102 一つ目の目標は
(あ、いた。)
俺の車に気付いて、蒼井さんが手を振っている。もう見慣れた景色だけど、思いっきりパーにした手を顔の横で元気に振る様子は何度見ても微笑まずにいられない。
「おはようございます。」
車を停めると、すぐに助手席のドアを開けてあいさつする声も元気だ。
「うん、おはよう。」
迎えに来たときにいつも交わされるやりとり。
「今日はちょっと雲が厚いかな。」
「でも、暑さが和らぐからいいですね。」
天気の話で自分を落ち着かせると同時に彼女の様子を観察。
(やっぱりなあ……。)
緊張しているようには見えない。異性とふたりだけで出かけるのだという認識は無いみたいだ。
「荷物は後ろに置こうか。」
「あ、すみません。お願いします。」
「これ、お弁当?」
「はい。」
キャンバス地のトートバッグ。今日の約束のきっかけになったのはこのお弁当だ。
「包んであるから、覗いても見えませんよ。」
蒼井さんが笑っている。その笑顔も職場と変わりない。
「そうか。お昼までのお楽しみだね。」
「あの、でも、味は普通だと思いますけど。」
「そんなことないよ。きっと美味しいと思う。」
「うわ〜、プレッシャーです〜。」
「あははは、じゃあ、お昼までは忘れていることにしようね。」
シートの間から振り向いて後ろに荷物を置く。前に向き直ったとき、ふと、蒼井さんに見られていることに気付いた。何かおかしなことをしただろうか……?
「そのTシャツ。」
「え? これ?」
見返した俺に、蒼井さんがにっこりした。
「それ、わたし、好きです。」
(え、え、え?! いきなり?!)
「え、あ、そう?」
「はい。とても似合っています。前にも一度、着てましたよね?」
「あ、ああ、うん……。」
(褒められた……。)
嬉しくて鼓動が速くなった。でも、喜び過ぎるのはみっともないし、だからと言ってここでどう返せば良いのか……。
「実はこれ、新しいんだ……。」
「えぇっ?!」
(あ!)
「す、すみません、すみません、すみません! わたし、前に見たような気がして!」
(あやまらせてしまった! 褒めてもらったのに!)
「ああ、違うんだよ。いいんだ、ほぼ同じなんだから。実はね、うっかり買って来ちゃって。」
「そ、そうなんですか……?」
「うん。このシャツと合わせて買って来たんだけど、家に帰ったら同じデザインのがあったんだよね。まったく間抜けだよね、あははは。」
「ああ、宇喜多さんでもそういうことがあるんですね。」
(おお! 笑ってくれた!)
「でも、お似合いだから二枚あってもいいですよね。そのシャツもお洒落ですし。」
(しかも、もう一つ褒めてくれたし!)
「あ、そう…かな?」
「はい。宇喜多さんていつもネクタイ姿が決まってますけど、私服も素敵ですよね。わたしは特にその黒いTシャツが好きです。」
「ああ、まあ、黒は誰にでも似合うっていうからね。」
「そうかも知れないけど、わたしは宇喜多さんがそのTシャツを着ているところが好きです。」
(ちょっと……ヤバいよ……。)
口許が締まりが無くなってしまう。嬉しすぎて真面目な顔を保てない。
そう言えば蒼井さんって、前に髪型を褒めてくれたこともなかったっけ? もしかしたら、俺の外見、蒼井さんにストライク?
「あ……、あの、ありがとう。ええと、じゃあ、出発しようか。」
「はい♪」
ハンドルに手を乗せて気持ちを整える。嬉しさを心の壁の向こうに無理矢理押しやって、にやにや笑いも引っ込める。
蒼井さんがシートベルトを掛ける音を聞くのは何度目だろう。最初はうまくベルトを引っ張り出せなかった彼女も、今では簡単にやってのける。この車に馴染んだのと同様に、俺の存在も当たり前になってしまったのだろうか?
「瀬ケ沢ダムまでってどれくらいかかるんですか?」
出発したところで彼女が尋ねた。
「道が空いてれば二時間くらいらしいけど。」
今日の目的地は県の西寄りにあるダムだ。山の中にある大きなダムで、ダム湖と周辺の公園や見学用の施設も充実しているらしい。蒼井さんが大規模な建造物に興味を持っていたことを思い出してそこに決めた。話したとき、彼女は「どのくらい大きいんでしょうね?」と瞳をキラキラさせた。
「八月最後の土曜日って、どうでしょうね?」
「まあ、急ぐ旅じゃないからね。途中のコンビニで飲み物を買って行こう。」
「そうですね。」
そこでふと、蒼井さんの服装に気が付いた。ブルー系チェックのスモックみたいなブラウスに茶色の七分丈のパンツ、白いスニーカー。肩から下がる二本の三つ編みを留めている飾りは、左右で月型と星型という違う形のものだった。
(か、かわいい……。)
俺と出かけるためにこれらを選んでくれたのだ。俺と同じように悩んだだろうか? 俺が不安だったように……。
(……って、言えばよかった!)
俺はなんて間抜けなんだ!
さっき自分が褒められたときに、どうして思い付かなかったんだろう? 自分の服ばかり気にしていて、蒼井さんのことに気付かないなんて!
(え、今……でもオーケー?)
言いたい。「かわいい」って。「その服、好きだよ」って。
だけど、もう服の話は終わってしまった。会ってから何分も経ってしまった。今ごろ言ったら、気が利かない男の証明ってことにならないか?
「あ、あそこのコンビニに入るね。」
「はい。何かお菓子も買います。」
「うん、そうしよう。」
(「そうしよう」じゃないだろ?!)
そんな言葉じゃなくて、蒼井さんに「かわいい」って言いたいのに。本当に、どうして最初に気付かなかったんだろう? 今から言うのも有りなのか?
コンビニの駐車場で車から降りると、反対側で降りた蒼井さんがドアを閉めた。俺の視線に気付いた彼女がにこっと笑う。
(俺のために微笑んでる……。)
やっぱり「かわいい」って言いたい。本心だし。蒼井さんは俺を褒めてくれたんだし。上手く言えたら、少しは俺のこと意識してくれるかも知れないし。
「蒼井さんはお茶?」
「うーん、カフェインが入ってない方がいいんですよね……。」
(言いたいけどタイミングが……。)
どんどん言うタイミングが失われていく気がする。よく考えたら車を降りたときでも良かった。立ち姿をちゃんと見るのはあのときが最初だったのだから。
(でも、あきらめないぞ。)
そうだ、目標を定めよう。ここを出発するまでに蒼井さんの服を褒める。いや、服じゃなくて蒼井さん本人だな。とにかく「かわいい」と伝える。
(よし。)
「お菓子は手が汚れないものがいいですよね?」
「うん、そうだね。あと、飴もほしいな。」
「何味がいいですか? ミント系?」
「そうだなあ……、レモンかな。」
(いつだ? いつだ?)
他人に聞かれない場所じゃないと。それから、一度でちゃんと聞こえるように言わなくちゃ。あと、ただ「かわいい」で伝わるのか?
「あ、お金は俺がまとめて――」
「いえいえ、わたしが払います。宇喜多さんは車を出してくれてるから。」
「それを言うなら、蒼井さんはお弁当を作ってくれたんでしょ。」
「でも……。」
「じゃあ、あとで考えよう。今はとりあえず俺が出しておくから。ね?」
「わかりました……。」
(ああ……、出発の時間が迫ってくる。)
ドキドキしてきた。
お金を払ったら、あとは車に乗るだけだ。どうしてこんなに悩むんだろう? 「かわいい」っていう、ただ自分が思ったことそのままを伝えるだけなのに……。
「ありがとうございましたー。またどうぞお越しくださいませー。」
「どうも……。」
レジの前では言えなくて当然だ。店員さんに聞かれてしまうから。それにしても、この緊張、どうにかならないか?
(あと何歩?)
このドアを抜けたらあとわずか。
「宇喜多さん、それ持ちます。」
「あ、ああ、そう?」
声は震えてないか? ああ、もう外だ。ああ、もう車の前だ。
(言わなくちゃ。ここで言わなくちゃ。)
「あ、蒼井さん。」
「はい。」
振り返った蒼井さんの三つ編みが跳ねた。
(そうだ! 髪型のことでもいいんだ!)
仕事のときにもテニスのときにもして来ない、プライベートなときだけにしかしない二本の三つ編み。
「あの、これ。」
その三つ編みをそっと手に取った。
「……かわいいね。」
(恥ずかしいっ!!)
彼女の反応を見る余裕などない。大慌てで離れて、車のカギを開ける。
(でも言った。ちゃんと言えた。)
きっと顔が真っ赤になってる。助手席からわからないと良いけど。
「ありがとうございます。」
反対側から乗り込んできた蒼井さんの声がする。
「そうなんですよね。これ、かわいいですよねー。」
(え?)
なにか違うような……。
隣を見ると、蒼井さんが二本の三つ編みを並べて見比べていた。
「これ、月と星のほかに、お花とハートがあったんです。ずいぶん迷ってこの二つにしたんですよねー。」
(もしかして……。)
髪の飾りのことだと思われた? 蒼井さん本人のことじゃなく?
「あ、そうなんだ? うん、月と星がいいと思うよ。うん。」
あんなに悩んだのにちゃんと伝わらなかったなんて! あの緊張は何だったのか……。
(いや、まだ今日は始まったばかりだ。)
こんなところで挫けちゃいけない。とにかく頑張らなくちゃ。蒼井さんに俺を好きになってもらうために!




