第37章 第3話:貼られたままの声札――戻す時間を育てる
演劇部の部室では、鏡の横に白い札が並んでいた。
『声出ます』
『声小さめ』
『台詞合わせたい』
『今日は見学』
『もう一回やりたい』
『少し休む』
『役から戻る時間がほしい』
『顧問にあとで一言』
放課後の西日が、鏡の端を細く照らしている。床には、昨日使った台本のコピーが一枚落ちていて、衣装箱のふたは少しだけずれていた。発声練習の表の横には、誰かが貼った付箋が残っている。
『二場、間を長めに』
部室には、昨日の稽古の熱がまだ少し残っているようだった。
莉央は、部室の鍵を開けて最初に入った。
部長になってから、稽古前の部室を整える時間が少し好きになっていた。
窓を開ける。
空気を入れる。
椅子を端へ寄せる。
鏡の前を拭く。
今日の稽古メニューを書く。
そして、鏡横の『今日の声札』を見る。
最初にこの札を作った時、莉央は安心した。
ひと息棚を部室へ持ち込もうとして、最初は青い箱を置いた。
『声に出せないことを置く箱』
でも、それは部室では相談箱のように見えた。
「相談ってほどじゃない」
柊がそう言った。
その言葉から、部室に合う形を考え直した。
箱ではなく、鏡横の札。
悩みではなく、今日の声。
稽古に入る前の状態を、軽く置ける札。
それが、今の『今日の声札』だった。
札は少しずつ部室になじんできていた。
誰かが『台詞合わせたい』を貼る。
誰かが『もう一回やりたい』を出す。
柊は、声が出にくい日に『声小さめ』を貼った。
すると、発声練習の強さを少し変えられた。
相談ではない。
大げさでもない。
でも、状態が置ける。
莉央は、それがうまくいっていると思っていた。
けれど、その日の鏡横には、昨日の札が残っていた。
柊の名前の横に、
『声小さめ』
そして、別の部員、真帆の名前の横に、
『役から戻る時間がほしい』
さらに、端の方に、
『台詞合わせたい』
の札も一枚残っている。
莉央は、少し首を傾げた。
「昨日のままかな」
そう思いながらも、深くは考えなかった。
柊は昨日、声が出にくいと言っていた。
今日もそうかもしれない。
真帆は昨日、重い場面の稽古のあとに少し黙っていた。
今日も気をつけた方がいいかもしれない。
そう思った。
部員たちが少しずつ集まってくる。
「おはようございます」
「こんにちは、でしょ」
「部室来ると朝っぽいんだよ」
「台本どこ置いた?」
部室に声が戻ってくる。
柊も入ってきた。
今日は、昨日より顔色がよかった。
ペットボトルを鞄から出し、軽く喉を鳴らす。
「今日は発声、大丈夫そう」
自分でそう呟いて、鏡の前に立った。
莉央は、柊の名前の横に貼られた『声小さめ』札を見た。
そして、つい言った。
「柊、今日は無理しなくていいよ。最初は軽めにしよう」
柊は、少しきょとんとした。
「え?」
「昨日、声小さめだったから」
「今日は声出ます」
「あ、そうなの?」
莉央は札を見た。
柊も鏡横を見る。
自分の名前の横に、昨日の『声小さめ』札が貼られたままになっていることに気づいた。
「あ、これ昨日のです」
柊は、少し困ったように笑った。
「外すの忘れてました」
莉央は、軽く頷いた。
「そっか。じゃあ外していいよ」
柊は札を外そうとして、少し手を止めた。
「外していいんですよね?」
「もちろん」
「なんか、貼ったら先生か部長が見るものって感じがして、勝手に外していいのか迷いました」
その言葉に、莉央の胸が小さく引っかかった。
勝手に外していいのか迷った。
札は、自分の状態を置くためのものだった。
でも、戻すタイミングは決めていなかった。
貼る時のことばかり考えていた。
貼った後、いつ外すのか。
変わった時にどう貼り替えるのか。
昨日の札を今日どう扱うのか。
そこは、まだ空白だった。
さらに、真帆が部室に入ってきた。
鏡横を見て、自分の名前の横に『役から戻る時間がほしい』札が残っていることに気づく。
「あ、それ昨日の」
莉央が言う。
「今日も必要ならそのままでいいよ」
真帆は、少し首を振った。
「今日は大丈夫です。昨日は三場が重かったから。今日は軽い場面だし」
村瀬先生が部室に入ってきた。
鏡横を見て、残った札に目を止める。
「昨日の札が残っていますね」
莉央は、少し気まずく頷いた。
「はい。外す時間を決めていませんでした」
その時、紬も部室へ来ていた。
図書室のひと息棚の担当として、今日の声札がどう使われているかを見に来たのだ。
紬は、鏡横の札を見た。
昨日の札。
今日の人。
その間にある少しのずれ。
紬は、しおり型カードを一枚取り出した。
少し考えてから、丁寧に書く。
『先生、声を置けるようになったのに、貼られたままの札が、今度は昨日の状態で人を見ることになっていました』
そのカードを、部室の隅に立っていた白瀬灯理へ渡した。
灯理は、今日も黒い上着に使い込まれた革の鞄を持っていた。鏡横の札、柊の表情、莉央の手元、村瀬先生の目線を静かに見ていた。
灯理は、紬のカードを読み、頷いた。
莉央は、少し焦ったように言った。
「先生、声札は使えるようになってきたんです。でも、貼ったままになると、昨日の状態で今日の人を見てしまうんだって、今気づきました」
柊が頷いた。
「今日は声出るのに、無理しなくていいって言われて、ちょっと変な感じでした」
真帆も言う。
「役から戻る時間がほしい日もあるけど、毎日そう見られるのは違います」
莉央は、灯理を見た。
「先生、声を置けるようになったのに、貼られたままの札が、今度は昨日の状態で人を見ることになっていました」
灯理は、その言葉を静かに受け止めた。
そして、問いを返した。
「うん。では、状態を置く札を育てることは、貼れるようにすることだけなのでしょうか」
貼れるようにすることだけ。
莉央は、鏡横の札を見た。
最初の課題は、貼れることだった。
言いにくい状態を、声に出さずに置けること。
相談ではなく、今日の声として出せること。
そのために札を作った。
でも、札は貼った瞬間で終わらない。
状態は変わる。
昨日の声小さめは、今日の声出ますになる。
昨日は役から戻る時間が必要でも、今日はそうではないかもしれない。
貼ったままの札は、いつの間にか「今日の状態」ではなく「その人の印」になってしまう。
灯理は、ホワイトボードを出した。
『貼ることと戻すこと』
村瀬先生がペンを持つ。
灯理が尋ねた。
「まず、昨日の札と今日の状態を比べてみましょう」
柊が言った。
「昨日は声小さめ。今日は声出ます」
村瀬先生が書く。
『昨日:声小さめ』
『今日:声出ます』
真帆が言う。
「昨日は役から戻る時間がほしかった。今日は必要ないです」
『昨日:役から戻る時間がほしい』
『今日:必要なし』
別の部員が、『台詞合わせたい』札を指した。
「それ、僕のです。昨日の二場です。今日は違う場面だから、もういらないです」
『昨日:台詞合わせたい』
『今日:不要』
莉央は、ホワイトボードを見た。
昨日と今日が違う。
当たり前のことなのに、札が残っていると見えにくくなる。
村瀬先生が言った。
「札は、状態を固定するものではないですね」
莉央は頷いた。
「はい。今日のための札です」
灯理が尋ねる。
「では、いつ貼り、いつ戻すとよいでしょう」
部員たちは、少しずつ意見を出した。
「稽古前に貼る」
「稽古中に変わったら貼り替えていい」
「休む札は途中でも出せるようにしたい」
「稽古後に戻す時間がいる」
「戻すのを忘れた時、誰かに勝手に外されるのはちょっと嫌かも」
「でも残ってると困る」
莉央は、手元の部活ノートに書きながら考えた。
戻す時間。
それを、稽古メニューの中に入れなければいけない。
稽古前に発声があるように。
稽古後に片づけがあるように。
今日の声札にも、戻る時間が必要だった。
紬がカードを書いた。
『貼る場所だけでなく、戻る流れ』
莉央が、それを読んで頷いた。
「戻る流れ」
村瀬先生は、ホワイトボードに三つの時間を書いた。
### 稽古前
* 今日の状態を貼る
* 貼らなくてもよい
### 稽古中
* 変わったら貼り替えてよい
* 休む札はいつでも出せる
### 稽古後
* 札を戻す時間を三分取る
* 変わったことを一言だけ確認する
* 顧問にあとで一言札は村瀬先生へ
莉央は、『稽古後』の欄を見た。
三分。
長く話し合う必要はない。
でも、戻す時間があると、今日の状態を今日の中で終わらせられる。
昨日の札が、明日の人を決めつけない。
柊が言った。
「稽古後に戻すなら、安心して貼れます」
莉央が聞く。
「貼る時より、戻す時の方が安心?」
「うん。貼ったままだと、ずっとそういう人って見られそうで」
真帆も頷いた。
「役から戻る時間がほしい日はあるけど、毎日気を遣われると、それはそれで戻れない感じがします」
村瀬先生が言った。
「状態を置くことと、状態から戻ること。両方が必要ですね」
莉央は、鏡横のボードに新しい紙を貼った。
『今日の声札の流れ』
### 稽古前
今日の状態を貼る。
貼らなくてもよい。
### 稽古中
変わったら貼り替えてよい。
休む札はいつでも出せる。
### 稽古後
三分だけ、札を戻す時間を取る。
変わったことを一言だけ確認する。
顧問にあとで一言札は、村瀬先生へ渡す。
そして、ボードの一番下に、大きく書いた。
『この札は、今日のための札です。昨日の札で今日の人を決めつけません』
その言葉を書いた時、部室の空気が少し柔らかくなった。
柊は、昨日の『声小さめ』札を外した。
そして、新しく『声出ます』札を自分の名前の横に貼った。
「今日は、これです」
莉央は、ちゃんとそれを見た。
「わかった。今日は声出ます」
その言い方を、少し意識した。
昨日はどうだったかではなく、今日はどうか。
真帆も、『役から戻る時間がほしい』札を外した。
今日は何も貼らない。
莉央が聞いた。
「今日は貼らなくて大丈夫?」
「うん。今日は大丈夫」
「わかった」
それ以上聞かなかった。
貼らないことも、今日の状態の一つだった。
稽古が始まった。
最初の発声では、柊の声が昨日よりよく出ていた。
「あめんぼあかいな、あいうえお」
声が鏡に当たり、部室の中へ返ってくる。
莉央は、柊の声を聞きながら、昨日の札を思い出さないようにした。
今日は、今日の声を見る。
真帆は、軽い場面の稽古でよく笑っていた。
昨日の重い役の余韻は、今日はほとんど見えなかった。
けれど、稽古の途中で、別の部員が『少し休む』札を貼った。
莉央はすぐに頷いた。
「五分休んで。戻れそうなら戻って」
村瀬先生も声をかける。
「水を飲んでください」
その部員は、部室の端で休んだ。
しばらくして、自分で『少し休む』札を外し、『声小さめ』に貼り替えた。
「戻るけど、小さめで」
莉央は言った。
「わかった。小さめで入ろう」
貼り替えができた。
それは、莉央にとって小さな発見だった。
状態は、稽古の途中でも変わる。
休むから、声小さめへ。
声小さめから、声出ますへ。
貼った札は、固定ではない。
動く。
だから、戻す時間だけでなく、貼り替えることも大事だった。
稽古の終わり、莉央は手を叩いた。
「片づけの前に、今日の声札を戻す時間を三分取ります」
部員たちは、鏡横に集まった。
柊は『声出ます』を外した。
「今日は最後まで出ました」
莉央が頷く。
「記録しておく?」
「いや、大丈夫です」
「わかった」
真帆は、今日は札を貼っていなかった。
「貼らない日もあっていいですね」
村瀬先生が言った。
「もちろんです」
途中で休んだ部員は、『声小さめ』札を外した。
「途中で休んだけど、戻れました」
莉央は、部活ノートに小さく書いた。
『途中で休む → 声小さめで戻る』
顧問にあとで一言札は、今日は出ていなかった。
でも、村瀬先生はボードの横に小さな封筒を付けた。
『顧問へ』
その札だけは、稽古後に村瀬先生が確認する。
部長が一人で抱えないためだった。
三分は、短かった。
けれど、その三分で、部室の空気がきちんと今日から離れていく感じがした。
札が戻る。
名前の横が空く。
明日はまた、明日の状態を貼れる。
莉央は、部活ノートを開いた。
今日の欄に書く。
『声札が貼られたままになり、昨日の状態で今日の柊を見てしまった』
『稽古前・稽古中・稽古後の流れを作った』
『稽古後に三分、戻す時間を取る』
『昨日の札で今日の人を決めつけない』
そして、一文を書く。
『声札を育てることは、状態を貼れるようにすることだけではなく、変わった自分に戻せる時間を作ることだった』
書き終えると、柊がのぞき込んだ。
「それ、いいですね」
「何が?」
「変わった自分に戻せる時間、って」
柊は、鏡横の空になった自分の名前の場所を見た。
「昨日の自分が残りっぱなしじゃない感じがします」
莉央は、その言葉を聞いて頷いた。
今日の声札は、今日のための札。
昨日の自分を残すためではなく、今日の自分を置くためのもの。
そして、今日の自分からも戻れるもの。
紬は、その様子を見ながら、しおり型カードに小さく書いた。
『置けることと、戻れることは、どちらも安心につながる』
莉央は、それを見て、今日の声札ボードの内側に貼らせてもらった。
夜、白瀬灯理は演劇部の部室を出た。
廊下には、稽古後の熱がまだ少し残っている。窓の外では、校庭の照明が白く光り、遠くで運動部の掛け声が小さく響いていた。部室の扉の向こうには、鏡横の今日の声札ボードが見える。今は、名前の横に札は残っていない。
莉央と柊、村瀬先生、紬が、廊下まで見送りに来た。
「白瀬先生、ありがとうございました」
莉央が言った。
「こちらこそ、今日の声札が貼るだけでなく戻る流れまで育っていく時間を一緒に見せていただきました」
灯理は静かに答えた。
柊は、少し笑って言った。
「昨日の札が残ってると、昨日の自分で見られるんですね」
「はい」
「今日は声出るって、ちゃんと貼り直せてよかったです」
真帆はいなかったが、莉央は真帆の言葉も思い出しながら言った。
「役から戻る時間がほしい日もあるけど、毎日そうとは限らない。札が残ると、気を遣うことも決めつけになるんだと思いました」
村瀬先生が頷いた。
「状態を置くための仕組みには、状態が変わった時に戻せる流れが必要ですね」
紬が、しおり型カードを出した。
莉央が読む。
「置けることと、戻れることは、どちらも安心につながる」
灯理は頷いた。
状態を置く札を育てることは、貼れるようにすることだけではない。
貼れることは大切だ。
声が小さい。
少し休みたい。
台詞を合わせたい。
役から戻る時間がほしい。
それを言葉にできることは、場をやわらかくする。
けれど、状態は動く。
昨日の声は、今日の声ではない。
昨日の疲れは、今日の疲れではない。
昨日の役の重さは、今日の人をそのまま決めるものではない。
だから、戻す時間がいる。
貼り替える道がいる。
外してよい空気がいる。
昨日の札で今日の人を決めつけない言葉がいる。
札は、人に印をつけるためのものではない。
今の状態を、今だけ置くためのもの。
そして、変わったら戻れるためのもの。
灯理は、夜の廊下から部室を振り返った。
莉央の部活ノートには、一文が残っている。
声札を育てることは、状態を貼れるようにすることだけではなく、変わった自分に戻せる時間を作ることだった。
その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。




