ep.91 英雄の契約
女神の神殿―
白い内壁と緑が混じる大広間の中心には真っ白な丸い机と椅子が置かれ、そこに一人の少女と神が向かい合う姿があった。他に人間の姿は無く、だだっ広い室内には噴水の跳ねる音だけが響いている。
少女は鮮やかな橙色の髪を腰まで伸ばし、黒のドレスの装いで、それとは対照的に女神は白銀の髪、純白のドレス。無表情のまま紅茶を啜る少女と、それを笑顔で見つめる女神。沈黙を破ったのは少女の方からだった。
「何故、私なのだ?」
「貴女しかいないのですよ〜。彼の側に居ながら、忠誠を誓った訳でもない人間は」
少女は女神の顔を見据える。笑みを浮かべ、糸のように細められたその瞳からは、彼女の本当の感情を読み取ることは出来ない。どちらにせよ、人間風情が神の真意を理解しようだなんて、不可能な話だ。
「私には―鍛錬は疎か、戦闘の経験だってないのだぞ?」
「そこは問題無いかと〜。女神の加護がどれ程の影響をもたらすか、彼を近くで見てきた貴女なら理解出来るでしょ〜?」
―女神の加護
人間達からの信仰心を糧にこの世への干渉力を強める神達とは違い、女神の加護に選ばれた人間は、無条件で天界から直接神通力を持ち込むことができる。
つまり、女神の加護を持つ者はこの人間界において、神より上の存在に成るといっても過言ではない。加護とはそれほど絶大な効果をもたらす契約だ。
「―だが、彼の強さは加護によるものだけでは無い。力を剥奪されても尚、女神である君が手を拱いているのがその証拠では無いか?」
少女から痛い現実を突きつけられると、女神は子供のように頬を膨らませ、机をパシパシと平手で何度も叩いた。
「ええ、よくわかってますとも〜!彼は唯一、私が―した“人間”ですから〜。でも仕方が無いじゃないですか〜。彼のせいで私は半分以上もの力を失ってしまったのです〜!」
先程から幼稚な態度を取り続ける女神に、
真剣味は全く感じられない。
少女の方はそれを気にする素振りすら無いが
「正直に言わせてもらうと…全てを知ったうえで、君の自業自得としか思えぬ話だ。私は断らせてもらおう」
これで話は終わりとばかりに、少女は飲みかけのカップをゆっくりと机に戻し、入り口の扉を見据えて椅子から腰を浮かせた。
「本当に大丈夫ですか〜?貴女が一番良く知ってる筈ですよねぇ〜。魔族に国を―全てを奪われた貴女なら。ねぇ、お姫様」
女神の言葉を聞き、少女は浮かせた腰を再び椅子に降ろす。しかし、女神の方へと向き直すことはせず、入り口に視線を向けたまま―
なにか思うところがあったのか、少女は先程までの綺麗な姿勢を崩し、左腕で頬杖を付くと、目を合わせることなく女神へ問いかけた。
「私の過去と彼にどのような関係があると言うのだ?」
「アレスは―女神の加護を剥奪された彼は、私に対抗する力を得る為に魔王の核を身体に取り込んでしまったのですよ〜」
「…魔王の核だと?」
「邪神である魔王の根源…恐らく人の身では破壊しきれなかったのでしょうね〜。全盛期の私でさえもアレを壊せるかは怪しいです〜。とはいえ隠し持っていたのは許しがたい」
「…このままでは彼が後の魔王となり得るとでも?」
「ええ、その通りです〜。しかし、問題なのは彼の影響力ですよ〜。アレスは世界の救世主であり、大英雄ですからね〜。神である私より崇められちゃって〜。やれやれ〜」
「アレスとの対話は?」
「どちらにせよ、もう手遅れです〜。殺すしかありませんね〜。それで、どうします〜?」
女神の問いかけに対し、少女は天を見上げた。その瞳に映る光景は天井では無く、かつての思い出―
※※※※
『なんだあの汚いガキは…物乞いか?』
『噂だと魔族に滅ぼされた国のお姫様だったそうよ』
『それは本当なの?…あら、確かに汚れてるけど、よく見るといい服を着てるわね。可哀想だけど、少しいい気味と思っちゃう』
―もうどうでもいい
『顔も身なりもいいし、こいつは高く売れそうだな』
『へへっ。まだガキですが物好きなじじいが…』
―もうどうでも…
『な、なんだ貴様は!ぐわはぁあ』
『クズ共め……… なぁ、アンタ。お姫様なんだって?』
『あん?俺様か?俺様は“アレス”!勇者やってんだ!』
『なんだぁ?お前ガキの癖に、この世の終わりみたいな目してんなぁ!あっはっはっは!』
『あ!アレス様!ここに居られましたか。まったく…すぐに迷子になるんですから、勝手な行動はお控えください!』
『うふふ。困ったものですね』
『グレア、イリア…決めたぜ!俺様はこいつを連れて行く!新しい仲間だ!!』
『うふふ。アレス様、その子…どう見ても戦えそうに思えないのですが?』
『ええ、足手まといにしかならないかと…』
『構わねぇ!お姫様を守りながら冒険するだなんて、男のロマンじゃねぇの!お前の名前は―泥んこ姫でいいか?』
『いやいや、それは流石に酷すぎますって』
『まぁ、とりあえず一緒に来いよ!俺様が広い世界に連れて行ってやる』
※※※※
『これが噂のコーヒーってやつか。……うげぇ!なんじゃこりゃ!!飲めたもんじゃねぇな…』
『アレス様…それは砂糖と乳を入れて飲むものですよ。こちらに用意があります』
『なに?アンディ、そーゆーのは先に言えっての。つーか相当不味いけど、この程度でこれが美味くなんのか?どれどれ……うーん。やっぱり微妙だな…』
『これ、お前にやるよ』
『おっ!今、美味いって顔したな?お前が顔を緩めるなんて珍しいじゃねぇか。いつもそうしてろよ!あっはっはっは!』
―うるさい
※※※※
―ダンスの練習?
『ああ。明日のパーティーで踊らなくちゃいけないらしくてな…俺様は剣しか振ってこなかったからよ。お姫様育ちなんだろ?俺様にダンスを教えろ』
『いいや。貴族の奴らに蛮族だと馬鹿にされるのはごめんだね。ほら、来いって!』
〜
『…どうして避けないんだ?もしかして期待してたとか?』
『ほぉー、泥まみれだったガキが、言うようになったじゃねぇか』
『痛っ!バカっ殴んなって!』
―蛮族め
※※※※
『魔王を倒したら?そうだな〜。旅に出るかな。俺様が救った世界、平和になった世界をこの目で見てみてぇ』
『あっはっはっは!それもそうだな。なぁ、もしそうなったら……お前も俺様と一緒に来るか?』
―私は―
※※※※
「私しかいない……か」
少女は女神の方へと向き直し、ゆっくりと紅茶に口をつける。喉を通る液体に温かさは既に無く、すっかり冷めきっていた。
「英雄殺し。どれ程の罪を背負うことになるのだろうな」
「罪にはなりませんよ〜。加護の契約内容は先程説明した通りです。貴女に対する世間の評価が落ちることはあり得ません。女神の名において誓っても構いませんよ〜?」
「……君は人間についての理解が足りないようだ。他者から責められる方がまだマシだろう。贖罪の機会を与えられないというのは生き地獄だ」
「そんなものわかるわけないじゃないですか〜。でも貴女が契約を結んでくれるのであれば、少しは聞く耳も持ちましょう〜。人間界では対等な立場となるのですから〜」
少女は噛み締めるかのように視界を遮断する。
そして目を瞑ったまま、音を立てずカップをテーブルへと戻した。
「そうか……理解した。君の契約を受け入れよう」
「では、契約を結びましょうか〜。貴女の名前はどうします?」
私の名は―
※※※※
「ミア様。どうされたのですか?学校のお時間ですよ」
ミアは珍しくドアをノックされる音で目を覚ました。普段であれば決められた時間には起きているというのに。
「ああ。すまないな、今行く」




