第31章 第3話:点数の授業――上がらない小テスト
静かな縁側の日の地域学習センターは、いつもより音が少なかった。
多目的室の窓から、午後の光が薄く差し込んでいる。机の上には、鉛筆、消しゴム、定規、白い紙、宿題プリント、教科書が並んでいた。入口の案内板には、今日は大きな文字でこう書かれている。
『静かな縁側』
『静かに何かしたい人の日です』
『宿題、読書、絵、見るだけ、休憩ができます』
水色の小さな地図には、莉子の描いた鉛筆の絵がある。
にぎやかな活動の星は、今日は小さく右端に置かれていた。
多目的室の中央には、静かな作業席。
壁際には見るだけ席。
少し離れた場所に、学習サポートの机が三つ並んでいる。
真央は、静かな作業の机でしおり作りの材料を整えていた。莉子はその隣でスケッチブックを開き、窓辺の植木鉢を描いている。
佐伯先生は、学習サポートの席にプリントを置いた。
今日は、中学生が二人、小学生が一人、宿題を持って来る予定だった。
その中に、颯太がいた。
中学一年生。
数学が苦手で、よりみち縁側の学習サポートに何度か来ている。
最初に来た時、颯太はほとんど何も書かずにプリントを眺めていた。わからないところを聞かれても、「全部」と答えた。間違えると、答えも途中の式も全部消してしまった。
けれど最近は、少しずつ変わっていた。
途中式を書く。
わからない問題に印をつける。
質問の前に、「ここまではできた」と言う。
真央は、その変化に気づいていた。
でも、颯太本人がそれを成果だと思っているかはわからなかった。
自動ドアが開き、颯太が入ってきた。
黒いリュックを片方の肩にかけ、少しうつむいている。手には、折りたたまれた小テストの答案があった。
「こんにちは」
佐伯先生が声をかける。
「……こんにちは」
颯太は、いつもの席に座った。
机の上に小テストを置く。
紙は、何度も折った跡がついていた。
佐伯先生が、そっと尋ねた。
「小テスト、返ってきたんですね」
「はい」
「見てもいいですか」
颯太は、少し迷ってから頷いた。
小テストの点数は、前回とほとんど変わっていなかった。
十点満点中、四点。
前回も四点だった。
前々回は三点。
上がっていないわけではない。
でも、颯太が期待していたほどではない。
何度もここへ来た。
宿題を持ってきた。
わからないところを聞いた。
それなのに、点数はほとんど変わらない。
颯太は、答案を見ないように視線をそらした。
「何回もここで勉強したのに、点数上がってない」
その声は、怒っているようで、少し泣きそうでもあった。
佐伯先生は、言葉を探した。
「前々回よりは、一点上がっていますよ」
言った瞬間、少し違うと感じた。
颯太は、首を振った。
「でも、前回と同じです」
「そうですね」
「ここ来ても、意味ないのかなって」
机の上の鉛筆が、ころりと転がった。
真央が、静かな作業席からその声を聞いていた。
莉子も、鉛筆を止めた。
多目的室の空気は静かなままだったが、颯太の言葉だけが少し重く残った。
佐伯先生は、小テストを見つめた。
点数。
学校では、とても見えやすい成果だ。
上がったか。
下がったか。
平均より高いか低いか。
支援の効果を聞かれる時、真っ先に示しやすい数字でもある。
学習サポートをしているなら、点数が上がることを期待する。
それは、当然のことだった。
けれど、目の前の颯太は、点数が上がっていないことで、ここに来た時間ごと否定されそうになっている。
佐伯先生は、胸の奥が少し苦しくなった。
「颯太さん」
真央が、静かに声をかけた。
颯太が顔を上げる。
「ノート、見てもいいですか」
「ノート?」
「うん。今日の小テストだけじゃなくて、前にここでやった時のノート」
颯太は、リュックから数学のノートを出した。
少し角が折れたノート。
最初のページは、空欄が多かった。
問題番号の横に、答えだけが書かれている。
間違えたところは、消しゴムで強く消した跡が白く残っていた。
途中の式はほとんどない。
真央は、次のページをめくった。
少しずつ、式が増えている。
さらに後ろのページ。
問題の横に、丸や三角がついている。
『ここからわからない』
『符号注意』
『分母をそろえる』
『もう一回』
颯太の字で、短いメモが残っていた。
真央は、小テストとノートを並べた。
「点数は、前回と同じかもしれない」
颯太は、うつむいた。
「でも、ノートは同じじゃない」
真央は、最初のページを指した。
「ここは、答えだけ」
次に、最近のページを指す。
「ここは、途中式がある」
颯太は、少しだけ顔を上げた。
「それは、書けって言われたから」
「でも、書いた」
真央は静かに言った。
「前は、書かなかった」
佐伯先生も、ノートを見た。
確かに、途中式が増えている。
空欄も少ない。
全部正解ではない。
でも、どこで間違えたのかが見える。
以前は、白い空欄と消し跡だけだった。
今は、つまずいた場所が残っている。
莉子が、スケッチブックの上で鉛筆を止めたまま言った。
「前は、間違えたら全部消してた」
颯太が莉子を見る。
莉子は少し慌てた。
「あ、見てたっていうか、隣の席だったから」
颯太は、何も言わない。
莉子は続けた。
「今日は、小テストの間違えたところ、赤で残してる」
颯太は、答案を見る。
確かに、佐伯先生と一緒に見直した時、間違えた問題に赤で印をつけた。
前なら、すぐにしまっていた。
できれば見たくなかった。
でも今日は、どこで間違えたかを見た。
分配法則の符号。
約分の忘れ。
問題文の読み違い。
答えは間違っている。
でも、間違い方は見えている。
颯太は、答案を指で押さえた。
「でも、点数は上がってない」
その言葉は、まだ消えない。
佐伯先生は頷いた。
「はい。点数は、まだ上がっていません」
ごまかさないように言った。
点数を否定してはいけない。
点数は、颯太にとって大事な現実だ。
上がらなかった悔しさも、本物だ。
その時、白瀬灯理が静かに机の近くへ来た。
黒い上着に、使い込まれた革の鞄。
灯理は、小テストとノートを見た。
そして、颯太の正面ではなく、少し斜めの位置に腰を下ろした。
「颯太さん」
「はい」
「点数が上がらなかったことが、悔しいのですね」
颯太は、小さく頷いた。
「はい」
「では、その悔しさを消さずに、ほかに何が見えるかも、一緒に見てみましょうか」
颯太は、少し眉を寄せた。
「ほかに?」
「はい」
颯太は、しばらく黙っていた。
そして、ぽつりと言った。
「先生、点数が上がってないなら、勉強したことにならないんですか」
その言葉に、佐伯先生の表情が揺れた。
真央も、莉子も、動きを止めた。
灯理は、颯太の問いを静かに受け止めた。
そして、問いを返した。
「うん。では、学びの成果は、次の小テストの点数にすぐ現れたものだけなのでしょうか」
颯太は、すぐには答えられなかった。
点数に現れたもの。
それは、わかりやすい。
四点。
前回と同じ。
その数字は、答案の上に赤く書かれている。
でも、点数にすぐ現れなかったものは、本当に何もないのか。
灯理は、中央の机に白い紙を置いた。
『点数の手前にある学び』
その下に、欄を作る。
『点数』
『空欄』
『途中式』
『自分で直せた問題』
『質問できた問題』
『まだわからない問題』
『間違いを残せた』
『次に試すこと』
佐伯先生が、颯太に確認した。
「この表、作ってみてもいいですか」
颯太は、少し迷ってから頷いた。
「別に、いいです」
まず、点数。
『四点』
颯太は、そこに小さく書いた。
数字を書くのは少し嫌だった。
でも、隠さなかった。
次に、空欄。
佐伯先生が小テストを見た。
「今回は、空欄は一つですね」
「前は?」
真央が、前回の記録を見る。
「前回は三つ」
颯太は、少し驚いた顔をした。
「そうだっけ」
「うん」
佐伯先生が書く。
『空欄:三つから一つ』
次に、途中式。
真央が数えた。
「前回は、途中式が二問分。今回は五問分あります」
颯太は、少し口をとがらせた。
「書いたけど、間違ってた」
「でも、どこで間違えたか見える」
真央の声は静かだった。
佐伯先生が書く。
『途中式:二問から五問』
次に、自分で直せた問題。
佐伯先生が、見直しの時のメモを確認した。
「この計算問題、符号の間違いに自分で気づきましたね」
「言われてからです」
「でも、最後に直したのは自分です」
颯太は、何も言わなかった。
佐伯先生が書く。
『自分で直せた問題:一問』
次に、質問できた問題。
真央が言った。
「今日は、『ここからわからない』って言えました」
颯太は、少し恥ずかしそうにする。
「だって、全部わかんないって言うと、どこからやればいいかわかんないから」
灯理が頷いた。
「大切な気づきですね」
佐伯先生が書く。
『質問できた問題:二問』
『ここからわからない、と言えた』
次に、まだわからない問題。
颯太は、小テストの最後の文章題を指した。
「これは、まだわからないです。何を式にすればいいのか」
佐伯先生が書く。
『まだわからない:文章題の式の立て方』
次に、間違いを残せた。
莉子が、小さく手を挙げた。
「これ、書いていいですか」
颯太は、少し驚いた顔で莉子を見た。
「別に」
莉子は、紙の端に書いた。
『間違いを全部消さなかった』
その下に、小さな消しゴムの絵を描いた。
颯太は、それを見て、少しだけ笑った。
「消しゴム、弱そう」
莉子はむっとした顔をした。
「消しすぎない消しゴムだから」
真央が少し笑った。
多目的室の空気が、少しだけ軽くなった。
最後に、次に試すこと。
颯太は、しばらく考えた。
「文章題」
佐伯先生が聞く。
「文章題をどうしますか」
「問題文に線引く。数字のところだけじゃなくて、何を聞かれてるかのところ」
真央が頷いた。
「いいと思う」
佐伯先生が書く。
『次に試す:文章題で、何を聞かれているかに線を引く』
白い紙には、点数以外の情報が並んだ。
四点。
空欄は減った。
途中式は増えた。
自分で直せた問題が一つある。
質問できた問題が二つある。
まだわからない問題が一つ見えている。
間違いを消さずに残せた。
次に試すことがある。
颯太は、その紙を見つめた。
「でも、これ、点数には入らないですよね」
佐伯先生は、すぐに否定しなかった。
「小テストの点数には、入りません」
颯太の表情が少し沈む。
佐伯先生は続けた。
「でも、次の点数につながるかもしれない学び方の変化です。点数とは別に、記録しておく意味があります」
灯理が言った。
「点数は、ある時点でできたことを示します。けれど、学び方の変化は、次にどう学べるかを示します。どちらも見ます」
どちらも。
颯太は、その言葉を繰り返すように、紙の上を見た。
点数を見ないわけではない。
四点は四点。
それは変わらない。
でも、四点の横に、別のことが書かれている。
空欄が減った。
途中式が増えた。
質問できた。
間違いを残せた。
次に試すことがある。
その横の欄があるだけで、四点の見え方が少し変わった。
それは、満足ではない。
でも、全部だめではない。
佐伯先生は、学習サポート記録の様式を出した。
今までの欄は、こうだった。
『参加日』
『教科』
『内容』
『テスト結果』
青柳さんが報告書用に集めている記録でも、点数の変化が中心だった。
佐伯先生は、今日の紙を見ながら、新しい欄を足していった。
『点数』
『空欄の数』
『途中式を書いた数』
『自分で直せた問題』
『質問できた問題』
『まだわからない問題』
『次に試す解き方』
『今日残した間違い』
真央が言った。
「『わからないと言えた』も入れたいです」
佐伯先生は頷いた。
『わからないと言えた場所』
莉子が言った。
「『消さずに残した』も」
颯太が少し笑った。
「それ、そんな大事?」
莉子は真面目に頷いた。
「大事だと思う。絵も、変な線を全部消すと、どこを直したかわからなくなるから」
颯太は、少し考えた。
「数学と絵、一緒?」
「全部は違うけど、消しすぎると見えなくなるのは一緒かも」
真央が頷いた。
「間違いは、次に直す場所だから」
その言葉に、颯太は少し黙った。
間違いは、隠したいものだった。
赤で直されると恥ずかしい。
ノートに残っていると、できない自分を見せられているみたいだった。
でも、間違いが残っていなければ、どこを直せばいいかわからない。
崩れた場所を、次に作り直すために見えた場所だと言っていた彩花の話を、真央が以前教えてくれたことがある。
数学の間違いも、少し似ているのかもしれない。
佐伯先生は、颯太に尋ねた。
「今日の記録、自分のノートにも貼りますか」
颯太は、少し迷った。
「点数も書いてあるし」
「点数を隠さないで、横に学び方も書く形です」
颯太は、紙をもう一度見た。
四点。
その横に、いくつもの欄。
少しだけ、頷いた。
「貼ります」
真央が、のりを持ってきた。
颯太は、自分の数学ノートの新しいページに、今日の記録を貼った。
その下に、佐伯先生が小さく欄を作る。
『今日の一文』
颯太は、ペンを持ったまま止まった。
何を書くか、すぐには思いつかなかった。
点数が上がらなかった。
それは、まだ悔しい。
でも、どこでつまずいたかは、前より見えている。
颯太は、ゆっくり書いた。
『点数はまだ上がっていない。でも、どこでつまずいたかは前より見えるようになった』
書き終えてから、颯太は少し照れたようにノートを閉じた。
「これ、次も書くんですか」
佐伯先生は微笑んだ。
「書けたら。毎回同じでなくてもいいです」
「点数上がったら、点数も書きます」
「もちろん」
「下がったら?」
佐伯先生は、少し考えた。
「下がった時も、点数は書きます。その横に、何が起きたかも書きます」
颯太は、嫌そうな顔をしながらも、小さく頷いた。
「わかりました」
その日の終わり、学習サポートの机には、颯太の使った小テストとノート、途中式の残った紙が並んでいた。
真央は、静かな作業記録に書いた。
『颯太さん、点数は前回と同じ。途中式が増えた。空欄が減った。文章題で何を聞かれているかに線を引くことを次に試す』
莉子は、スケッチブックの端に、小さな消しゴムの絵を描いた。
その消しゴムは、全部を消さず、間違いの横に小さな旗を立てている。
颯太がそれを見て言った。
「その消しゴム、やっぱ変」
莉子は言い返した。
「変じゃない。見つける消しゴム」
「消してないじゃん」
「だから、見つける消しゴム」
颯太は、少し笑った。
小テストの点数は上がっていない。
それでも、その笑いは、今日初めて出たものだった。
夕方、白瀬灯理は地域学習センターを出た。
ガラス扉の向こうには、静かな縁側の案内板が残っている。水色の小さな地図の鉛筆の絵が、廊下の明かりに照らされていた。多目的室の机には、学習サポート記録の新しい用紙が重ねられている。
佐伯先生が、玄関まで見送りに来た。
「白瀬先生、ありがとうございました」
「こちらこそ、点数の横に学び方の変化が見えていく時間を一緒に見せていただきました」
佐伯先生は、少し苦笑した。
「点数は、やはり気になります」
「はい」
「本人にとっても、学校にとっても、大切な数字です。そこをごまかしてはいけないと思います」
灯理は頷いた。
「はい」
「でも、点数だけを見ると、今日の颯太さんの変化を見落とすところでした。空欄が減ったこと。途中式が増えたこと。質問できたこと。間違いを消さずに残したこと」
佐伯先生は、学習記録の用紙を見た。
「点数が上がる前に、学び方が変わることがあるんですね」
外には、夕方の風が静かに流れていた。
センター前の道を、颯太がリュックを背負って歩いている。手には、小テストを挟んだ数学ノート。隣では、莉子がスケッチブックを抱えて、消しゴムの絵について何か説明していた。
颯太は、少し面倒くさそうに聞きながらも、途中で一度笑った。
学びの成果を見ることは、点数を見ないことではない。
点数は、大切だ。
できたこと、まだできていないことを、はっきり示す。
本人の悔しさも、期待も、そこに乗る。
だから、点数を隠さない。
四点なら四点。
上がらなかったなら、上がらなかった。
その事実を消さない。
けれど、点数だけで学びを閉じない。
空欄が減った。
途中式が増えた。
どこからわからないか言えた。
質問できた。
自分で直せた。
間違いを消さずに残せた。
次に試すことが見えた。
まだわからない問題を、まだわからないと言えた。
それらは、点数の代わりに置く慰めではない。
次の点数へ向かうための、学び方の足跡だった。
灯理は、夕暮れの地域学習センターを振り返った。
颯太の学習ノートには、一文が残っている。
点数はまだ上がっていない。でも、どこでつまずいたかは前より見えるようになった。
その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。




