65 新しい婚約の申し出
場の全員が固まっている。
大丈夫、想定内だ。他の貴族にとっては想定外でも、俺は断られることを一番に想像していた。
小さな声で、聞こえても近くのシーモア卿まで、そんな声で囁く。
「市民への賠償……」
「へ?」
「誰がしたと思いますか?」
にこりとほほ笑む。
リラに唯一足りないもの、それは金だ。今はモリンガ男爵夫人との事業で多少金を得ているが、他に安定したものはない。
いくらかかったとあえて言うまい。返せなどとは言うつもりもない。だが、弱みがあれば付け込むものだ。
「……うぅっ」
完全に売られる子供の顔で、リラが差し出した手を取った。
「喜んで、ひとまずお受けします」
本音が微妙に漏れているが、婚約を受け入れさせた。今回も本人の許可を取る前に色々と画策をしたとはいえ、許可は許可だ。
立ち上がり、王族側の席へ振り替えると、リリアン様だけでなく王妃様までが両手で口元を覆っている。王妃様がそのような態度をとるのを見たのは初めてだ。
王妃に聖女、おおよそ我が国家における最強の手札を誑し込んでいる。それだけで、準男爵であろうとも、公爵夫人以上の価値があるだろう。
「卑怯者っ」
「知略です」
小さく嫌味を言われたので訂正しておく。
「場を騒がせ、失礼いたしました。また、正式に婚約者と共にご挨拶に向かわせていただきます」
王に対して頭を下げると、リラも丁寧にお辞儀をした。一度頷き返された後、王族が退席した。
マリウス王太子には、万に一つがあった場合、リラの身元は王宮で管理するように依頼していた。結果は快勝だったが、マリウス様は快諾し、できる限りは力を尽くすと請け負ってくれたことに感謝しかない。
リラにその場で婚約書にサインをさせる。それをすぐさまシーモア卿に引き渡した。
「お疲れでしょう。家でゆっくりしてください」
手をがっしりと握る。手を繋ぐことまではエスコートが必要な場では無許可でいい。
「………後日、新しい婚約契約書を作るように」
今回最も尽力してくれたシーモア卿が怖い顔で言う。
「娘にしそびれてしまいましたね」
「書類上の関係かどうかだけです。それと、公爵家からは料金を頂きますのでタダ働きでもありません」
それに関しては、いくらでも払おう。
「屋敷にも招待します」
「期待しております」
嫌味っぽい笑みを浮かべた後、書類をまとめ、シーモア卿が先に審問会の部屋を出た。声をかけようかと考えている貴族の気配を感じ、リラの手を引いて、俺たちも退場する。
「新しい、契約書を作るまでは、前回の物の延長を要求します」
「……わかりました」
「リラ嬢、少しだけ話せますかな」
幸せを噛み締めていると、審問会の部屋を出きる前に声をかけられた。
「シダー……アトラス公爵様、お久しぶりです。相変わらず素敵な、お鬚ですわね」
「美しいご令嬢にお褒め頂きありがたい限りです」
相変わらず嘘くさい人だ。
「レオン殿、少しだけ二人で話をさせていただきたい。本当に少しです。何か妙なことも絶対にいたしません。娘のような存在に、祝福の言葉をかけたいのです」
爵位的には同じ公爵なので笑顔を返すが、リラの方を確認した。
「すぐに後を追います。逃げるにしてもレオン様とは話すことがありますから、今は逃げませんよ」
言われて、握っていた手を離した。
聞き耳を立てるほど悪趣味ではない。部屋を出て、階段の前で待とうと考える。
シダーアトラス公爵家に関しては、跡取り教育の際に悪例の教材として何度か出ていたし、実地訓練として会ったこともある。
公爵家としての矜持は保たなければならないが、それは金額の話だけではない。金もないのに借金を重ねて体裁を保つのは愚の骨頂であると。
そして、教育を受けずに後を継ぐとあのように家の運営を知らずに大変な目に遭うので真面目に学ぶようにと言われた。
シダーアトラスの現当主は本来跡取りでなかった。色々とあり跡目を継いだ結果、あっという間に没落した。最近随分とマシになっていたが、上向きになりだしたのはリラと婚約した後からだ。
リラに対して何かするとは思えないが、彼は公爵としての教育がきっちりされていないのでしでかす可能性はある。
大丈夫だろうかと考えていると、階段を下りるものが多い中、一人の令嬢が昇ってくるのが見えた。
「レオン様」
その令嬢がこちらを見つけて声をかけてくる。
青く長い髪をした、ロベリア・カーディナリス公爵令嬢だ。
思わず眉を顰める。リラが誘拐されたとき、そしてリラが拘置所にいるときに、接触をしてきた。
魔力暴走の判例について確認するために王宮の書庫へ行った際、彼女もそこにいた。家格に見合った結婚というのはやはり難しいとか、だまされて婚約をされたのですねと同情された。正直言って、ぞっとしたが、あの時は否定せずに言葉を聞き流した。リラを陥れた相手だと言うのならば、今日までこちらの手の内を見せるのは得策ではない。
何よりも主犯であるという証明はできなかった。だが、限りなく怪しい。
「レオン様、心中お察しします。まさか……ご婚約者だった方があのような方だなんて」
「何の御用でしょうか」
社交と言うのも貴族間では重要だ。令嬢に対してはある程度の笑みは浮かべる。だが、今日に関しては難しい。
「すぐにお心の傷は消えないかと思います。けれど、女性で負った心の傷は同じ女でなければ癒すことはできませんわ……わたくし、レオン様が望まれるのであれば、あなたと婚約をしてもいいと考えておりますの。幸いにも、わたくしもまだ他の方と正式に婚約はしておりませんから」
最初に浮かんだのは、彼女も精神魔法をかけられている可能性だった。
「ロベリア嬢と……私が、ですか?」
「ええ、父からの許可もいただいています」
そういい、胸に大事そうに抱いていた紙を差し出された。
ついさっき見た書類とよく似ている。さっきはそれが宝物のように見えたのに、これは腐った肉か何かに見える。
「女性から、このような申し出をするのは少々はしたないのでしょうが。お辛そうなレオン様を見ていられないのです。おそばで過ごすためにも……サインを頂ければ、外聞も気にする必要がなくなりますわ」
リラが用意していたら、許可なく抱き着いて叱られるところだろう。
外見はリラと負けず劣らず整っている相手だ。俺は面食いだと言う自覚もある。だが、外見はもちろん、内見的な美しさも欠くことはできない。
「申し訳ないが、あなたとの婚約ではソレイユ公爵からは、許可が取れないだろう」
口調を厳しく変えて告げる。
「はっきりとしておくが、私はロベリア嬢と婚約も結婚も希望していない。申し訳ないが、別をあたっていただきたい」
「なぜでしょう?」
そう問いかけた後、答えを待たずにロベリア令嬢が横をすり抜け歩いていく。振り返った時には、ロベリア令嬢がリラに平手を食らわせていた。
「恥を知りなさい」
駆け寄り、驚いて膝をついたリラを支える。
「レオン、様……」
リラが涙を浮かべ見上げた後、体を預けるように腕に縋りつく。
「どういった用件で、私の婚約者に手を挙げたのですか」
これがリラの演技だとすぐに理解した。リラが殴り返さない方が意外だったが、こんな風に、しおらしくやられるはずがない。




