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旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


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第12章 第3話:学び直しの授業――ノートを開けない母親


 夜間学級の教室には、昼間の学校とは違う匂いがあった。


 黒板のチョークの匂いは同じなのに、どこか温かい。廊下には、仕事帰りの革靴の音や、自転車を急いで停める音が混じっている。教室の後ろには、買い物袋、作業着、子どもの送り迎えに使った小さなリュック、雨に濡れた傘が並んでいた。


 地域学習センターの三階。


 夜七時から始まる大人向けの学び直し講座。


 美奈は、教室のいちばん後ろの席に座っていた。


 机の上には、買ったばかりのノートがある。


 表紙は薄い水色。


 子どもが選んでくれたものだった。


「お母さん、これならかわいいから勉強できるよ」


 そう言って、娘の陽菜は笑った。


 美奈も、その時は笑った。


 でも今、ノートは閉じたままだ。


 表紙に手を置いているだけで、開けない。


 鉛筆も、筆箱の中に入ったまま。


 教室の前では、現地教師の安西先生がプリントを配っていた。優しい声の先生で、夜間学級に通う大人たちを一人ひとり名前で呼ぶ。


「今日から参加の方もいますね。無理なく進めていきましょう」


 美奈は小さく頭を下げた。


 来るだけで、精一杯だった。


 昼間はスーパーの惣菜売り場で働き、夕方に帰って夕食を作り、陽菜の宿題を見る。洗濯物を畳み、明日の準備をして、陽菜を近所の母に預けてここへ来た。


 学び直し。


 その言葉に、少し憧れがあった。


 でも、それ以上に怖かった。


 学生時代、美奈は勉強が苦手だった。


 黒板の字をノートに写しているうちに、説明はどんどん先へ進んでいく。わからないところを質問する前に、次の単元へ進む。テストの答案には赤い印が並び、返されるたびに机の奥へしまった。


 中学二年の時、数学の時間に黒板の前へ呼ばれたことがある。


 割合の問題だった。


 何をどこで割ればいいのかわからず、チョークを持ったまま固まった。


 教室のどこかで、小さな笑い声がした。


 先生は「落ち着いて考えればわかる」と言った。


 でも、美奈にはわからなかった。


 その日から、黒板の前に立つ夢を何度も見た。


 何も書けない。


 後ろから笑い声がする。


 目が覚めると、胸が苦しくなっていた。


 自分は勉強ができない人間だ。


 美奈は、いつの間にかそう決めていた。


 大人になってからも、その決めつけは消えなかった。


 役所から届く書類。


 薬の説明書。


 家計簿の計算。


 ニュースに出てくる言葉。


 わからない時、美奈は平気なふりをした。


 誰かに聞くのが恥ずかしかった。


 陽菜が小学校に入ってから、その恥ずかしさは別の痛みに変わった。


「お母さん、これ教えて」


 宿題のプリントを持ってくる陽菜に、美奈は何度も曖昧に笑った。


「先にご飯食べようか」


「明日、先生に聞いてみて」


「お母さん、今ちょっと手が離せない」


 逃げていることは、自分でわかっていた。


 陽菜は責めない。


 でも、その方がつらかった。


 このままではいけないと思って、地域学習センターのチラシを見つけた時、申し込んだ。


 けれど、教室に来てもノートは開けない。


 開いたら、また昔の自分に戻る気がした。


 できなかった自分。


 笑われた自分。


 固まってしまった自分。


 安西先生が前に立った。


「今日は、基礎の計算からゆっくり始めます。プリントを見てください」


 美奈の机にも、プリントが置かれた。


 数字が並んでいる。


 足し算、引き算、割合の問題。


 視界が少し狭くなる。


 美奈はノートの表紙に置いた手を動かせなかった。


 その時、教室の扉が静かに開いた。


「失礼します」


 黒い上着に、使い込まれた革の鞄を持った先生が入ってきた。


 その人は、夜の教室に並ぶ大人たちの荷物と、机の上に置かれた新しいノートをゆっくり見渡した。最後に、美奈の閉じたままの水色のノートに目を留める。


「白瀬先生」


 安西先生が迎えた。


「お待ちしていました」


「こちらこそ、呼んでいただきありがとうございます」


 その人――白瀬灯理は、軽く頭を下げた。


「今日は学び直しの講座に参加させていただきます」


 美奈は灯理を見た。


 旅する先生。


 世界の学校を訪ね、いろいろな授業をしている先生。


 昨日、安西先生から紹介されていた。


 灯理は美奈の近くに来たが、すぐにノートを開けとは言わなかった。


「新しいノートですね」


 美奈は少しだけ表紙を撫でた。


「娘が選んでくれました」


「きれいな色です」


「はい」


「でも、まだ開きにくいですか」


 美奈は、息を止めた。


 開きにくい。


 その言い方が、不思議だった。


 開けない、ではなく。


 開きにくい。


 まるで、そこに理由があると言ってくれているようだった。


「……はい」


 美奈は小さく答えた。


「先生、今さら勉強しても、昔できなかったことは消えません」


 声が震えた。


「学生の頃、ずっとできなかったんです。今ノートを開いたら、また同じになる気がします」


 灯理は、しばらく黙って聞いていた。


 そして、静かに言った。


「うん。消すためではなく、今のあなたが使うために学び直すことはできないでしょうか」


 美奈は顔を上げた。


 今の自分が使うため。


 昔の失敗を消すためではなく。


 その言葉は、プリントの数字よりも先に、美奈の胸に入ってきた。


 安西先生は、その日の授業を少し変えた。


 灯理は黒板に大きく書いた。


『今の自分のためのノート』


 参加者たちが、顔を上げる。


 作業着を着た男性。


 白髪の女性。


 外国から来たばかりの母親。


 介護の仕事帰りの青年。


 そして美奈。


 灯理は言った。


「今日は、学生時代の続きから始めるのではなく、今の生活の中で学びたいことを書きます」


 黒板に項目が並んだ。


『子どもの宿題を一緒に見たい』

『役所の書類を読みたい』

『薬の説明を理解したい』

『家計を計算したい』

『ニュースの言葉を知りたい』

『仕事の記録を正確に書きたい』

『もう一度、本を読めるようになりたい』

『スマートフォンの手続きを自分でしたい』

『誰かに聞く前に、少し自分で確かめたい』


 教室の空気が変わった。


 数字のプリントだけを見ていた時より、参加者たちの顔が少し上がる。


 安西先生が、一人ずつに小さなカードを配った。


「名前は書かなくてもかまいません。今の生活で、学びたいこと、困っていることを書いてみましょう」


 美奈はカードを見た。


 今の生活で困っていること。


 書くのは恥ずかしい。


 こんなこともわからないのかと思われそうで怖い。


 でも、名前は書かなくていい。


 美奈は鉛筆を取り出した。


 手が少し震える。


 最初に書いた。


『子どもの算数の宿題を一緒に見たい』


 それだけで、胸の奥が熱くなった。


 もう一枚。


『スーパーの割引表示をすぐ計算できるようになりたい』


 さらにもう一枚。


『役所の書類を読む時に、何を書けばいいかわかるようになりたい』


 書いていると、隣の席の白髪の女性もカードを書いていた。


 その人は、小さく笑って言った。


「私は薬の説明がね。朝夕食後って書いてあるだけならいいけど、何ミリとか、間隔とか、ややこしいの」


 前の席の作業着の男性が振り返る。


「俺は仕事の報告書。漢字が出てこなくて、いつもスマホで調べてる」


 外国から来た母親が、ゆっくり言った。


「私は、学校からの手紙。大事なこと、どこに書いてあるか、探すの難しいです」


 美奈は驚いた。


 自分だけではなかった。


 みんな、何かをわからないまま抱えていた。


 大人なのに。


 親なのに。


 働いているのに。


 それでも、わからないことがある。


 カードが黒板に貼られていく。


『子どもの宿題』

『家計』

『薬』

『書類』

『ニュース』

『報告書』

『学校からの手紙』

『買い物の割引』

『スマホの契約』


 灯理はそれらを見て言った。


「学び直すことは、昔の教室へ戻って罰を受けることではありません。今の生活の中で、使いたい言葉や数や読み方を取り戻していくことです」


 美奈は、閉じたノートに手を置いた。


 水色の表紙。


 陽菜が選んでくれたノート。


 昔の自分を責めるためのノートではなく、今の自分が使うためのノート。


 そう思うと、ほんの少しだけ、表紙が軽くなった。


 安西先生は、用意していた基礎計算プリントを一度脇に置いた。


「では、今日は皆さんのカードから授業を作ります」


 先生は黒板に書いた。


『割合』


「子どもの算数、買い物の割引、薬の量、家計。今日はこのあたりにつながる割合を扱ってみましょう」


 割合。


 美奈の喉がまた少し締まった。


 黒板の前で固まった、あの日の言葉。


 でも、今日は黒板の前に呼ばれていない。


 座っている。


 ノートはまだ閉じている。


 灯理がそばに立った。


「開く時は、自分の速さで大丈夫です」


 美奈は頷いた。


 安西先生は、スーパーのチラシを配った。


 美奈が昼間働いている店とは違うが、よく似たチラシだった。


『二割引』

『三十パーセントオフ』

『税込価格』

『まとめ買いでお得』


 安西先生が言う。


「二割引は、もとの値段から二割分を引くという意味です。十割が全体。二割は、そのうちの二つ分」


 美奈は、チラシの数字を見た。


 学生時代のプリントより、少し見慣れている。


 毎日、売り場で見ている表示だ。


 でも、計算はいつも機械任せだった。


「たとえば、千円の商品が二割引なら」


 安西先生が黒板に書く。


『1000円の二割=200円』

『1000円−200円=800円』


 参加者たちが頷く。


 美奈も、ここまではわかる。


 けれど、八百八十円の三割引、となると途端に不安になる。


 安西先生は、ゆっくり進めた。


「すぐ暗算しようとしなくて大丈夫です。まず、全体を十割と見る。そこから一割を出す。三割なら三つ分」


 美奈は、まだノートを開けない。


 チラシの端に小さく計算を書いてみる。


 880円。


 一割は、88円。


 三割は、264円。


 880円から264円を引く。


 616円。


 あっているのか不安だった。


 隣の白髪の女性が、自分の紙を見せる。


「私も同じになったわ」


「本当ですか」


「たぶんね」


 二人で少し笑った。


 間違っているかもしれない。


 でも、笑われる怖さとは違った。


 一緒に確かめる笑いだった。


 灯理が美奈の机に視線を落とした。


「計算、できていますね」


「チラシの端にですけど」


「はい」


「ノートには、まだ」


 美奈は水色の表紙を見る。


 胸がまた苦しくなる。


 開いたら、昔の黒板が見える気がする。


 灯理は言った。


「ノートの最初のページに、正しい答えを書かなくてもいいと思います」


「え?」


「今、何のために開くのかを書いてもいい」


「何のために」


「はい」


 美奈は、ゆっくりノートを開いた。


 紙が少し硬い音を立てた。


 真っ白な一ページ目。


 昔のノートと同じ白さ。


 でも、今日は夜の教室にいる。


 周りには、学び直す大人たちがいる。


 陽菜が選んでくれた表紙がある。


 美奈は鉛筆を持った。


 最初の一行に、こう書いた。


『陽菜と一緒に考えるためのノート』


 書いた瞬間、目の奥が熱くなった。


 勉強のノート。


 正解を書くノート。


 間違いを直されるノート。


 そう思っていた。


 でも、これは陽菜と一緒に考えるためのノートだ。


 美奈は次の行に、今日の計算を書いた。


『880円の三割引』

『一割=88円』

『三割=88円×3=264円』

『880円−264円=616円』


 数字は少し歪んでいた。


 途中で手が止まり、書き直したところもある。


 でも、ノートに書けた。


 安西先生が前で言った。


「計算の途中を、自分の言葉で書いてみましょう。『なぜそうするのか』を、誰かに説明するつもりで」


 美奈は、下に書き足した。


『一割は十個に分けた一つ。三割はそれが三つ。先に引く分を出して、あとで元の値段から引く。』


 文章にすると、少しわかった気がした。


 割合は、黒板の前で笑われた記憶だけではなかった。


 買い物の中にある。


 陽菜の宿題の中にある。


 自分の生活の中にある。


 中盤、安西先生は参加者たちに、子どもの宿題に似たプリントを配った。


『あるクラスの児童三十人のうち、六人が図書委員です。図書委員は全体の何割ですか』


 美奈の手が止まる。


 全体。


 三十人。


 六人。


 何割。


 何を割ればいいのか。


 昔と同じ場所で、足元が少しぐらつく。


 また固まる。


 またわからない。


 そう思った時、灯理が尋ねた。


「今、どこで止まりましたか」


 真っ先に答えを教えられるのではなく、そう聞かれた。


 美奈はプリントを見た。


「全体が三十人で、図書委員が六人なのはわかります」


「はい」


「でも、六を三十で割るのか、三十を六で割るのか、わからなくなります」


「そこですね」


 灯理は頷いた。


「何を知りたい問題でしょう」


「図書委員が、全体のどれくらいか」


「はい」


「全体を十割と見る」


 美奈は自分のノートを見た。


 さっき書いたばかりの言葉。


『一割は十個に分けた一つ』


 全体三十人が十割。


 だったら、一割は三人。


 図書委員は六人。


 六人は、三人の二つ分。


「二割?」


 美奈は恐る恐る言った。


 灯理は微笑んだ。


「どう考えましたか」


「三十人が十割なら、一割は三人。六人は三人が二つ分だから、二割」


「はい」


 安西先生が近くで頷いた。


「その考え方で合っています」


 美奈は、ノートに書いた。


『三十人が十割』

『一割は三人』

『六人は三人の二つ分』

『だから二割』


 その下に、少し小さく書いた。


『割り算の式で迷ったら、全体を十割にしてみる』


 完璧ではない。


 毎回この方法でできるとは限らない。


 でも、自分の言葉がノートに残った。


 授業の終わり、灯理は参加者たちに言った。


「最後に、今日のノートの端に、昔の自分か、今の自分に一言書いてみませんか」


 教室が静かになった。


 昔の自分。


 中学二年の黒板の前に立っている自分。


 チョークを持ち、何も書けず、後ろから笑い声が聞こえた自分。


 美奈は、しばらく鉛筆を動かせなかった。


 あの子に何と言えばいいのだろう。


 できなかったね。


 恥ずかしかったね。


 もっと勉強していればよかったね。


 そんな言葉では、また傷つけてしまう。


 美奈は深く息を吸った。


 ノートの端に書いた。


『昔の私へ。まだ遅くなかった』


 書いた瞬間、涙が一粒、紙に落ちそうになった。


 慌てて指で押さえる。


 でも、完全には止められなかった。


 隣の白髪の女性が、そっとハンカチを差し出してくれた。


「私も、泣きそう」


 美奈は小さく笑った。


「ありがとうございます」


 安西先生は、教室の前で参加者たちのノートを見ていた。


 数字の正解だけではなく、それぞれの生活の言葉が書かれている。


 薬。


 宿題。


 書類。


 割引。


 ニュース。


 美奈のノートには、陽菜の名前がある。


 安西先生は静かに言った。


「私は、最初に用意したプリントを順番に進めようとしていました」


 参加者たちが顔を上げる。


「でも、皆さんが何を学びたいのかを聞く前に、こちらで決めすぎていたかもしれません」


 先生は黒板のカードを見た。


「これからは、皆さんの生活の中にある困りごとから授業を作っていきます。もちろん、基礎も大切にしながら」


 美奈はノートを閉じなかった。


 授業が終わっても、開いたまま机に置いていた。


 帰り道、地域学習センターの外は冷たい風が吹いていた。


 街灯の下で、美奈は水色のノートを鞄にしまう。


 その重さは、来る時とは少し違っていた。


 開けなかったノート。


 今は、最初のページに自分の言葉がある。


 家に帰ると、陽菜が眠そうな顔で玄関まで出てきた。


「お母さん、おかえり」


「ただいま」


「勉強した?」


「したよ」


「難しかった?」


「難しかった」


 美奈は靴を脱ぎながら笑った。


「でも、ノート開いた」


 陽菜の顔がぱっと明るくなった。


「あの水色の?」


「うん」


「見せて」


「ちょっとだけね」


 台所のテーブルで、美奈はノートを開いた。


 陽菜は身を乗り出す。


『陽菜と一緒に考えるためのノート』


 その一行を見て、陽菜は少し照れたように笑った。


「私の名前ある」


「あるよ」


「何勉強したの?」


「割合」


「私も今、割合やってる」


 陽菜はランドセルから宿題プリントを取り出した。


 美奈の胸が一瞬だけ硬くなる。


 でも、今夜は逃げなかった。


 プリントを見る。


 数字が並んでいる。


 すぐにはわからない。


 けれど、ノートには今日の言葉がある。


 全体を十割にする。


 一割を探す。


 何を知りたいのか見る。


 美奈は椅子に座った。


「お母さんも、今日ここを習った。一緒にもう一回考えよう」


 陽菜は嬉しそうに頷いた。


「うん」


 美奈は鉛筆を持った。


 正解をすぐに教えられるわけではない。


 間違えるかもしれない。


 途中で迷うかもしれない。


 でも、逃げずに隣に座ることはできる。


 それだけで、昨日までとは違っていた。


 翌週、美奈は再び夜間学級に来た。


 水色のノートは、今度は最初から机の上で開かれていた。


 表紙ではなく、ページが見えている。


 そこには、陽菜と一緒に解いた宿題の跡があった。


 間違えた式。


 書き直した計算。


 陽菜が描いた小さな花の落書き。


 美奈はそれを安西先生に見せた。


「全部は合っていません」


「はい」


「でも、途中まで一緒に考えました」


 安西先生は微笑んだ。


「とても大切な途中ですね」


 灯理もそばで頷いた。


 美奈はノートを見た。


 昔の失敗は消えていない。


 黒板の前で固まった記憶も、笑い声も、たぶん完全にはなくならない。


 でも、その記憶の上に、新しいページを重ねることはできる。


 今の自分のために。


 陽菜と一緒に考えるために。


 生活の中で使うために。


 学び直しは、昔の自分をなかったことにすることではなかった。


 昔の自分を連れたまま、今の机に座り直すことだった。


 夜、灯理は地域学習センターを出た。


 建物の窓には、まだいくつか明かりが残っている。別の教室では、外国語講座の声が聞こえ、廊下の掲示板には、パソコン講座、読み書き教室、家計相談会の案内が貼られていた。


 安西先生が玄関まで見送りに来た。


「白瀬先生、今日はありがとうございました」


「こちらこそ、大人の皆さんのノートを見せていただきました」


 安西先生は、手にしたカードの束を見た。


「私は、学び直しを基礎から丁寧に教えることだと思っていました」


「大切なことですね」


「はい。でも、基礎を学ぶ理由は、一人ひとりの生活の中にあるのですね。子どもの宿題、薬、書類、買い物、仕事。そこから始めると、数字や言葉の意味が変わる」


 灯理は頷いた。


「美奈さんのノートにも、生活の言葉がありました」


「ええ。『陽菜と一緒に考えるためのノート』。あの一行を見て、私も授業の作り方を考え直しました」


 安西先生は夜の教室を振り返った。


「大人の学び直しには、知識だけでなく、過去の傷をほどく時間も必要ですね」


「はい」


「焦らず、生活から始めます」


 外の空気は冷たかったが、地域学習センターの窓の明かりは温かく見えた。


 灯理は鞄を肩にかけ直した。


 中には、探究発表を控えた中高一貫校から届いた依頼状が入っている。


 けれど、まだ開かなかった。


 学び直すことは、昔の失敗を消すことではない。


 笑われた記憶をなかったことにすることでもない。


 それでも、今の自分の手で、もう一度ノートを開くことはできる。


 子どもと一緒に考えるために。


 書類を読むために。


 薬を理解するために。


 買い物の数字を自分で確かめるために。


 今の生活を、少し自分の手に取り戻すために。


 灯理は、夜の学習センターの明かりを振り返り、静かな道をゆっくり歩いていった。

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