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旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


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第33章 第1話:真似の授業――大きすぎる小さな地図


 五年二組の教室には、いつもより多くのカードが並んでいた。


 黒板の前の長机に、色とりどりの紙がずらりと置かれている。


『話す』

『書く』

『見るだけ』

『心配』

『質問』

『反対』

『休憩』

『まだわからない』

『静かに考える』

『次に試す』

『案内係』

『まとめ係』

『余白』


 カードの端には、美咲が描いた小さな絵がついていた。


 口の絵。


 鉛筆の絵。


 椅子の絵。


 はてなマーク。


 休憩札。


 開いた窓。


 地域学習センターのよりみち縁側で見てきたものを、できるだけ教室用に変えたつもりだった。


 今日の学級会の議題は、係活動の見直しだった。


 黒板には、三井先生の字でこう書かれている。


『係活動で困っていること』

『続けたいこと』

『変えたいこと』


 これまでの学級会では、よく話す子の意見に流れやすかった。


 手を挙げる子は、だいたい決まっている。


 静かな子の考えは、なかなか黒板に上がらない。


 反対意見は出にくい。


 係も、いつの間にか同じ人が引き受けがちになる。


 美咲は、それを変えたいと思っていた。


 成果共有会で、自分は「一人を案内する」カードを持ち帰った。


 よりみち縁側では、話す人だけでなく、書く人、見るだけの人、カードで参加する人、まだ決めない人、休む人にも入口があった。


 あの仕組みを教室に持ってこられたら、きっと学級会もよくなる。


 美咲は、そう思っていた。


 だから、前の晩に何枚もカードを作った。


 色を分け、絵を描き、説明文もつけた。


 頑張って作った。


 机の上のカードは、その頑張りの証拠だった。


 チャイムが鳴る。


 クラスメイトが席につく。


 三井先生は、黒板の横に立ち、少し笑って言った。


「今日は、美咲さんが係活動の話し合いで使うカードを準備してくれました」


 何人かが「おお」と声を上げた。


 蓮は、前の席から身を乗り出した。


「何これ、カードゲーム?」


「違うよ」


 美咲は、少し頬を膨らませた。


「話し合いで使うカード」


「めっちゃあるじゃん」


「必要だから」


 美咲は、黒板の前に立った。


 心臓が少し速くなっていた。


 でも、うまくいくはずだった。


 よりみち縁側で見たことを、自分の教室でもやってみたい。


 その気持ちが、体の中で熱くなっている。


「今日は、係活動の見直しをします」


 美咲は、カードを一枚ずつ持ち上げた。


「まず、話したい人は『話す』カードを使います。書きたい人は『書く』カードです。見ていたい人は『見るだけ』カード。心配なことがある人は『心配』カード。質問したい人は『質問』カード。反対したい人は『反対』カード。疲れた人は『休憩』カード。まだ考え中の人は『まだわからない』カード。静かに考えたい人は『静かに考える』カード。次に試したいことは『次に試す』カードで、あと案内係とまとめ係と余白カードもあります」


 一息で言った。


 教室が静かになった。


 何人かがカードを見ている。


 何人かは、もう少し困った顔をしている。


 蓮が手を挙げた。


「先生、どれを出せば勝ちですか」


「勝ち負けじゃないってば」


 美咲が言うと、教室に少し笑いが起きた。


 美咲も笑い返そうとしたが、うまく笑えなかった。


 真央は、自分の席でカードの列を見つめていた。


 カード自体は悪くない。


 どれも、美咲が大切にしている意味がある。


 でも、今の教室で、最初から全部を使うには多すぎる気がした。


 手を挙げにくい子が、カードを取るために前へ出なければならない。


 前に出る時点で目立つ。


 しかも、どのカードを取ればいいか迷う。


 迷っているうちに、よく話す子たちが先に話し始める。


 真央は、隣の席の子がカードを見て、そっと鉛筆を握り直すのを見た。


 その子は、何か言いたそうだった。


 でも、カードの多さに目が止まったまま、動けなくなっていた。


 三井先生は、教室全体を見ていた。


「美咲さん、カードの説明をありがとう。では、使ってみましょうか」


 話し合いが始まった。


 最初に蓮が『話す』カードを持った。


「黒板係、多すぎると思います。いや、多いっていうか、やることがよくわかんない」


 別の子が『反対』カードを持つ。


「でも、黒板係がいないと困る」


 美咲は、急いで黒板に書く。


『黒板係の仕事がわかりにくい』

『黒板係は必要』


 そこまではよかった。


 けれど、その後が続かない。


 何人かはカードを取りに来たが、途中で迷って戻った。


『心配』なのか、『質問』なのか、『まだわからない』なのか。


 『静かに考える』は、取った後にどうすればいいのか。


 『見るだけ』カードを取ると、本当に何もしなくていいのか。


 『余白』カードは何に使うのか。


 美咲は説明を追加しようとした。


「えっと、『余白』は、今は決まってないけど後で使えるところで、『まだわからない』は、今は決められないけど参加してないわけじゃなくて、『見るだけ』は本当に見るだけでも参加で……」


 説明が長くなる。


 教室の空気が、少し重くなる。


 蓮が小さく言った。


「やっぱカードゲームより難しい」


 何人かが笑った。


 美咲は、顔が熱くなった。


 ふざけているわけではないことはわかる。


 でも、うまくいっていない。


 いい仕組みを持ってきたはずだった。


 よりみち縁側では、みんなが使っていた。


 見るだけ席も、心配カードも、休憩札も、余白も、全部大事だった。


 なのに、自分の教室では、みんなが使いにくそうにしている。


 美咲は、手元のカードを見た。


 色とりどりで、たくさんあって、がんばって作ったカード。


 でも、今はその多さが、教室の入口をふさいでいるように見えた。


 真央が、そっと手を挙げた。


「美咲」


「なに?」


「カード、今日は少し減らしてもいいかも」


 美咲は、思わず言い返しそうになった。


 せっかく作ったのに。


 全部、意味があるのに。


 でも、真央の声は責めていなかった。


 教室の空気を見ている声だった。


 三井先生も、静かに頷いた。


「美咲さん。いったん止めて、みんなで考えてみましょう」


 美咲は、黒板の前で立ち止まった。


 その時、教室の後ろの扉が静かに開いた。


 白瀬灯理が立っていた。


 黒い上着に、使い込まれた革の鞄。


 今日は、三井先生に招かれて、学校の授業を見に来ていた。地域学習センターで始まった小さな実践が、学校の中でどう動くかを一緒に見るためだった。


 灯理は、教室の後ろに立ち、カードの並んだ黒板前を見た。


 三井先生が言った。


「白瀬先生、ちょうどよいところでした」


 美咲は、少しうつむいた。


 見られた。


 うまくいっていないところを。


 灯理は、急いで前に出ることはしなかった。


 ゆっくり教室の横を通り、美咲の近くに来た。


「美咲さん」


「はい」


「たくさん準備しましたね」


 美咲は、小さく頷いた。


「はい」


「どのカードにも、きっと大事な意味がありますね」


 その言葉で、美咲の目の奥が少し熱くなった。


 失敗した、と言われなかった。


 まず、意味を見てもらえた。


 美咲は、声を絞り出した。


「先生、いい仕組みを持ってきたはずなのに、みんなが使いにくそうなんです」


 カードの列を見た。


「よりみち縁側では、使えていたんです。見るだけ席も、質問カードも、心配カードも、休憩札も、余白も。どれも大事だったから、教室にも持ってきたくて」


 少し息を吸う。


「でも、多すぎたみたいで。何を残せばいいのかわかりません」


 灯理は、美咲の言葉を静かに受け止めた。


 そして、問いを返した。


「うん。では、学んだことを始めるとは、成功した仕組みを全部同じ形で持ってくることなのでしょうか」


 美咲は、黙った。


 成功した仕組みを、全部同じ形で持ってくる。


 自分がしたのは、まさにそれだった。


 よりみち縁側で大事だったものを、全部教室に持ってきた。


 でも、よりみち縁側と五年二組は違う。


 場所も、時間も、人数も、慣れ方も違う。


 地域学習センターには運営地図があり、みんなが時間をかけて少しずつ仕組みに慣れてきた。


 でも、教室の学級会に今日いきなりカードを並べても、同じようには使えない。


 灯理は、黒板の端に新しい枠を書いた。


『よりみち縁側で大事だったこと』


 美咲は、カードを見ながら言った。


「話さなくても参加できること」


 真央が続ける。


「困ったことを出せること」


 蓮が言った。


「休めること?」


「うん」


 美咲は頷いた。


「反対してもいいこと。まだ決まってなくてもいいこと。次に直せること」


 三井先生が黒板に書く。


『話さなくても参加できる』

『困ったことを出せる』

『休める』

『反対してもよい』

『まだ決まらなくてもよい』

『次に直せる』


 灯理は、次に別の枠を書いた。


『今日の五年二組で困っていること』


 三井先生がクラスに尋ねた。


「今日の係活動の話し合いで、いちばん困っていることは何でしょう」


 教室が少し静かになる。


 蓮が手を挙げた。


「よく話す人ばっかりになる」


 黒板に書かれる。


『話す人が偏る』


 真央が言った。


「手を挙げない人の考えが見えにくい」


『手を挙げない人の考えが見えない』


 別の子が、小さな声で言った。


「反対って言うと、けんかみたいになる」


『反対が出しにくい』


 もう一人が言った。


「係の仕事、誰が何をするのかわからないまま始まる」


『係の仕事が見えにくい』


 黒板には、今日の教室の困りごとが並んだ。


 灯理は言った。


「では、今日この時間に、一つだけ守るなら、どの意味でしょう」


 一つだけ。


 美咲は、たくさんのカードを見た。


 全部大事だ。


 でも、全部を今日守ろうとすると、入口が大きすぎる。


 今の教室で、まず必要なこと。


 よく話す人だけで決まらないようにすること。


 手を挙げない人の考えも、黒板に置けるようにすること。


 美咲は、ゆっくり言った。


「声に出さない考えも置けること」


 真央が頷いた。


「それが最初でいいと思う」


 三井先生も頷いた。


「では、そのために必要なカードは何枚でしょう」


 美咲は、カードを一枚ずつ見た。


『話す』

『書く』

『見るだけ』

『心配』

『質問』

『反対』

『休憩』

『まだわからない』

『静かに考える』

『次に試す』

『案内係』

『まとめ係』

『余白』


 全部ではない。


 今日使うなら。


 美咲は三枚を残した。


『話す』

『書く』

『まだ考え中』


 『まだわからない』のカードの名前を、少し変えた。


 まだ考え中。


 それなら、参加していない感じが少し薄くなる。


 美咲は、他のカードをそっと机の端に寄せた。


「今日は、この三つだけにします」


 蓮が言った。


「急にカード減った」


「減らしたの」


 美咲は、少しだけ笑えた。


「今日は、声に出さない考えも置けるようにするのが目的だから」


 三井先生が、付箋を配った。


「では、最初に全員、係活動で困っていることを一つ付箋に書きます。話したい人は、後で話す。話したくない人は、付箋だけでもいい。まだ決まらない人は、『まだ考え中』のカードを机に置いてください」


 教室の空気が、さっきより少し落ち着いた。


 カードが三枚になると、何をすればいいかが見えやすくなった。


 話す。


 書く。


 まだ考え中。


 それだけなら、迷いすぎない。


 鉛筆の音が、教室に広がった。


 さらさら。


 こつこつ。


 誰かが消しゴムを使う音。


 窓の外から、校庭の声が遠く聞こえる。


 美咲は、黒板の前からクラスを見た。


 手を挙げていない子も、付箋に何かを書いている。


 さっき迷っていた子も、鉛筆を動かしている。


 真央も、静かに書いていた。


 蓮は、すぐに書き終えて『話す』カードを指でつついている。


 三分後、付箋を黒板に貼った。


『黒板係の仕事が一人に戻りやすい』

『係ノートを見ていない』

『当番の日を忘れる』

『声をかける人が同じ』

『片づけが最後の人だけになる』

『やりたい係に人が集まりすぎる』

『苦手な係を言いにくい』

『何をしたら終わりかわからない』


 黒板に、たくさんの声が並んだ。


 声に出されたものだけではない。


 付箋だけで置かれたものもある。


 美咲は、胸の奥が少し温かくなった。


 これだ。


 最初から全部のカードはいらなかった。


 今の教室で守りたかったのは、まずこの光景だった。


 声に出さない考えも、黒板に置かれること。


 蓮が『話す』カードを持った。


「係ノート、たぶん俺、見てないです」


 教室に笑いが起きる。


 蓮は頭をかいた。


「いや、あるのは知ってるけど、係で何するか書いてあるって思ってなかった」


 真央が『書く』カードを机の上に置いたまま言った。


「黒板係の仕事が、一人に戻りやすいです。前に係を分けたのに、結局、字がきれいな子が書くことになる」


 三井先生が黒板に線を引く。


『係ノート』

『仕事の見え方』

『担当の戻り』


 美咲は、付箋を整理しながら言った。


「係にも、小さな引き継ぎカードを作ったらどうかな」


 蓮が聞く。


「またカード?」


 美咲は、少し慌てて首を振った。


「いっぱいじゃなくて、一枚だけ。『この係で困りやすいこと』と『次の人に渡すこと』だけ」


 真央が頷いた。


「それなら使えるかも」


 三井先生も言った。


「次回、係ごとに一枚だけ作ってみましょう」


 美咲は、黒板の端に書いた。


『次に試すこと:係の引き継ぎカード 一枚』


 その文字を見て、灯理が静かに頷いた。


 たくさんの仕組みを持ってくるのではなく、今日の困りごとから、次の一枚が生まれている。


 学級会が終わる頃、黒板には三つのカードが残っていた。


『話す』

『書く』

『まだ考え中』


 その下には、付箋がたくさん貼られている。


 美咲は、端に寄せた他のカードを見た。


 使わなかったカードたち。


 心配。


 質問。


 休憩。


 反対。


 余白。


 全部、無駄ではない。


 でも、今日使わなくてよかった。


 いつか必要になったら、その時の教室に合う形で一枚ずつ増やせばいい。


 三井先生が言った。


「美咲さん、今日のカードはどうでしたか」


 美咲は、少し照れたように笑った。


「最初、多すぎました」


 蓮がすぐに言う。


「めっちゃ多かった」


「わかってる」


 教室に笑いが起きた。


 美咲は続けた。


「でも、三つにしたら、付箋がいっぱい出ました。だから、最初はそれでよかったんだと思います」


 真央が頷いた。


「声に出さない考えも置けた」


 美咲は、学級会ノートを開いた。


 今日のまとめを書く欄に、少し考えてから一文を書いた。


『全部を持ってくるより、今この教室で守りたい一つから始めればよかった』


 書き終えると、肩の力が抜けた。


 放課後の教室は、少しだけ西日が入っていた。


 黒板には、まだ付箋の跡が残っている。


 美咲はカードを片づけていた。


 使った三枚は、別の封筒に入れる。


 使わなかったカードは、まとめて別の箱へ入れた。


 箱のふたに、こう書く。


『いつか使うかもしれないカード』


 蓮がそれを見て言った。


「カードゲーム箱だ」


「違うってば」


 美咲は笑った。


 真央は、三枚のカードを見ながら言った。


「今日の三つ、次も使えそう」


「うん」


「でも、増やすなら一枚ずつがいいね」


「うん。最初から大きくしない」


 美咲は、地域学習センターの小さな地図を思い出した。


 最初に全部わからなくても、一つ選べたら入れた。


 莉子が書いた言葉。


 自分は、その小さな地図を大きくしすぎていた。


 教室へ持ってくるなら、もっと小さくてよかった。


 夜、白瀬灯理は学校を出た。


 校門の向こうには、夕方の空が淡く広がっている。校庭には、部活動の声が遠く響き、廊下の窓には、まだ五年二組の黒板がぼんやり映っていた。


 三井先生と美咲が、玄関まで見送りに来た。


「白瀬先生、ありがとうございました」


 三井先生が言った。


「こちらこそ、教室で小さく始める時間を一緒に見せていただきました」


 灯理は静かに答えた。


 美咲は、三枚のカードを入れた封筒を持っていた。


「先生、私、よりみち縁側のことを全部持ってこようとしてました」


「はい」


「だって、どれも大事だったから。でも、教室には教室の速さがあって、みんながいきなり全部使えるわけじゃなかったんですね」


 灯理は頷いた。


 美咲は、封筒を見た。


「今日は、話す、書く、まだ考え中だけでよかったです。声に出さない考えも置けるようにしたかったから」


「はい」


「次に何か困ったら、その時に一枚増やします」


 三井先生が微笑んだ。


「小さく始めて、必要になったら直す。教室にも合いそうです」


 外には、夕方の風が静かに流れていた。


 校舎の窓から、黒板の端に残った付箋が少しだけ見える。


 そこには、今日まで声に出されなかった係の困りごとが並んでいた。


 学んだことを始めることは、成功した仕組みをそのまま持ち込むことではない。


 よい形には、必ず意味がある。


 参加方法カード。


 見るだけ席。


 心配カード。


 質問カード。


 休憩札。


 余白。


 それぞれが、誰かの困りごとから生まれ、何度も直されてきた形だった。


 けれど、その形を別の場所へ全部持っていけば、同じように働くとは限らない。


 場所が違う。


 人が違う。


 時間が違う。


 まだ慣れていない人がいる。


 説明が増えすぎると、入口が広がるどころか、かえって迷わせることもある。


 だから、まず意味を見る。


 今、この場所で何を守りたいのか。


 話さない人の考えも置きたいのか。


 休める合図が必要なのか。


 困ったことを出せる箱が必要なのか。


 まだ決めない余白が必要なのか。


 その中から、一つを選ぶ。


 小さく試す。


 使ってみて、直す。


 必要になったら、一枚ずつ増やす。


 小さく始めることは、学びを小さくすることではない。


 その場所で続けられる大きさに、意味を置き直すことだった。


 灯理は、夕暮れの校門を振り返った。


 美咲の学級会ノートには、一文が残っている。


 全部を持ってくるより、今この教室で守りたい一つから始めればよかった。


 その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。

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