ep.26 新居の香り
まずミアによって家の扉が開かれると、室内からオレンジのような爽やかな香りが鼻腔へと流れてきた。今更だが楓はこの時ようやく、女の子の家に来た事を実感し緊張し始めた。
案内されるまま中へ入ると、玄関の床には黒いタイルが敷き詰められ、そのまま奥へと続いている。反対に壁は白一色で、緑の観葉植物や絵画が飾られていた。
「靴はどこで脱ぐんだ?」
自宅の玄関とは違い段差などの境が見当たらない。絨毯なども敷かれていないので、何処まで土足のままで良いのか楓には理解出来ない。
「特に決まりは無い。自由にしてくれ」
(自由?土足のままで良いって事なのかな?)
しかし、ミアはピタリと足を止め、顎に手を置いて俯いた。
「どうした?」
「すまない。いつもはグレアが内履きを用意してくれるのでな」
(どれだけ過保護なんだよ…)
自分の家のスリッパの場所すら分からない等、楓には到底理解出来ない。グレアと言う人物はミアを甘やかし過ぎなのでは無いだろうか。ふと、ここで一つ疑問が思い浮かんできた。
「そう言えば、グレアさんとはどうゆう関係なんだ?」
「グレアか?そうだな…」
再びミアは考え始めた。答えは中々返ってこない。
(確かに親子とは思えないし、姉妹でも無さそうだよな。お金持ちそうだから召使いとか‐)
「…わからない」
「は?」
それは余りにも予想外な答えだった。
「グレアの感情も行動も、本来であれば私に向けられるものでは無いのだ。だから…私には彼女がわからない」
「どうゆう意味だ?なら一緒に暮らしているのは…」
楓の質問を遮るように、背にしていた玄関のドアが開いた。そこに居たのは噂をしていたグレアの姿。グレーのスーツの装いで、彼女のスタイルの良さが際立っていた。
「ミア様。おかえりなさいませ。そちらはお客様でしょうか?」
「ああ。丁度よかった。内履きを頼む」
「かしこまりました」
グレアは二人に優しい笑顔を向け頭を下げると、テキパキと動き始め三人分のスリッパを用意した。
「お邪魔します」
〜
案内された部屋も楓の家とはかけ離れていた。まず天井が吹き抜けとなっており、かなり高い。壁に設置された階段の先にはバルコニーも見えた。
(家というか…カフェだな。これが金持ちか)
外観は大きな家。くらいの印象だったが、内装のデザインや家具にはかなりの財が投入されていると思われる。
「菓子はグレアが用意してくれるようだ」
ミアがコーヒーカップをトレイに乗せ運んできた。先程キッチンから焦るグレアの声が聞こえてきた。恐らく彼女の反対を押し切り自分でここまで運んできたのだろう。
「ありがとう。じゃあ座らせてもらうよ」
促されるまま窓際の一人用のソファへと腰掛けた。ミアもキッチンへトレイ返却した後、楓の正面のソファに座る。
「…」
話題が思いつかない。女子の家だから。という緊張もあるが、ミアと言う人物について実のところはまだよく分かっていない。だからこそ、これから関係を築いていかなければならないのだ。
一先ず沈黙に言い訳をするようにコーヒーを口に含む。家にあるインスタントコーヒーとは違い、少しの苦味はあるが酸味が全く感じられず飲みやすい。
(なんだこれ…ブラックのままでも美味い)
「カエデ」
「んぁ。な、なんだ?」
この時、ミアに初めて下の名前だけで呼ばれた事に、楓は少し気恥ずかしさを覚えた。これから慣れていくだろう。
「少し怪我をしているようだが」
ミアからの指摘の通り、楓の手や顔には僅かながら日々の修行による傷が残っている。見える場所には…といつも気は遣っているが、擦り傷程度はどうしても出来てしまう。
「これは修行で‐まぁ、強くなる為の練習だな」
「成る程。君は強くなりたいのか。理由を聞いても?」
(理由か…)
楓の胸に思い浮かぶのは守りたい人達。学校の友達や家族。そして街の知り合いも。しかし-
「結局のところ自分の為かな」
「そうか…」
相槌を一つ打つと、ミアは手に持つカップをゆっくりと口へ近づける。だが、次の楓の言葉でその手を止めた。
「目の前で助けたい人、守りたい人が救えなかったら俺が困るだろ?だから強くなりたい。自分の為に」
「ふふっ」
(笑った…?あのミアが!?)
いつも無表情なミアが見せた微かな笑み。今までの話の流れからすると、楓をバカにしたようにも思えるが、この際関係無いとすら本人は思っていた。それ程彼女が感情を表に出すのは珍しい。
「どうやら君は既に強い人間のようだ。それに比べると私はとても弱いな」
「そうだな。ミアはまず自転車からだ」
この時の楓にはミアの言葉の真意は捉えられていなかった。1時間という僅かな時間でも、ミアは極度の運動音痴であることは察することが出来た。あの自転車の練習を見た後だと勘違いしてしまうのは無理もない。
「すまない。少し外させてもらう」
「わかった」
ミアが立ち上がり、部屋の外へと出ていった。女性が席を外す理由には触れないのは男として当然の嗜みだ。それと入れ替わるようにグレアがお菓子を運んできた。
「ありがとうございます」
「いえ。ミア様のお連れ様ですから。構いませんよ」
(グレアさんか。一体どんな人なんだろう)
楓がこうしてグレアと顔を合わせるのは、実は今日で二度目だ。それでも初対面時のインパクトとミアから聞いた話で、他人とは思えないほど身近な人物に感じていた。
「あの…」
「はい。何でしょうか?」
つい呼び止めたものの、頭に浮んだ言葉を楓は口に出すのを止めた。
(気になるけど、やっぱりミアとの関係は聞かないほうがいいな。家庭の事情に他人が踏み込むのは良くない)
「あのー…」
グレアが困惑している。呼び止めて何も言わなかったのだから当然だ。
「ミアの弁当はどうしてクリームパンだけなんですか?」
一瞬、気のせいかも知れないが、彼女の目つきが冷ややかなものへと変わったように思えた。しかしよく見ると優しい笑顔のままだ。
「ミア様があれがいいと仰られるので」
「そ、そうですか。変わってますね」
また‐再び背中にゾワリとしたものを感じる。風邪でもひいたのだろうか。グレアは再びキッチンの方へと歩みだす
「そうそう一つ忠告しておきます」
「え」
突然の事だった。こちらへと振り向いたその顔には笑みは無く、声のトーンも平坦なものへと変わっていた。まるで先程までの親切な態度は全て嘘だったかのように。
「ミア様に何かあれば、私は容赦致しません。貴方に覚悟が無いのなら大人しくする事です」
「それは一体…」
楓の返事は待たずにグレアはその場を後にした。
その後ミアが戻り、二人で菓子を食べ終えると、楓は礼を言い帰路に着いた。茜色に染まった街中で自転車を走らせる。
「グレアさんのあれはなんだったんだ?」
あれは間違いなく警告の言葉だった。過保護故のものだろうか。しかし、近づくな。ではなく大人しくというのが気にかかる。
〜
現在、楓が去った部屋ではミアとグレアの家族会議が開かれていた。勿論、今日の議題は彼の事
「ミア様。少年とかなり距離を近づけたご様子でしたね」
「ああ。彼は私の友人らしい」
ミアは目を閉じながらコーヒーを啜る。カップを持つ手の小指だけがピンと綺麗に伸びている。
「…最近力を使っているようでしたが、何かお変わりありましたでしょうか?」
「そうだな…不思議な事に魂の消耗は見られない。杞憂だったのろうか」
「だとしたらあの少年の力は一体…間違いなくミア様の、女神の加護と同等のものに感じるのですが」
「断定するにはまだ時期尚早だ。危険と判断したら私が止めるさ」
「ミア様の仰せのままに」
その従順な態度とは裏腹に、グレアは既に覚悟を決めていた。少年の身体に刻まれた力が女神の加護であれば、主の意思に背いてでも即刻自分の手で殺してしまおうと。




