第四章「猫と少女と夜の研究所」
雨が再び、降り始めた。
東京郊外の住宅街。その裏手、小高い丘に囲まれた雑木林の中に、朽ちた鉄柵とコンクリートの壁があった。
壁の先に広がるのは、かつて医療研究所だったという建物――今は廃墟として地図からも消されていた。
そこで、「彼女」は目を覚ました。
白猫。遺伝子番号α-37。実験体コード・MIRA。
その体内に仕込まれた高機能記憶素子と神経学的処理回路は、人語を解し、学習を続けている。
すでに自らが「特異」であることを理解していた。
(――私は、“檻”から出た。けれど、他の子たちは……)
白猫はかすかに鳴いた。だが、助ける方法はもうなかった。研究所は燃え、実験体のほとんどは死んだ。
ただひとつ、遺された記憶の断片だけが、彼女を動かしていた。
「……あ、いたっ!」
突然、背後から声が響いた。
白猫が振り返ると、ひとりの少女が立っていた。制服のスカートに雨のしずくが伝い、前髪は濡れて額に張り付いている。
名前は早乙女 莉央。あの日の少女だった。
「ずっと探してたんだよ、君。あのとき逃げちゃったから、心配して……」
莉央はそっとしゃがみ、手を差し出す。
猫は一瞬警戒したが、その指先に宿る温もりと、柔らかな目の奥にある無垢な優しさを感じ取った。
「……ふふ。来てくれるんだね。えらい子だ」
白猫は、莉央の腕にするりと飛び乗った。
肩に前足を乗せ、顔を擦り寄せる。雨に濡れた毛が、少女の首筋にひんやりと触れた。
「ん、ちょっと冷たい……けど、かわいいなぁ。名前、つけちゃおうかな」
猫は静かに、莉央の耳元で一度だけ、小さく鳴いた。
(――それでいい。しばらくは、この“子”のそばにいよう)
**
その頃。霧島は車内で、資料の束をめくっていた。
件の廃倉庫で見つかった実験体のデータに、いくつかの矛盾があった。特に気になったのは、異常に高密度な神経組織の構造と、残留思念の分布。
(……思考痕跡が、あれだけはっきり残るのは異常だ。まるで“感情”があったみたいだ)
車窓に打ちつける雨をぼんやりと見つめながら、ふと――昨夜の白猫の目が脳裏をよぎった。
(……また、あの猫か)
そこへ、スマホが震えた。
「霧島さん、先ほどの倉庫の周囲で監視カメラに映っていた“動物”について、興味深い報告があります」
久慈からのメッセージだった。
「一匹、白い猫が周辺をうろついていた。目撃情報が複数。あと、変なことに――こいつ、カメラの存在を避けて移動してる節があるんだよ」
霧島は眉をひそめた。
(……知性を持つ“猫”か)
助手席に置いた抗アレルギー薬の箱に目を落とす。
――あの時、くしゃみも目のかゆみもなかった。
猫に触れて、何も起きなかった。
(やっぱり、何ともなかった……ありえない)
**
そのとき、不意に、視界の端に白いものが跳ねた。
「……!」
車を降りて数歩駆け出すと、雨のなか、莉央が猫を抱いて路地の奥を歩いていく姿が見えた。
「君……!」
思わず呼びかけると、莉央が驚いて振り向いた。
「わっ、またお兄さん? びっくりした……」
「その猫……また会ったな。君が探してたのか」
「うん、この子、ずっと探してて。やっと見つけたんだよ。すごく頭いいんだよ? ちゃんと返事もするし――ね?」
莉央が猫を霧島に向けて持ち上げた。
霧島は、少しだけ腰を引きつつも――
「……近いとくしゃみが出るはずなんだけどな……」
猫の毛が頬をかすめる。やはり、何も起きない。
「……まただ。やっぱり……何ともないな」
不思議そうに顔をしかめる霧島に、莉央はくすっと笑った。
「この子、特別なのかもね」
その瞬間、猫は霧島の腕に軽く触れた後、莉央の腕から飛び降り、濡れた舗道に着地した。
「えっ、ちょ、どこ行くの――!」
猫は一度、霧島と莉央を振り返る。
……その目に、一瞬だけ、**「警戒と意思」**が混ざった光が宿った。
そして、闇の中へと走り去っていった。
「うー、また行っちゃった……でも、また会えるよね?」
莉央は名残惜しげに、白猫の背を見送った。
霧島は濡れた路地に立ち尽くしながら、静かに呟いた。
「……あれは、なんなんだ」
ただの猫ならありえない。
けれど「それ」が何であるのか、まだ名づけるには、確信が足りなかった。
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