真実の部屋
江藤恵一――二十四歳、某私立大卒社会人二年目、彼女いない歴二日――は、ひどく酔っ払っていた。五年付き合った彼女に振られてから、この二日酒を飲まずにはいられなかった。
今でも先刻の事のように鮮明に思い出せるその別れは実に唐突だった。
恵一とはもう一緒にいられない。
彼女から告げられたのはその一言だった。それ以上に追及しても、彼女はただ泣きながら、壊れたレコードのように「ごめんね」の一言を繰り返すばかりだった。
恵一は深い溜息を吐き出し、虚ろな目で賑わう夜の繁華街を見る。馬鹿に盛り上がる大学生の集団、愚痴を言い合う自分と同じような若いサラリーマン、派手な女に手を引かれて歩く中年の男。無駄に華美なネオンに、行き交う車の列。夜の街は恵一をその風景の一部にして、今日も平常運転を続けていた。
過度に摂取したアルコールの影響で胸が苦しくなった恵一はネクタイを緩め、シャツを第三ボタンまで開く。胸元に生温い風が吹き込んできた。
しかし、明日が休暇だという事もあり、恵一は潰れるまで飲んでしまおうと次の店を探した。
少し歩いて視界に入ってきたのは雑居ビルの地下へと続く階段。そして繁華街の煌びやかなネオンのなかにひっそりと立つ古ぼけた階段だった。
〈真実の部屋〉
それが店の名前なのだろう。その上に『BAR』の文字が刻まれている。
こんな店、前からあったかな、と思いつつも恵一の足はその階段へと引き込まれるように進んでいた。
薄明かりに照らされた石の階段を下りる。革靴が石の階段を踏む度に、固い音が反響した。
十段程度の階段を下りたところに、黒い扉があった。中の様子が全く見えない黒塗りの扉には〈OPEN〉と書かれた小さなプレートが下げられているだけだった。
恵一はその黒塗りの扉を見詰めながらドアノブに手をかける。扉は彼を誘うように、すっと開いた。
少し緊張しながら店内に入ると、静かで幽玄なジャズが鼓膜を優しく揺らした。間接照明に照らされた店内には数人の客がいて、一人で来ていると思しき客はカウンター席に座ってグラスを傾けていた。恵一もそれに倣いカウンター席に腰を下ろす。
すると、すぐにマスターと思しき男が恵一の前へ歩み寄り、声をかけてきた。
「いらっしゃいませ。真実の部屋へようこそ。初めて……ですよね?」
随分若い男だ。恵一は自分と同じくらいの年齢だろうと、推測した。その割に妙に落ちついた雰囲気を纏う男だったが、彼は一人でこの店を営んでいるのだろうか。他に店員らしき人物は見当たらない。
「ええ、初めてです。もしかして一見だと……」
「いいえ、そんなことはありませんよ」
青年マスターは爽やかな笑顔を見せた。風貌と反して声は意外に低く、深みがあった。そして、その声でこう続ける。
「ただ、説明しておくことがありましてね。……ああ、その前にお飲み物はいかがいたしましょうか?」
「では、ウィスキーをロックで」
「かしこまりました」
青年マスターは軽く頭を下げると、カウンターの奥にある棚から見たことのないボトルのウィスキーを取り出し、氷の入ったロックグラスにそれを注ぎ、恵一の前へ出した。
透き通った茶色の液体は、間接照明の光を受けて静かに輝く。鼻孔を抜ける匂いが心を落ちつかせた。
ゆっくりとグラスを持ち上げた恵一は、そのウィスキーを口に運ぶ。喉を通り抜ける熱はやがて胃にすとん、と落ち、その熱は頭の先から外へと抜けていく。
「うん、おいしいですね」
「ありがとうございます」
「ところで、説明、というのは……?」
恵一が訊ねると、青年マスターは、
「いえ、簡単な事なのですが、当店には一つルールがありまして、お客様にもそれを守って頂きたいのです」
「ルール、ですか……?」
やはり、こういった隠れ家的な店には独自のルールのようなものがあるのだろう。まだ社会に出て日の浅い恵一はその辺りの事に詳しくはなかった。
静かで落ち着いた雰囲気の店なので、騒がないように、という事だろうか。それとも、注文についてのルールがあるのだろうか。例えば、必ず飲み物以外の一品を頼むとか……。
恵一がそうして思考を巡らせていると、青年マスターは数センチだけ顔を近付けた。花に似た香りが鼻孔を刺激する。
青年マスターは静かに口を開く。
「当店では嘘を禁じています」
紡がれたのは全く予想していなかった言葉だった。
「嘘を……禁じて……?」
「ええ、ただ、それだけを守って頂きたいのです。夜の街には欺瞞が溢れていますが……当店ではお客様に本当の自分でいて頂きたいのです」
「なるほど……わかりました」
恵一はどうにかその説明を飲み込み、ぎこちなく頷いた。再び口に運んだウィスキーが疑問を溶かして胃に流れ込んでいく。
青年マスターは笑顔のまま一礼すると、他の客の元へ向かった。
不思議なルールだ、と恵一は率直に思った。嘘を禁じる、と言っても話した事が嘘であるかどうかなどわからないだろう。例えば、身分を隠したい人物がいたとして、その人物はただこれだけのやりとりで本当の事を話すとは到底思えない。
結局は、そういう心持ちで、という事なのだろう。
確かに、それは理想だ。仕事でも、人付き合いでも、そして――彼女にも、嘘をついてきた。また、嘘をつかれる事も数えきれないほどあった。それは見栄を張っての事であれ、潤滑に物事を進める為であれ、やはり気持ちのいいものではない。
恵一は苦笑いを浮かべながら、胸ポケットから煙草のケースを取り出す。そして、一本抜き取り、口にくわえると、火力を強めにしたライターで火を点ける。空気と混じり合った煙草の煙は恵一の口からゆっくりと吐き出された。
しかし、少しむせてしまう。久々の煙草は肺を圧迫した。
思い返せば、彼女に止められて、禁煙に成功してから一年半も過ぎていた。それももう意味はないのだ。
フィルターを噛みながらもう一度煙草を吸う。火種が煌々と輝き、煙が立ち昇る。少しだけ乱暴に飲んだウィスキーは口のなかで煙草の煙と溶け合って、体に染み込んでいった。
グラスが空になると、すぐに青年マスターが近寄って来たので「もう一杯、同じものを」と頼むと、すぐに新たなグラスが差し出された。
恵一は二杯目のウィスキーを飲みながら、ふと他の客の方へ視線を移した。
ボックス席には上司と部下と思しき二人の男が座っており、何やら熱く言葉を交わしていた。耳を傾けると、店内に淡く響くジャズの音色の上に重なるようにその二人の会話が聞こえる。
「だから、いまのやりかたは間違ってるんですよ!」
若手が身を乗り出して語る。かなり酔っているのだろうか、呂律が怪しい。
なるほど、そういう意味ではこの場所では嘘がないのかもしれない、と恵一は薄い笑みを口元に浮かべた。
「何が間違ってるんだ?」
上司の方は割と冷静なように見える。
「僕ら現場の意見が何も反映されないじゃないですか! これじゃあ、どんなに営業回っても一緒ですよ」
「それは、私も思っていたよ」
「ですよね!? こんな会社の為に働いてるなんて馬鹿馬鹿しくなりますよ! まったく……」
そう言って若手はグラスに入っていた酒を飲み干した。
その様子を見ていた恵一は半ば呆れながら溜息をつく。
――馬鹿だなあ。お前のその言葉が更に上の人に伝わるかもしれないのに。
熱く語る若手と同じくらいの年齢である恵一だったが、彼はしっかりと処世術というものを心得ていた。愚痴を言うのは打ち解ける意味ではいいのかもしれないが、それがもし外に漏れたとしても問題にならない事を言うべきなのだ、と恵一は考える。リスクはできるだけ少なくしておくに越したことはない。
しかし、そんな慎重派の恵一の予想とは反して、その二人の会話はさらに熱を帯びる。
「そうだよなあ、あの馬鹿社長、ドラ息子なんかを重役にしちまって……ああ、入る会社を間違えたな」
上司の方も若手の会話に乗り始める。
案外、二人は言い関係なのかもしれない。おそらく、こんなところで愚痴を言い合っている事から考えると、出世街道からは逸れてしまっているのだろうが。
それから、堰を切ったように二人の会社批判はヒートアップしていった。
その二人の声と対極の位置にあるような静かなジャズを聴きながら、恵一はゆっくりと酒を飲み、結局、終電近くの時間まで飲んでしまってから、会計を済ませた。
「また来ます」
最後にそう言い残すと、
「お待ちしております」
青年マスターは爽やかな笑顔で恵一を見送った。
以来、恵一は『真実の部屋』へとよく足を運ぶようになった。
落ちついた店の雰囲気も、他の店では味わえない酒の味も、不思議と本音を話す周りの客達も、全てがおもしろい体験だった。
そして、今日も恵一はお決まりになったカウンター席に座る。すっかりこの場所が落ちつくようになっていた。
「いらっしゃいませ、江藤様」
たったの数週間ですっかり常連になってた恵一は青年マスターに名前を覚えられていた。
しかし恵一はこのマスターの名前を知らない。だが、それでいいと思っていた。自分は名前を名乗ったが、彼には訊ねていないからだ。この不思議な店にはそんな素性の知れないマスターが似合う。
「とりあえず――」
「ウィスキー、ロックでよろしいでしょうか?」
「ええ」
注文をする必要もなかった。恵一はこの店のウィスキーの味を好み、いつも決まって最初にそれを頼むことを不文律としていた。
運ばれてきたウィスキーを一口飲むと、恵一は店内を見渡しながら青年マスターに話しかけた。
「今日は混んでますね」
「ええ、ありがたいことに」
元々、席は少なく、すぐに満員になってしまいそうなこの店は、しかしそうなる事はなかった。華やかな繁華街に埋もれてしまっているこの店に辿り着くのは、言ってみれば運命的な出会いだ。一度調べてみたが、最近の店にしては珍しくホームページすらなかった。
そんな隠れ家的な要素も恵一が気にいった理由なのだが。
「お一人で大変じゃないですか?」
「ええ、忙しくさせていただいております」
「店員を雇ったりは?」
「なにぶん、厳しい経営状況でして……。それに、私はみなさんと直接関わりたいのですよ」
「ああ、なるほど」
「ご心配をありがとうございます。しかし大丈夫ですよ。私一人でも対応出来る人数になるように席の数を決めておりますから」
「そうですか」
そんな短いやりとりを終えると、彼は追加で注文を入れる客の元へ向かった。
確かに、店全体を見回してみても、せいぜい一杯になって二十人くらいだ。ここではあまりハイペースで酒を煽るような客もいないので、それで成立しているのだろう。
余計な心配か、とかぶりを振った恵一は、煙草を燻らせながら少しずつウィスキーを飲んでいた。
そうして、ゆっくりとウィスキーを飲み終えた恵一が二杯目を注文した後に、
「相席、いいですか?」
女性の声が聞こえた。
「ええ」
恵一はグラスを見ながら答えた。
しかし、ふとその声に引っ掛かりを覚えた恵一はグラスをカウンターに置いて、隣を見た。
「……恭子……?」
そこにいたのは、初めてこの店に訪れた少し前まで付き合っていた彼女だった。
「やっぱり、恵一だ」
恭子は柔らかい笑みを浮かべた。何十回――いや、何百回と見てきた笑顔だった。
恵一のなかで止まっていた時計の針がゆっくりと動き始める。そして、色を失っていた記憶は少しずつ絵の具を重ねるように色を取り戻していく。
「どうして、ここに?」
「何日か前に恵一がこの店に入っていくのを見たの。それで、もしかしたら、いるかな、と思って」
「そう、か」
会話はそこで途切れ、気まずい沈黙の時間が流れる。
恵一は重苦しい空気を押し流すようにウィスキーを煽った。
その会話の間隙を縫って青年マスターが恭子に注文を訊ねにきた。恭子はグリーン・アイズというカクテルを注文した。よくよく思い返せば、彼女とバーを訪れたのは付き合いたての頃くらいで、特に社会人になってからは皆無になっていた。
恵一はそのカクテルがどんなものか知らなかったが、別れてから初めて彼女の新たな一面を知った。素直に、そういうものを頼むのだな、と思った。
恭子の前に冷気を纏ったグラスが静かに置かれる。甘い香りのするエメラルドのような透き通った緑色の輝きを持つカクテルだった。
恭子は一口そのカクテルを飲み、再び口を開いた。
「恵一って、こういうお店好きだったんだ」
「……まあな」
お前と別れてから酒に溺れて、その流れでたまたま来ただけなんだよ、とは言えない。代わりに他愛もない事を言ってみる。
「最近どうだ? 元気にやってんのか?」
「ぼちぼち、かな」
恭子は誤魔化すように笑った。
別れる事を決めた翌日には二人で暮らしていた部屋を出て、実家に帰った彼女のそれからを恵一は全く知らない。突然で申し訳ないからと、恵一が新居を見付けるまで家賃の半分は払うとは言われたが、そんな事は恵一にとってさして重要ではなかった。
彼女が去った部屋はとても広く感じた。いまだにいくつか置かれたままになっている彼女の物もまるで色を失ったかのように、部屋にぽつりぽつりと点在している。
またしても訪れた沈黙のさなか、恵一はウィスキーを少しずつ飲みながら、恭子に気付かれないように彼女の顔を何度か見た。少しだけ頬がこけている。ずっと見てきたから僅かな変化でも手に取るようにわかった。彼女は――落ち込んでいる。
「フられたのか?」
「……? どういうこと?」
そんな事を言うつもりはなかった。しかし、アルコールに侵された頭が暴走を始めたのか、久々に彼女に会って冷静でいられなかったからか、意思と反して口は妙に滑らかに言葉を紡いだ。
「新しい男でも見付けたから、俺と別れたんだろ? で、結局その男とは上手くいかなかった、ってところだろ?」
最悪だ。どうしてこんな事を言ってしまうのか、自分でもわからなかった。
本当に言いたい事はそんなものではなかったのに。
恭子は手に持っていたグラスを乱暴にカウンターの上に置く。なかに入っていた緑色の液体が跳ね、間接照明に照らされながら宙を舞った。
「なんでそんな事言うの!? 私は……私は……」
恭子は目に涙を浮かべる。
しかし恵一はもう後には戻れないとばかりに、間違っていると気付きながらもさらに強い言葉を重ねてしまった。
「だってそうだろ? 急に、理由も告げずに! 本当の事を言ったら自分が卑しい人間みたいに映るのが嫌だったんだ。そうに決まってる」
恵一は言い切るとウィスキーを一気に飲み干した。
店内を包むジャズの音が少しだけ大きくなった気がする。軽快な4ビートのドラムスに弾けるようなピアノの音が重なり、どこか荒々しくも心が軋むような音色を轟かせる。
「……わかった」
顔をあげた恭子の頬には一筋の涙の跡が光る。そして、震える声で言った。
「私……恵一に夢を追い続けてほしかったの」
「夢……?」
「恵一、すごい絵が上手くて、付き合いたての頃はよく私に見せてくれたよね? でも、お互い社会人になるって事を意識して、恵一も普通に就職して、いつしかそんなことを忘れたみたいに……。本当は恵一が漫画家になりたいって思ってたの知ってるんだよ」
「えっ? でも……」
「直接、言葉にしなくてもわかるよ。だって……恵一の事大好きだもん。ずっと見てきたんだもん」
恭子は涙を流しながら笑顔を作った。ずっと愛してきた人の美しくも悲しい笑顔だった。
店内に流れるジャズは転調し、静かで幽玄な音色を奏でる。その上に重なる恭子の声のピッチは小刻みに揺れる。
「私のせいで恵一が夢を諦めるなんて……嫌だったの。恵一は、優しいから。私の為に夢を忘れようと必死になって、苦しんでるの見たくなかったの。私の両親が厳しいから、絶対にそんな事じゃ……結婚を認めてもらえないから、って」
紡がれた言葉は優しくも悲しい事実だった。
恵一は空になったグラスを見詰めながら暫し黙りこみ、そしてゆっくりと口を開いた。
「……ごめん、恭子。そんな思いをさせてたなんて知らなかったんだ。俺は……何も気づけてなかったんだな。俺は恭子の為に夢を諦めたんだ、って自分に言い聞かせたかっただけなんだ。本当は自信がなかっただけなのに」
「私も……逃げてた。本当はいまの生活が壊れるのが怖かったのかもしれない」
「なんだ、俺達、まだまだお互いの事を知らなかったんだな」
「うん、五年も付き合ってたのにな」
二人は顔を見合わせて笑う。小さい笑いが次第に大きくなり、その声は重なり合って楽しげな音色を生みだした。
「ねえ、恵一?」
「ん?」
「じゃあ、逃げようか、二人で」
「えっ! でも……」
「もう、私も吹っ切れたよ。両親にはいつかわかってもらえればいい。二人で見返そうよ」
「……いいのか?」
恭子は笑顔で頷く。
「……ありがとう」
恵一はカウンターの上に置かれた恭子の手に自分の手を重ねた。そこから伝わる温かさは全身を包み、心の靄を晴らしていった。
会話が途切れ、ただ見詰めあうだけの時間がどのくらい続いただろうか。二人にとっては長い時間だったが、実際は数秒だけだったのかもしれない。
そこで頃合いを見計らったかのように青年マスターが二人の前にきた。
「お飲み物はいかがいたしましょうか?」
手を重ね合っていた二人は少し照れたように笑い、そして頷く。
「お会計おねがいします」
と恵一が言うと、青年マスターは「かしこまりました」と言って領収書をカウンターの上に置く。二人はそれぞれ会計を済ませると、寄り添い合って店を出た。そんな二人の手は絶対に離さないという意志を表しているかのようにきつく結ばれていた。
二人のグラスを下げた青年マスターは、入れ替わりで入ってきた男性客の前に立ち、美しいテノールで言う。
「いらっしゃいませ、真実の部屋へようこそ」