コーラを頼む喫茶店
通いつめた喫茶店で飲むのはいつもコーラだ。
喫茶店なのにコーラ、と友人にはいつも言われる。会社の同僚と初めてランチをしたときも、食後のコーラに随分と難癖をつけられた。お腹が満たされた上にコーラは苦しいけど、またそれが堪らないのに。
なぜコーラなのかと聞かれたときは困った。その時まで私にとって、コーラというのはあって当然だったし、子供の時分からの付き合いだったからだ。当たり前のことをなぜと聞かれるのは、幼少の少年少女になぜかと聞かれるのと同じなのだ。
喫茶店がコーヒーを飲む所、という概念は分かってはいても、私にとっては瓶に入ったコーラが飲める場所程度の認識だ。
認識がそうでも、結局私は右に倣えの日本人。一応、喫茶店でのコーヒー体験は済ませている。
そのときのことを思い出すと、まず出てくるのがあの苦さ。私は小さいころから甘いものは大好きだけど、苦いのはどうにも苦手だ。コーヒーの苦さを侮っていた、いやむしろ私はコーヒーをコーラと間違えたのではないかと今では思う。
もちろん、メニューを見てコーヒーとコーラという表記を間違えるはずもない。一文字目だけで思い込んで頼むなんてことはしないし、コーラを頼むときは格好つけて「いつもの」と言うのがルーチンだ。
私がコーヒーを頼んだのは人に勧められたからに他ならない。
別に一度コーヒーを飲まされた程度でその人を恨みはしないけれど、今でも嫌味を言うときには冗談半分で「私にコーヒーを飲ませたんだから」と言ったりする。
我ながら、馴染みの喫茶店員にする行為としては大人気ないと思う。
その店員さんはいつも、爽やかな笑顔と爽やかな挨拶をくれる。そうして、「ご注文は?」と聞く。私が得意げに「いつもの」と言うと小ばかにしてくる、見た目年下の男性店員。
彼の名前は、ヤマトというそうだ。
いつも店主さんやキッチンから、「ヤマトくん、よろしく」とか、「ヤマトくん、レジお願い」とか言われているからいやでも覚えた。コーヒーを頼まされてからは、「ヤマトクン、お会計頼めるかしら」と店主さんの真似ごとをして言ってやる。それもあって、私の中のヤマトという人物像は彼に固定された。
今日のランチの時間にも会社から喫茶店まで出向いた。
「ヤマトくん、お会計頼める?」といつも通り頼むと、
「はい、よろこんで!」と居酒屋でもないのに、喜ばれた。
レジ打ちをするヤマトくんと暫しの談笑をして店を出たのも、いつも通り。
店主さんとも談笑はするけど、ヤマトくんほどでもない。年が近いからだろうか、話に花が咲きやすいからだろうけれど。
会社に戻って、仕事をして、今は午後の四時くらい。
私は花も恥らう女子高生時代を商業高校で消化しているので、簿記の資格を持っていたりする。卒業してから短大に行ったり専門学校に行く手もあったけれど、それを拒んで就職した。それから何年か経って成人して今に至るまで、所謂中小企業の事務をしている。
慣れてしまえば楽な仕事なので、今となっては終業時間を待ちながら休み休みできるようにもなった。そして終業はもうすぐだった。
約一時間が経つと終業のチャイムが鳴った。
冗談めかして仕事の愚痴を言うおじ様方に、お疲れ様です、と挨拶をして事務所を出た。
朝から雲がかかっていた空は、日暮れが近いこともあってか暗かった。借りているアパートまで徒歩で帰るので、当然さほど遠いわけではない。けれど、洗濯物が湿気るのも困るので足早に帰ることにした。
天気予報を見て、持ってきておいた傘を事務所に置き忘れていたのに気づいたのは、雨が降り出してからだった。
丁度、いつもの喫茶店の手前に差し掛かったときだったのが不幸中の幸い。私は喫茶店で雨宿りすることにした。
するとヤマトくんが変わらぬ調子で歓迎の挨拶をしてきた。
「いらっしゃいませー……ってあれ、紗英さんじゃないですか。珍しいですね、夕方にくるなんて」
「まぁね。この雨じゃ帰るにも帰れなくって」
私が窓から外を覗くそぶりを見せると、ヤマトくんは外を見て、「すごい雨ですね」と言った。
「なるほどこれじゃ帰れない訳ですねぇ」
「洗濯物もあるのに、困っちゃうわ」
私の言葉にヤマトくんは、洗濯物、と意地悪い笑みを浮かべて反応した。
「コーラで洗濯物を洗ったりしてませんかね?べたべたになりますよ」
「洗うわけ無いでしょ、失礼ね。私だってそのくらいの分別はつくの。いい大人なのよこれでも」
こんな軽口を叩けるくらいの仲だ。彼もそれを知っているから、最近ではコーラで私をバカにしてくる。
単にこうして軽口を叩いているのも楽しいけれど、営業妨害ではヤマトくんとしても邪魔だろう。
いつもの、と頼むとヤマトくんは、よろこんで!と言った。
すぐに出てきたコーラを飲む頃には、雨は止んでいた。
……そうなることはなかった。未だに止まない雨は迷惑なほどに私をここへ引きとめようとする。
別にここに留まったって構わないけれど、今は洗濯物が心配。
するとヤマトくんがどこからか傘を持ってきた。
「はい、これを使ってください。大事なお客様に風邪をひかれては商売あがったりですから」
濁った無色のビニール傘を受け取る。
「こんなサービス、他にはないわね。これからも贔屓にさせてもらうから、覚悟しなさいよ?」
「はい、よろこんで」
返事はまたしても居酒屋だった。
翌日、ランチを食べに行くとヤマトくんはいなかった。
店主さんに聞くところによれば、風邪をひいたらしい。
もしかすると昨日の雨のせいだろうかと思った。だとしたら悪いことをしたなぁ、とコーラを飲みながら思った。
その翌日にはヤマトくんは何食わぬ顔で接客をしていた。閑古鳥が鳴くほどと言うと失礼だけど、流行っている店でもないので、大抵は私とか、常連さんにしか接客はしていない。なので隙を見て傘の件を詫びると、なんのことですか、と返された。覚えていないわけでもあるまい、とぼけるのはきっと風邪をひいたのが雨で冷えたからだろう。
私はヤマトくんの紳士的な対応に感動した。そうして、接する姿を目で追うようになった。以前よりも、意識的に。
数日が経つ頃には自分が彼のことを意識していることに気づいていた。ベタな話だ。ドラマチックになれない自分がやけに情けなかったりもしたけれど、そんな乙女心は捨て置いてもいいものだった。
あぁ私って恋してるんだなぁ……、なんて感慨にふけるほどには、私は恋愛には無頓着だった。
そんな私に、ヤマトくんが恋愛相談を持ちかけてきた。
内心では、まさかと期待していた。期待通りの話ではなかった。
私がヤマトくんに恋心を抱いているだなんて知りもしないだろうから、私はヤマトくんを責めたりできなかった。けれど、お腹の中がむず痒くなるような複雑な思いを抑えたりはできなかった。
ヤマトくんは、数日前に告白されたらしい。そう聞いただけでも、むず痒さが胸を締め付ける痛みに変わった。わずかに私は苦しんだ。
もしかすると、身体のなかに長細い虫でもすんでいやしないかと思った。ギョウチュウを連想して吐き気がした。そうでなくても胃がきゅんと痛かった。
でも、日頃お世話になっているので、と時折悩みを聞くことにした。
なんでも、ヤマトくんは結構おモテになるそうだ。そうして告白されるたびに私に相談を持ちかけてくる。
何度か本気でビンタをお見舞いしてあげようかと思ったときもあった。
けれどそんな勇気はなかった。まぁか弱い女の子だしと我慢した。自己暗示の内容が負け惜しみくさかった。
そうして自分を抑えているうちに、私はどんどん辛くなった。
仕事中に憂鬱になることが多くなった。家でもため息をつきやすくなった。少しずつ、苛立ちが募っていることに気がついた。
理不尽だと分かっている。けれど、そうなってしまうのは必然だったのかもしれない。そんな必然を受け入れてしまうことがいやだった。そうなってしまったからには仕方が無いけど。
我慢の限界が来た。
我慢の限界、ではなかったかもしれない。けれど、ヤマトくんが話しているときにこぼしてしまった。
「そんなに相談してきて、バカにしてるの?」
小さな声でそうつぶやいてしまった。
心にも無かったわけではない。少なからず思っていたから出たわけだし。
それが聞こえてしまったヤマトくんの表情は、情けなかった。呆然としているようで、口元はゆがんでいて、目には力がなかった。
ヤマトくんはそのまま、私に謝った。失言をした自分を恨んだけれど、私が謝るのは癪にさわるのでしなかった。
そうして、彼とは疎遠になった。
私はランチをやめて弁当を作るようになった。女性としてはいい方向に進んでいるはずなのに、弁当を作るときにはまったく気が進まなかった。
朝、弁当箱を手にするときにはいつも、ヤマトくんの顔が浮かんだ。料理をしている間は、彼の情けない顔が頭から離れなかった。
あまりにも私も情けない顔になっていたのだろう。職場にいる唯一の同期、コーラに難癖をつけた友人に声をかけられた。
「大丈夫?最近元気ないよ?」
見かねて声をかけてくれたようだ。
私は大丈夫、と言った。自分でも、声に力がないことは分かった。
「悩み?恋の悩みかしら?まだ紗英さんは若いからねぇ」
恋と聞いて思わず彼女のほうを見てしまった。その反応を見て確信を得たようで、彼女は饒舌に話し始めた。
「これでもあたし、若い頃にはモッテモテだったのよ?恋の悩みならあたしに任せないさいな!」
勢いに押されて私は吐露した。
すると先輩は、呆れたような顔をした。
「それは紗英ちゃんが悪いわね。全面的に、紗英ちゃんが悪いわ」
そんなことは分かっているのに、他人に言われると腹が立った。
「あんたは、そう言うけど、私だって、自分が悪いことくらい、分かってるの。でも今更どうもできませんよ。それに、私の気も知らないで相談を持ちかけてくるのだってどうかしてる!」
自分はなんて卑屈なんだろう。
「好きな相手が告白された話を何度も聞かされて、それで、冷静でいられる?自分だって伝えられてないのに!」
伝えられてない、私は、伝えていなかった。
彼女は、そうだよ、と私に優しく言った。
腹にすとんと何かが落ちた。
その日の夕方には、また雨が降り始めた。
私は事務所を出ると、ヤマトくんのことを思い出した。手には傘がなくて、私はため息をついた。
家まで走って帰ると、ビニール傘が私を出迎えた。
その場でビニール傘を睨み続けていた。雨音が耳を埋め尽くしている。
傘を通して見える床に水滴が落ちる。身体が冷えてきた。でも、私はそこから動こうとは思わなかった。
雨音が止んだ。
だんだん落ち着かなくなる。私が動き出さずにいられないことに気づくと、駆け出していた。
冷えた身体は徐々に熱を帯びてきた。私の熱は一歩踏み出すごとに増していた。
勢いよく扉を開くと、ベルが大きく揺れる。
「いつもの!」
私は声を重ねるようにそう言った。