第5章 第1話:接客の授業――笑顔を貼りつけた店員
観光地の坂道には、朝から焼き菓子の匂いが流れていた。
石畳の道を、旅行鞄を引いた人たちが上っていく。坂の途中には土産物屋、花屋、小さな本屋、古い時計塔を望む展望台があり、その先にカフェ実習校があった。
実習校の一階は、一般客も入れる小さなカフェになっている。
白い壁。
木の丸テーブル。
窓辺に並ぶ鉢植え。
黒板に書かれた本日のケーキ。
焼きたてのスコーンと、挽きたてのコーヒーの香り。
午前の開店前、リオはバックヤードの鏡の前に立っていた。
「いらっしゃいませ」
口角を上げる。
「本日はご来店ありがとうございます」
声を少し明るくする。
「こちらのお席へどうぞ」
目元を柔らかくする。
リオは何度も笑顔を確認した。
歯を見せすぎない。
目を細めすぎない。
声は高く、明るく、はきはきと。
背筋を伸ばし、手は前でそろえる。
接客は笑顔が大事。
最初にそう教わった。
だからリオは、誰よりも笑顔の練習をした。
怒られても笑顔。
忙しくても笑顔。
客が困っていても、まず笑顔。
笑顔でいれば、失礼にはならない。
笑顔でいれば、失敗しても少しは許される。
そう思っていた。
「リオ」
バックヤードの入口から、アンナ先生が顔を出した。
実習カフェの担当教師で、柔らかな声とよく通る目を持つ女性だった。接客の基本に厳しいが、生徒の小さな努力をよく見ている。
「今日も早いわね」
「はい。開店準備、終わっています」
「笑顔の確認も?」
少しからかうように言われ、リオは照れた。
「はい」
アンナ先生は鏡越しにリオを見た。
「いい笑顔ね」
「ありがとうございます」
その言葉に、リオの胸は少し軽くなった。
いい笑顔。
それは、自分の接客が間違っていない証のように思えた。
けれどアンナ先生は、すぐに続けた。
「でも今日は、笑顔だけではなく、お客様の様子もよく見てね」
「はい」
「観光シーズンだから、いろいろな方が来るわ。急いでいる人、道に迷った人、疲れている人、静かに過ごしたい人」
「はい。どんな方にも丁寧に対応します」
リオは元気よく答えた。
アンナ先生は少しだけ言葉を探すように間を置いた。
「丁寧、にもいろいろあるの」
リオは首を傾げた。
「いろいろ、ですか」
「ええ」
けれど、その時ちょうど開店時間を知らせるベルが鳴った。
話はそこで途切れた。
カフェが開くと、すぐに客が入り始めた。
「いらっしゃいませ!」
リオは明るい声で迎えた。
最初の客は、地図を持った観光客の夫婦だった。
リオは満面の笑顔で席へ案内し、おすすめのケーキを説明した。夫婦は嬉しそうに頷き、窓際の席に座った。
次は、地元の常連らしい老人。
彼は入口で少し立ち止まり、店の奥の窓際を見た。
「いらっしゃいませ!」
リオはすぐに近づいた。
「おひとり様ですか? こちらのお席へどうぞ!」
彼女は空いている中央の席を示した。
老人は一瞬だけ窓際を見た。
だが、リオは自分の笑顔が崩れていないかを気にしていた。
「本日のおすすめは、焼きりんごのタルトです。お飲み物とセットにできます」
「……ああ」
老人は小さく頷き、示された席に座った。
次の客は、腕時計を何度も見る会社員風の女性だった。
リオはいつも通りの明るい声で説明を始める。
「本日は季節限定のメニューがございまして、こちらの黒板に――」
「コーヒーだけで」
女性は短く言った。
「かしこまりました! ホットとアイスがございますが、本日は当店おすすめの――」
「ホットで」
「はい! ありがとうございます!」
女性はまた時計を見た。
リオは笑顔で伝票を書いた。
その後も客は続いた。
子ども連れの親子。
大きな荷物を持った旅行者。
言葉が通じずメニューを指差す外国人。
足を引きずるように歩く中年の男性。
リオはすべての客に同じ笑顔で接した。
同じ声の高さ。
同じ速度。
同じ説明。
同じ明るさ。
昼前、店内が混み始めた頃、アンナ先生は少し離れた場所からリオを見ていた。
リオはよく動いている。
言葉遣いも丁寧。
姿勢もいい。
笑顔も崩れない。
だが、客の視線や手元を見ていない。
急いでいる客に長く説明し、疲れた客に明るすぎる声で話しかけ、静かに座りたい客におすすめメニューを次々紹介している。
悪気はない。
むしろ一生懸命だ。
だからこそ、危うかった。
その時、カフェの入口に一人の先生が立った。
黒い上着に、使い込まれた革の鞄。
観光客のようでもあり、教師のようでもある不思議な姿だった。
「白瀬先生」
アンナ先生が気づいて近づく。
「お待ちしていました」
「こちらこそ、呼んでいただきありがとうございます」
その人――白瀬灯理は、軽く頭を下げた。
「今日は実習を見学させていただきます」
「ぜひ。ちょうど忙しい時間帯です」
灯理は店内を見た。
賑やかな客席。
湯気の立つカップ。
皿に乗ったケーキ。
注文を取る生徒たち。
そして、鏡の前で練習した通りの笑顔を浮かべるリオ。
リオは灯理に気づくと、すぐに明るく声をかけた。
「いらっしゃいませ! おひとり様ですか?」
「はい」
「こちらのお席へどうぞ!」
灯理は案内されながら、リオの手元と視線を見ていた。
リオは確かに丁寧だった。
けれど、灯理が濡れた傘を持っていることには気づかなかった。
入口の外では、ほんの少し雨が降り始めていたのだ。
灯理は椅子に座る前に、傘をどこに置こうか迷った。
リオはすでにメニューを開いている。
「本日のおすすめは、焼きりんごのタルトです。お飲み物とのセットが人気で――」
「リオ」
アンナ先生が静かに声をかけた。
リオは振り返る。
「はい」
アンナ先生は灯理の手元を見た。
リオもようやく傘に気づいた。
「あっ、傘立てをお持ちします!」
「ありがとうございます」
灯理は微笑んだ。
リオは慌てて傘立てを持ってきた。
笑顔は崩さなかった。
でも、胸の奥がざわついた。
見落とした。
それを笑顔で隠そうとしている自分にも気づいた。
昼のピークが過ぎた後、生徒たちは一度集められた。
客席の一角を空け、実習の振り返りを行う。
灯理は黒板の前に立った。
「今日は、少し特別な練習をしてもいいでしょうか」
生徒たちは頷いた。
リオは背筋を伸ばす。
きっと、接客の声かけや注文の取り方についての練習だろう。
灯理は黒板に書いた。
『笑顔を使わない接客』
教室代わりの客席がざわついた。
「笑顔を使わない?」
「接客で?」
「怒って見えませんか?」
リオは思わず手を挙げた。
「先生、笑顔でいないと失礼です」
灯理はリオを見た。
「うん。笑顔は大切ですね」
「はい。お客様に気持ちよく過ごしていただくために必要です」
「では、その笑顔は、今の相手に届いていましたか」
リオは言葉に詰まった。
届いていたか。
考えたことがなかった。
笑顔でいること自体が正しいと思っていた。
灯理は続けた。
「笑顔が悪いのではありません。笑顔の前に見るものがあるかもしれません」
アンナ先生が頷いた。
「今日は、お客様役をよく観察する練習をしましょう。表情、歩き方、荷物、手元、視線、声の大きさ。まず、何に困っていそうかを考えます」
生徒たちは二人組になり、客役と店員役に分かれた。
客役には、それぞれカードが配られた。
『急いでいる』
『足が痛い』
『子どもが泣いている』
『言葉が通じなくて不安』
『静かに過ごしたい』
『思い出の席に座りたい』
店員役は、そのカードを見ずに接客する。
ただし、最初の三十秒は笑顔を使わない。
見る。
聞く。
急がず判断する。
リオの相手は、同級生のマルクだった。
彼は客役として、時計を何度も見るカードを引いていた。
リオはいつもの癖で笑顔になりかけたが、慌てて表情を抑えた。
笑顔を使わない接客。
難しい。
顔が固まる。
声まで出しにくい。
「……いらっしゃいませ」
リオの声は、いつもより低かった。
マルクは時計を見る。
鞄を肩にかけたまま、席に座る気配がない。
メニューも開かない。
リオは観察した。
急いでいる。
たぶん、長い説明はいらない。
「お急ぎですか」
リオが尋ねると、マルクは少し驚いたように頷いた。
「はい。十分後にバスが」
「では、お持ち帰りのコーヒーでしたら三分ほどでご用意できます」
マルクはカードを見せて笑った。
「正解」
リオはほっと息をついた。
笑顔を使わなくても、接客になった。
それは小さな驚きだった。
次の練習では、客役の生徒が椅子に座る前に足をさすった。
リオは少し迷い、椅子を引いた。
「奥の柔らかい椅子の席も空いています。そちらにしますか」
客役は頷いた。
さらに次の練習では、子ども役の生徒が泣き真似をし、親役の生徒が注文できずに困っていた。
リオはメニュー説明を始めかけたが、止まった。
「先にお水をお持ちします。ご注文は落ち着いてからで大丈夫です」
親役の生徒がほっとした表情をする。
リオは少しずつわかってきた。
笑顔の前に、見る。
声を出す前に、相手が何を見ているかを見る。
自分が失敗しないためではなく、相手が今何を必要としているかを探す。
だが、本番の実習は練習ほど簡単ではなかった。
午後、店内が少し落ち着いた頃、朝の老人がまた入口付近で立ち止まっていた。
どうやら昼の外出から戻ってきたらしい。
リオはすぐに近づいた。
「いらっしゃいませ!」
また、いつもの明るい声が出た。
老人は少し目を細めた。
リオは続ける。
「本日は焼きりんごのタルトが人気で――」
言いかけて、老人の視線に気づいた。
窓際の席。
午前中も、彼はそこを見ていた。
その席には、今は誰も座っていない。
小さな花瓶が置かれた二人席。
通りの坂道と時計塔が見える席。
老人はそこを見ていた。
だが、リオの口は止まりきらなかった。
「お、お好きなお席へどうぞ。こちらの席も空いていますし、中央でしたら――」
老人は小さく首を振った。
「窓の席がよければ、お願いできるかな」
「あ、はい。もちろんです」
リオは慌てて案内した。
老人はゆっくり椅子に座った。
窓の外を見つめる。
その横顔は、疲れているようでもあり、何かを思い出しているようでもあった。
リオは明るくメニューを差し出した。
「本日のおすすめは――」
「今日は、紅茶だけで」
老人は静かに言った。
「かしこまりました」
リオは下がった。
胸が重い。
遅かった。
見ていたのに、また自分の言葉が先に出た。
キッチン横で伝票を書いていると、灯理がそばに来た。
「リオさん」
「はい」
「今、リオさんの笑顔は、誰のためにありましたか」
リオは手を止めた。
誰のため。
客のため。
そう言いたかった。
でも、言えなかった。
「……自分のため、だったかもしれません」
「うん」
「ちゃんと接客しているように見せるため。失礼にならないようにするため。失敗していないと思いたくて」
灯理は頷いた。
「気づきましたね」
「でも、気づくのが遅いです」
「次に少し早く気づけるかもしれません」
リオは窓際の老人を見た。
彼は紅茶が来る前から、窓の外を見続けている。
「あの席、何かあるんでしょうか」
「聞いてみますか」
「聞いてもいいんでしょうか」
「今すぐでなくても。紅茶を置く時に、静かに」
リオは頷いた。
紅茶を淹れる。
カップを温め、茶葉を入れ、時間を計る。
いつもなら、提供の時におすすめのケーキを添えて案内する。
でも今日は違う。
リオはカップを盆に乗せ、窓際の席へ向かった。
声を少し落とす。
「紅茶をお持ちしました」
「ありがとう」
老人は窓の外から目を戻した。
リオはカップを静かに置く。
そして、少し迷ってから言った。
「この席がお好きなんですか」
老人は窓の外を見た。
「昔、妻とよく座ったんだ」
リオは息を止めた。
「時計塔がよく見えるだろう。坂を上ってくる人も、下りていく人も見える。妻は、人を眺めるのが好きでね」
老人は紅茶の湯気を見つめた。
「亡くなってからも、ときどき来る。ここに座ると、一人で来た気がしない」
リオは、胸の奥が静かになるのを感じた。
午前中、自分はこの人を中央の席へ案内した。
何も見ずに。
笑顔で。
「午前中は、すみません」
自然に言葉が出た。
老人は驚いたように顔を上げた。
「何が?」
「この席を見ていらしたのに、気づかなくて」
老人は少し笑った。
「君は忙しそうだったから」
「でも、見ていませんでした」
リオは頭を下げた。
老人はゆっくり紅茶を一口飲んだ。
「今は見てくれたよ」
その言葉に、リオの目の奥が熱くなった。
「ごゆっくりお過ごしください」
今度の声は、いつもの明るい接客の声ではなかった。
静かで、少し低くて、窓際の時間を邪魔しない声だった。
夕方前、カフェは再び混み始めた。
観光客の波が展望台から下りてきたのだ。
リオは忙しく動いた。
だが、午前とは少し違った。
大きな荷物を持った客には、入口近くの広い席を案内した。
言葉が通じず困っている観光客には、メニューの写真を指差しながら、ゆっくり短い言葉で説明した。
子どもが泣いている親には、注文を急がせず、先に水と小さな紙ナプキンを出した。
急いでいる客には、おすすめ説明を省き、提供時間の短いものを伝えた。
笑顔は使った。
でも、全部同じではなかった。
明るい笑顔。
控えめな笑顔。
安心してもらうための笑顔。
そっと距離を取るための小さな会釈。
リオは初めて、笑顔にも種類があることを知った。
閉店後、カフェの客席には椅子を上げる音が響いた。
テーブルを拭き、床を掃き、黒板を書き直す。
窓の外では、夕方の坂道に灯りがともり始めている。
アンナ先生は実習の振り返りで、生徒たちを集めた。
「今日、難しかったことは?」
生徒たちは次々に答えた。
「笑顔を使わないと、最初はどうしていいかわからなかったです」
「相手を見る時間が、思ったより必要でした」
「急いでいる人には、丁寧すぎる説明が逆に負担になるとわかりました」
「静かにしたい人に、話しかけすぎていたかもしれません」
リオは手を挙げた。
「私は」
少し言葉を探す。
「笑顔でいれば大丈夫だと思っていました。でも、笑顔を作っている間、相手を見ていないことがありました」
アンナ先生は静かに聞いていた。
「今日、窓際の席を見ていたお客様がいました。午前中は気づけませんでした。午後に少しだけ話を聞いて、その席が大切な席だとわかりました」
リオは自分の手を見た。
「笑顔は大事です。でも、笑顔の前に見るものがありました」
灯理が尋ねた。
「何を見るのでしょう」
リオは客席を見渡した。
空になった椅子。
窓際の二人席。
子どもがこぼした水の跡。
急いでいた客が座らずに待っていたカウンター。
観光客が広げた地図。
「その人が、何を見ているか」
リオは答えた。
「何に困っているか。どこに座りたいか。急いでいるのか、話したいのか、静かにしたいのか」
アンナ先生が頷いた。
「よく見ていたね」
その言葉は、朝の「いい笑顔ね」とは違った。
リオの胸に、深く残った。
よく見ていた。
それは、自分の表情ではなく、相手へ向けられた評価だった。
片付けが終わった後、リオは一人で客席に残った。
いつもの癖で、壁の鏡の前に立つ。
笑顔を確認しようとして、途中でやめた。
代わりに、店内を見渡す。
窓際の席。
中央の大きなテーブル。
入口近くの椅子。
カウンター。
客がいなくなった店内にも、今日の時間が残っている気がした。
ここで誰かが地図を広げた。
ここで子どもが泣いた。
ここで急いでコーヒーを飲んだ人がいた。
ここで老人が、亡き妻と座った席を見ていた。
「今日は」
リオは小さく呟いた。
「誰が何を見ているんだろう」
その声を、灯理が入口近くで聞いていた。
「いい問いですね」
リオは少し驚いて振り返る。
「先生、まだいらしたんですか」
「少しだけ」
「私、明日も失敗すると思います」
「はい」
「また笑顔だけ先に出るかもしれません」
「うん」
「でも、気づけるようになりたいです」
リオは窓際の席を見た。
「笑顔で隠す前に」
灯理は頷いた。
「明日の接客が少し変わりそうですね」
夜、灯理はカフェ実習校を出た。
坂道には観光客の姿が少なくなり、土産物屋の明かりがぽつぽつと残っている。雨はすっかり止み、石畳には街灯が滲んでいた。
アンナ先生が校門まで見送りに来た。
「白瀬先生」
「はい」
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ、いい実習を見せていただきました」
アンナ先生はカフェの窓を振り返った。
中ではリオが、明日の黒板メニューを書き直している。
「私は、リオの笑顔をよく褒めていました」
「素敵な笑顔でした」
「ええ。本当に。でも、褒めるところがそこに偏っていたのかもしれません」
アンナ先生は少しだけ苦笑した。
「明日からは、もっと別のことも見ます」
「別のこと?」
「お客様の何に気づいたか。どんな声を選んだか。どこで待てたか」
灯理は微笑んだ。
「きっと、接客の幅が広がります」
「接客は、型を教えることだと思っていました。もちろん、型は必要です。でも、型を出す前に相手を見る目も育てなければいけないのですね」
「はい」
坂の下から、夜の路面電車のベルが聞こえた。
灯理は鞄を肩にかけ直した。
中には、都市のジャーナリズム学校から届いた依頼状が入っている。
けれど、まだ開かなかった。
カフェの窓際には、リオがそっと置いた小さな予約札が見えた。
明日の午後。
窓際の二人席。
老人がまた来るのかもしれない。
来ないのかもしれない。
それでも、その席が誰かにとって大切な場所だと知った生徒がいる。
灯理は坂道を下りながら、静かな店内の光を振り返った。
笑顔は、そこにあった。
けれどそれは、貼りつけたものではなく、相手を見つめた後に選ばれるものへ、少しずつ変わり始めていた。




