第五章 遺されたラボの記録
「都内、某所廃ビル地下。かつて、バイオメディカル系の研究施設があったとされる場所」
白くひび割れた壁、鉄の扉は半ば開きかけており、中からは埃と薬品が混じった臭気が漂っていた。
「……ここが“キメラ計画”の拠点か」
霧島は低く呟きながら、ライトを手に慎重に地下へと足を踏み入れた。
同行していたのは、以前から何度か現場で顔を合わせた検査官・葛西だ。50代で小柄だが、現場経験は霧島よりも長い。
「見た目はボロボロだけど、データはまだ生きてるみたいだ。非常電源がかろうじて作動してる」
「助かるよ、葛西さん。何かわかったらすぐ知らせてくれ」
霧島が通路を進むにつれ、壁には無数の実験記録が貼られていた。赤茶けた血痕がその一部を覆っている。
奥に進むと、厚いガラスで仕切られた観察室の中に、複数のモニタと端末が残されていた。
電源を確保し、ファイルを探ると、そこに記されていたのは“Project: CHIMERA”という機密文書だった。
「被検体一覧……α-01、α-13……α-37?」
霧島はファイルをめくりながら、一枚の写真に視線を止めた。
そこには、実験体α-37とされる個体の記録映像のキャプチャが添付されていた。白く滑らかな被毛、青い瞳、耳の後ろにうっすらと残る手術痕のようなライン。
「……あの猫に似てるな。偶然ってには、できすぎてる」
さらに読み進めると、別紙にこう記されていた。
【特異抗原抑制処理 済】
【対象者に対するアレルゲン反応:検出されず】
「俺は猫アレルギーのはずだ。けど……あの白猫にだけ、なぜか出なかった」
まるで、この猫は“そうなるように作られた”ようだった。
「こいつが……α-37か?」
ファイルの端には、研究員らしき手書きの走り書きもあった。
《この個体は特別。感情に反応し、適応し、選ぶ力がある》
霧島は静かに書類を閉じた。
「選ぶ力、ね……」
彼の脳裏には、あのとき、早乙女莉央の腕の中から自分にすり寄ってきた白猫の姿がよみがえる。
(あれは偶然じゃない。あの子は、確かに“俺を見ていた”)
まるで、自分の存在を理解しているように。
霧島は端末からデータの一部をコピーし、ラボを後にした。
だがその背後では、停止していたはずの別のモニターが、静かに点灯していた。
“α-37……行動範囲、拡大中”