第二章「接触|エンカウント」
放課後の雨上がり、東京の片隅。薄曇りの空の下で、街路樹が雨水をまだぽたぽたと落としていた。
「……にゃあ」
その声に、早乙女莉央は振り返った。
「猫?」
学校帰りの道すがら、細い路地の脇に白い小さな影が座り込んでいた。制服のまま、莉央は思わず近づく。
「どうしたの、こんなとこで……濡れてないけど、迷子?」
白猫は地面にちょこんと座り、莉央をじっと見上げていた。どこか人の顔を読むような、落ち着いた瞳。濡れた舗装路の上にあっても、毛並みはほこりひとつない。首輪もなく、だが飼い猫のような品の良さがあった。
「よしよし、怖くないよ」
莉央が手を差し出すと、白猫は軽やかにその腕に飛び乗った。驚くほどすんなりと、そして軽い。
「わあ、君……かわいすぎでしょ。名前、なんてしようか……」
そのときだった。
「……あれ、そこで何してるの?」
少し先、歩道の向こうから声がかかった。黒いジャケットを羽織った、背の高い男性。整った顔立ちで、しかし堅苦しくはない穏やかな表情。
「え、あっ……すみませんっ」
莉央は咄嗟に猫を抱きしめた。だがその男は怒るでもなく、ゆっくりと近づいてきた。
「いや、大丈夫。そこ、車もあんまり通らないし。驚かせたかな」
そう言って彼はにこりと笑った。どこかお兄さんみたいな優しさ。制服姿の莉央に気を遣っているのが伝わる。
「……この猫、そこで鳴いてて。放っておけなくて」
「なるほどね」
男はしゃがんで白猫を見つめた。莉央が差し出すようにして猫を見せると、彼の顔が一瞬だけ引きつった。
「お、おお……ちょっと待って。あんまり近くに……俺、猫アレルギーなんだよ」
「えっ、そうなんですか!? ごめんなさいっ」
莉央が慌てて猫を抱え直す。だが男はふと、不思議そうに自分の顔や腕を見た。
「……あれ? あれれ? おかしいな……」
「大丈夫ですか?」
「いや、ぜんっぜん反応出ない……いつもなら、すぐくしゃみ止まんなくなるのに」
男は不思議そうに目を細めた。白猫もそれを察したかのように、ふいに前足を男のシャツにぽん、と当てる。
まるで「平気でしょ?」とでも言っているようだった。
「……キミ、賢いな。どこから来たんだ?」
「え、やっぱり賢いですよね? さっきから、呼びかけに全部反応してて……まるで、人の言葉わかってるみたいで」
莉央は嬉しそうに白猫を撫でる。
「……そうだな、ちょっと不思議すぎるくらいだ」
男はポケットから薄い名刺のようなカードを取り出し、莉央に見せた。
《公安庁・特異事案対策課 霧島冬馬》
「えっ……お巡りさん、なんですか?」
「まあ、ちょっと特殊なね。よければその猫……少し、俺に預けてくれないかな」
「えー、やっぱりヤバいやつなんですか、この子……?」
「いや、たぶん違う。ただ――普通の猫じゃない、ってだけだ。少し、調べさせてほしい」
莉央は白猫を見つめ、猫もまた莉央の顔をじっと見上げた。
「……また、返してくれる?」
「もちろん。必ず」
莉央は少しの逡巡のあと、白猫を霧島に差し出した。
霧島の腕の中で猫は小さく喉を鳴らした。霧島は目を細める。
「……おまえ、いったい何なんだ?」
霧島の腕の中で、白猫は静かに瞬きをした。だがその次の瞬間、霧島の胸元を蹴るようにして、ひょいと軽やかに地面へ飛び降りる。
「えっ……!」
莉央が小さく声を上げる。
白猫はアスファルトの上を駆け出し、細い路地の奥へと進んでいった――が、すぐに一度だけ、くるりとこちらを振り返った。
その琥珀色の瞳は、まるで「またね」とでも言うように、柔らかく光っていた。
「……行っちゃった」
莉央は名残惜しそうにその姿を見送る。
「不思議な子だな……。まるで人の都合を察してるみたいだった」
霧島は空になった自分の腕を見つめ、ぼそりと呟いた。
「賢すぎる。ありゃ、やっぱりただの猫じゃない」
莉央はまだ猫の去った路地を見つめていた。どこか心にぽっかり穴があいたような寂しさを抱えながら。
雨が、またぽつり、ぽつりと落ち始めていた。
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