第22章 第1話:引き継ぎノートの授業――読まれない去年の失敗
遥斗は、分厚い引き継ぎノートを開けなかった。
文化祭実行委員会の会議室には、放課後の熱が残っている。
窓際に寄せられた長机。
折り畳み椅子。
去年使った看板の一部。
色あせた装飾の花。
段ボール箱に詰め込まれたガムテープ、紐、マジック、養生テープ。
黒板には、野沢先生が大きく書いた文字が残っていた。
『第七十二回文化祭実行委員会 第一回会議』
遥斗は、その文字を見るたびに背筋が伸びる気がした。
今年の文化祭実行委員長。
自分で立候補した。
去年の文化祭は、正直、ひどかった。
展示の準備が間に合わなかったクラスがあった。
ステージ発表の順番変更が伝わらず、舞台袖で混乱した。
装飾班と音響班の予定が重なり、体育館を取り合うようになった。
備品リストは古く、当日になって足りないものがいくつも出た。
係の仕事は一部の生徒に偏り、最後の一週間は、去年の実行委員長だった紗季先輩が毎日のように泣きそうな顔で走り回っていた。
遥斗は、そんな文化祭を見ていた。
今年は、ああならないようにしたい。
だから実行委員長になった。
だから、ちゃんとやる。
そう決めていた。
野沢先生が、棚の奥から一冊のノートを持ってきた。
黒い表紙の大学ノート。
表紙の角は少し折れ、背表紙には透明テープが何重にも貼られている。付箋が何十枚も飛び出していて、横から見ると紙の束が少しふくらんでいた。
「これが去年の引き継ぎノートだ」
野沢先生は、机の中央に置いた。
「去年の実行委員が、最後にかなり詳しく書いてくれている。今年は、まずこれを読むところから始めよう」
委員たちの視線がノートに集まる。
遥斗は、表紙に貼られた付箋を読んだ。
『最初に読んでください』
『失敗したところ』
『来年は早めに』
『本当に気をつけて』
『一人で抱えないこと』
胸の奥が重くなった。
失敗。
気をつけて。
一人で抱えないこと。
その文字を見るだけで、去年のばたばたした廊下の音が蘇る。
紗季先輩が職員室前で資料を抱えて立ち尽くしていた姿。
誰かが「聞いてない」と怒っていた声。
先生が「どうして先に確認しなかったんだ」と言った声。
遥斗は、ノートから目をそらした。
委員の一人が言った。
「去年、そんなに大変だったんですか」
別の生徒が肩をすくめる。
「でも、去年のこと読んでも暗くならない?」
「今年は今年でやればいいんじゃない?」
「先輩の失敗を読むみたいで、ちょっと気まずい」
遥斗は、頷いた。
「必要なところだけ、あとで見ればいいと思う」
野沢先生は少し眉を寄せた。
「本当にいいのか」
「最初から失敗ばかり見ても、動きにくくなるので」
遥斗は、もっともらしく言った。
「今年の予定を先に決めます」
そう言えば、前向きに聞こえると思った。
でも本当は、怖かった。
去年の失敗を読んだら、今年も同じように失敗する気がした。
ノートを開いた瞬間、去年の混乱が今年の会議室に流れ込んでくるような気がした。
だから、遥斗はノートを閉じたまま、会議を始めた。
最初の二週間は順調に見えた。
テーマが決まった。
ポスターの募集日程も決まった。
ステージ発表の希望調査も配った。
各クラスの展示責任者も集まった。
遥斗は、黒板に予定を書き、委員たちに役割を振り分けた。
「連絡係は莉子。備品管理は大和。装飾班の調整は美緒。ステージ関係は俺が見る」
野沢先生は、少し心配そうに見ていた。
「ステージ関係を一人で見るのは大変じゃないか」
「大丈夫です」
遥斗は即答した。
「去年みたいに混乱しないように、俺がまとめます」
その言葉を言った時、自分が少し紗季先輩に似ていることに気づかなかった。
三週間目、問題が出始めた。
装飾班が体育館を使いたい日と、ステージ班のリハーサル希望日が重なった。
備品リストには「延長コード十本」と書いてあったが、実際に倉庫にあったのは六本だった。
クラス展示の配置図を作る係が決まっていなかった。
放送機材の確認を誰が先生に頼むのかも曖昧だった。
文化祭当日のシフト表には、空欄が目立っている。
そして、連絡は莉子に集中した。
「莉子、二年三組に時間変更伝えた?」
「莉子、ポスターの締切、何日だっけ」
「莉子、体育館の鍵って誰に聞くの?」
「莉子、先生に確認しといて」
莉子は最初、笑っていた。
でも、日が経つにつれ、返事が遅くなった。
委員会の終わりに、莉子はプリントの束を抱えたまま言った。
「遥斗、これ、全部私がやるんだっけ」
遥斗は、手元の予定表から顔を上げた。
「え?」
「連絡。クラスにも、先生にも、委員にも。全部、私のところに来てる」
「ああ、ごめん。あとで分ける」
「あとでって、いつ?」
莉子の声は少し尖っていた。
遥斗は言葉に詰まった。
あとで。
その「あとで」がどんどん溜まっている。
野沢先生が言った。
「一度、役割分担を見直した方がいい」
「でも、今止めると遅れます」
「止めないから遅れることもある」
遥斗は、返事をしなかった。
会議室の棚の上には、黒い引き継ぎノートが置かれたままだった。
付箋が、風もないのに少し開いているように見えた。
遥斗は、それを見ないふりをした。
翌日、ステージ発表の順番変更が、一つのクラスに伝わっていなかったことがわかった。
そのクラスの代表が会議室に来て言った。
「聞いてないんですけど」
遥斗は、書類を探した。
「いや、昨日の委員会で」
「うちの委員、部活で来られなかったんです。連絡するとか言ってませんでした?」
遥斗は、連絡係の莉子を見た。
莉子は、疲れた顔で言った。
「私、聞いてない」
会議室の空気が悪くなる。
野沢先生が間に入った。
「まず、今から調整しよう」
遥斗は、胸の奥がざわざわした。
去年と同じだ。
聞いてない。
伝わってない。
誰がやるのか決まってない。
同じ音が、今年の会議室に響いている。
放課後、遥斗は一人で会議室に残った。
机の上には、修正だらけの予定表と、空欄のシフト表。
莉子から渡された連絡メモ。
備品不足のリスト。
先生への確認事項。
どれも途中だった。
遥斗は、棚の上の引き継ぎノートを見た。
黒い表紙。
飛び出した付箋。
その存在が、責めているように見えた。
開かなかったからこうなった。
去年の失敗を見なかったから、同じことが起きている。
遥斗は、ノートに手を伸ばしかけた。
でも、指先が触れる前に止まった。
開くのが怖い。
開いたら、自分の失敗がはっきりする。
その時、会議室の扉が静かに開いた。
黒い上着に、使い込まれた革の鞄。
白瀬灯理だった。
文化祭実行委員会の活動支援として学校に来ている先生だった。
灯理は、机の上の予定表と、棚の上のノートを見た。
「遥斗さん」
「はい」
「まだ残っていたのですね」
「少し、整理を」
遥斗は、資料を重ねようとした。
でも、紙の山は余計に崩れた。
灯理は、黒いノートに目を向けた。
「そのノートは、去年のものですか」
「はい」
「読んでいますか」
遥斗は、少し黙った。
「……読んでません」
「なぜでしょう」
遥斗は、椅子に座ったまま、手を握った。
「先生、去年の失敗を読んだら、今年も失敗する気がするんです」
灯理は、ノートを見た。
付箋だらけの、重そうなノート。
遥斗は続けた。
「去年、大変だったのは知っています。紗季先輩が泣きそうになってたのも見てました。だから今年は、ちゃんとやりたかった。でも、ノートを読んだら、去年の失敗が全部こっちに来るみたいで」
声が少し小さくなる。
「それに、先輩の失敗を読むみたいで嫌でした」
灯理は、責めなかった。
ただ、いつものように問いを返した。
「うん。では、失敗の記録は、失敗を繰り返すために残されているのでしょうか」
遥斗は、顔を上げた。
「違うとは思います」
「はい」
「でも、読むと怖いです」
「怖いまま、読み方を変えることはできるかもしれません」
灯理は、黒いノートを机の中央に置いた。
まだ開かない。
「このノートを、去年を責めるためではなく、今年を助ける地図に編集してみませんか」
翌日の委員会で、灯理は黒板に大きく書いた。
『失敗を使える地図にする』
委員たちは、少し緊張した顔で座っている。
机の中央には、引き継ぎノート。
野沢先生も、いつもより真剣な表情で立っていた。
灯理は言った。
「今日は、去年の失敗を責める時間ではありません。失敗の記録を、今年の準備に使える形へ変える時間です」
黒板に項目が並ぶ。
『何が起きたか』
『なぜ起きたか』
『次に何を早めに決めるか』
『誰に聞くか』
『何日前に確認するか』
『一人に集中した仕事』
『見えなかった負担』
『今年のチェックリストに変える』
『ありがとうを残す欄』
遥斗は、ノートの表紙に手を置いた。
指先が少し冷たい。
それでも、開いた。
一ページ目には、紗季先輩の字があった。
『来年の実行委員へ』
遥斗は、声に出して読もうとして、喉が詰まった。
莉子が横から言った。
「私が読む」
遥斗は頷いた。
莉子は、ゆっくり読み始めた。
『まず、去年の文化祭を最後までやりきってくれてありがとう、と言ってもらえたけれど、正直、私は何度もやめたいと思いました。楽しい行事のはずなのに、最後の一週間は誰が何をしているのかわからなくなって、連絡が全部自分のところに来て、泣きながら家で表を直しました。』
会議室が静かになる。
『このノートは、去年の私たちを責めるためではなく、来年の誰かが同じことで泣かないために書きます。読みにくいところもあると思います。でも、どうか最初に読んでください。』
遥斗の胸がきゅっと痛くなった。
最初に読んでください。
その付箋を、自分は見ていた。
見ていたのに、開かなかった。
灯理は言った。
「まず、このページから何がわかりますか」
委員の一人が言った。
「連絡が一人に集中した」
別の生徒が続ける。
「誰が何をしているかわからなくなった」
「最後の一週間に負担が集まった」
灯理は、黒板の『何が起きたか』の欄に書いた。
次に、『なぜ起きたか』。
遥斗は、ノートの次のページを読んだ。
『係名は決めたけれど、具体的な仕事の範囲を決めていなかった。連絡係と書いたせいで、全部の連絡が一人に集まった。』
莉子が小さく息を吐いた。
「今年も同じだ」
遥斗は、謝ろうとした。
でも、灯理が先に言った。
「では、今年のチェックリストに変えると、どうなりますか」
莉子は少し考えた。
「連絡係を一人にしない」
大和が言った。
「連絡先ごとに分ける。クラス連絡、先生連絡、委員内連絡」
美緒が続ける。
「それぞれに副担当をつける」
野沢先生が言った。
「先生への確認は、必ず記録に残す。口頭だけにしない」
遥斗は、今年用のチェックリストに書いた。
『連絡担当を三つに分ける』
『各担当に副担当を置く』
『連絡した日・相手・内容を共有表に書く』
『欠席した委員への連絡方法を決める』
『先生確認は記録に残す』
去年の失敗が、そのまま今年の作業になっていく。
責める言葉ではなく、使える項目になっていく。
次のページには、備品のことが書かれていた。
『延長コードは十本必要と書いたが、実際には六本しかなかった。去年の備品リストを信じてしまい、倉庫確認が遅れた。当日、他の先生に借りて回った。』
大和が頭を抱えた。
「今年もまだ倉庫見てない」
遥斗は言った。
「明日、確認する」
灯理が問いかける。
「明日、誰が、何を、どの表に記録しますか」
遥斗は、慌てて書いた。
『備品確認:大和・遥斗』
『明日十六時』
『倉庫で実数確認』
『不足分は一週間以内に先生へ相談』
『リスト更新日を書く』
次のページ。
『体育館使用予定を、装飾班とステージ班で別々に管理していたため、直前に重なった。共通カレンダーが必要。』
美緒が言った。
「これも今年もう重なってる」
委員たちは顔を見合わせた。
重い空気になるかと思った。
でも、すぐに動きが生まれた。
「共通カレンダー作ろう」
「紙とオンライン両方がいい」
「変更した人の名前を書く」
「一日一回、帰る前に確認」
遥斗は、チェックリストに追加した。
ノートは、怖いものではなくなり始めていた。
もちろん、読むたび胸は痛んだ。
去年の失敗は、具体的だった。
紗季先輩の苦しさも、紙の端から伝わってくる。
けれど、それは遥斗たちを責めるために書かれたものではなかった。
同じ場所で転ばないように、石の位置を教えてくれる地図だった。
その日の終わり、灯理は言った。
「このノートを書いた紗季さんに、話を聞けますか」
委員たちは少し驚いた。
遥斗は、すぐには答えられなかった。
「先輩、来てくれますかね」
「聞いてみましょう」
野沢先生が言った。
「実は、去年の後、私も紗季さんと十分に振り返りができていませんでした」
野沢先生の声には、後悔が混じっていた。
「生徒に任せすぎたところがありました。私も、話を聞く必要があります」
数日後、紗季が学校に来た。
卒業生になった紗季は、私服姿で少し大人びて見えた。
けれど、会議室の前に立つと、表情が固くなった。
「本当に、私が話していいんですか」
野沢先生が頷いた。
「来てくれてありがとう」
遥斗は、椅子から立ち上がった。
「紗季先輩、ノート、読ませてもらいました」
紗季の肩が少しこわばる。
「嫌だったでしょ」
「最初は、怖かったです」
遥斗は正直に言った。
「去年の失敗を読むのも、先輩が大変だったことを見るのも。でも、読んだら、今年の準備が変わりました」
莉子が続けた。
「連絡係、分けました。先輩のノートに、一人に集中したって書いてあったから」
大和も言う。
「備品も実数確認しました。延長コード、今年も足りませんでした」
紗季は、少し目を見開いた。
「今年も?」
「はい。でも、早めにわかりました」
美緒が笑った。
「体育館予定も共通カレンダーにしました」
紗季は、机の上のチェックリストを見た。
自分が泣きながら書いたノートの内容が、今年の紙に書き換えられている。
責める言葉ではなく、準備の項目として。
紗季は、椅子に座った。
少し黙ってから言った。
「去年のことを、責めてほしかったんじゃない」
声が小さかった。
「私ができなかったことを、来年の人に見せるのは恥ずかしかった。正直、ノートも捨てたかった。でも、同じことで誰かが泣くのは嫌だった」
会議室は静かだった。
紗季は、引き継ぎノートの表紙を撫でた。
「だから書きました。うまくできたことより、しんどかったことを。ここで確認すればよかったとか、この仕事は一人にしちゃだめとか、先生にもっと早く言えばよかったとか」
野沢先生が、深く頭を下げた。
「紗季さん、去年、私ももっと見えるようにするべきでした」
紗季は驚いた。
「先生が謝ることじゃ」
「いや、謝らせてください。生徒の自主性と言いながら、負担が見えなくなっていました」
野沢先生は、今年のチェックリストを見た。
「今年は、実行委員だけに任せるのではなく、負担が見える仕組みを一緒に作ります」
紗季は、少し目を伏せた。
そして、安心したように息を吐いた。
灯理は、委員たちに新しいページを配った。
『引き継ぎノートを読む人へ』
そこには、三つの欄があった。
『去年の人にありがとう』
『今年の自分たちが使うこと』
『来年の誰かに残すこと』
遥斗は、最初の欄に書いた。
『紗季先輩、泣きながらでもノートを残してくれてありがとうございました』
莉子は書いた。
『一人に集中した仕事を教えてくれて助かりました』
大和は書いた。
『延長コードのこと、今年は早めに気づけました』
美緒は書いた。
『失敗を書いてくれたから、予定表を作り直せました』
紗季は、そのカードを読んで、目を赤くした。
「書いてよかった」
小さく言った。
文化祭準備は、その後も順調だけではなかった。
ポスターの印刷が遅れた。
ステージ発表の時間調整でまた揉めた。
当日シフトにも穴が出た。
展示用のパネルが一枚壊れていた。
完璧な準備などなかった。
でも、今年の実行委員会は、問題が起きた時にノートを開いた。
『去年はどうしていたか』
『どこで詰まったか』
『誰に聞くと早いか』
『何日前に確認すべきか』
そして、今年の記録も残した。
『今年はこの方法でうまくいった』
『この連絡方法は遅かった』
『副担当を置いたら助かった』
『先生に確認する日を固定した方がよい』
『ありがとう:二年生の装飾班が片づけを手伝ってくれた』
失敗だけではなく、ありがとうも残す。
誰かの負担が見えた時には、その名前を責めるのではなく、次はどう分けるかを書く。
文化祭前日の夕方、遥斗は会議室で引き継ぎノートを開いていた。
黒い表紙のノートの後ろに、今年用の薄いファイルが追加されている。
チェックリスト。
共通カレンダー。
備品リスト。
当日シフト表。
連絡記録。
ありがとうカード。
そして、新しい最初のページ。
遥斗は、そこに大きな付箋を貼った。
『これは去年を責めるノートではなく、今年を助けるノートです』
少し考えて、その下にもう一枚貼る。
『そして、今年の失敗は、来年の誰かを守るために書きます』
書き終えると、遥斗は深く息を吐いた。
去年の失敗を読むのは、まだ少し怖い。
自分たちの失敗を残すのも、恥ずかしい。
でも、失敗を隠すと、次の誰かが同じ場所で転ぶ。
ノートは、恥を残すためのものではない。
道を残すためのものだ。
文化祭当日。
朝の校舎には、少し浮き立った空気があった。
教室からは準備の声。
体育館からはマイクチェックの音。
廊下には紙の花と、手作りの看板。
校門には、今年のテーマが掲げられている。
もちろん、当日も小さな混乱は起きた。
予定より早く来た来賓。
迷子になった小学生。
不足した養生テープ。
音響の小さなトラブル。
けれど、今年の実行委員たちは、一人に任せなかった。
「連絡は共有表に書いて」
「先生確認、野沢先生に行く」
「備品は予備箱にある」
「シフト空いたところ、二人で入ろう」
「ステージ変更、放送と掲示で両方出す」
遥斗は、廊下を走りながら、ふと去年の紗季先輩を思い出した。
去年、先輩は一人で走っていた。
今年、遥斗は走っている。
でも、一人ではなかった。
文化祭が終わった後、実行委員たちは会議室に集まった。
机の上には、黒い引き継ぎノートと今年のファイル。
疲れた顔。
少し眠そうな目。
でも、どこか晴れた表情。
野沢先生が言った。
「お疲れさま」
委員たちは拍手した。
遥斗は、引き継ぎノートを開いた。
最後のページに、今年のまとめを書く。
『今年うまくいったこと』
『今年困ったこと』
『来年早めに決めた方がよいこと』
『一人にしない仕事』
『ありがとう』
莉子が言った。
「連絡係は三つに分けてよかった。でも、欠席者への連絡はもっと早く仕組み化した方がいい」
大和が言う。
「備品リストは写真付きにした方がいい。倉庫のどこにあるかも」
美緒が続ける。
「装飾の片づけ時間、短すぎた。来年は一時間多く取る」
遥斗は、それを書いた。
最後に、引き継ぎノートの新しいページへ一文を書く。
『去年の失敗は、今年の誰かを守るために読まれる』
少し迷ってから、もう一文足した。
『今年の失敗も、来年の誰かを守るために残す』
ペンを置くと、遥斗はようやく笑った。
夕方、灯理は文化祭後の校舎を歩いた。
廊下には、片づけられた装飾の紙片が少し残っている。体育館からは、パイプ椅子を重ねる金属音が聞こえた。窓の外では、夕焼けが校庭を淡く染めている。
会議室では、野沢先生が引き継ぎノートを棚に戻していた。
今年のファイルは、黒いノートの隣に並べられている。
「白瀬先生、ありがとうございました」
野沢先生が言った。
「こちらこそ、失敗が次の地図になる時間を一緒に見せていただきました」
野沢先生は、ノートの背表紙を見た。
「去年、私はこのノートを『生徒が残してくれたもの』として棚にしまっただけでした」
「はい」
「読む時間を作らなければ、残したことにならないのですね。使える形に編集して、次の準備に組み込んで、初めて引き継ぎになる」
灯理は頷いた。
「記録は、読まれて初めて次の人に届きますね」
野沢先生は、少し苦笑した。
「失敗を見せるのは、教師も怖いです。でも、見せないままにすると、生徒が同じ場所で苦しむ」
会議室の机の上には、遥斗が書いた一文のコピーが置かれていた。
去年の失敗は、今年の誰かを守るために読まれる。
夜、灯理は学校を出た。
校門には、文化祭のテーマ看板がまだ残っている。片づけの終わった校舎は静かで、昼間のにぎわいが遠い波のように引いていた。
灯理は鞄を肩にかけ直した。
中には、古い染物工房から届いた依頼状が入っている。
けれど、まだ開かなかった。
失敗を受け継ぐことは、恥を残すことではない。
うまくいかなかったこと。
連絡が途切れたこと。
仕事が一人に集中したこと。
確認が遅れたこと。
誰かが泣きそうになったこと。
それらを、責めるためだけに読むなら、記録は重くなる。
けれど、問いを変えれば、記録は地図になる。
何が起きたのか。
なぜ起きたのか。
次は何を早めに決めるのか。
誰に聞くのか。
何日前に確認するのか。
一人にしないために、どう分けるのか。
そして、誰にありがとうを残すのか。
失敗は、繰り返すために残されているのではない。
次の誰かが、同じ場所で迷わないために残されている。
灯理は、夕闇の校舎を振り返った。
会議室の棚には、黒い引き継ぎノートと今年のファイルが並んでいる。
その新しいページには、遥斗の字で一文が残っている。
去年の失敗は、今年の誰かを守るために読まれる。
その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。




