101 決意の朝
第七章「進め! 進め! 止まれ?」です。
どうぞお楽しみください。
結局、白瀬さんに謝るのはやめた。
キツい言葉を言ってしまったのは悪かったけれど、彼女は彼女で蒼井さんを傷付けるようなことをした。今回の被害者はただ一人、蒼井さんだけだ。
白瀬さんとは同じ庁舎内にいるから顔を合わせないわけにはいかない。そんなときは、俺は目礼をし、彼女は無視という態度に落ち着いた。職場が同じ階じゃなくて本当に有り難いと思った。
それにしても、俺自身がまったく意識しない言動で白瀬さんが俺と親しい思い込んでしまうなんて、驚きの経験だった。蒼井さんはちっとも俺の気持ちに気付いてくれないのに。しかも、俺は白瀬さんのターゲットが宗屋だと思い込んでいた。俺の思考回路はやっぱり恋愛には向いていないらしい。
それでも日々は忙しく過ぎ、いよいよ。
(これで大丈夫かな……。)
玄関の鏡で最後のチェック。そこに映るのは黒のVネックのTシャツにデニムパンツ、淡いブルーの七分袖のシャツを羽織った自分。バッグは小さめの茶色のリュック。今日は八月の最終土曜日、蒼井さんと二人で出かける日だ。
(似合ってるのかどうか、まったくわからない……。)
ひたすら不安だ。髪をちょっといじった方が良かっただろうか。でも、どうすれば似合うのかわからないし……。
この日が近付くに当たって行き先のことばかり気にしていたけれど、よく考えたら着て行くものが無かった。いや、無いわけではないけれど、少しでも蒼井さんに見直してもらえるような服を着たかったのだ。だから慌てて仕事の帰りに買いに行った。でも。
(やっぱりマネキンとは違うからなあ……。)
ここに来て自信が無い。
今までだって服は自分で買っていた。ただ、それは普段着として間に合えばいいわけで、ある程度の清潔感があれば問題は無かった。
でも、今回は違う。蒼井さんに俺のことを気に入ってほしいのだ。だから買いに行ったわけだけど、これがとんでもなく難しかった!
店員に「今年の流行」と薦められると、自分が流行に乗るということが滑稽に見えるのではないかと怖気づいてしまう。「あんな見た目で流行の服とか似合うと思ってんの?」なんて周囲から思われるような気がして。それに、来年は流行遅れになってしまうのではないかと心配になる。
袖や裾のめくり具合を教えてもらっても、自分でそれが再現できる自信が無い。「お似合いですよ」と言われても、心の中で「売りたいからそう言ってるだけじゃないの?」と思ってしまう。「それ、今、自分が来てるんですけど」と見せられれば、自分にはその着こなしは無理だ、と思う。
とにかく自信が無いせいで、何を見ても、何を言われても疑わしい。その結果、仕事帰りに三日も横崎駅周辺をうろつくことになった。
タイムリミットも迫り、疲れ切って入った店で、マネキンが着ていたコーディネートを半分あきらめ状態でまとめて買った。ところが帰ってみたら、Tシャツとデニムパンツは似たようなものをすでに持っていたことがわかった。疲れていて頭が働かなかったらしい。時間を使った揚げ句、いつもと変わりないものを選んでしまったことにがっかりした。
(まあ、このシャツだけは良かったかな。)
七分袖のシャツは持っていなかったし、カフスの部分を折り返すと白になっているところはけっこう気に入っている。それに、考えてみればTシャツも新しいとシャキッとしているから、今日みたいな日には良いかも知れない。
ただ、似合うかどうかは別の話だ。蒼井さんはどう思うのだろう。
(似合ってなかったら嫌だなあ……。)
靴を履きながらため息が出た。
(せっかく決心したのになあ……。)
そう。これほど着るものに悩んでいるには理由がある。俺には今日、一つの目標があるのだ。
蒼井さんに俺を好きになってもらいたい!
白瀬さんの事件があった週末からずっと考えていた。蒼井さんと自分の関係を。
あの日の夜、蒼井さんは俺を元気づけようとしてくれた。その姿はいつものとおり可愛らしく、それに、俺が白瀬さんに親切にしたことは間違っていないと言ってくれた。それが本当に嬉しくて、多少の酒を心の中で言い訳にしながら彼女を抱き寄せた。
ところが。
ところが、だ。
彼女はそのことを何とも感じていないようだった!
あの直後、彼女は白瀬さんにもそれをやったのかと尋ねた。よりによって白瀬さんに、だ。いくら何でもそんなことをするはずが無いのに!
俺がそれを否定し、さらに蒼井さんは特別で「許婚」なのだと言っても、無邪気ににこにこしていた。気まずさや恥ずかしさのようなものはまったく見せないで。
さらにあとになって、彼女が「親切と愛情は受けた側が区別できる」と言っていたことを思い出した。あれはあの場では白瀬さんのことを言っているのかと思った。けれど、そうじゃない。たぶん、自分のことも含めて言っていたのだ。
蒼井さんの態度とその言葉を考え合わせると、要するに彼女は、俺の行動をすべて「親切」として処理しているということだ! ……まあ、そう思わせようとしてきたことも事実ではあるけれど。
でも!
もうすぐ半年になる。
顔を合わせた初日から、仕事を教わった日々、初めて送った日のことを思い出してみた。職場の先輩たちや花澤さんから聞いた話も。テニス部やイベント、電車や車の中での時間も。
それこそほぼ毎日、俺は蒼井さんと一緒だった。毎朝、蒼井さんと会えた瞬間から幸せで、仕事にも前向きに取り組むことができて、彼女に尊敬される人間になりたいと願ってきた。彼女無しには今の自分はあり得ない。そして将来もずっと一緒にいたい。
けれど、蒼井さんは。
俺のことを「お兄さんみたいな先輩」と表現していた。あれは梅雨のころだっただろうか。
海に行ったときには、俺のことを疑わないと言った。女性に対して危険なことをするような人間じゃないと思っている、と。今も俺のことを「信頼する」と言ってくれている。
そういう言葉を聞いたときは、ほっとしたり、有頂天になったりした。でも、今になってもその位置付けに変化の兆しが見えない気がする。
懸命に、何か無かったかと記憶をさぐってみた。
海での彼女は本当にかわいらしかった。甘えるような雰囲気もあって、この調子ならあっという間に親しくなれると思った。でも、今、思い出してみると、恥ずかしそうな素振りはあまり無かったし、水着を褒めたときも簡単に終わってしまった。確かに、俺が寝ぼけて抱き締めてしまったときは驚いていたけれど、その直後に俺のことは疑わないと宣言したのだ。あのあと散歩に行って彼女を抱き上げたときだって、子どもみたいにはしゃいで笑っていただけだ。
彼女の部屋の玄関で転びそうになった彼女を抱き締めたときだって、すぐに平気な顔に戻ってしまった。
一度だけ、電話で「恥ずかしい」って言われたことはある。でも、それは俺に対しての話じゃなかった。
何を思い出しても、彼女が俺を異性として……特別なただ一人の異性として意識していると思える証拠が無い!
もしかしたら、「遠慮をしない」という約束が良くなかったかも知れない。俺は彼女との距離を縮めるために言ったのだけれど、彼女はそれを「男女の区別なく仲良くしよう」という意味に受け取っているのかも。
そんなことを考えているうちに思い出した恐ろしい預言。
「仲良くなりすぎて、最終的には『存在が近すぎて、異性として考えられな〜い♪』なんて言われちゃうんじゃないの?」
背筋がぞっとした。
今、自分がそこに入り込みかけている気がする。――「入っている」とは絶対に思いたくない。万が一、片足を突っ込んでいても、ここで戻らなくちゃ。
彼女に訊いてみたい。
宗屋と俺は同じ位置付けなのか。白瀬さんと俺が親しいという話を聞いたときにどう感じたのか。俺が触れることをどう思っているのか。
いや、それよりも。とにかく。
俺を好きになってほしい。
俺を特別だと思い、俺と一緒にいたいと思ってほしい。
ふたりで歩くときに手をつなぎたい。まわりに人がいなければもっと仲良くしたい。最後におやすみのキスもしたい。そのためには、彼女に俺を好きになってもらわなくちゃならない!
ここ数日、そんなことばかり繰り返し繰り返し考えてきた。ときには未来は明るいと思えるときがあり、ときには地面にめり込むほど落ち込んだ。
けれど。
とにかく今日が来た。
今日はデートだ。蒼井さんがどう思っていようが、俺にとってはデートなのだ。いや、蒼井さんにとってもそう思えるような一日にしてみせる! そのために服まで買いに行ったのだから。
玄関を出ると、空は雲で覆われていた。なんとなく幸先が良くないような気がする。
「はあ……。」
我慢してきたため息が思わず漏れた。幸せが逃げてしまうと言われているのに。
(肝心なことがなあ……。)
何をどうすればデートだと思ってもらえるのかがよくわからない。彼女に異性として特別だと思ってもらうためには、いったい何を? 下手なことをしたら、その時点で帰宅ということだって有り得るのに……。
(ねえ、蒼井さん。どうすれば俺を好きになってくれるの?)
車のエンジンをかけながら問いかけてみた。けれど、返事が聞こえるはずも無い。
ここは自分の力で状況を動かすしかないのだ。




