三題小説第四弾『飛び跳ねる、歯、隙間』
ここは室内かもしれないが外気温と大差ないはずだ。打ち棄てられた牢獄のような部屋。狭く暗く寒い。冷たいコンクリートの壁、床、天井。2メートル四方の部屋。天井近くの窓は鉄格子だけで、冷たい空気が容赦なく侵入してくる。角には排水溝がぽっかりと穴をあけて異臭を放っている。一方の壁には押しても引いてもびくともしない鋼鉄の扉があり、床近くに郵便受け口のような穴がある。この穴から一日に一回深夜に何か食べ物と水が2枚のステンレスの皿で差し出される。あとは鉄格子の窓から入ってきたのだろう小枝が部屋の隅に落ちているくらいだ。
私はいつの間にかここにいた。たったの一人きりで。もうどれくらいここにいるのか分からない。いつまでここにいるのかも分からない。
いつ頃からか天井や床や壁が囁いているかのような幻覚が聞こえている。私がコンクリートのように冷たく固くなる事を望んでいるのだ。埃にまみれた服とボロい毛布だけが私を冷気から守ろうとしている。
「アタシもいるでしょう?」と囁くのはズープと名乗る幻覚だ。
「あんたはいないのよ」と呟く私は幻覚ではない。たぶん。
鈴の音のように囁くその幻覚は壁の真ん中辺りに座っている。扉を北として東の壁には外へと繋がる隙間があった。隙間はそれなりに大きな亀裂だが歪な形のせいで腕を出す事も出来ない。
幻覚ズープはその隙間に座っていた。親指大の女の子の姿だ。昔に読んだ絵本に出てきたお姫様のような格好をしている。金色の髪に大きな灰褐色の瞳――もちろん体のサイズに比してだ――動かす事のない紅い唇、背中には銀色の薄い翅が生えている。その翅を震わせて虫のように鳴いて喋る。
私は、排水溝から出来るだけ距離を置きながら、西の壁にもたれかかってズープを見つめている。ズープは私を見つめている。
視線をそらす。扉の近くには紙片が落ちている。『シニタクナケレバシズカニシテクダサイ』と書いてあった。一度読んだきりそのまま置いてある。
「いよいよ私も終わりなのかな、って思うよ」
「どうして? 希望を捨てちゃ駄目なのよ? 命が蝋燭ならば希望は炎なの」
「希望によって命が燃え尽きるわけ?」
「間違えたわ。命が蝋燭の炎で、希望は蝋よ。燃え続ける為には無くてはならないの」
「そう。じゃあ芯は?」
「芯はスズコ自身だわね。貴女が希望を燃料に燃えてるってことだわ」
「よく分からないよ」
「アタシもよ。とにかく言いたいのはね。希望を捨てちゃ駄目って事なのよ。アタシが貴女の幻覚ならばそれはつまり一蓮托生でしょう? 貴女が死んじゃったらアタシも居なくなってしまうわ」
「私としては一刻も早く私の頭から出て行って欲しいんだけど」
「何も好き好んで貴女の頭の中に住みついたわけじゃないわ。よりにもよってこんなに狭苦しい所」
「自分が私の幻覚だと認めるんだね」
「貴女がアタシの幻覚かもしれなくてよ?」
虫の戯言をシカトして毛布を引き寄せる。もう正午は過ぎた頃だろうけれどとても寒い。本当に蝋燭だったら良いのに、と馬鹿な事を考える。
ズープは小さな体を捻り隙間を覗き込む。視界は高みにあり、この部屋は2階にあるのだと分かる。そこから見えるのは小さな原っぱとその向こうに広がる針葉樹林だ。時々何かががさがさと気配を感じさせた。鳥か鹿か猪か知らないが野生の何かだろう。それ以外は一日中しんとしている。この土地にいるのはたった二人だけなのだろうか。
「スズコ。来て」
「何?」
「良いから早く。見てごらん」
ズープは床へ降りて私を急かす。出来ればあまり動きたくないが仕方ない。毛布を羽織り、隙間に近づく。床の冷気が靴越しに肌を刺す。最初の数日は何かないか――例えば希望とか――と、ずっと隙間を覗きこんで外を眺めていた。
隙間から外を覗き込む。針葉樹林の林が目の前に広がっている。ちらと動くものを見た気がして地上に視線を向ける。枯れた原っぱに三人の少年がいた。
厚着でもこもこした少年たちは原っぱで飛び跳ねたり走り回ったりしている。さらに目を凝らすとどうやら兎を追いまわしているようだ。
「どうしようか?」と、ズープが鳴った。
「助けを呼びたいけど」
「シニタクナケレバシズカニシテクダサイ」
ズープの声の冷やかさに身をこわばらせる。見下ろすとズープは腕を組み、険しい表情でこちらを見上げていた。そしてゆっくりと翅を鳴らす。
「賢明な判断とは言えなくてよスズコ。奴は今もこの建物にいるはずなのだから。いえ、もしかしたら扉の向こうにいるかもしれない。そうであってもおかしくないわ」
そう言ってズープは扉を睨む。
私以外でこの建物にいる人間を一人だけ見た。扉の床近くに空いた小さな穴から食事を差し出す者だ。靴と手しか見ていないが、それでも大人の男だという事だけは分かった。
この部屋で気が付いた日の事だ。私は何も考えずに叫んで助けを求めた。すかさずその男が部屋の前に来て、扉の穴から紙片を差し込んだ。『シニタクナケレバシズカニシテクダサイ』。率直で簡潔なメッセージだ。それ以来私は一切声を出していない。ズープに対してさえも。
「でも貴女の声は聞こえているわ。考えましょうスズコ。声を出さずに助けを求める方法はないのかしら。最悪、貴女が、誰かがこの建物にいるという事だけでも伝えられれば、それは希望になるはずなのよ」
「そうは言っても何が出来るっての? ここには何もないのに」
そう言って部屋を見回す。そして小枝が目に付いた。一か八かだ。駄目で元々だ。
「そうよ。小さくとも僅かでも確かな希望だわ」
小枝を隙間に差し込む。そしてデコピンをする要領で弾き飛ばす。すかさず隙間を覗き込むと小枝が空中に弧を描くのを目で追えた。そうして弧を描いた小枝は飛び跳ねる少年の後頭部に命中した。
「見事だわ。貴女ってネガティブな割に運が良いのよね」
こんな状況でポジティブでいられる者などいてたまるか。だけど運が良いのは間違いない。祈るような思いでその少年を凝視する。
少年は赤いマフラーを口元まで上げ、自分の頭を抑えた。気味悪げな表情でこちらを、建物の外壁を見渡す。
私は精一杯手を振る。その少年と目が合っているように思える。
ものの数秒間だろう。しかし赤いマフラーの少年は他の少年に呼ばれて兎追いに戻ってしまった。そのまま隙間の視界から消え、少年たちのはしゃぎ声もいつの間にか消えてしまった。
部屋の中は全くの闇に浸かる。鉄格子の窓から入る月明かりか星明りは僅かだ。鋼鉄の扉の隙間から漏れる人工の光だけが助けになる。
夜気は一層鋭く体を刺し貫く。手足の末端がこわばり、じんじんと熱を帯び始める。必死に両手や足をこすり合わせ、息を吐きかけるが少しも温もりを得られない。
「焼け石に水だわね。状況は正反対なのだけど」
うっとおしい虫を叩き潰す気力も湧かない。
同時に飢えも襲いかかる。内臓がきりきりと捩じられ、全身が体内に呑み込まれそうな気分だ。食道や喉、舌を胃に納めたくなる。
もうこのまま餓死させる気なのかもしれない、と思った時遠くから足音が聞こえてきた。その時湧き起こる救われたような気持ちに吐き気がして涙が滲む。
「奴が貴女を苦しめているのよ。それは偽りの希望なのだからね。貴女の身だけでなく心までも滅ぼそうとしているの。気を強く持ちなさいな」
「分かってる。分かってるから黙ってて」
扉の前で足音は立ち止まり、また来た道を戻っていく。皿を回収して戻ったのだ。次の食事を乗せてまた届けてくれる。
「スズコ」
無視する。
また足音が戻ってくる。いつもと変わらない単調な歩調が少しずつ大きくなる。
ズープの羽音と奴の足音が頭の中に鳴り響いて鳴り響いて何度も何度も反響する繰り返し反響する。頭が割れそうになる。
扉の下の小さな穴から二枚の皿が差し込まれる。水と二枚の食パンだ。いつもは一枚なのに二枚ある。食パンを二枚くれた。
「スズコ!」
「分かってる!」
皿に飛びつく。一枚を鷲掴みにし、一気に口に押し込む。喉を越え、食道を過ぎ、胃に辿り着く。驚いた胃が食パンを押し戻そうとするが続いて流れ込む水が胃に押し込む。
もう一枚に手をつけようとしたところで冷静さを取り戻す。こちらは少しずつ食べる事にする。改めて寒さに気付き、毛布を引き寄せて西の壁にもたれかかる。
少しずつ食パンを千切りながら食べた。割れものでも扱うように慎重に噛みしめる。いつの間にか奥歯が無くなっていた。栄養失調のせいだろうか。
「心配しなくても私はお腹が空かないのよ。私の事は気にしないでいいわ」
「幻覚だしね」
「妖精だからなのよ」
たっぷり時間をかけて食べた。空腹感はむしろ増したような気さえするが狂いそうになるほどの飢餓感はどこかへ去った。
ズープは隙間に腰掛けて銀の翅を震わせる。
「少しは頭に栄養が回ったのなら考えなくてはならないわ」
「ここから逃げ出す方法」
「もしくは助けを呼ぶ方法。あの少年達が最後の希望だと思うのね」
「最後?」
「心構えの話だわ。明日も来るかどうかなんて分からない。あるいは今日が最後だったかもしれない」
「希望を潰そうとしているように聞こえるよ」
「ごめんなさいね。とにもかくにも考えましょう」
「思ったのだけど、本当に声を出す訳にはいかないのかな。奴だって常にここにいるとは思えないし、ずっと起きてるわけでもない。こんな時間に食事を寄越す事を考えたら昼間に寝ているのかもしれない」
「そうかもしれない。でもそうかもしれないだけ。何一つ根拠のない憶測で貴女は貴女の命をベットできるの? 出来るのならやってみなさいな」
もちろん出来はしない。上手くいかないだろうという事をズープに言って欲しかったのだ。シニタクナケレバシズカニシテクダサイの紙片に目をやりステンレスの皿に目を移す。そうしてもう一度隙間に座るズープに言う。
「じゃあやっぱりあの子達に気付いてもらうしかないわけだよね。声を出さずに」
「それが一番現実的だとアタシは思うわ」
それが一番現実的だとアタシは思うわ、と幻覚が言った。
思っているのは私だ。
「もう投げるものなんて何もないよ」
「気付いてもらう方法は他にもあるわよ」
そう鳴ってズープは空中に浮かび、ひび割れた隙間を蹴飛ばした。
私は立ち上がり、ステンレスの皿を拾って壁の隙間に駆け寄る。
「上手くやれば隙間を広げられるかもしれない」
「希望の炎が点いたってわけね」
「希望の蝋が注ぎ足されたんでしょ」
結局、一晩かけてコンクリートの欠片が三個出来ただけだった。隙間はほとんど広がらず、腕でも出して手を振ろうという考えは実現しない。コンクリートを削る音は奴には聞こえなかったのか、聞こえたものの殺すほどではないという考えなのか。とにかく私は生きている、まだ。
「昨日の小枝みたいに、あの少年達に向けて弾き飛ばすしかないのよね。そうして貴女の存在に気付いてもらう。その後はどうするかしら、あの子達。人を呼ぶの? 通報するの? もしかしたら気付いたうえで何もしないのかもしれないもの。頭のおかしな女の子がいると気味悪がるだけで、あの子達の秘密になってしまうかもよ。でもそもそも今日もあの子達が来るとも限らないわけよね。何たって昨日の昨日まで来なかったのだから、昨日だけたまたまここに来たのかもしれない。昨日突然何となく兎を追いかけたくなったのかもしれない」
ズープは思いのほかしょげているようだ。上手くいけばこの隙間から脱出する事もできるかもしれない、と最初の内は思っていたものだから。思いのほかコンクリートは手強かった。
「待つしかないよ」
「何を? 奇跡?」
「希望でしょ」
かくして希望はもう一度現れる。朝方から昼過ぎまで冷たく乾いた壁にへばりつき、隙間を覗き続けた。諦めるにはまだ早かったが粘る気力が小さく萎み始めていた頃、彼らはもう一度原っぱに現れた。昨日同様に十分に厚着をし、相撲だか鬼ごっこだか分からないが取っ組み合いをしている。兎の姿はどこにもない。
「さあ、よく狙うの。当たらなくてもあの子達の視界に入れば気付いてもらえるはずなのよ」
そもそもこの高さからコンクリートの破片など当てたら大けがをするのではないだろうか。
「それは、そうだけど、スズコの命がかかっているのよ。背に腹は代えられないわ。誰も貴女を責めたりしないわ」
腹を決め、コンクリート片を隙間に設置する。当たる事を、当たったとしても打ちどころが悪くならない事を願って狙いを定める。中指をめいっぱい撓らせ、勢い良く弾く。コンクリート片は大きく弧を描いて原っぱに落ちる。少年達の視界にすら入らなかったようだ。誰も気付かない。
心を落ち着かせ、次のコンクリート片を設置する。放つがこれも外れる。そしてやはり視界にすら入っていない。
三つ目。これを外せば後はない。もうこれ以上隙間から削れそうなコンクリート片はない。声を出さずに助けを呼ぶ手段を失う。その時は一か八か大声を出して、助けを呼んで、奴に聞かれて、それで。
「スズコ。待って」
隙間から離れて床に立つズープを見下ろす。
「大丈夫。落ち着くまでちょっと待って」
「そうじゃないわ。少年達がどこかへ行ってるんじゃない? 声が聞こえないわ」
最後のコンクリート片を握りしめ、隙間を覗くと確かにその通りだった。だけどまだ帰ってはいないようだ。上着やマフラーが散らばっているし、遠くにはしゃぎ声が聞こえる。もしかしたらこの建物の中に入ろうとしているのかもしれない。奴に見つかったらどうしよう。もし捕まったら。もし殺されたら。
もしそうなれば、彼らは地元の子供達だ、心配した親達がここへ来るのではないだろうか。
「黙って! それは私の考えじゃない!」
「私は何も言ってないのよ」
顔を覆ってうずくまる。何もかも無かった事にならないだろうか。
「スズコ!」
「うるさい!」
「戻って来たわよ! 早く!」
隙間に飛びつく。コンクリート片を設置する、はずだった。勢い余ってコンクリート片は転がり落ちた、壁の向こう側へ。
声にならない声が喉の奥から絶望と共に吐き出された。全身から力が抜けて、その場に崩れ落ちる。寝ていなかったせいもあるだろう。意識が、光が、音が遠のいてゆく。
唐突に目が覚め、意識が一気にクリアになる。隙間のある壁に寄り掛かるように眠っていたようだ。ボロ毛布すらまとわなかったせいか、全身が冷えている。頭がぼうっとして熱っぽい。風邪をひいたかもしれない。どす黒い絶望が胃の下の辺りにまだ溜まっているのを感じた。
腹の虫が大騒ぎしている。ズープも大騒ぎしている。皿を外に出していないままだ。そうしないと次の食事が貰えない事はここに攫われた次の日の晩に分かった。慌てて二枚の皿を扉の穴から外に押し出す。
間に合ったのだろうか。この部屋で時を知る術はない。自称妖精も何の役にも立たない。
「星さえ見えればおおよその時刻くらい分かるのだけどね」
「そう、星を見ただけで? それって凄い。じゃあ鉄格子の所まで行って星を見てきてよ」
「曇ってたわ」
「そうだろうね」
長い長い時間だ。部屋に澱む冷たい空気が肌にこびりつく。
もしかしたら今日は何も食べられないかもしれないという緊張感が空腹感をどこかへ追いやってしまった。眠気はどこにもない。
フクロウの鳴き声が遠くに聞こえ、ズープの羽音が聞こえ、足音が聞こえた。奴の足音だ。
冷たく硬質の足音が近づくと、私は息を止めてしまう。
足音は扉の前で立ち止まり、皿を取り、また去っていく。
「間に合ったようね」
「お陰さまで」
「突っかかるわね。苛立つのは仕方ないけど、冷静さを欠けば助かるものも助からなくてよ」
「ご忠告ありがとう。あんたの声を聞かずに済むならそれもいいかもね」
ズープはため息をついた。正確にはため息のような羽音を鳴らした。より正確には私がため息のような幻聴を聞いたのだ。
奴が戻ってきた。扉の前に皿を置いて戻って行く。食パンは一枚しかなかったが何とも思わなかった。二枚の皿を掴み、壁に寄りかかり、毛布でしっかり体をくるみ、少しずつ千切って食べる。ズープが隙間に座って翅を鳴らす。
「明日はどうするの?」
「もうこれ以上削れやしないわ。もうあの子達に向かって弾き飛ばす物はない。明日は声を出して助けを呼ぶ」
ズープは紙片を拾い上げて忌々しげに読み上げる。
「シニタクナケレバシズカニシテクダサイ。貴女死にたいの?」
「死にたくないよ。でもいつまでここにいればいいの? 今私は生きていると言える?」
「死んでしまえば後悔もできないわ」
「でも他に方法なんてないでしょ? 音以外にあの隙間を通り抜けられるものがある? ああ、あった。その紙切れ。丸めたら少しくらい飛ぶかもね。そしたらきっと気付いてくれる! コンクリートにすら気付かないあの子たちなら簡単に気付くはずだよね!」
「大きな声を出しちゃダメでしょ!」
「私たちの会話は私たちにしか聞こえないよ! あんたは幻覚なんだから! 私の絶望と孤独を誤魔化す為の、その為に……私は」
私は歯に話しかけていた。いつの間にか抜けた奥歯を会話相手にして孤独を紛らわせていたのだ。
「最後に一回だけアタシを、あなたの奥歯を投げてみましょう。それが駄目だったら、その時こそ声を出して助けを呼びましょうよ」
「うん」
ズープが改めて紙切れを眺める。シニタクナケレバシズカニシテクダサイ。奴の唯一のメッセージ。
「そうよ。この紙切れを巻きつけるというのはどう? 異常を伝える事ができるんじゃなくって?」
「良いかもしれない。でも変な勘違いされそうだよ。そうだ。ちょっと貸して」
ズープに手渡された紙片を引き裂く。
「ちょっと!」
「いいから見てて」
慎重に引き裂き、四つの紙片を取り出す。そうして床に並べる。
「タ。ス。ケ。テ。なるほどね。これを巻きつけて投げるのよね。気づきさえすればほぼ確実じゃない。素晴らしいわ」
「うん。後は明日も来てくれる事を祈るだけだね」
「ええ。もう寝ましょう」
「うん」
丸く寝転がり、出来るだけ冷気が入り込まないように毛布に潜り込んで隙間をなくす。奥歯をぎゅっと握りしめ、闇の中で目を閉じた。
雪が積もっていた。凍傷になっていないのが不思議なくらいの寒さだ。顎が震えて舌を噛みそうになる。吐く息は牛乳のような濃い白さで視界を一瞬霞ませる。
「来ないかもしれないね」
「大丈夫よ。子供は風の子なんだから。むしろこんな雪の日こそ外で遊びたくなるというものよ」
そんなの男の子だけだと思う。
手に息を吐きかけながら隙間を覗く。原っぱは砂糖でもこぼしたように一面真っ白だ。
「これじゃあ地面に落ちた時見つけにくいね」
固くなった手を開くとそこには丸まった紙が乗っている。四つの紙が折り重なるようにして歯を包んでいるのだ。
「どちらも白いものね」
私は思いつきで手を隙間に打ち付ける。ズープが息を呑むように悲鳴を漏らす。がたがたになったコンクリートが私の右手に食い込み、血が滲む。
予想していたよりも痛みは小さかった。寒さで麻痺しているのだろう。
「無茶なことしないでよ」
血を出す方法が他に思いつかなかった。
「でも少しは目立ってくれるかもしれないでしょ」
血を絞り出して紙に塗りこむ。赤茶色の球ができた。
そうこうしている内に三度少年達が現れた。今日も今日とて雪の原っぱを飛び跳ねながら、雪合戦のような事を始めた。決まったルールがあるわけではないのだろう。雪で遊ぶのが楽しくて仕方がないという様子だ。
「少し落ち着くのを待った方が良いかな」
「でもあの子達が落ち着いているところなんて見たことないし、すぐに帰ってしまうかもしれないわ」
「よし」
覚悟を決めて、歯を隙間に設置する。寒さと緊張で震える指を抑え込みながら狙いを定める。
「幸運を祈るわ」
指を弾く。奥歯は空中で弧を描き、少年達の間に落ちた。しかし少年達の遊びには何の影響もないようだ。雪玉を投げ、突き飛ばし合い、飛び跳ねている。誰も気付きそうにない。
知らず知らず私は唇を噛む。
「気付いて」
ここからも茶色っぽい点が見えるような気がするけど、気のせいなのだろうか。
少年達は夢中で雪玉を投げている。
「やっぱり声を出すしかないのかな」
風が吹いてきた。ちらほら雪も混じっているようだ。
「ズープ?」
返事はなかった。この部屋には私しかいない。初めから、今まで。
歯と共に居なくなった。心のどこかでそんな予感もあったが、なんて融通の利かない幻覚なんだろう。でも孤独でいるのも今日が最後なんだ。
声を出して助けを呼べば奴に聞こえるかもしれない。でも、そんなのは可能性の話だ。いまここにいるかどうかだって分かりはしない。
もう一度隙間を覗き込み、少年達との距離を測る。最低限の声の大きさで助けを呼ぶ為だ。そうして隙間に口をあてがう。
「助けてください! 誰かに閉じ込められてます! 人を呼んでください!」
すかさず隙間を覗く。少年達は変わらず雪合戦に興じていた。聞こえなかった? そんな訳がない。もう一度より大きな声で同じ言葉を繰り返したが、少年達には全く届いていなかった。
全身から力が抜け、床にうずくまった。全身の僅かに残った熱と生気を床が吸い取っていく。
考えないようにしていた。今もそんな事は微塵も考えたくない。あの少年たちもまた孤独と死を恐れる惨めな私が生み出した幻覚だった。私が伸ばした指先の少し先でちらちらと揺れる幻の希望なんだ。
風の音が強くなった。耳を澄ます。もう少年達の声は聞こえない。徐々に意識が濁るのを感じる。体と心の間に薄い膜が張られるようだ。体の末端から気だるさが満ち充ちていく。遠くに足音が聞こえる。こちらへと近づく。部屋の前に立ち止まり、どんどんと扉を叩く。何故?
「誰かいる? 閉じ込められてるの?」
少年の声だ。
幻覚? 現実? 何で? どうして?
もう起き上がれない。視線を扉に向ける。とにかく声を出さないと。
「ここにいます! 助けて!」
「ここじゃないのかな?」
「一階かも」
聞こえてない? でも幻覚じゃない。私の方が幻覚に話すようにズープと話すように喋っていたんだ。本物の声で本当の言葉で話さなければいけない。言葉の代わりに呻き声が出た。
「うわ! やっぱり人がいる!」
少しずつ言葉を絞り出す。
「どうして、分かったの?」
「女の人?」「助けてってメッセージ読んだよ!」「ちょっとビビったけど」
「私を、閉じ込めた人、いなかったの?」
「ううん」「昼間にここで人を見かけた事はないよ?」「今、開けるから、ちょっと待っててね」
「それなら、いいんだけど」
奴と少年達はずっと入れ違いだったのか。
凍りついたように縮こまる筋肉を酷使し、上半身を起こす。
錆び付いているのだろう。ぎしぎしと軋みながら扉が開く。
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