100 ◇ わたしの出番? ◇
梅谷駅で電車を降りると、残暑の蒸し暑い空気が襲ってきた。
「今日は特に暑いなあ。」
後ろから降りてきた宇喜多さんの独り言。振り向くと、ワイシャツの首のところに指を入れて引っ張っている。
(ふふ。)
今日はネクタイをはずすほど酔っ払ってはいないらしい。暑気払いの帰りに注意されて以来、わたしは宇喜多さんにハイペースでお酒を薦めるのをやめたから。
本当は少し残念。ネクタイをふたりで持って歩くのは、知り合いに見られたら恥ずかしいけど、仲が良い証拠みたいで楽しい。最後にネクタイを結んであげるのは……今は恥ずかしすぎて無理かな。自分の気持ちを自覚してしまった今は。
明るい駅から暗い道へ。静かでもやっぱりもわもわと暑い。澱んだ空気で顔も腕もなんとなくベタベタする。
「あの……、びっくりさせてごめんね。」
そっと、宇喜多さんが言った。少しうつむき加減で。さっきまで、明るく話していたのに。
「いきなり落ち込んで戻って来て、女の子を泣かせたなんて聞かされても困るよね。」
明るく振る舞っていたけど、本当は気にしていたんだ。真面目だから、係長たちの前では気を遣っていたのかも。
「驚きましたけど、わたしは大丈夫です。わたしよりも宇喜多さんの方が大丈夫ですか?」
「え?」
「だって、かなりショックを受けていたみたいでしたよ? あんな宇喜多さん、初めて見ました。」
「ああ……。」
宇喜多さんが情け無さそうに片手で顔を覆う。
「みっともないよね。しかも泣かせちゃったとか……。」
「まあそれは……大変だったんだなあ、って。」
「え、それだけ……?」
意外だったかな? でも。
「べつに迷惑だなんて思っていません。それに、事情も知らないから……。」
タイミング的に白瀬さんかな……とは思う。でも、ほかのひとっていう可能性だってあるし……。
(あれ?)
なんだか思いつめた雰囲気? 思い出させちゃいけなかったかも!
「あの、すみません、変なこと言って。べつに聞きたいわけじゃ――」
「いや、いいんだ。蒼井さんには話しておいた方がいいかな、やっぱり。」
「あ、でも……。」
ってことは、相手は。
「白瀬さんと話してきたんだ、あのとき。」
「ああ……、そうなんですか……。」
やっぱり……。
「宗屋から……、ほら、俺と白瀬さんが普通以上に仲が良いみたいなことを白瀬さんが言ってるって聞いて、そういうの、やめてほしいって言いに行ったんだ。」
「ああ、そうなんですね……。」
その気持ちはわかる。きのうの夜、わたしにわざわざ電話をかけてきたことから考えても、宇喜多さんがあの話をどれほど嫌がっていたか想像がつく。そして、真っ直ぐな宇喜多さんが本人に話しに行ったということも納得できる。
「だけど、なかなかわかってもらえなくて……。」
「ええ。」
「あきらめてもらおうと思って、かなりきついこと言っちゃって……。」
「そうですか……。」
白瀬さん、きっと本当に宇喜多さんのことが好きだったんだ。少しでも可能性が無いか、必死だったのかも知れない。
「あのう……、たくさん泣かれちゃったんですか?」
「あ、いや、最後に涙目になったくらいで……すぐに駆けて行っちゃったから……、廊下だったし……。」
「え、廊下ですか?」
「うん、三階の廊下のすみっこで……。」
(うーん……。)
確かにそこでは簡単に泣くわけにはいかない。声もひそめなくちゃならなかったはずだ。すみっことは言え自分の職場の廊下で、しかもあの時間はけっこう職員がうろうろしていたはずだから。白瀬さん、ちょっとかわいそうだったかも……。
「宇喜多さん、あんまり考えてなかったんですね……。」
「ああ、うん、その、とにかくあきらめてもらうことしか頭になくて……。」
それも宇喜多さんらしいという気はするけれど。
「とにかく言い過ぎちゃったんだ。最後の一言で泣かれちゃったんだよ。」
「そうなんですか。」
さすがにその一言は質問できないな。一応、部外者だし。
「『一緒にいても楽しくない』みたいなことをさ……言っちゃったんだ……。」
(わたしに言っちゃうんだ?!)
聞いてもいいのかな? そんなに簡単に?
もしかしたら宇喜多さん、やっぱり酔っ払ってるのかな? 見た感じはわからないけど……。
「それは……ちょっと厳しいかな……。」
好きなひとに言われたら、かなりきつい。
「白瀬さんにさあ、それなら自分に親切にしなければ良かったのにって言われたんだ……。」
(親切にしなければ良かった?)
それは。
「それは違います。違うと思います。」
「……そう? だけど、俺がそういう微妙なところがわからないのは本当だし……。」
「そんな。」
親切を愛情と勘違いしたくなる気持ちはわかる。でも。
(そうだよ。でも、だ。)
「親切と愛情は、受けた側がちゃんと区別できると思います。」
わたしはそうしてる。だって、勘違いしたらお互いに不幸になるもの。
それに、ふたりの関係を考えれば、親切なのか愛情なのかは自然とわかるはずだ。白瀬さんは責任を宇喜多さんに押し付けようとしているだけだ。
「宇喜多さん。今回のことは仕方ないんじゃないでしょうか?」
「そうかな……?」
「わたしから見ると、先に……仕掛けたのは白瀬さんの方のようですけど。」
「うん……、俺も最初はそうだと思っていたけど……。」
宇喜多さんは小さくため息をついた。
「でも、俺が言い過ぎたのは確かなんだよね。その前までで勝負はついてたんだよ。」
(勝負って……。)
そっと微笑んでしまった。
恋愛ごとで「勝負」って言ったら、ちょっと違う意味だと思う。宇喜多さんって、あんまり恋愛向きの思考回路じゃないのかも。
(でも。)
そういう方がわたしは好きだな。あんまり気が利いたり慣れていたりするひとだと不安になりそう。
(なんてことよりも。)
こんなに落ち込んでるなんて……。
(ん?)
もしかしたら。
弱気になってるのかな。なぐさめてあげた方がいいの?
係長にはあんまり言えなかったのかも知れない。わたしたちが合流してからはそういう雰囲気じゃ無かったし。
(うん、そうかも。)
きっとそうだ。なぐさめてあげればいいんだ。
白瀬さんのことはもう終わったこと。宇喜多さんがちゃんと自分で蹴りをつけた。じゃあ、今度は宇喜多さんの元気が出るように、わたしに何ができる?
言葉では足りない気がする。でも、触るのは悪い。だとしたら……?
(これかな?)
宇喜多さんの前をまわりこんで、持っているカバンに手をかける。
「これ、持ってあげます。」
「え?」
「うちまでだから、ちょっとだけだけど、カバン持ち。」
驚いた顔。でも、「ね?」ともうひと押しすると手を離してくれた。
「あれ? 意外に重いんですね。」
片手で持つと疲れるので両手で抱えた。自分のはリュックだから、この方が持ちやすい。
「ふふっ。」
なんだか楽しくなって、少しだけスキップしてみた。
「そんなサンダルでスキップしたら危ないよ。」
「はあい。」
隣に戻ると、宇喜多さんがやっと笑ってくれた。
「何が入ってるか当ててみましょうか?」
「え? ……そうだね、言ってみて。」
「手帳。」
「当たり。」
「文庫本?」
「当たり。」
「定期。」
「はずれ。それはこっち。」
宇喜多さんがお尻のポケットを叩いた。
「そうか。あとは……こんなに重い原因は……将棋盤!」
「えぇっ? まさか!」
「違いますか? 折り畳みのやつ。宇喜多さんなら絶対やってると思ったんですけど。詰将棋とか。」
「やってたとしても持ち歩かないよ。」
「そうですか。じゃあ……、手品道具! かさばりそうですよ?」
「違うってば。なにそれ? 『いつでも場を盛り上げます』って?」
「そうそう。機嫌の悪いお客様にも笑顔になっていただけるように。」
「そんなことしたら、逆に怒られそうだよ。」
「ん〜〜〜〜、わかりました! じゃあ、石のお守りがいっぱい?」
「あはははは! 蒼井さんはもう……。」
楽しそうに笑ってくれた。元気になった?
(あれ?)
頭を引き寄せられた…と思ったら。
「ありがとう。」
耳元で声がした。
「これからも、よろしくね。」
「は、はい……。」
心臓がバクバクする。そう言えば宇喜多さんって、たまにこういうことするんだった。すっかり忘れてた!
カバンを抱えていて良かった。そうじゃなかったらもっと恥ずかしい。
(はっ! もしかして?!)
「あ、あの、宇喜多さん、こんなこと……、」
わたしは深い意味は無いってわかってる。子どもだと思われているから。でも。
「白瀬さんにはしてませんよね?」
それは勘違いでは済まされないかも……。
「しっ、白瀬さんに?! まさか!」
パッと体が離れた。
「ありえないよ! 白瀬さんになんてそんな!」
全身、全力で否定してる。訊いちゃって悪かったみたい……。
「あ、あのね、これは蒼井さんだけだから。誰にでもだなんてそんな。だって、蒼井さんはその、ええと、その、」
(わたしは?)
聞きたい。何て言ってくれるのか。
「い、許婚なんだから。特別なんだよ。」
(ああ……。)
ごっこ遊びでも、わかっていても、心が弾む。
「それ、久しぶりに聞きました。その設定――」
「あったよ。間違いなくあった。最初から。」
「はい。」
そうですよね。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
第六章「失敗からも学びます。」はここまでです。次から第七章「進め! 進め! 止まれ?」に入ります。
本当はいつも100話以内が目標なのですが、今回は特にながくなってしまっています。
じれったいおはなしですが、引き続きお付き合いいただけると嬉しいです。




