第1章 第2話:数学の授業――市場で割り切れない答え
港町の朝は、数字でできていた。
船が三隻、桟橋に並んでいる。
魚を詰めた木箱が二十箱、濡れた板の上に積まれている。
市場へ続く坂道では、果物を載せた荷車が一台、二台、三台と通り過ぎていく。
通りの角にある屋台では、湯気を立てる鍋の前で、店主が指を折りながら値段を数えていた。
「バナナ一房で二千。三房なら五千五百。今朝だけだよ」
「昨日は五千だったじゃない」
「昨日より甘いからね」
「甘さに値段をつけるの?」
「つけるさ。こっちは朝四時から運んでるんだ」
笑い声が、潮の匂いを含んだ風に乗って流れていく。
その市場の入口で、白瀬灯理は立ち止まった。
革の鞄を肩にかけ、片手には一枚の依頼状を持っている。紙の端は、長旅のせいで少し丸まっていた。
『数学が嫌いな子どもたちに、数字の使い道を教えてください』
差出人は、港町の小学校に勤めるナディアという教師だった。
灯理は市場を見渡した。
魚の重さを量る秤。
布地の長さを測る定規。
野菜の値段を書いた札。
値引き交渉をする人々の声。
ここには数字があふれている。
けれど、学校の教室で見る数字とは、少し顔つきが違っていた。
市場の数字は、黒板の上でじっとしていない。声になり、手つきになり、迷いになり、時には笑顔になる。
灯理は依頼状を鞄にしまい、学校へ向かった。
港町の小学校は、丘の中腹にあった。
白い壁に青い窓枠。校庭の向こうには海が見え、風が吹くたびにヤシの葉が乾いた音を立てる。教室の窓は大きく開け放たれ、遠くから市場のざわめきがかすかに届いていた。
「はい、もう一度。二十四を三で割ると?」
教室では、ナディア先生が黒板の前に立っていた。
黒板には割り算の問題が並んでいる。
二十四÷三。
四十八÷六。
七十二÷八。
生徒たちはノートを開いていたが、鉛筆はあまり動いていなかった。
「カイ、答えて」
窓際の席で、少年が肩をびくりと揺らした。
黒い髪は寝癖のまま跳ねていて、シャツの袖は片方だけ少し濡れている。朝、市場の手伝いをしてきたのだろう。指先には果物の甘い匂いが残っていた。
カイは黒板を見た。
二十四÷三。
数字が、急に遠くなる。
白いチョークの線が、虫のように動いて見えた。
「えっと……」
「落ち着いて。二十四を三つに分けるのよ」
「三つに……」
教室の後ろで、誰かが小さくため息をついた。
カイは鉛筆を握り直した。けれど、手のひらに汗がにじむだけだった。
「わかりません」
ナディア先生は怒らなかった。
ただ、疲れたように息を吐いた。
「昨日も同じ問題をしました」
「すみません」
「謝ることではないけれど、覚えないと先に進めません」
覚える。
カイはその言葉が嫌いだった。
数字は、覚えろと言われた瞬間に重くなる。黒板の上の数字は、いつも彼を責めているように見えた。
家の市場では違う。
マンゴー一山の値段。熟れすぎたバナナの値引き。常連客に少し多めに入れるライムの数。そういうものなら、カイはすぐにわかる。
でも、それは数学ではない。
少なくとも彼は、そう思っていた。
授業の終わりを告げる鐘が鳴った。
生徒たちがほっとしたように椅子を引く。
ナディア先生は黒板消しを持ったまま、教室の入口に立つ灯理に気づいた。
「白瀬先生」
「お邪魔します」
灯理は軽く頭を下げた。
生徒たちの視線が集まる。
旅をしている先生。
昨日、校長先生がそう紹介していた。世界中の学校を回り、いろいろな授業をする先生だという。
カイは机に伏せかけた体を少し起こした。
灯理は黒板の数字を見て、それから教室の窓の向こうへ目を向けた。
海が光っている。
市場の方から、威勢のいい声が聞こえてきた。
「カイくん」
名前を呼ばれて、カイは驚いた。
「はい」
「君の家は、市場で果物屋をしているんだって?」
「……はい」
「朝も手伝ってきた?」
「ちょっとだけ」
「じゃあ、ひとつ聞いてもいいかな」
灯理は黒板の方へ行かず、カイの机の横に立った。
「マンゴー一個が千二百だとして、三個買ったらいくら?」
「三千六百」
カイは反射的に答えた。
答えたあとで、自分でも驚いた。
教室が少しざわつく。
灯理は続けた。
「じゃあ、三個で三千五百にしてって言われたら?」
「だめです。百しか引いてないように見えるけど、朝の仕入れ値が高かったから。三個なら三千六百。常連さんなら、かわりに小さいライムを一個つけます」
今度は教室の何人かが笑った。
カイは顔が熱くなるのを感じた。
灯理は笑わなかった。
ただ、穏やかに言った。
「今の、数学じゃないかな」
カイは眉をひそめた。
「違いますよ。これは店のことです」
「店のことに、数字は使わない?」
「使うけど……」
「値段、数、仕入れ、割引、おまけ。ずいぶんたくさん出てきたね」
カイは黙った。
ナディア先生も、黒板の前で静かに聞いていた。
灯理は生徒たちを見回した。
「今日の数学の授業は、市場でやりましょう」
その瞬間、教室は一気に騒がしくなった。
「市場?」
「外に出るの?」
「買い物するってこと?」
「先生、授業ですよね?」
ナディア先生が不安そうに灯理を見た。
「白瀬先生、問題集は……」
「持っていきません」
「では、何を使うんですか」
「お財布です」
灯理は鞄から小さな封筒をいくつか取り出した。
「各班に同じ金額を渡します。今日の課題は、予算内で昼食の材料を買うこと」
生徒たちの目が、少しだけ輝いた。
灯理は続けた。
「ただし条件があります。全員が食べられる量にすること。栄養が偏りすぎないこと。残金を記録すること。そして、なぜそれを買ったのか説明できること」
カイは封筒を見つめた。
数字が入っている。
けれど、黒板の上に並んでいた数字とは違う気がした。
それは、昼食になる数字だった。
市場は昼前の熱気に包まれていた。
屋根の下に、果物、魚、米、香辛料、肉、野菜が所狭しと並んでいる。氷の上の魚は銀色に光り、香辛料の袋からは甘く辛い匂いが立ち上る。熟れたマンゴーの匂いと、焼いた肉の匂いと、海風の塩気が混じり合い、息をするだけで腹が鳴りそうだった。
生徒たちは四人ずつの班に分かれた。
カイの班には、明るくよくしゃべるミン、几帳面なサラ、食べることが好きなロウがいた。
「まず米でしょ」
サラがノートを開いた。
「でも魚もいるよ。港町なんだから」
ロウが魚屋の方を見て言う。
「野菜も買わないと、ナディア先生に怒られる」
ミンが封筒の中身を数えた。
「全部で二万。四人分と先生たちの分も少し考えるなら、そんなに多くないね」
カイは市場の通路を見た。
ここならわかる。
どの店が少し高いか。どの時間なら値引きしてくれるか。今日の魚はどれが新鮮か。バナナはどれが今日中に食べごろか。
でも、授業だと思った途端、足が重くなった。
「カイ、果物は任せるよ」
ミンが言った。
「うん」
「計算も」
「え?」
「だって市場のこと詳しいじゃん」
カイは言葉に詰まった。
詳しいことと、計算ができることは違う。
そう言おうとしたが、三人はすでに魚屋へ向かっていた。
最初の買い物は、魚だった。
大きな白身魚が一尾、八千。小さな魚が六尾で六千五百。干物が十枚で五千。
「白身魚がいい!」
ロウが言う。
「でも高いよ」
サラがノートに数字を書く。
「小さい魚なら六尾あるし、みんなで分けられる」
「骨が多いよ」
「干物は?」
「昼食っぽくない」
三人が言い合う横で、カイは値札を見ていた。
小さな魚六尾で六千五百。
一尾あたりは、だいたい千ちょっと。
白身魚一尾で八千。
大きいけれど、食べられる部分を考えると、人数分には少し足りないかもしれない。
「小さい魚がいいと思う」
カイが言った。
三人が振り返る。
「どうして?」
「一人一尾ずつ使えるし、残りはスープにできる。骨から出汁も取れるから」
魚屋の店主がにやりと笑った。
「わかってるじゃないか、果物屋の息子」
カイは少しだけ胸を張った。
サラがノートに書く。
『魚 六千五百』
「残り一万三千五百」
その数字を見た瞬間、カイの胸がまた少し重くなった。
残り。
引き算。
間違えたらどうしよう。
次に米を買った。
二キロで四千。三キロで五千五百。
「三キロの方が得じゃない?」
ミンが言う。
「でもそんなに食べる?」
サラが眉を寄せる。
「余ったら持って帰れるよ」
ロウが言った。
「授業の条件は昼食の材料でしょ。余らせすぎはだめだと思う」
カイは米袋を見比べた。
二キロなら四千。三キロなら五千五百。
一キロあたりなら、三キロの方が安い。
でも、今日は四人分だけではない。先生たちの分も少し。魚のスープにするなら、米は多めでも食べられる。
「三キロ」
カイが言った。
「理由は?」
サラがすぐに聞く。
「一キロあたりが安いし、魚のスープなら米を多めに炊いても食べられる。残ったらおにぎりにできる」
「おにぎり?」
「ここの屋台でも売ってるだろ。魚をほぐして入れるやつ」
ロウが目を輝かせた。
「それ、いい!」
米を買って、残りは八千。
カイは少し楽しくなっていた。
数字はまだ怖い。
けれど、市場の中にある数字は、触れることができる。魚の重さ。米袋のずっしりした感じ。封筒の中で少なくなっていく紙幣。
数字が、ただの記号ではなくなっていく。
だが、野菜売り場で問題が起きた。
サラが選んだ野菜は、葉物とトマトと玉ねぎだった。合わせて三千五百。
残りは四千五百。
そこまではよかった。
最後に果物を買うことになった。
「デザートがないと寂しい」
ロウが言う。
「でも予算少ないよ」
ミンが封筒を覗き込む。
「カイの家で買えば安くしてもらえるんじゃない?」
その言葉に、カイは少しだけ顔を曇らせた。
「母さんは授業だからって特別扱いしないよ」
「でも息子でしょ」
「だからしないんだよ」
カイは市場の奥にある自分の家の店を見た。
母は今日も店先に立っていた。明るい布を頭に巻き、客と楽しそうに話している。熟れたパパイヤを手に取り、傷のある部分を見せながら値段を下げていた。
母は数字に強い。
でも、学校にはあまり長く通っていない。
カイは以前、母に言ったことがある。
「母さんは数学ができないでしょ」
母は笑っていた。
「そうかもね」
その笑顔が、今になって少し胸に刺さる。
「いらっしゃい」
母はカイたちを見ると、いつもと同じ声で言った。
「授業かい?」
「うん」
「じゃあ、まけないよ」
「わかってる」
ミンが笑った。
「本当にまけないんだ」
母は果物を指さした。
「マンゴー四個で五千。パパイヤ二個で三千。バナナ一房で二千五百。傷ありなら千八百」
サラがノートを見る。
「残り四千五百だから、マンゴーは無理」
「パパイヤとバナナは?」
「三千と二千五百で五千五百。足りない」
「じゃあバナナだけ?」
ロウが不満そうに言う。
「寂しい」
カイは果物を見た。
マンゴーは高い。パパイヤはちょうどいいが、二個では全員に少しずつしか行き渡らない。バナナなら量はある。
傷ありバナナは千八百。
残り四千五百。
バナナを買っても二千七百残る。
その残りで、香草かライムを買えば魚のスープに合う。
「傷ありバナナと、ライムを少し」
カイが言った。
母は何も言わず、バナナを持ち上げた。
「この傷、見た目だけだよ。中は甘い」
「知ってる」
「ライムは三個で九百」
「二個でいい」
「六百」
カイは頷いた。
サラが計算する。
「バナナ千八百、ライム六百。合わせて二千四百。残り二千百」
「よし」
ミンが封筒から紙幣を出そうとした。
その時、サラが手を止めた。
「待って」
「何?」
「さっき野菜の計算、間違えてる」
空気が止まった。
サラはノートを見直していた。眉間にしわが寄っている。
「葉物が千五百、トマトが千二百、玉ねぎが千三百。合わせて……四千だ」
「三千五百じゃないの?」
「違う。私、玉ねぎを八百って書いてた」
ミンの顔が青くなる。
「じゃあ残りは?」
サラは鉛筆を走らせた。
魚六千五百。
米五千五百。
野菜四千。
合計一万六千。
予算二万。
残り四千。
そこにバナナ千八百とライム六百を足すと、二千四百。
残り一千六百。
「大丈夫じゃん」
ロウが言った。
サラは首を振った。
「違う。さっき香辛料も買った。魚屋の隣で」
「あ」
ミンが口を押さえた。
香辛料は千八百だった。
合計は一万七千八百。
残り二千二百。
バナナとライムを買うと、二百足りない。
たった二百。
けれど、足りないものは足りない。
「カイ、どうする?」
ミンが言った。
その声に責める響きはなかった。けれどカイには、黒板の前に立たされた時と同じように聞こえた。
どうする。
答えを出さなければならない。
間違えたら、みんなが困る。
「だから、最初から計算なんて……」
カイは小さく呟いた。
「え?」
「僕に任せるからだよ」
声が強くなった。
「市場のことならわかるけど、計算は苦手なんだ。学校の数学もできないし、こういうのもちゃんとできない」
「カイ、でも――」
「僕はできないんだよ」
カイは母の店の前から離れ、市場の脇道へ歩き出した。
後ろから呼ぶ声が聞こえたが、振り返らなかった。
脇道は狭く、石壁の影で少し涼しかった。
積まれた空き箱の横に座り込むと、市場の音が遠くなる。客の声、値段を叫ぶ声、魚をさばく音、硬貨の触れ合う音。
全部、数字の音に聞こえた。
カイは膝を抱えた。
しばらくして、隣に誰かが座った。
灯理だった。
「探しましたか?」
「ううん。市場の人が教えてくれた」
「母さん?」
「魚屋さん」
カイは黙った。
灯理は無理に話しかけなかった。
ただ、空き箱の上に置かれた古い値札を見ていた。『三個で五千』と書かれているが、雨に濡れたのか、数字の端がにじんでいる。
「間違えました」
カイが言った。
「うん」
「計算、間違えた」
「そうだね」
「やっぱり数学は嫌いです」
灯理は少し考えるように、視線を市場の方へ向けた。
「間違えた計算は、もう使えないかな」
カイは顔を上げた。
「え?」
「失敗した買い物メモは、捨てるしかない?」
「だって、間違ってるし」
「間違っているところがわかれば、次に何を変えればいいか見えるかもしれない」
「でも、答えが合ってない」
「数学は、正解を当てるためだけにあるのかな」
カイは答えられなかった。
灯理は鞄から小さなノートを取り出し、破れたページを開いた。そこには、旅の途中で書いたらしい数字や線がいくつも並んでいた。ところどころに横線が引かれ、書き直した跡がある。
「先生も、よく間違えるよ」
「先生なのに?」
「先生でも」
「でも、先生は間違えたら直せる」
「カイくんも、今から直せる」
灯理はノートを閉じた。
「何が足りなかったと思う?」
「二百」
「お金は二百足りなかった。考え方では?」
カイは眉を寄せた。
魚、米、野菜、香辛料、果物、ライム。
どこでずれたのか。
サラは野菜の値段を書き間違えた。ミンは香辛料を記録し忘れた。自分は、果物の値段だけを見ていた。
違う。
それだけではない。
「必要な量を、ちゃんと考えてなかった」
カイは言った。
灯理が黙って続きを待つ。
「果物は、全員にたくさんいらない。デザートだから、少しでいい。ライムも三個じゃなくて二個にしたけど……それでも足りないなら、バナナを小さい房にすればいい」
「小さい房はある?」
「ある。母さんの店じゃなくても、奥の店に半分の房で売ってるところがある」
「どうする?」
カイは立ち上がった。
「戻ります」
市場の通路に戻ると、班の三人はまだ母の店の前にいた。
サラはノートを握りしめ、ミンは封筒を持ったまま落ち着かなさそうに足踏みしている。ロウはバナナを名残惜しそうに見ていた。
「カイ」
ミンが駆け寄った。
「ごめん、僕もちゃんと記録してなかった」
「私も計算間違えた」
サラが言う。
カイは首を振った。
「僕も、量を考えてなかった」
三人は顔を見合わせた。
「半分のバナナを買おう。奥の店なら千二百で売ってる。ライムは一個だけ。魚の匂い消しには足りる」
「一個で三百?」
「たぶん。でも交渉する」
カイは奥の果物屋へ向かった。
店主は大きな帽子をかぶった女性で、竹籠にバナナを並べていた。
「半分の房、いくらですか」
「千三百」
「千二百になりませんか」
「どうして?」
「授業で昼食を作ります。残りが千五百しかない。ライムも一個買いたいです」
店主は目を細めた。
「授業ねえ」
カイは続けた。
「このバナナ、今日中に食べた方がいいですよね。皮に黒い点が出てる。でも中は甘い。僕たちは今日食べます」
店主は笑った。
「果物屋の子だね」
「はい」
「じゃあ千二百。ライムは隣で買いな」
「ありがとうございます」
カイは振り返った。
ミンが小さく拳を上げ、ロウが口の形だけで「やった」と言った。サラはノートに丁寧に数字を書いていた。
バナナ千二百。
ライム三百。
残り、ちょうどゼロ。
「ぴったりだ」
サラが言った。
カイは封筒の空っぽの中を見た。
ゼロ。
いつもなら、怖い数字だった。
何もない。残っていない。終わり。
けれど今日は違った。
ゼロは、足りなかったという意味ではなかった。
全部を使って、必要なものを揃えたという印だった。
昼食作りは、学校の中庭で行われた。
大きな鍋で魚のスープを作り、米を炊き、野菜を刻む。香辛料を入れると、湯気に複雑な匂いが混じった。魚の骨から出た出汁に、ライムを少し絞る。バナナは食後に薄く切って、全員で分けた。
完璧な昼食ではなかった。
魚は少し崩れ、米は鍋底で焦げ、野菜の大きさはばらばらだった。
それでも、生徒たちはよく食べた。
ナディア先生も一口食べて、驚いたように目を丸くした。
「おいしい」
ロウが得意げに胸を張る。
「僕が魚を選びました」
「選んだのはカイだよ」
ミンが笑う。
「僕は食べる担当」
「それはいつもだろ」
笑い声が中庭に広がった。
昼食の後、授業は教室に戻った。
黒板には、朝の割り算の問題がまだ残っていた。
けれど灯理は、それを消さずに、隣に別の表を書いた。
『予算 二〇〇〇〇』
『魚 六五〇〇』
『米 五五〇〇』
『野菜 四〇〇〇』
『香辛料 一八〇〇』
『バナナ 一二〇〇』
『ライム 三〇〇』
『残り 〇』
生徒たちは黒板を見つめた。
同じ数字なのに、朝とは見え方が違っていた。
魚の匂い。
米袋の重さ。
値段交渉の緊張。
計算ミスを見つけた時の焦り。
バナナを半分にした判断。
すべてが、数字の後ろにくっついている。
灯理はチョークを置いた。
「今日、数学を使った人?」
生徒たちは少し迷ってから、手を挙げた。
最初は数人。
やがて、全員。
カイも、ゆっくり手を挙げた。
灯理は尋ねた。
「何に使いましたか」
「予算を超えないようにするため」
「一人分の量を考えるため」
「どれが得か比べるため」
「間違えたところを見つけるため」
最後に言ったのは、カイだった。
灯理はカイを見る。
カイは黒板の数字から目をそらさなかった。
「数学って、正解を当てるだけじゃないんですね」
自分の声が、教室に落ちる。
「間違えた場所を見つけるためにもある。あと、何を減らして何を残すか、考えるためにもある」
ナディア先生は、黒板の表をじっと見ていた。
反復練習の問題では、カイは答えられなかった。
でも今日、市場の中で彼は何度も考えた。
比べた。
選んだ。
間違えた。
直した。
それは確かに数学だった。
「カイ」
ナディア先生が言った。
「朝の問題、もう一度やってみますか」
カイの肩が少し強張る。
黒板の左側には、まだ二十四÷三が残っている。
教室が静かになった。
カイは立ち上がり、黒板の前に行った。
チョークを持つ手が少し震えた。
二十四を三つに分ける。
市場で買ったバナナを、三つの皿に分けるとしたら。
魚を三つの鍋に分けるとしたら。
紙幣二十四枚を、三人で同じ数ずつ持つとしたら。
カイは黒板に書いた。
二十四÷三=八
チョークの線は少し歪んでいた。
でも、数字は逃げなかった。
ナディア先生は微笑んだ。
「正解です」
教室から拍手が起きた。
カイは照れくさそうに頭をかいた。
「でも、まだ九九は苦手です」
灯理が言った。
「苦手なら、使いながら仲良くなればいいよ」
「数字と?」
「うん。数字も、使い道がわかると少し話しやすくなる」
カイは黒板の八を見た。
まだ好きとは言えない。
でも、前ほど嫌いではなかった。
放課後、カイは市場に戻った。
母の店は夕方の光の中にあった。朝よりも果物は少なくなり、傷ありのバナナの籠は空になっている。
「授業はどうだった?」
母が聞いた。
「疲れた」
「それはよかった」
「よくないよ」
「疲れるくらい考えたんだろう」
カイは店先の木箱に座った。
母は売れ残ったマンゴーを布で磨いている。
「母さん」
「何?」
「母さんは数学できるよ」
手が止まった。
母はカイを見た。
「急にどうしたの」
「マンゴーの値段も、仕入れも、値引きも、おまけも、全部考えてる」
「それは商売だよ」
「うん。でも、数学でもある」
母はしばらく黙っていた。
それから、少し照れたように笑った。
「じゃあ私は、毎日宿題をしているわけだ」
「かなり難しいやつ」
「先生に褒めてもらわないとね」
カイは笑った。
その時、灯理が市場の通りを歩いてきた。
鞄を肩にかけ、港の方へ向かっている。
「先生!」
カイが呼ぶと、灯理は足を止めた。
「今日の昼食、おいしかったです」
「それはよかった」
「でも、次はもっと安くできます」
「もう次の計画?」
「はい。魚は閉店前の方が安くなるし、米は別の店で買った方がいい。香辛料も、量を半分にすれば足りました」
灯理は楽しそうに聞いていた。
「いい振り返りだね」
「これも数学ですか」
「かなり数学だと思う」
カイは少し誇らしげに頷いた。
「先生、また来ますか」
灯理は海の方を見た。
夕暮れの港には、出航を待つ船が浮かんでいる。
「いつか、きっと」
「その時は、僕が市場を案内します」
「頼もしいな」
「ただし、値段交渉は先生がやってください」
「それは難しい宿題だね」
カイは笑った。
灯理も笑った。
港へ向かう道で、灯理は鞄から次の依頼状を取り出した。
紙には、山間の小さな学校の名前が書かれている。
『理科の授業で、子どもたちに自然への興味を取り戻してほしい』
遠くで船の汽笛が鳴った。
灯理は依頼状をしまい、夕焼けに染まる市場を一度だけ振り返った。
カイは母の隣で、果物の値札を書き直していた。
大きな数字。
小さな数字。
割り切れる値段。
割り切れない気持ち。
その全部の間で、少年はもう目をそらしていなかった。
港の風が吹いた。
灯理は鞄を持ち直し、次の教室へ向かって歩き出した。




