嫉妬深い女の選別
桜が満開になろうかというある日、美津子が僕の勤める会社にやってきた。
黒目がちの大きな目を持つ美女という言葉が当てはまる彼女は、清楚な雰囲気をもっていて、社内ですぐに評判になった。
彼女は美しいばかりではなく、かなり頭の良い女だった。
独身男が多い会社というのもあって、彼女を射止めようとする男達はたくさんいたが、鉄壁の要塞の如く、男達の誘いを無視しているように見えた。
ある日、たまたま彼女に仕事を頼んだ僕は、彼女が僕の胸ポケットに視線を置いていることに気づいた。
「篠原さん、その万年筆は随分年期が入っていますね?」
僕は表面にかなり手垢がついた万年筆を取り出し答えた。
「あっ、これね。僕が小学生の時に父親からプレゼントされたものなんだ。すごく嬉しくてね、ずっと使い続けてるんだ。これからもずっと……かな」
なぜだろう…彼女の眼が鋭く光った気がした。
「篠原さんはとても物を大事にする人なんですね。一つのものをずっと……、これからもずっと……」
僕は照れ笑いをした。
すると、彼女は僕に一枚の紙を手渡した。
それには彼女の電話番号が書いてあった。
(嘘だろ?誰にもなびかなかった彼女が…僕に?)
会社で評判の美人で賢い彼女の電話番号をもらい、僕の心は加速した。
家に帰って早速彼女の家に電話をした。
「桜川でございます」
年老いた声の男性が丁寧な言葉で話しをする。
「美津子さん……おられますでしょうか?」
僕の心臓はバクバクしている。
「お嬢様でございますね。少々お持ちくださいまし」
たった数秒のやりとりで、彼女がどこかのお嬢様で、家には使用人がいるということがわかった。
きっとかなりのお金持ちのお嬢様なんだろう。
「美津子でございます。篠原さん……ですね?」
僕はお嬢様である彼女と話すということで、緊張して先ほどの年老いた老人のような言葉遣いになっていた。
「あ、はい。早速お電話してしまったことをお許しください。もし宜しかったら……日曜日に一緒に桜でも見にいきませんか?」
彼女は少し間を空けて、「嬉しく思います。喜んで御一緒させていただきます」と答えた。
それからというもの、僕と彼女は週末には一緒にどこかにでかけていた。
二人で会っている時には、彼女の言葉もだいぶ砕けてきて、彼女が僕に心を許してきているのを感じた。
会社では二人の関係は内緒にしていたが、すぐに社内に知れわたってしまった。
二人で映画に出かけたところを、おしゃべりなパートの女性に見つかったからだった。
「篠原さんと桜川さん、付き合ってるんだって!」
「美人をモノにしたのはあいつか!」
噂はかなり広まって、妬むような言葉もたびたび耳にするようになった。
仕事がやりにくくなる中で、さすがに何とかしないとな……と考えていた。
彼女とデートを重ねてから三ヵ月後、僕は彼女に「僕との付き合いを真剣に考えてくれないか?」と言った。
「篠原さんが私を……一生私だけを見つめ続けてくれるのなら」
彼女はそう言った。
ただ、僕の中では結婚という言葉を口に出さずにいた。
なぜなら、彼女はお嬢様という暮らしをしているのに、僕の稼ぎで将来やっていけるのかが不安だったから。
それでも僕は彼女との将来を考えていないわけではなかったので、「今までの君の暮らしと、僕の暮らしは大きく違う。僕はその暮らしの違いが君を不幸にするのではないかと心配だから、結婚を考える前に…どうだろう、少し一緒に暮らしてみないか?」という提案をした。
彼女は小さく「はい」と答えた。
翌週、僕は彼女の家に同棲の了解を得るために足を運んだ。
彼女の家は、竹が生い茂る中に大きな門をかまえる旧家といったお屋敷だった。
門を通ると、年老いた使用人が「いらっしゃいまし……」と出迎えた。
お屋敷の中に入ると真っ直ぐに伸びたは長い廊下があり、両側に部屋がいくつもあった。僕が通されたのは一番手前にあった障子の部屋だった。
畳の匂いが僕の肺の中に押し寄せてくる。
僕にしてみれば、それは「お金持ちの匂い」という感じに思えた。
障子が開き、地味な着物をきた中年女性が「ようこそお越しいただきました。美津子の母でございます。美津子から篠原さんのお話は聞いておりました」と挨拶をした。
部屋の中に彼女が入ると、「娘は……篠原さんのことを大変好いているようで、結婚を意識したお付き合いをしていると聞いております。一切の反対は御座いません」と話しを切り出した。
「ただ……」と母親が言葉をいいかけた時に、美津子が部屋に入ってきた。
「お母様、私は篠原さんと一緒に少しの期間生活を共にして…それから結婚という形をと考えています」母親は視線を娘の目に移した。
僕も母親が心配しているのではないかと思い、「僕は、真剣に彼女とのお付き合いを考えています。もし、結婚前に一緒に暮らすことを不安に思っているのでしたら、これを婚約と考えていただいて構いません」そういって、僕のありったけの貯金をはたいて買ったダイヤモンドの指輪を差し出した。
本当は、こんな旧家のお金持ちのお嬢様との婚約だったら、大勢の親族の下での結納やらパーティーが必要なんだろうと思っていた。
しかし、意外にも彼女が「私の家では、そういったことは行いません」と言ったのだ。
母親は、「娘を宜しくお願いいたします。娘だけを、見つめ続けてやってください」と言うと三つ指をついた。
僕は、あんな美人で賢い人と付き合えるだけでも幸せなのに、今や結婚を考えた同棲までできるという幸せに浮き足立っていた。
今から思うと、母親が言いかけた「ただ……」の先に続く言葉を僕は聞いておくべきだったんだと思う。
彼女は会社を辞めて、僕の家での二人の生活が始まった。
僕の住まいは、彼女のお屋敷とは比べ物にならない程小さいものだったが、彼女は何一つ文句を言わなかった。
会社では「お前やったなぁ、逆玉だなぁ」と皮肉のような言葉を浴びせられた。
もちろん僕は、どんなにアプローチされてもなびかない美人でお金持ちのお嬢様を得た優越感にこっそりと浸っていた。
二人で住み始めて一週間後、僕は久しぶりに本を読んでいた。
静かに時間をかけて休日を楽しみたかったし、二人でいたとしても個人の時間はやっぱり楽しみたい。
彼女が僕に何か話しかけたことが数回あったのだが、僕はその日すっかり本に夢中になっていた。
翌日、会社から帰ってきて本の続きを読もうと探したが、本が見つからない。
「ねぇ、昨日読みかけの本をここに置いたんだけど知らない?」と聞くと、彼女は僕の顔を見て泣き出した。
「どうしたの?何かあったの?」
彼女は涙声でこういった。
「だって、私が何度も篠原さんに話しかけたのに、私を見ることもないし、話しも全然聞いていないんですもの……、こうするしかなかったの」
そういってゴミ箱を僕の前に置いた。
中にはハサミで切り刻まれた本がばらばらになっていた。
正直、僕はびっくりした。
そんなことで、本をきりきざまないとならないのか?
ただ僕は、彼女が泣いていたというのもあって、「ごめん、ちゃんと話を聞くようにするよ」と彼女に謝ったのだった。
遅くても僕は、彼女がもつ狂気にその時気づくべきだったんだと思う。
僕には朝に鉢植えの花に水をあげる習慣があった。
「大きくなれよ」とそんな感じの言葉を鉢植えにかけたとのだと思う。
会社から戻ると、鉢植えは小さなベランダの上に投げ捨てられていた。
何も言わずに彼女の顔を見ると、「ごめんなさい。私、植物にあなたをとられてしまうと思ったの」と涙を見せながら僕を見つめた。
それからも僕は度々彼女の不自然な行動を目にすることになった。
夕飯の最中に会社から電話がなったことがあった。
その時は、彼女が僕の携帯をひったくり、なにをするかと思えば、キッチンシンクに水を貯めて、僕に微笑んでから携帯をその中にゆっくりと沈めた。
その頃には、彼女は涙と共に言い訳をすることもなくなっていた。
僕は思った。
彼女は怒っているんじゃない、彼女は嫉妬しているのだと。
僕が注意をひくもの全てに嫉妬を感じているのだと。
僕は彼女のことが怖くなっていた。
なるべく彼女が怒らないように、自分がどういう行動をしたらいいのかもすっかりわからなくなっていた。
そうなってくると、自然に僕は仕事に逃げるようになっていた。
残業を進んで引け受け、家に帰る時間も彼女が寝る頃を見計らっていた。
休みの日、僕は家に仕事を持ち込んで、パソコンに向かっていた時だった。
彼女が僕の背後に、静かに立っているのを感じた。
僕の背中には、彼女の冷たく刺すような視線が張り付いていた。
突然、彼女は僕を突き飛ばすと、拳でパソコンの画面を何度も打った。
何度も、何度も……。
パソコンの液晶は割れ、彼女は両手でパソコンを持ち上げると、僕の足元に思い切り叩きつけた。ガシャンという音は、僕の心の中でも終わりを告げる音となった。
確かに彼女のことは好きだった。
だけどもう、彼女の狂った嫉妬には我慢できない。
腹をたてたのもあって、僕の声が大きく強くなった。
「もうたくさんだ。僕がでていくから、君は自分の家に帰る用意をしたらいい」
玄関ドアに向かう僕の背後を彼女が追ってきた。
しがみつかれるのだろうか?と一瞬思ったのだが、予想が外れた。
彼女は僕が大事にしていた草野球の記念バットを硬く握り締め、僕の足を力一杯叩いたのだった。
僕が痛みのためにガクッと膝まずくと、更に頭部を数回叩いた。
僕はそのまま意識を失ってしまった。
気がつくと、僕は彼女の母親に挨拶をしにいった部屋に寝かされていた。
母親が心配そうに、僕の枕元に正座していた。
「あなたがこうなることは、あの日にもうわかっておりました」
僕は薬を与えられていたのか、自分で体を動かすことができず、意識もまだ朦朧としていて、黙って母親の言うことを聞いていた。
「私があの時に、あなたに言おうとしたことは、あなたが娘を選んだのでも縁でもないということなのです。あなたは一生彼女を見つめ続ける相手として、彼女に選ばれた男なのです」
母親はそういい終えると、部屋の中央にあった襖を勢いよく開けた。
「?!」
僕は思わず大きく目を見開いてしまった。
襖の向こう側の部屋には、僕と同じように包帯を体のあちらこちらに巻かれた男達が六人程横になっていた。
母親はため息を付いてこう言った。
「家がいくら広いからといって、ここまで人数が増えてしまうとは本当に困ってしまいます。娘はまた新しい相手を探すのだろうから、あと何組か新しい布団を購入しないとなりませんね……」
年老いた使用人が、僕の布団の上部を持ち、彼らと同じ部屋に引きずり入れた。
引きずられている時に、廊下から入る襖の上にあった板に書かれた字を目にした。
「不適合者」