離縁したいオメガの話
――ずっと、ずっと好きだった。だから婚約した時は、天にも昇るような気持ちだった。だけど今は、彼の配偶者であるということが、まるで重石のように背中にのしかかり、窒息してしまいそうだった。
◇
「……離婚したい?」
書斎の机の前でリエトが言った言葉に、ほんの少しだけ驚いたような声が響いた。
声の主は、ヴィリジオ・ロッシ。30歳になったばかりなのに騎士団長に任命された、才能に溢れるアルファ。そしてリエトの夫だ。だけど彼は驚きをすぐに霧散させて、笑顔を浮かべた。
「離婚して、どこへ行こうというのかな? リエトのお父様にはたしか新しい奥さんがいて、もう頼れないと思ったけど。オメガ向けの雇用もそう簡単には見つからないよね?」
すらすらとヴィリジオの口から出てくる言葉に、気圧されそうになる。だけど足を踏ん張って、ぴしりと姿勢を正した。
「ロセター卿が、後妻にしてくださるとお約束してくださいました」
「……ロセター卿って言うと、まさか、あの六十過ぎの?」
「はい。ありがたいことに、いつ来ても良いと」
「へぇ……。もうそこまで話を進めてるんだ」
ヴィリジオは机の上で手を組み、ゆったりと首を傾けた。笑みの形を作っているが、氷のような冷たい水色の瞳。いつもと何一つ変わらない顔なのに、空気が重たい。
「なるほど。最近夜会にやたらと行っていたと思ったら、そういうことだったんだね……」
溜息を吐き、目頭を少し揉んだヴィリジオ。彼は少しだけ何かを思案した後、「分かった、いいよ」と言って頷いた。あまりにもあっさりと了承されて、驚きに彼を仰ぎ見るが、もうヴィリジオはこちらを向いてもいなかった。
「一月ほど待ってもらえるかな? 俺の方も準備があるから」
苦しい。胸の奥がぎゅっと固くなり、痛くてたまらない。だけどそれを表に出さないように気を付けて、リエトはなんでもない顔をして言葉を吐き出した。
「……はい。では次の発情期に間に合うように、あちらに向かいたいと思います」
「じゃあ急がないとね。荷物の整理は、使用人にさせるからしなくてもいいよ」
「いえ、お手間はおかけしないようにいたします」
首を横に振るとリエトはくるりと踵を返し、彼の部屋から廊下へと出た。何でもないように、不審に思われないように……と必死に足を動かして、自室にようやくたどり着いた時には、背中にじっとりと汗をかいてしまっていた。苦しい。やるせない気持ちを吐き出すように、何度も息を吐く。だけど胸の痛みはちっとも治まらなくて、リエトは弱弱しく呻いた。
「……引き留めてもらえなかった、な」
足から力が抜けて、ずるずるとその場にへたり込んだ。
離婚したい。そう自分で言いだした。でもせめて、なんでリエトは離婚を切り出したのか尋ねてくれれば。そうしたら『ヴィリジオを愛しているから』別れたい、と言えたのに。冷めた笑顔で、分かったと呟いたヴィリジオ。そこにほんの欠片も、リエトを失う悲しみなんて見えなくて、それが途方もなく辛い。離婚したいと自分から言い出したのに、リエトの胸の中にはどうしようもない痛みが荒れ狂っていた。
◇
リエトは幼い頃から体が小さく、細身で病弱な少年だった。逞しい騎士団長の父のようになれない。アルファでは絶対にない。それどころかベータですらないかもしれない。そう薄っすらと感じさせる子供だった。親も使用人も口に出さなかったが、時折見せる棘のある言動に、兄や姉に比べてリエトが劣っていることは明らかだった。
剣術や勉強ができずとも、些細な取り柄でもあれば違ったかもしれない。たとえば歌が上手いとか、裁縫ができるとか、顔立ちが愛らしいとか。小さな取り柄でもいいから、リエトになにかあればよかった。
だがリエトは不器用で要領が悪く、一つも誇れることがない。それが少しずつ、だが確実にリエトから自尊心を奪っていった。自然とリエトは周囲と距離を取り、屋敷の奥に引きこもるようになっていた。
――そんな時に、父が遊び相手として連れてきたのが、ヴィリジオだった。
彼はその時はまだ従騎士で、騎士団長だった父の見習いとして雑用を請け負っていたからだ。
薄い水色の瞳に、きらきらと日差しに光る金の髪。若木のようにしなやかな体に、端正な顔。灰色の瞳と、藁のようにくすんだ金髪のリエトに比べると、ずいぶんと立派な青年で、初めて会った時、リエトは怖くてまともに目を合わせることもできなかった。だがヴィリジオは、引っ込み思案なリエトを不出来だと馬鹿にすることも、父と比べることもなかった。根気強く話しかけてきた彼の顔を、勇気を出してそっと見ると、優しく笑いかけてくれた。家族や使用人以外と接さずに暮らしてきたリエトが、恋に落ちてしまうまでそう長くはかからなかった。
だから、リエトは自分がオメガと分かって、ひっそりと喜んだ。だって、オメガなら男でもヴィリジオと結婚できるから。アルファの彼の隣にいる資格が与えられたように、思いあがってしまった。父もその気持ちはお見通しだったようで、成人してすぐにヴィリジオと婚約し、その二年後には結婚することになった。家族だけの小さな結婚式を挙げ、幸せでいっぱいだった。ヴィリジオも自分を好きでいてくれるんだ、だから結婚してくれたんだ。そう思って疑わなかった。毎日遅くまで働くヴィリジオを彼の屋敷で待ち、彼が帰れない日は無事を神に祈った。普段は紳士的な振舞いを崩さない彼に、発情期に抱かれるのが何よりも幸せだった。
――だけど、そんな幸せは、一年もたたないうちに崩れてしまった。
ヴィリジオが「どこに入ってもいいよ」と言ってくれたことに甘えて、彼の書斎を見回っていた時。リエトは小さな、随分と古びた日記を見つけてしまったのだ。もう端の方はボロボロな、年季の入った日記だ。駄目だと思いつつ、好奇心に駆られてページをめくって、リエトは目を見開いた。中に書かれていたのは、ただの日記ではなく……ヴィリジオの情熱的な愛の告白だったのだ。リエトではない、どこかの誰かに向かっての、だ。
『好きな人ができた』
『可愛く、美しく、思慮深く、それでいて生命力に溢れ、目が離せない』
『結婚するなら、絶対に彼としたい――』
愕然とした。いつも泰然とした様子のヴィリジオ。若いのに浮ついたところは一つもなく、てっきり惚れた相手なんていないと思っていたし、ヴィリジオも一言もそんなことは言っていなかった。婚約した時も、結婚した時も、いつも穏やかに笑っていた。だから彼も結婚を喜んでいるのだと思っていたのに。
だが実際は違ったのだ。そう言われてみれば、この縁談が決まった時、彼は従騎士から騎士へと昇格してはいたが、騎士団の団員の一人だった。騎士団長であるリエトの父の命令に逆らうことはできなかったのだろう。上司の命令で、泣く泣く愛した人を諦めた。そんな言葉が自然と頭に浮かび、リエトは、ひっと息を飲んだ。
彼がリエトに恋なんてしていないのは分かっていた。でもゆっくりと穏やかな愛を育てていければ、なんて思っていた自分を殴り飛ばしたかった。
彼はこんなにも激しい愛情を誰かに抱き、想いに焦がれ、結婚を望んでいたのだ。
――黙っている? それとも、問い詰める……?
気が付かない振りをしていれば、このまま婚姻は続けられる。
でも……義務のように、発情期の時に抱かれるたびに虚しさが胸を襲った。もし自分が本当の想い人だったら、毎晩この腕に抱かれていたんだろうか。発情期の時だけでなく、いつでも好きだと言って抱きしめてくれたのだろうか。あの小さな結婚式は、リエトが緊張しないように慮ってくれたのだと思っていたけれど、本当は式に乗り気ではなかっただけなのか。「家の中なら何をしてもいい」そう言ってくれたのは、優しさだと思っていたけれど、本当はリエトに興味がないだけだったのか。時折屋敷に帰ってこないのは、仕事だと思っていたけど、まさか誰かと会っているのか――。今まで幸せだと思っていた生活が、ガラガラと崩れ落ちていってしまい、心が千切れてしまいそうだった。見たこともないその想い人に嫉妬し、毎晩一人ベッドですすり泣いた。自分は結婚したのに、彼の心を全く手に入れられていない。こちらを見ることもない。ヴィリジオによって優しく培われた自尊心が、あっという間に崩れて消えてなくなっていってしまった。
じゃあ問い詰められるのか、と言えば否だ。この失恋の辛さは、彼も同じく味わっているのだと、泣いて、苦しんで、そして理解した。もし自分がヴィリジオに恋なんてしなければ、少なくとも彼は想い人と幸せになれた。なのにその恋路を邪魔してしまったのだ。自分がヴィリジオを恋人から引き裂いたのなら、幕を引くのもリエトの責務だ。だって、このままではあまりにもヴィリジオが哀れだ。そう思った。
◇
不思議なことに、どれだけ泣いても涙は枯れなかった。だが涙に暮れていても、やることは山積みだ。リエトに離婚歴ができたら、もうまともな縁談はこないだろう。しかし母を亡くしてからやもめを貫いていた実家の父は、最近になって再婚して新しい家庭を築いて頼れない。だからと言ってこのままヴィリジオの家にとどまることもできないし、万が一ヴィリジオが同情から離婚を踏みとどまったら大変だ。
夜会や茶会、それから観劇にと繰り出して、自分を相手にしてくれそうな男を探した。しばらくして、年老いた好色な貴族が後妻にしてもいいと言ってくれ、ようやくほっと肩の力が抜けた。これでヴィリジオの屋敷を出ていくことができる。いつの間にか増えてしまった荷物も整理した。後は離婚届にサインをするだけ。そうなって、リエトはヴィリジオについに離婚を申し出た。リエトはようやく片恋の苦しみから解放されるし、ヴィリジオも解放してあげられる。この恋を諦める準備が、ようやく整ったのだ。
――そう思っていたのに。
「一体、どういうことですか!?」
バン、と普段ならしない乱暴な仕草で扉を開けて、リエトは書斎へと飛び込んだ。
頬を怒りに赤く染め、瞳を吊り上げてヴィリジオを睨んだけれど、当のヴィリジオは平時と変わらない涼しい顔でほほ笑んだ。
「怒鳴ると、喉を傷めるよ。リエトはあまり体が強くないんだから、大事にしないと」
リエトの怒りに気が付いていないわけないだろうに、ヴィリジオは相変わらずのんびりと微笑んでいる。
しらばっくれる態度に余計に腹が立つが、リエトは大きく息を吐くと、震えそうになる拳を握った。
「ロセター卿が捕らえられたと聞きました。……騎士団によって」
「ああ、そうだね」
「なぜですか!」
「なぜって、過剰な賄賂に、領地の民への横暴な振舞い。それから国王への献上品を誤魔化してもいたらしい。そんな悪い人間は、野放しにできないだろう?」
当然のように言われて、リエトは返す言葉に詰まる。ロセター卿があまり善良な人間でないことは薄々知っていたし、悪人は捕らえられるべきだ。でもまさか騎士団が動くほどの悪党だとは思っていなかった。
口をぱくぱくとさせているリエトを見て、ヴィリジオは瞳を細めた。
「ああ、ロセター卿はリエトの浮気相手だったっけ? 残念だったね、行くあてがなくなってしまって」
「ヴィ、……、ヴィリジオ、さま、……」
「うん? あ、そう言えばリエトはそろそろ発情期だと思ったけど……違ったかな」
ヴィリジオは立ち上がると、ふわふわの絨毯の上を足音を立てずに歩いてくる。近くまで寄られると、リエトなんてすっぽりと入ってしまいそうな大きな体だ。なぜだろう。いつも通り穏やかにほほ笑んでいるヴィリジオなのに、怖くてしょうがない。
「ま、まって、」
「待たないよ。浮気をして、夫を捨てようとした奥さんにお仕置きをしなくちゃいけない」
正面に立った彼から離れたくて、一歩後ずさろうとしたら、大きな手に二の腕が掴まれた。
「君のお父様に、くれぐれも君を大事にするようにと言われているんだけど、今日だけは……少し酷いことをしても、許してくれるよね」
くすくす笑うヴィリジオ。ぎゅっと捕まれた腕がじわりと痛んだ。
「大丈夫、気持ちいいだけだから」そう囁いて、大股に歩きだす。廊下へと出て、向かう先は寝室だと分かって、リエトは目を見開いた。
声を荒げることも、睨みつけることもないヴィリジオ。なのに怖くて、リエトは引きずられるままだった。
なんで、なんで。離婚したいと言ったら、喜んでくれると思っていたのに。
古い日記には、美しい彼を絶対に手に入れる。
そして手に入れたら――絶対に手放さないって、書いてあったのに。
そう思うのに、言葉はでなくて。リエトの細い体は、寝室へと引きずり込まれていった。