表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
俺が真面目だとみんなは言うけれど  作者: 虹色
第一章 社会人になりました。
10/156

10 少しずつ慣れてきました。


働き始めてみて、驚いたり感心したりすることがいくつもあった。


その一つが文具類だ。


とにかく徹底して節約している。購入予算がどんどん削られていると原さんがため息をついていた。


筆記用具は基本的にすべて詰め替えて使う。蛍光ペンにも補充インクというものがあることを初めて知った。ボールペンやシャーペンの本体は担当の人に言わないと出してもらえない。置き忘れたり、誰かが間違えて持って行ってしまったりすると困るからと、蒼井さんは何にでも名前を貼っている。ひらがなで「あお」と書いて貼ってあるのを見ると、なんだか微笑ましい。


蒼井さんの節約はほかのひとよりもさらに徹底している。中でも付箋の再利用には感心してしまった。書くときにシャーペンを使って、用事が終わったら消しゴムで消す。セコいと笑うひともいるだろうけれど、思うに、彼女はとても素直なのだ。「節約しろ」と言われているから、自分にできる工夫をしているだけ。そして、そういうことを楽しそうにやっているのもいいと思う。


そんな小さなものを削っているわけだから、当然、お仕着せの事務服などは無い。ドラマで見るような “役所の服” みたいなものは存在しない。ただ、外で作業をする職場には作業用の服があるらしい。市役所の職員だと証明する意味もあるのだろうか。


個人情報の取り扱いも、当然のことながら徹底している。


失敗したコピーや印刷はもちろん、電話のときのメモ、書類が送られてきた封筒なども、個人情報につながるものは必ずシュレッダー行きだ。税務システムの端末機を初期画面に戻すきまりもその一環。課の職員にはパスワードが与えられていて、他課の職員は勝手に見ることができないようになっている。そのほかにも、注意することや禁止されていることがいろいろある。


俺が一番悩むのはゴミの分別だ。家での分別よりもずっと細かい。フロアに一か所あるゴミ置き場の前で、俺はしょっちゅうぼんやり悩んでいる。すると、通りかかった先輩が見かねて、「それはそこ、そっちはここ」と教えてくれる。


そんなことと並行して、蒼井さんのこともいろいろ知るようになった。


俺と同じ小鳩区に住んでいるということ。最寄り駅は違うけれど。


南北に長い小鳩区の南寄りに住んでいる俺は、かもめ駅からずっと同じ路線で白羽駅。北寄りに住んでいる蒼井さんは、横崎駅で西川線に乗り換えて三つめの梅谷駅。とは言っても、白羽駅と梅谷駅は歩いて20分程度の距離だ。


そこで彼女は一人暮らしをしている。


梅谷駅は九重高校から二駅のところにあり、「じゃあ、通学が便利だったんですね」……という話から、彼女が就職してから今の場所に引っ越したことを聞いた。高校のときはもっと学校の近く、それこそ徒歩7分くらいのところに住んでいたらしい。


実家からたった二駅という場所に独立した理由を、彼女は「家がせまかったから」と笑顔で説明してくれた。けれど、そう言いながら、そのことは話したくないように見えた。もちろん、無理に話を聞くつもりは無かったので、それ以上は尋ねなかった。ただ、何か困ったことがあったら遠慮なく言ってほしい、とだけは伝えておいた。


高卒の給料は俺の初任給よりも安く、月々の生活はあまり余裕が無いと彼女は苦笑した。首都圏にある葉空市は、東京ほどではないとは言え家賃が高いのだ。昼食が弁当持参なのは食費を抑えるためらしい。


俺は大学は自宅から通っていたので、まだ一人暮らしをしたことがない。でも、就職したのを機に家を出ようと思っている。そう話すと、「宇喜多さんなら何も心配ないですね!」と言われた。生活面も経済面も、俺なら失敗することなどあり得ない、と。俺も、自分が借金を重ねたり、遅刻や欠勤を繰り返すような生活に陥るとは思わない。でも、料理は無理だと思う。


蒼井さんの一人暮らしの話を聞いて、ますます俺は彼女に尊敬の念を抱くようになった。


そりゃあ、大学生だって一人暮らしをしている学生はたくさんいる。でも、社会人の一人暮らしとは心構えが違うような気がする。社会人の一人暮らしの方がなんていうか……責任が重くて孤独な気がする。




「姫はゴールデンウィークは用事あるんすか?」


ゴールデンウィークが近付いた朝、カウンターを拭きながら宗屋が蒼井さんに尋ねた。


「んー、勉強かな。」

「え、勉強?」


手を止めた宗屋と俺に、蒼井さんが恥ずかしそうに微笑む。


「ええと、実はわたし、大学生もやってて……。」

「大学生? 今?」

「はい。」


驚いて見つめる宗屋と俺のうしろから前下さんの声がした。


「蒼ちゃんは就職したときから大学の勉強もやってるんだよね?」

「はい。丸里大学の通信教育課程で……。」


(通信教育……。)


通信教育課程はれっきとした大学のコースだ。授業の単位認定があるし、卒業研究もある。最後までやれば大学卒業だ。


「サボってばっかりで、ちっとも進んでないんですけど。」


そう言いながら端末機を立ち上げる。


「今のままだと何年かかるかわからないな〜って思ってるんです。」

「いつでも俺が教えるって言ってるのに。」


また前下さんの声。振り向くと、前下さんは蒼井さんに笑顔を向けていた。


「前に英語が難しいって言ってたよね? あのあとどう?」

「あ、あれも、なんとかやりました。やっぱり自分の力で理解しないと身につかないから……。」

「すごいなあ、姫。」

「い、いいえ、そんなことないんです。全然進まないし。」


そう謙遜するけれど、俺もやっぱりすごいと思う。だって、俺は仕事でいっぱいいっぱいで、何かの勉強をする余裕なんて無い。


(とは言っても。)


蒼井さんは褒められて居心地が悪そうだ。ここは話題を変えた方がいいかも知れない。前下さんを蒼井さんから遠ざけるためにも。


「前下さんは、何か予定はあるんですか?」


窓口用に最近練習している親しみのこもった笑顔で尋ねてみる。


「あ、俺? 俺はテニスかな。」

「へえ。テニスですか。」


余裕の笑顔だ。たぶん、腕に自信があるのだろう。それに、確かに似合いそうだ。


「雰囲気有りますねえ。どこかに所属してたりするんですか?」

「うん。地元のクラブにね。あと、ここのテニス部。」

「え? 『ここの』って、かもめ区役所のですか?」

「うん、そう。蒼ちゃんもね。ねえ、五月五日の練習は行くよね?」


(あれれ。)


また蒼井さんに戻ってしまった。


蒼井さんは給湯室の方に行きかけたところで振り向いて、笑顔で「あ、はい。」と答えた。そのまま給湯室に入って行く。


(蒼井さんもなのか……。)


サークル活動だとどんな感じなんだろう? 彼女と前下さんの間に入ってくれるひとはいるのだろうか……?


「宇喜多もテニスやってたんだろ?」


宗屋が俺に話を振った。


「え、そうなんだ?」

「あ、まあ、はい、大学に入ってからですけど……。」

「じゃあ、良かったら、うちの部に入らない? 人数が少ないから、いつでも部員募集中だよ?」

「あ、そうなんですか?」


(人数が少ないのか……。)


ということは、蒼井さんと前下さんの接点はそれなりに大きいと考えた方がいいかも知れない。だとしたら。


(蒼井さんに恩返しできるチャンスかも。)


「どのくらい練習してるんですか?」

「まあ、正式は月二回だね、土曜日にコートとって。あとは合宿が春と秋にあるよ。もちろん、無理に参加しなくてもいいんだけどね。」


合宿もあるなんて、意外に熱心な活動をしているらしい。そういう点では結構楽しみな気がする。もう一年以上、テニスからは遠ざかっていたし、今のところは仕事以外に何も予定が無い。


「そうですね。入部しようかな。」

「うん、そうしなよ。」


前下さんが笑顔で言ってくれた。


「経験者が入ってくれると助かるよ。異動で、教えられるひとが減っちゃったから。」


(いいひとなんだよなあ……。)


親切な申し出にしみじみと思う。蒼井さんへの愛情表現をもう少し控えめにできれば、もっと良いのに。


「前下さん、それ、初心者もオッケーすか?」

「あ、宗屋くんも入部する?」

「はい! 俺でもできますかね、テニス? ……っていうか、宴会要員ってことで。」

「あははは、宗屋くんは宴会ができるならなんでもいいってこと? 正直でいいなあ、あはは。」

「いや、練習の時間はちゃんと練習しますよ。体力には自信があるんで。」

「部員が増えるのは大歓迎だよ。」


給湯室から出てきた蒼井さんに前下さんが俺たちの入部を告げると、蒼井さんは手を叩いて喜んでくれた。さらに、俺が経験者だと知るとますます喜んだ。彼女があんまり無邪気に喜ぶので、俺と宗屋はなんとなく気恥ずかしくなって顔を見合わせてしまった。


「異動しちゃった花澤さんが、いつも初心者の担当をしてくれていたんです。」


席に戻るときに蒼井さんが教えてくれた。


「花澤さんって、俺の前任のですか?」

「はい。とっても丁寧だし、できなくても怒ったりイライラしたりしないで、すごーく良い先生だったんです。」

「そうなんですか。」


俺の相槌に、彼女は「はい」と嬉しそうにうなずいた。


「花澤さんは仕事ではわたしのチューターで、テニスでも先生で、本当にたくさんお世話になりました。」


話す表情から、彼女が花澤さんを心から尊敬していることがわかる。


(蒼井さんを育てたひとか……。)


高校を出たばかりだった彼女に仕事と心構えを教えたひと。彼女の尊敬と信頼を得たひと。


「明日、花澤さんもいらっしゃるんですよね?」

「あ、歓送迎会ですか? はい! もちろんです。」


俺も会って話してみたい。きっと、学べることがたくさんあるに違いない。







評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ