立つことって何?
「ええと、その……、メインの頼みごとはさ、会ってから説明するから。とりあえず一個目。明日、会ってほしいんだ。」
「そう……。」
会ってから……ということは、込み入った話なのかな?
「うーん、話はわかったけど……、」
言っても良いのかどうか、ちょっと迷う。でも、確かめないとあとで困りそうだし。
「沙織はいいの? 了解してる?」
「さおり……って、田波?」
「うん。」
「え、なんで?」
どうして知ってるのかってこと? だって、あの日……。
「もしかして誤解してる? 俺と田波のこと。」
「え? あれ? 違うの?」
「違うよ! 何でも無いから! 同じ予備校に通ってただけで。」
「あ、そうなんだ……。」
あのときの沙織の態度は、じゃあ、わたしへの当てつけみたいなもの? そんなに意地悪したかった?
「そう……、それならいいんだ。じゃあ、明日、何時にどこで?」
「ええと、蒼井って椿ケ丘だったよな?」
「あ、今は違うよ。梅谷駅。椿ケ丘から二つ横崎側。」
「あれ、そうなのか? でも、西川線だよな。じゃあ、横崎の西川線の改札口で。」
「西川線の改札口。」
「うん、一階の方。そこに一時。」
「わかった。一時に一階の改札口前だね。」
「うん。じゃあ、よろしく。」
「うん。じゃあ、明日ね。」
(ふぅ。)
電話を切ったらすっきりした気分になっていた。
(普通にお話しできた……。)
高校時代の気後れがまるでウソみたい。なんて言うか……うん、宗屋さんと話しているみたいな感じで話ができた。思い出の中では「好きだったひと」だったけど、今、現実に話をしているうちに、「友人」として落ち着いたような気がする。それとも、就職してから男のひとと話すことにも慣れてきたのかも?
(樫森くんが気さくに話してくれたしね。)
高校のときに特別なことが無かったことが良かった。ただのクラスメイトだったことが。片思いを隠し通したことが。
(でも。)
樫森くん、わたしの家、知ってたみたい。
(あ、そうか。)
長距離の選手だったもんね。ロードワークで通ったのかも。わたしの家、学校から近かったしね。
(さて。)
明日、何を着て行こうかな……。




