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旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


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第35章 第4話:店先の授業――貼られたままの休み札


 商店街の昼前は、揚げ物の匂いで少しにぎやかだった。


 八百屋の前では、田島さんが大根の葉を束ねている。花屋の軒先には、淡い黄色の花が並び、文具店のガラス戸には新しい消しゴムの入荷案内が貼られていた。


 その少し先に、新しい惣菜店ができた。


 店の名前は『まるなお惣菜』。


 白いのれんに、丸い字で店名が書かれている。小さな店先には、コロッケ、唐揚げ、ひじきの煮物、卵焼きが並び、昼前になると近所の人が少しずつ列を作る。


 店主の直人は、まだ若かった。


 この商店街で育ったわけではない。隣町から店を移してきたばかりで、商店街の人たちとも少しずつ挨拶を交わすようになったところだった。


 地域学習センターのよりみち縁側についても、青柳さんが説明に来た。


 商店街の協力札のことも伝えられた。


『チラシを一枚貼れます』

『道を聞かれたら案内できます』

『水を一杯出せます』

『静かに休める椅子を一つ置けます』

『今日はできません。またできる日にお願いします』

『相談してから決めたい』


 直人は、その時、忙しそうに揚げ物を見ながら聞いていた。


「まだ店を開いたばかりなので、すぐには何かできるかわからないです」


 そう言った彼に、青柳さんは無理をしないでくださいと伝えた。


 そして、休む札もあると説明した。


 その結果、直人の店先には、ここ数日ずっと同じ札が掛かっていた。


『今日はできません。またできる日にお願いします』


 静子は、その札の前で足を止めた。


 今日だけではない。


 昨日も、一昨日も、その前も。


 雨の日も、晴れの日も、同じ札が掛かっていた。


 店の中は忙しそうだ。


 直人は揚げ物を返し、会計をし、パックに惣菜を詰め、奥から出てきた電話に返事をしている。額には汗がにじみ、声は少し急いでいた。


 できない日が続くのは、悪いことではない。


 店を始めたばかりなのだから、余裕がないのは当然だった。


 けれど、札は「今日はできません」と言っている。


 今日が毎日続くと、そこにある「またできる日に」が少し見えなくなっていく。


 店の前を通った親子が、札を見て小さく話していた。


「あのお店、いつもできませんって出てるね」


「まだ忙しいんじゃない?」


「じゃあ、協力してないの?」


「さあ、どうだろうね」


 何気ない会話だった。


 責める声ではない。


 でも、静子には引っかかった。


 休む札は、協力を断つ札ではなかったはずだ。


 またできる日に戻るための札だった。


 けれど、貼られたままになると、戻る日が見えなくなる。


 休む札が、いつの間にか「ずっとできません」の札に見えてしまう。


 静子は、店が少し落ち着くのを待った。


 昼の列が途切れた頃、直人が店先の台を拭き始めた。


「こんにちは」


 静子が声をかけると、直人は顔を上げた。


「あ、こんにちは。静子さん、でしたよね」


「ええ。お忙しそうね」


「まだ慣れなくて。昼前はどうしてもばたばたします」


 直人は少し照れたように笑った。


 静子は、店先の札を見た。


「この札、出してくださっているのね」


「ああ、はい」


 直人は、札に目をやった。


「まだ店が落ち着かないので、とりあえず出しています。協力を断る札があるって聞いたので」


「とりあえず」


「はい。何かできるって言ってできなかったら困るので。これを出しておけば角が立たないかなと」


 悪気のない声だった。


 むしろ、迷惑をかけないようにしている。


 できないのに、できますと言わない。


 そのために札を使っている。


 でも、静子の胸には、別の小さな心配が残った。


「直人さん」


「はい」


「またできる日に、というところは、どう考えていますか」


 直人は、少し困った顔をした。


「まだ、そこまでは考えられていないです。店が落ち着いたら……と思っていますけど」


「いつ頃落ち着きそう?」


「うーん」


 直人は、店の奥を見た。


 揚げ物の油が静かに音を立てている。


「正直、わからないです」


 その答えは、正直だった。


 だからこそ、休む札が貼られたままになっている。


 できない理由はある。


 でも、また考える日がない。


 戻る道が札に結びついていない。


 その時、前田さんが買い物袋を提げて通りかかった。


 惣菜店の札を見て、静子の隣に立つ。


「やっぱり貼りっぱなしね」


 直人が少し身構えた。


「すみません。やっぱりだめでしたか」


 前田さんは首を振った。


「だめとは言っていないの。意味が少し眠っているのよ」


「意味が眠っている?」


「ええ。札は起きているけれど、戻る日が寝ている」


 直人は、ますます困った顔になった。


 静子は、前田さんの言葉に少し笑いそうになりながらも、頷いた。


「休む札は、休み続けるためではなく、また考える日を残すための札だったのだと思います」


「また考える日」


 直人は、札を見た。


『今日はできません。またできる日にお願いします』


 文字は短い。


 でも、その中にある「またできる日」を、直人はまだ持てていない。


 昼過ぎ、青柳さんが商店街にやって来た。


 協力札の様子を見に来たところだった。


 静子が事情を話すと、青柳さんは表情を曇らせた。


「私が札を渡す時、説明が足りなかったかもしれません」


 直人は慌てて言った。


「いえ、僕がちゃんと理解していなかっただけで」


 青柳さんは首を振った。


「こちらが、休む札をどう使うものか、十分に手渡せていませんでした」


 前田さんが言う。


「新しい店に、いきなり協力札を選ばせるのも重かったのかもしれないわね」


 静子は、商店街の通りを見た。


 直人の店は、新しく根を張ろうとしている途中だ。


 まだ、道案内も、椅子も、水も、文具も、自分の店に合うかどうかわからない。


 そんな時に、「できる札」か「できません札」かを選ぶと、休む札に逃げるような形になってしまう。


 休むこと自体は悪くない。


 ただ、そこに「次に考える日」がないと、貼りっぱなしになる。


 その時、白瀬灯理が商店街の入り口から歩いてきた。


 黒い上着に、使い込まれた革の鞄。


 今日は、新しい店へ協力札がどう渡されているかを見るために来ていた。


 灯理は、惣菜店の店先に掛かった札を見た。


 それから、静子、前田さん、青柳さん、直人の表情を見る。


「何か見えてきましたか」


 静子は、少し息を整えてから言った。


「先生、休む札を渡したのに、今度は休む札が貼られたままになって、戻る道が見えなくなっていました」


 灯理は静かに頷いた。


 静子は続けた。


「直人さんは、協力したくないわけではありません。でも、まだ余裕がない。何ができるかもわからない。それで、とりあえず休む札を貼っていました。でも、札だけを見る人には、ずっとできませんに見えてしまう」


 青柳さんも言った。


「休む札があることは伝えました。でも、休む理由や、次に考える日までは一緒に渡していませんでした」


 灯理は、店先の札を見つめた。


 そして、問いを返した。


「うん。では、休む札を手渡すことは、その札を貼っておけばよいと伝えることなのでしょうか」


 その札を貼っておけばよい。


 静子は、惣菜店ののれんを見た。


 札は、たしかに便利だ。


 短い言葉で伝えられる。


 今日はできない。


 またできる日に。


 でも、文字だけでは足りない時がある。


 特に、新しく参加する人にとっては、札がどういう経緯で生まれたのかがわからない。


 なぜ「できません」が大切なのか。


 なぜ「またできる日に」と書いたのか。


 なぜ休む日も記録するのか。


 どこで見直せばよいのか。


 誰に相談すればよいのか。


 それを知らないまま札だけ渡されると、休む札は「断るための札」になる。


 あるいは、「貼っておけば角が立たない札」になる。


 灯理は、店先の小さな丸テーブルに白い紙を置いた。


『新しい店へ協力札を渡す時に必要なこと』


 青柳さんがペンを持つ。


 まず、直人の今の状況を見ることにした。


 灯理が尋ねる。


「直人さん、今、お店で一番大変なことは何ですか」


 直人は、少し考えた。


「昼前の準備です。揚げ物と会計が重なると、手が足りなくなります」


 青柳さんが書く。


『昼前の準備が大変』


「他には?」


「常連さんもまだ少ないので、どれくらい作ればいいかわからないです。余る日もあるし、足りない日もある」


『作る量が読めない』


「地域のことも、まだよくわかっていません。センターの場所は聞かれれば案内できるかもしれないけど、忙しい時間は難しいです」


『地域のことを覚えている途中』


 静子が言った。


「では、今すぐできる協力を選ぶのは、少し重いのね」


 直人は、申し訳なさそうに頷いた。


「はい。できると言うのが怖いです」


 前田さんが言った。


「だから、できません札に逃げたわけじゃなくて、まだ選べないのね」


「そうです」


 直人の声が、少し楽になった。


「まだ選べない、が一番近いです」


 その言葉を、青柳さんが大きく書いた。


『まだ選べない』


 灯理は頷いた。


「では、休む札の前に、『まだ選ばない』という入口が必要なのかもしれませんね」


 静子は、はっとした。


 できる札。


 できません札。


 その二つだけではない。


 まだ選ばない札。


 試しに一回札。


 来月見直します札。


 相談してから決めたい札。


 新しい店には、最初から協力か休みかを選ばせるのではなく、考える途中を置く札が必要だった。


 青柳さんは、新しい札案を書き始めた。


『まだ選びません』


『試しに一回ならできます』


『来月見直します』


『相談してから決めたい』


『今日はできません。またできる日にお願いします』


 前田さんが、すぐに言った。


「『まだ選びません』だけだと、少し冷たいわね」


 静子が頷く。


「理由を少し添える?」


 灯理が、直人に尋ねた。


「直人さんなら、どんな言葉が出しやすいですか」


 直人は、しばらく考えた。


「まだ店を始めたばかりなので、来月見直します、なら出しやすいです」


 青柳さんが書き直す。


『まだ店を始めたばかりです。来月見直します』


 直人は、それを見て頷いた。


「これなら、今できないけど、ずっと断っている感じではないです」


 静子は、少し安心した。


 戻る日がある。


 来月見直します。


 それだけで、札の意味が変わる。


 休むのではなく、考える途中になる。


 次に、休む札の説明も作ることになった。


 青柳さんが書く。


『休む札は、ずっと断るための札ではありません。』

『今はできないことを伝え、また考える日を残す札です。』


 前田さんが頷く。


「それを、札と一緒に渡さないとね」


 静子が続けた。


「口でも伝える。記録にも残す」


 青柳さんは、新しい店向けの記録欄を作った。


『店の状況』

『休む理由』

『次に見直す日』

『試してみたい小さな協力』

『店主が困っていること』

『商店街側が確認する人』


 直人は、その欄を見て少し驚いた。


「ここまで書くんですか」


 青柳さんは、少し迷ってから言った。


「書きすぎると負担になりますか」


「いえ」


 直人は、紙を見つめた。


「むしろ、何を考えればいいかわかります」


 前田さんが言った。


「白紙で考えろと言われる方が大変な時もあるわね」


 静子は頷いた。


 記録は、管理のためだけではない。


 次に考えるための手がかりになる。


 直人の欄には、こう書かれた。


『店の状況:開店したばかり。昼前が特に忙しい』

『休む理由:今は協力内容を選ぶ余裕がない』

『次に見直す日:来月第一火曜日』

『試してみたい小さな協力:雨の日に傘立てを貸すことなら一回試せるかもしれない』

『困っていること:センターの場所を聞かれた時、忙しいと説明しにくい』

『確認する人:静子・青柳さん』


 直人は、『試してみたい小さな協力』の欄を指した。


「傘立てなら、店の外に置いてあるので。雨の日に、センターへ行く人が一時的に使うくらいならできるかもしれません」


 静子は微笑んだ。


「それはいいですね」


「でも、毎回ではなくて」


「試しに一回」


 前田さんが札を一枚書いた。


『試しに一回なら、傘立てを貸せます』


 直人は、それを見て小さく笑った。


「これ、いいです」


 それから、店先の札を掛け替えることになった。


 今までの札。


『今日はできません。またできる日にお願いします』


 それを外す。


 代わりに、新しい札を掛ける。


『まだ店を始めたばかりです。来月見直します』


 その下に、小さな札。


『試しに一回なら、雨の日に傘立てを貸せます』


 直人は、店先から少し離れてそれを見た。


「これなら、今の店に合っています」


 青柳さんが言った。


「すみません。最初からこういう札も用意できていれば」


 直人は首を振った。


「いえ。僕も、できません札を貼っておけばいいと思っていました。でも、ずっと貼っていると、自分でも協力のことを考えなくなるかもしれません」


 静子は、その言葉を聞いて頷いた。


 貼りっぱなしになると、見る人だけでなく、貼っている本人も考えなくなることがある。


 今日できない。


 でも、いつまた考えるのか。


 その問いが消えてしまう。


 だから、見直す日を一緒に置く。


 昼過ぎ、惣菜店の前をさっきの親子がまた通りかかった。


 子どもが新しい札を読んだ。


「来月見直します、だって」


 母親が言った。


「お店始めたばかりなんだね」


「傘立て貸せるかもって」


「雨の日に助かるかもしれないね」


 親子は、そのまま店内のコロッケを見て、二つ買っていった。


 直人は、少し緊張しながら会計をし、袋を渡した。


「ありがとうございました」


 親子が店を出たあと、直人は札を見た。


 貼られている言葉が、さっきまでより自分の店に合っているように見えた。


 できないことだけではない。


 まだ選べないこと。


 来月見直すこと。


 試しに一回ならできること。


 それが並ぶと、協力は遠いものではなく、少し先に置かれた小さな予定になった。


 夕方、商店街の休憩スペースで、静子は商店街ノートを開いた。


 今日の出来事を書く。


『まるなお惣菜:休む札が貼りっぱなしになっていた』

『理由:店を始めたばかりで、協力内容をまだ選べなかった』

『見直し:まだ選びません/来月見直します/試しに一回札を追加』

『次に見る日:来月第一火曜日』


 前田さんが、隣で知恵カードを書いた。


『休む札にも、目覚まし時計がいる』


 静子は笑った。


「今日は前田さんらしいですね」


「いつも私らしいわよ」


 青柳さんは、店向け協力札セットの袋に新しい札を加えた。


『まだ選びません』

『来月見直します』

『試しに一回ならできます』

『相談してから決めたい』


 その袋の表に、説明を貼る。


『休む札は、ずっと断るための札ではありません。』

『今はできないことを伝え、また考える日を残す札です。』


 静子は、その説明を読んで、ペンを取った。


 商店街ノートの最後に一文を書く。


『休む札は、貼り続けるためではなく、また考える日を残すために手渡すものだった』


 書き終えると、惣菜店の方からコロッケの香りがふわりと流れてきた。


 店先の札が、夕方の風に小さく揺れている。


『まだ店を始めたばかりです。来月見直します』


 その言葉は、休んでいるだけでなく、次へ向かう途中のように見えた。


 夜、白瀬灯理は商店街を出た。


 店先の灯りが、濡れていないアスファルトに柔らかく伸びている。八百屋は片づけを始め、花屋の軒先では花鉢が店内へ運ばれていた。惣菜店の白いのれんは半分しまわれ、店先には新しい札がまだ掛かっていた。


 静子と青柳さん、前田さん、直人が、商店街の入口まで見送りに来た。


「白瀬先生、ありがとうございました」


 青柳さんが言った。


「こちらこそ、札の文字だけでなく、その意味と戻る日が手渡されていく時間を一緒に見せていただきました」


 灯理は静かに答えた。


 直人は、少し照れたように頭を下げた。


「僕、できません札を貼っておけばいいと思っていました。まだできないので」


「はい」


「でも、それだと、いつまた考えるかを決めなくていいままになっていました」


 静子が頷いた。


「直人さんが悪いのではなく、私たちが札の意味を十分に渡せていなかったのだと思います」


 前田さんが言った。


「新しい人には、新しい人用の入口がいるのよ。いきなり協力か休みかを選ばせるのは乱暴だったわね」


 青柳さんは、札の袋を抱えていた。


「これからは、協力札を渡す時に、できる札だけでなく、まだ選ばない札、試しに一回札、見直し日の欄も一緒に渡します」


 灯理は頷いた。


 休む札を手渡すことは、紙を渡すことだけではない。


 今日はできません。


 またできる日にお願いします。


 その言葉は大切だ。


 できない日を責めずに伝えるために必要だった。


 けれど、新しい人にとっては、その札が断るための札に見えることがある。


 とりあえず角を立てないための札に見えることがある。


 貼っておけば考えずにすむ札になってしまうこともある。


 だから、理由を一緒に渡す。


 今はなぜできないのか。


 まだ何を選べないのか。


 次にいつ見直すのか。


 試しに一回なら何ができるのか。


 困った時に誰へ相談するのか。


 休む札は、関係を閉じるためのものではない。


 協力を断つためだけのものでもない。


 今はできないと伝えながら、また考える日を残すための札だった。


 灯理は、夜の商店街を振り返った。


 静子の商店街ノートには、一文が残っている。


 休む札は、貼り続けるためではなく、また考える日を残すために手渡すものだった。


 その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。

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