評人
この世には評人という職業が有り、彼等は、街中の何処にでも見られる、トタンで簡易に設えられた小屋の中にいる。大概は五人おり、それぞれ仕切りで隔て、パイプ椅子に腰かけては、来る人来る人の論文に目を通している。多くの市民は紙幅の厚い論文を喜々として抱えて来る。それを細部まで読解しなければならないのだから、評人が置かれるトタン小屋は街中にごった返している。しかし、それでも数は足りていない。
評人は、読み終えた後「成熟」か「未熟」かを審判し、前者ならば、欣然な素振りでその論文を部屋の奥まで運び入れ、後者ならば、蔑視と共に論文を火鉢に投げ入れ、その未熟な市民を片手であしらう。「成熟」と評された者には、表彰は無いが、評人のいかにもな満足顔が得られるだろう。論文を書き留める市民は全てそれを望んでいるのである。
「未熟」と烙印を押された者には、それは耐え難い苦痛、苦悩が待っている。直接罰が下されるわけではない。ただ自分から飛び込んでいくのである。何故認められないのかと憤慨して、しかし「成熟」と評される者も有るが事実、ある者は精進すべしと己を改め、ある者は不正を疑い評された論文を必死に見収めようとし(仕切りがあるのでできない)、ある者は「こんなの間違っている!」と論文を書くのを諦め、国家反逆罪として死罪にせしめられるのである。
憲法にはこうある。市民は日々論文を書き表すべし。哲学の知を広げ、国を良くすべし、云々。
これがある故、評人と言う職業が確立し、彼等は、毎日幾万文字を読み耽っている。
評人の仕事は、それに尽きる。しかし、飽きることは無い。国家元首なる王が選出した名誉ある彼等。厭と言う筈がない。彼等は評人の責務に従うことで、変え難き悦びを得ているのである。
彼等もかつては論文を記していた側であり、今となってはそのような暇は無くなってしまったが、それでも、歴代に残る高尚な理論を書き記したには違いない。
ある表題は「マッシュルームと怒りの関係」、ある表題は「ママのおいしいクリームによる世界平和の完遂」。どれも、かつての評人が満面の笑みで部屋の奥まで運び、間もなくして推薦を授かった物である。推薦が通れば、その筆者は評人となる道筋の一歩を得る。さらに素晴らしい論文を排出し続ければ、元首の目に留まり、評人の任命を受ける。
彼等は幸せだった。自らを一握りの天才と信じていたし、その信頼のおける目を以てして、今日も多くの論文を選別している。
彼等は何故自分の理論が世に現れないのかと疑問に思うことも無く、幾多の知識人を粛清し続けていた。
(*´_`)。o (読んでいただきありがとうございました)