第零話「地獄」
――人を呪うのも、また人である。感情、印象、そして嫌悪によって、相手を貶めたい、懲らしめてやりたい。人間誰しもがこの負の連鎖に囚われているのだ。しかし『他者を呪う』というのは、覚悟や決意の現れでもある。誰かを呪って、己の人生が壊れる可能性があるにもかかわらず、それでも実行に移す。そう決意する、これもまた呪いなのかもしれない。
この物語は、遥か昔に存在したかもしれない、呪いの力「厭魅」を巡って妖と、己と戦う旅物語である。彼は誰を呪い、誰を貶め、そして誰と覚悟し、誰と決意したのか。そして、彼が選択した未来とは――。
*
「――泉殿、敵兵がこちらに進軍しております!」
戦乱の世。人々が戦に命を掛け、手に入れたいと願った地、そして大勢の命を奪い合う、血で地を洗う戦いが絶えなかった時代。下総の平原で敵兵を見つけた長助という男は息を切らして本陣へ向かい、鎮座する武将に敵の動向を伝えた。武蔵の国からの敵兵は現在、将が居る本陣を発見し、こちらに真っ直ぐ突撃してきていた。もうじき本陣を取り囲み、将の首を跳ねるつもりだろう。残存する兵は川の向こう、まんまと敵の陽動に引っかかってしまった。残された兵は本陣にいるものの数人――大群は千をゆうに超えている。幾ら自分が信じる将であろうとも、とても勝てる戦ではないだろう。
しかし、絶望的な状況の中で、将である『霧波 泉』は笑みを浮かべた。
「……なるほど。……寧ろ、好都合だ」
すっと立ち上がり高笑いをする泉に、長助は不思議そうな顔で見つめた後、焦ったように訴えた。
「好都合……と仰りますが、多勢に無勢……この戦力では勝てる訳などありません! 今すぐにでも撤退の指示を!」
「貴様、長助といったな。某の軍は対岸に取り残されておる。ここで撤退などしては、伝令の届かない彼らはどうなる? ……少し考えれば分かるだろう」
長助は言葉を詰まらせ、自身の発言が浅はかだったことを自覚する。それもそうだ、川の向こうに残された軍は、敵の攻撃をもろに受け、逃げることもできず、一人残らず殺されてしまうだろう。……だが、彼は――霧波泉はここで討たれるには惜しい程、刀の扱いに長けていた。今、国に戻れば、例え我らが死んでもなお、状況を立て直し意思を継いでくれる。それならと長助は口を開いた。
「……あなただけでも撤退を。我らの意思を、どうか繋いでください」
「やはり、貴様はそう思うか。だが――某は何があっても、敵に背を向けぬ」
遠くから怒号が聞こえてくる。もうじき、奴らがここに到達するだろう。すると泉は、腰に据えた刀の柄を握る。
「……奴らは、某を殺してくれるだろうか」
小声でそう呟くと、泉は瞬く間に消えた――いや、消えたのではない。信じられない速度で敵部隊の中央に飛び込んでいったのだ。長助は、何が起こったのか理解できずに佇んでいると、近くの兵が長助の肩を叩き、一言、こう言った。
「よく見ておけ。あれが最強の武将――“霧波泉”殿だ」
程なくして、敵部隊は混乱の渦中に囚われた。中央からかき乱された陣形を整える隙もなく、一人、また一人と倒れていく。泉が刃をふるう度に、倒れ行く兵の傷は心の臓を切り裂かれて絶命していった。返り血を浴びようが、利き腕に槍が刺さろうが、泉は切り殺す手を止めることはない。やがて、敵部隊の隊長が軍の中から姿を現した。
「貴様――よくも仲間を殺してくれたな! 隊長であるこの正成が、貴様のようなおぞましき鬼の首を刎ねてやろう!」
隊長は威勢よく切りかかり、泉を間合いに捉えると刃を振り下ろす。それを見た泉は至極冷静に、隊長が振り下ろした刀を弾き飛ばした。鉄と鉄がぶつかり、きんと鋭い音。勢いで吹き飛ばされた隊長の頭上で、舞い上がった刀身は二つに割れ、片方は地面に、もう片方は隊長の顔に突き刺さった。激しい痛みに悶える彼を尻目に、泉は血に染まった利き腕で刀を持ち直す。統率力を失った雑兵はうろたえることしかできず、次々と刀の錆となる。そして、とうとう一人の雑兵だけが残された。鮮血に染まった泉を、恐怖で震えながら見つめる兵。彼はただ一言、こう言った。
「――人に化けた、妖め……!」
そう言って気絶した兵の喉元を、泉は躊躇せず掻き切った。
武将「霧波泉」。彼は生まれ持った武術の才能を遺憾なく発揮し、若くして出世を繰り返し現在の地位を手に入れた。戦略的ではないものの、圧倒的な戦いへの適性から、彼を知る者は口をそろえて”彼が最強”だと言う。そんな彼も、最後はあっけないものであった。交渉中差し入れた茶の毒にやられ、なすすべなくこの世を去った。それから幾月も巡り、戦乱の世は終わりを迎える。この島国を統治し、真の平和をもたらした者が現れたのだ。そして、武将霧波泉の墓は竹林の奥で苔むし、ひっそりと忘れ去られていったのだった。
*
さて、舞台は変わり地の底、死者が落ちるとされる地獄と呼ばれる世界。毎日のように人は死に、閻魔大王の裁判を受けるために地獄へ落とされる。某――『霧波泉』は、気がつけば薄暗い川辺で目を覚ました。某は確かに死んだはずだ。どうして意識があるのだろうか、と考えるより先に答えを見つける。そうか、ここが伝え聞く三途の川だろう。いつの間にか某は、白く綺麗な死に装束を身にまとっていた。
「来世は、確かにあったのだな」
すると、少し遠くの方に何人かの人影を見つける。近づくと、幾つかの長椅子が並べられ、幾つかの行燈と、縦に長い看板一本が立っているのが霧の向こうに見えた。その長椅子に座ったガタイの良い男が気付き声を掛けてくる。こっちにこい、と言われ、言われた通りに長椅子にもたれかかる。腰掛けているはずなのに、少し浮いたような奇妙な感覚を覚える。男は某の方を向き、陽気に接してきた。
「よう、ご愁傷様。人生は楽しかったかい?」
「“ご愁傷様”。貴殿こそ、さぞ幸せなままここに来たのだろうな」
「おう! 嫁を残したのが心残りだが、それ以外は幸せそのものってやつさ!」
ため息交じりの返答など気にも留めることなく、男は悔いのないすっとした表情をしていた。すると、某の正面で座り込んだ少年が話しかけてきた。
「……おじさん、よく冗談なんか言えるよね。“ご愁傷様”なんて、挨拶じゃないんだし。兄ちゃんも乗らなくていいよ」
やや言葉に棘がある少年は、冷ややかな視線を男に向けた。
「ハハハ! 人生終わったなら、冗談くらい言わないと暗くなっちまうだろ? どうせ帰れないなら、それなりに地獄を楽しんでやろうと思ってな! 坊主も笑っとけ、な?」
「……変な人」
少年はそれっきり、黙りこくってしまった。他にも何人か死に装束を纏った人はいたが、みな俯いて暗い顔をしていた。しかし空気を読んでいないのか、それからもしばらく男は話しかけてきた。年齢、名前、生きてて良かったことやその間にあったこと。某が生前、そこそこ名のある武将だと話したとき、男は目を丸くしていた。
「へぇー……こんな若い兄ちゃんが武将さんねぇ……」
「何か可笑しかったか?」
「いいや、来世だとしても、会えて光栄だと思ってな? はっはっはっ!」
男は終始笑いながら話し続けた。その内、俯いた何人かは表情が柔らかくなっていた。しかし、自分のことを話せば話すほど、自分は死んだのだと自覚させられていく。そして、これからどうなるのか分からない不安も、じわじわと心を蝕んでいった。
しばらくして、近くにいくつかある行燈がぼおっと灯りをともした。誰かが触れているわけでもなく、何かを告げるように柔らかな光で周辺を照らした。そして、川の向こうから鈴の音が聞こえてくる。辺りにいた人は列を作り、少年もそれに混ざっていた。
「もうそんな時間か。最後に兄ちゃんと話せて、なんだか踏ん切りがついた。並ぼうぜ」
男はすっと立ち上がり、列の後ろに並ぶ。某もそれに続いて列に混ざった。しばらく待っていると、霧が辺りを包み込む。一寸先も見渡せない程の濃い霧の中、鈴の音だけがはっきりと聞こえる。ぎいぎいと木の板が軋む音と共に、列は前へと進んでいく。何者かが水を掻いているらしく、筏か船がきているのだろうか、と考える。そして男が目の前から消え、霧の中にある筏か船に乗り込んだ軋む音がする。鈴の音を鳴らしながら、それは川の先へ吸い込まれていった。次は某の番だろうか。数歩前に進み、その時を静かに待った。やがて、赤く彩られた一隻の船が目の前に止まった。目隠しをした船頭はこちらを向いて一言、乗れと言う。某にあったはずの前世への執着がいつの間にか消えていて、船に乗り込んだ後も存外清々した顔をしていた。今更現世に行けたとて、不気味な程の力を嫌悪する人間によってまた、ここに戻るのだろうから。
船に揺られ、川から伸びた無数の鳥居を潜り抜け、ようやく遠くに町が見えてくる。天井は遥か上の岩肌で覆われ、船に乗る前に灯っていた行燈のほのかな灯りがそこかしこで光を放っていた。
*
閻魔大王の裁判には毎日、大勢の人間がやってきて判決を下される。一回一回丁寧に、どの地獄で罰を受けるか。手を抜こうものなら、判決を不服だと思う奴らがネズミのように湧いて出てくる。それ故に、裁判に関係する全員から、いつも張りつめた空気と恐ろしいくらいの緊張が伝わってくる。この地獄で今日もまた、失敗の許されない裁判があると聞いて、時間が近づく程に暗い気分になっていた。そんな気持ちを少しでも晴らそうと、自分は居酒屋の扉を開いた。関係者御用達の店だからか、既に知り合いは何人か飲み始めていた。
「おお、“タカムラ”じゃねえか。この後裁判あるだろうに、飲みに来て大丈夫か?」
「気晴らしだ気晴らし、一杯くらい飲んでも構へんやろ。言うてあんたも、おんなじ裁判でるやろがい」
「いいんだよ俺は、まだ時間あるし。タカムラみたいに出世の話題もないしな」
「なぁんだ嫉妬かぁ? あ、麦酒一杯、こいつの机に頼むわ」
「ちゃっかり相席にしやがって……前みたいに、金払う直前で逃げんなよ?」
はいはい、と受け流し、届いた麦酒を一口。
自分――『タカムラ』は、閻魔大王に仕える裁判補佐。とはいえ、裁判だけでなく、これから審議にかけられる人間の見張りや、いくつかの地獄の管理その他諸々、少なからず裁判に関係する物事を任されていることもある。幸い、自分はどの仕事でも高評価を受け、もうじき昇進するのではないか、という噂がたっている。ただ、周りの奴が思っているほど自分は出世に興味はない。ただ、今でも苦手な”人間の命乞い”を見ることが無くなる、ということだけは期待していた。人間上がりの自分からしたら、命乞いを無視して、人間だった頃恐れてた地獄に他人を突き落とすということが、どれだけ心の負担になっているか、連中は考えられないだろう。
日頃の鬱憤と共に麦酒を飲み干した。空になった硝子の杯を机に置き、懐の財布に手を伸ばす。今までの仕事で稼いだ銭がじゃらじゃらと音を立てる。
「にしても、あのタカムラがここまで登り詰めるとはな。閻魔大王様の慈悲に感謝しろよ?人間上がりのタカムラを、地獄で働けるようにしてくれたんだからな。」
「……感謝はしとるし、それを忘れもせん。実際贔屓されてるかもなぁ……悔しかったら、お前も頑張りや。ほれ、代金渡しとくで」
いくつかの銭を机に並べ、足早に店を出た。次の仕事の時間だと言って、全速力で大通りへ飛び出すと、後ろから奴の怒号が聞こえてきた。――何円かケチったのがバレたか。
大通りは丁度、次の裁判を受ける人間が連れられていくところだった。五、六人だろうか。手首と腰を縄で縛られ、見世物のように歩かされている。……正直、気分は良くなかった。元々同じ人間で、同じように引きずられていった身ではあるが、どうも地獄での人間の扱いは雑に見える。奴隷か何かと認識しているのだろう。それが余計に気に食わない。とはいえ、郷にいては郷に従え。今自分が、人間を下に見ることがある役職についているのも事実だった。
しかし、今回の人間たちは何かがおかしかった。普通であれば、俯き泣いて鼻を鳴らしたり、狂ったように謝罪をしたりする奴が大半だ。だが、最後尾の片目を隠した男は堂々としていて、囚われているにも関わらず涼しい顔をしていた。後悔や恥じらいなど感じない、妖のような不気味さと威厳を覚える。変な奴だな、これから大小違えども地獄に落ちるというのに。行列は大通りの先にある閻魔大王の宮に向かっていった。
「――お願い致します、どうか罪を軽くして頂けないでしょうか!」
あの後、裁判の上役に呼ばれた自分は、牢にいる何人かの言い分を聞くことになった。ある呉服屋の男は、己の罪をこれでもかと並べ、反省の意を見せて罪を軽くするよう頼んできた。
「私は何もしていません! わかって下さい!」
ある娼婦は、人を刺した上で無実を主張した。
ある少年は、悔しそうな顔で黙ったまま、とうとう何も話さなかった。
「へへ、大したことなさそうじゃないか! 心配して損した気分だ」
ある百姓は助けを求めるどころか、責め苦を舐めた態度をしていた。
そして、最後にあの涼しい顔をしていた男の番になった。
「次はあんたや、“霧波泉”」
小さな格子の向こうを眺めていた泉という男は、名前を呼ばれるとこちらを振り返った。
「ハッキリと言うが、あんたは人を殺しすぎた。健闘はするが、ある程度の罰は覚悟しとけ。言いたいことはあるか?」
すると、泉はたった一言「何もない」と言って、再び格子の外を眺め始めた。ここへ来て諦めがついたのだろうか。しかし、泉の顔はどこかにやついていて、まるでこちらに興味を示さない黒猫と話している気分だった。……どこかいけ好かない。確かに、命乞いをして欲しい訳ではないし、寧ろ騒がれない方が楽とさえ思える。だが、一瞬だけ見えたあの目を思い出す度に、何故か腹が立ってしょうがなかった。
裁判までの数日間、あいつの目が頭から離れなかった。時々牢の様子を見に行くときがあったが、いつも格子の外を見てばかりで、たまにこっちを向いたかと思うと、直ぐ視線を戻してはにやついていた。他に連れてこられた人間には、どんなに腕の悪い弁護士だろうと肩を貸したが、泉にはとうとう、誰も弁護しようと名乗り出なかった。曰く、自身の弁護を片っ端から断っていたらしい。この数日奴のことが気になってしまい、生前の情報を見たりもした。名のある武将で、戦績も数知れず。だがどこを探しても、結局奴があの目をしている理由が分からなかった。あれは諦めに近いような――“罪全てを受け入れようとする”目だ。
裁判が明日に迫っている。頼まれた独房の見回りの最中、また“奴”の目が頭に浮かんでしまう。……気に食わない。人間らしさを失った奴の弁護なんてしたくはない。しかし上層の方々は、罪人には弁護を付けるべきとの考えで、同僚か、はたまた期待されている自分をこいつの弁護に充てるらしい。そう言われると、奴のことを少しでも知っておいたほうがやりやすくなるだろう。――というのは建前で、本当は奴の目の正体を知りたかった、という好奇心からだった。軽く見回りを終わらせると、自分は泉が収監された独房まで向かった。泉の奴はいつも通り、地獄の街を眺めていた。
「なあ。」
声を掛けても、こちらを向くこともなく無視を貫いていた。そんなことは構わないとばかりに、自分は強引に話を進める。
「あんたが現世で何をやっとったかは知っとる。そこそこ有名な武将さんやったんやなぁ?」
「……。」
「罪を受けて当然、なんちゅうことはない。……ワイも結構前、閻魔大王様に許された身やって、あんたももしかしたら、腕を買われて用心棒になるかもしれんなぁ。――せやから、覚悟決めんでもええ。たとえ地獄の責め苦でも、慣れれば大したことないと思えるやもしれんし」
ここまで一方的に話したところで、街全体に重い鐘の音が響く。交代の時間だ。奴は今日も話さなかった――もしかしたら、罪を受ける直前まで、あるいはずっとあの顔のままなのかもしれない。
そして、泉の裁判の時がすぐそこまで迫ってきていた。四人目の裁判の行方を見届け、最後にあの気味悪い顔が変わっているか見に行くことにした。泉は相変わらず、格子の外の街を眺めていた。
「霧波泉、次はあんたの番や。判決が下されれば、あんたは直ぐにでも地獄へ落とされる。特別なことがない限り、こうして話すのも最後になるやろな」
いつもなら顔色ひとつ変えないはずなのだが、今更怖気づいたのか。表情がこわばっているように見えた。
「……なんや。折角人が話しかけてやってんのに、怖なったか?」
そう言うと、泉は景色を眺めたままため息をし、口を開いた。
「……お前と話せば、罪は重くなるのか」
「なにいっとんねん。自ら罪を重くしようとする人間なんて聞いたこともないで」
「ここに居るだろ」
正直、意味が分からなかった。かつて自分も同じ立場にいたが、その時でさえ少しでも苦しまない方法を考えていた。しかし目の前のこいつは、自身がより苦しむ方法を模索していた。
「……あんた、何がしたい」
これ以上は理解が及ばない――とはいえ、理解することもないのかも知れないが。気がつけば泉に質問していた。
「……某は二度と、浮世に戻ってはいけない。輪廻が廻ろうが、この呪いが無くなることはない、だからこそ、ここにとどまることにした」
「呪い、やって?」
すると泉は、片目を覆っていた髪を持ち上げる。そこにあった目の瞳孔は赤く、宝石のように光を反射していた。その瞳を見ていると、急に耳鳴りと眩暈が襲う。再び髪で瞳を隠すと、それらは瞬く間になくなっていた。
「……なんやそれ。それが“呪い”か?」
「ああ。運命を操る蛇の目だ。……少し昔話をしよう」
霧波泉は、ある武士の家系に生まれた。優しい母親、正義感の強い父親に育てられ、すくすくと育っていった。頭も良く、運動能力も申し分ない、文武両道という言葉が当てはまった。しかし唯一、両親が心配していたのは彼が病弱であること。年中熱を出しては、母に看病してもらっていた。泉はその度に「自分で治す」と言うが、それでも優しい母親は、泉の傍にいて、面倒を見てくれていた。具合が良くなると、父はいつも稽古をつけてくれた。六つの時には、武士である父を負かした程強くなっていた。これなら将来も安泰だろう、そう思った矢先の出来事だった。
泉は流行り病に侵されてしまった。一向に下がらない熱、止まらない咳。食欲もなく、鍛えた身体はみるみるうちにやせ細っていく。とうとう骨まで見えてくると、両親は涙を流しながらただ謝っていた。しかし、ある日の晩。泉は夢を見た。しっかりと自分の足で歩き、夜の村を散歩している。すると、白蛇が目の前に現れ、話しかけてきた。「川底に宝石を落としてしまった。深い深い川の底は、腕のない蛇では届かない。取ってきてくれないだろうか」と。夢の中の泉はすぐさま川に飛び込み、赤い宝石を掴む。次の瞬間、泉は目が覚め、自分が水中にいることに気がつく。急いで陸に上がると、手には赤い宝石をしっかり握っていた。直後、左目に鋭い痛みが走り、気がつけばその目は手のひらの宝石とそっくりになっていた。
それからというもの、病弱だった泉は風邪をひくことさえ無くなった。元気に走り回り、父の稽古では飽き足らず、自分で考えた特訓を積んでいた。不思議なことにあの日から、思った通りにことが進む。お金が欲しいと思えば、偉い地位の人間に養子になるか提案され、強くなりたいと思えば、人ならざる身体能力で敵を討ち倒せるようになった。最初のうちこそ疑問に思ったが、段々となんでもできる自分に酔うようになっていった。
十二の頃だった。傍若無人で我が儘な性格に育った泉は、若き武将として名をはせていた。ある時、広大な土地が欲しいと思い、自分の故郷の村に目を付けた。あの村を自身の支配下に置きたい、と思った時だった。伝令兵が言うには、山賊があの村を襲っていると。急いで向かうも一足遅かった。村からは黒煙が立ち上り、悪趣味なことに村人の首が突き刺さった杭があちこちにあった。両親も殺され、首だけが刺さっていた。――その後の記憶はほとんどない。ハッキリと覚えているのは、両親を殺した山賊への殺意と、内蔵をむき出しにされ、皮を剥がれた山賊の死体が転がっていた光景だった。余りにも惨い死体を見て、泉は吐き出してしまった。その時、左目からは血を流していたという。曰く、「死期を早め、運命を変える蛇の瞳」らしい――。
「――ほんまかいな。にわかには信じられんけど……さっきの妙な圧といい、あんたがおかしいのは分かった。せやけど、地獄にとどまる理由にはならんよな。それにその力があるんやし、罪を重くすることなんてあっちゅう間にできるやろ」
「……いや、ここ最近になって、思った通りにいかないことが続く。“運命を変える”など、大層なものではなかったのかもしれぬな。それに、出会った神主が言うには『魂ごと呪われてる、来世であろうとその目を持って産まれるだろう』と。今の記憶を持たぬ来世の某が、気の毒ではないか」
「さっき自分で“傍若無人”言った癖に、気の毒とか思うんやな」
「……最近になって、そういう態度はやめただけだ」
奴は案外、人間らしいところも残っている。しかし、そういった側面を見てしまうと、呪いという枷のせいで地獄にとどまらざるを得ない泉が、少し可哀想に思えてくる。今までの“罪を受け入れる”ような目は、諦めも確かにあるが、それ以外にも悲しみや覚悟を持った目だった。その時、鐘の音が独房まで聞こえてきた。泉の裁判の時間がやってきたのだ。自分の腰にある鍵を手に取り、独房の鍵を開けようとする。何もなければ、こいつとはもう会うことはない――
――すると、突如爆発音が上階から響く。それと同時に、おぞましい程の妖の気配――妖気が肌にピリピリと伝わってくる。
「なっ、なんやこれ?! 何が起こっとるんや?!」
突然の事態に混乱していると、紙で作られた伝令用の式神が飛んできて、音声を運んできた。
「<緊急事態発生!“八岐大蛇”が脱走、現在逃走中! それに伴い、無数の妖が脱走! 直ちに捕獲せよ! 繰り返す――>」
「なんやて?! くそっ、泉ぃ!あんたの裁判は後回しや! 大人しく待っとれ!」
と、泉の方を向くと、独房の中に姿はなかった。鉄格子が裂けて、人が通れる幅になっていた。突然背中を叩かれ後ろを振り向くと、そこに泉がいた。
「……あんた、そないなこと出来るんやな。今からどないするつもりや」
「無論、助太刀する。武器を貸してくれないか」
「……ほれ。一時共闘、っつっても、まだ信用せえへんからな」
近くに立てかけてある、脱走者鎮圧用の妖刀を手渡す。
「先ほどの話を聞いていたのか? ……己の罪、そして罰から逃げることはしない」
「ならええわ。――さ、急ぐで!」
*
某と名も知れぬ見張り役は、独房のある地下を進んでいた。数日ぶりの戦いとはいえ、今まで戦いで得てきた勘が、腕に染みついている。
「小鬼が追ってきとる!泉、任せてええか!」
「――ああ!」
瞬時に足を止め、背後から迫る妖に向かって刀を構える。そのまま突撃し、振り下ろされる鬼の鋭い爪を避け、一撃で首を刎ねる。このような人型であれば、生前の戦となんら変わりはない。
「ようやった! こっちもカタすで!」
見張り役は何枚かの札を指に挟むと、それを宙に浮かせ妖に飛ばす。札の大群に包囲された妖は、たちまち光の壁に囚われ、ぎゅっと潰されていく。
「奇怪な術だな。まるで陰陽術のように見えるが。」
「“結界術”ゆうねん。奇怪やろ?」
「……ふっ」
「……あんた、笑いのツボ浅いなぁ」
独房の先にある階段を駆け上がると、ここに連れてこられる時に通った廊下に出た。中央の枯山水がある場所は吹き抜けになっていて、ここからでも数階先が見える。
「まずは閻魔大王様の無事を確認せんと、このままついてけ!」
「応っ!」
道中、大柄の鬼が廊下で暴れまわっていた。鬼の目に付いた地獄の住民は至る所に投げつけられ、肉塊と化していた。
「貴様ぁ!これ以上の暴挙は許さへんでぇ!」
見張り役は札を飛ばし、鬼の体に貼り付ける。鬼が札を引きはがそうとするよりも早く、札は爆発し鬼に傷を付けた。だがあの巨体だ。それに見合う体力で難なく耐えられてしまう。
「泉ぃ、今や!」
爆発に合わせて鬼の背後に回り込む。合図と同時に妖刀を抜き、鬼の後頭部に突き刺す。痛みに耐えられなかったのか、巨体は力なく崩れ落ちた。
「っしゃあ! ようやった!」
鬼の死体を踏み越え、見張り役は再び走り出した。
「こっから右の扉や! 突っ切るで!」
「ああ、急ぐぞ!」
扉の先には、閻魔大王と側近、そして黒い龍の姿をした妖が向かい合っていた。
「閻魔大王様!ご無事ですか?!」
閻魔大王の体には無数の禍々しい煙が纏わりつき、行動を封じているように見える。見張り役を見た側近の一人がこちらを見た。
「――タカムラ! こいつだ! 助太刀してくれ!」
「ああ、任せとき!泉もついてこい!」
閻魔大王と龍の間に割って入る。人数差はこちらが有利、しかし今まで戦っていたであろう龍は、余裕そうに笑った。
「ハハハっ、我を舐めるなヨ……若造が何人増えようとも、我を超えることなど出来ぬワ!!」
龍が咆哮を挙げると、彼方此方から、何処からともなく落雷が襲ってくる。
「泉、ここで死んでしもたら、輪廻の流れに強制送還や。全力を持って奴を止めるで!」
「もとよりそのつもりだ。最後の戦道、華麗に飾ってみせるっ!」
龍はまじないに使われるような陣を宙に浮かせ、そこから何発もの雷を発射する。陣は左右に二つづつ――激しい攻撃に紛れて、閻魔大王を狙う陣もあった。某は壁を蹴り、空を飛ぶ龍の体に掴まり、持っていた妖刀で傷を付けた。
「――貴様! 崇高なる我に傷を付けるなド、不届き千万!」
すると、龍の周りにある陣が某の方を向いた。発射されたのは一筋の雷ではなく、雷で作られた玉だ。それはゆっくりと、こちらを捉えて追尾してくる。直ぐに龍の体に乗り、頭を目指して走り出す。依然として追いかけてくる雷の弾は、下にいるタカムラが飛ばした札が当たると、爆発して消えていった。
「走れ泉ぃ! そのまま脳天を貫いたれ!」
「何っ、そうはさせン! 今振り落としてやル!」
龍が体をよじる――この程度では、某を振り落とすなど出来ない。素早く飛び上がり、天井に足を付け、そのまま龍の頭目掛けて急降下する。
「来るな、来るナ! 近づくナァ!!」
雷を放っていた陣が一斉にこちらを向き、雷の弾幕が襲い掛かってくる。一発目の弾を両断するも、その後の攻撃を受けきれず落下してしまった。
「――っ! しまった……!」
辛うじて着地し衝撃を受けなかったものの、龍を刺激してしまい攻撃が激しさを増す。陣は分裂し、八つの陣が雷撃を続ける。
「泉! ――ちっ、アイツまだ余裕そうやんけ……!」
タカムラは無数の札を展開すると、半透明の壁を作り雷撃を防いだ。
「お前、確か『タカムラ』といったか。奴の攻撃手段を潰さなければ、接近戦に持ち込めない……! どうにか、ならないか?」
「……できるかわからへん。けど――アンタが奴を誘導してる間に、使える手は試す。……行けるか?」
タカムラには有効打になり得る策があるようだった。この状況で四の五の言っている暇はない。
「――任せた。全力を尽くそう……!」
「しゃぁ!ワイの本気の本気、奴に見せたるわ!――おいお前ら、大王様の解呪にこいつを使え!」
タカムラは伝令用によく似た紙の人型を、後方の面々に飛ばして渡す。先ほどタカムラの名を呼んだ側近の一人は、力強く大きく頷き、周りの者と共に閻魔大王の下に向かっていく。
「行くぞ“タカ”! この戦は、お前に掛かっている!」
「馴れ馴れしい呼び方すな! ――せやけど、悪い気はせえへんなぁ!」
タカの障壁が解除されたのを合図に、某は龍の尾へ飛びかかる。筆の先を掴むように尾を握り、利き手に据えた刀で尾を切り落とした。激しい痛みに悶える龍はこちらを睨み付け、全ての陣の攻撃が某を狙う。
「許さんゾ!! 我の気高き体躯をよくも、よくもォ!」
怒りに任せた龍の攻撃は正確さを失い、最小限の動きで回避することができる。
「どうした崇高なる龍よ、このような雷撃では、人っ子一人殺せぬぞ?」
「貴様ぁ! 我を愚弄するカ、愚かな人間の分際デ!!」
更に某の方へ注意を引く為に、龍を挑発する。龍は八つの陣を一つに纏め眼前に運ぶと、今までの雷撃ではない――巨大な雷の弾を作り始める。
「――シネェ!! 愚かで脆弱な人間ヨ!!!」
「今だタカ!」
タカが二枚の札を合わせると、札は一瞬のうちに弓へと変わる。弓を弾き、龍の陣に狙いを定め――
「――穿ち貫け、《弾丸結界》!!!」
――放つ。矢は真っ直ぐに、龍の陣を貫き破壊した。硝子が砕け散る音と共によろめく龍を、某は逃さなかった。壁を蹴り上げ龍の頭に飛び乗ると、刀を龍の頭蓋に突き刺した。
「ナッ?!」
「――終わりだ!!!」
突き立てた刀にもう一度力を込め、刃を深くねじ込む。龍の断末魔が響き、頭から噴出した血が装束を染める。奴は白目を向いて倒れていき、ドロドロと身体が溶けていく。そして龍がいた場所には、角と尾、鱗を持った人物が横たわっていた。
*
黒い龍――もとい『傲慢の大蛇』との戦いの後、某は再び檻の中にいた。裁判どころではなかったとは言え、騒動が落ち着けば、再び罰を受ける時が来るのだ。タカも言っていたが、“特別なことがない限り”地獄の責め苦を味わうことになるのだ。戦いで乱れた信念を呼び戻し、その時を待つ。やがて、タカが檻の前に現れた。
「霧波泉、大王様がお呼びやで――って、なんやその顔」
「どうした? 普段と変わらぬはずだが」
「いや……なんちゅうか、随分とスッキリとしとるように見えるで」
自分では気がつかなかったが、地獄に来たばかりの頃とは違う――どこか清々とした顔になっていたそうだ。
「まあええわ、ついてき」
タカは南京錠を外すと、独房の扉を開いた。タカについていく途中、見覚えのある囚人がいることに気がつく。そいつは怯えたようにこちらを見ていた。
「こいつは……」
「せやな。この間脱走した奴の一体、『傲慢の大蛇』や。今は力を封じて、非力な人間の姿に留めとる。」
よく見ると、両手には文字の刻まれた枷で繋がれているのが見えた。これが力を封じているのだろう。
「ひっ……く、来るなよぉ……」
「――とまあ、あんなに暴れまわってくれた妖がご覧の通り。地獄のセキュリティ、舐めたらあかんで?」
「連れて来たで。さ、通しとくれや」
裁判所の重い鉄の扉が、鈍い音を鳴らし開かれる。扉の向こうには、裁判長の席に座る閻魔大王の姿があった。タカは閻魔大王の方へと歩み寄る。
「閻魔大王様、ご用件は何でしょう? この様子だと、裁判ではないように思えますが」
「……タカムラ、そして霧波泉。先の鎮圧はご苦労であった。そなたらを呼んだのは裁判を始める為等ではない。――脱走した“七体の大蛇”について、頼みが有るからだ」
タカも呼ばれていたのか。それにしても、“七体の大蛇”とは何だろう。それを聞こうと口を開くも、タカは人差し指を口に当て、静かにするよう注意されてしまう。
「先の戦いで捕らえた大蛇、奴は『八岐大蛇』の分身の一体である。奴以外にも七体の分身が脱走、浮世へと逃げてしまった。放っておけば、いずれ浮世は、妖蔓延る地獄絵図と化すだろう。――そこでだ。タカムラと霧波泉には、浮世に逃走した大蛇七体を地獄に連れ戻す使命を与えよう」
「ちょっと待った」
なにをしているんだと制止するタカを無視して、閻魔大王に疑問を投げかける。
「タカは兎も角、何故某も行かねばならぬのか。某はこれから罰を受ける身だ。他にも適任がいるだろう」
「っ――!なにいっとんねんアンタぁ! 閻魔大王様直々の使命だっちゅうのに、断るつもりやないやろなぁ?!」
「霧波泉。貴様は魂ごと地獄に閉じ込め、その目の呪いを封じるつもりだと聞いた。だがその呪いを解くことこそが、罪人を輪廻に導く地獄の責務であると判断した。その呪い――八岐大蛇と無縁ではない」
「……なんやて? あっ――そうなんですか?」
閻魔大王の話によれば、某の呪いは八岐大蛇がかけた『厭魅の瞳』だそうだ。一度呪われてしまえば、どのみち対象を破滅へと導く。八岐大蛇は絶望を溜め込んだ瞳を喰らい、妖としての力を高めようとした。この地獄を襲ったのも、泉を探し瞳を喰らうため――と予想している。このまま地獄にいては、いつかは大蛇に見つかり、奴を強大な存在へと成長させてしまう。幸い腕は立つ。七体の大蛇を封印できれば、解呪の方法を聞き出し某を輪廻の輪に導くことができる……とのことだった。
「――それにだ。貴様がもし全ての大蛇を封印したのならば、輪廻転生する前に一つ、願いを聞き入れよう。可能な限り、だがな」
「……承知した。その使命、この霧波泉が引き受ける」
「自分も。閻魔大王様の命とあらば、快く引き受けましょう」
某が地獄にとどまらざるを得ない障害を取り除けるならばと、閻魔大王の使命を受けることにした。この呪いから解き放たれた時、某は胸を張って生まれ変われるのだろう――。
「うむ。成果を期待していよう」
閻魔大王に背を向け、裁判所を後にした。
*
「――かぁーっ! やっぱここの焼酎は最高やなぁ!」
現世に行くまでには様々な手続きがあるらしい。閻魔大王直々の命であれ、諸々の手続きを無視することはできないそうだ。ということがあり現在、つかの間の余暇を地獄で満喫していた。それならばと、タカは行きつけの酒場に案内してくれた。ただ――。
「……何故某は見ているだけなんだ」
「そりゃお前、地獄のモンは人間――幽霊だとしても、口にしてはならんのや。口に入れたが最後、地獄の住人になっちまって、生まれ変われることができんくなる」
……じゃあ、なぜ連れてきた。タカは某を気にすることなく、硝子の杯に二杯目の酒を注ぐ。
「――おいおい、これから旅をする連れを蚊帳の外にするなよ」
そう言って横から入ってきたのは、あの戦いの直前、タカに声を掛けた青年だった。黒い短髪で、タカの二倍程の身長。大きいというよりは、タカの方が小さいのだろう。
「ツネツグは関係ないやろ。つーかまたここに来て、書類仕事はどした?」
「終わらせた。前世の俺を忘れたのか?」
「覚えとるわ、“隷書バカ”」
「んだとこらぁ!」
二人は某のことなど目にも留めず、口喧嘩に火花を散らしていた。数分後、ツネツグの方が疲れてきたような顔を浮かべた。
「……それはそうとだな。俺はお前らに渡すものがある。もう時間だし、サッサと杯置いてついてこい」
「なあ、“ツネツグ”といったか。タカの知り合いか?」
道中、ふと疑問に思ったことを口にする。
「知り合い――というより、腐れ縁だな」
「せやな。前世の知り合い、地獄では厄介な顔見知り」
「厄介で悪かったな、“流行おくれ”」
「なんやてコノヤロー!」
再び煽り合戦が始まってしまった。やれやれ、前世で何かあったのか、地獄に来てからこうなったのか。
「……そういえば、今はどこに向かっているんだ?」
「ん? ああ、忘れてた。霧波泉、お前がいつまでも死装束のままじゃ、旅に出るとき不便だろうってな。上から身なりを整えて来いって話だ」
言われてみれば、地獄に来てから一度も着替えたことがない。現世に行くときこの姿では、もう死んでいるとは言え、幽霊か何かと見間違われてしまうだろう。
「というわけだ。呉服屋に寄っていけ。金は上が出すらしいが、ほどほどにしとけよ?」
手続きも終わり、身なりも整え、いよいよ出発の直前になった。地獄から現世に行くためには、上昇する箱に乗っていかなくてはならない。洞窟にぽっかりと空いた大穴には、何本かの太い糸が伸びていた。
「泉はん、やっぱセンスあるなぁ。男前ってやつやな」
「……その呼び方はなんだ」
「へっへっへ、アンタがワイを『タカ』って呼ぶんやったら、こっちは『泉はん』って呼ばせてもらうで、泉はん」
「……好きにしてくれ」
すると、下かた上ってきた箱が目の前で停止した。箱は、柵を硝子で仕切ったような見た目をしていた。ついてきたツネツグが柵の一辺を開く。
「これに乗れば、現世まで送ってくれる、が。暫く戻ってはこれないはずだ。二人共、準備はいいか?」
「ああ。大丈夫だ。」
「今更怖気づくわけないやろ。心配せんでも、使命を果たして帰ってくる。――あ、そうや」
そういうと、タカはツネツグとすれ違うと同時に、小さな麻袋を押し付ける。ツネツグが受け取ると、微かにチャラチャラと音が鳴った。
「訂正しとく。逃げとる訳じゃなく、後払いってだけや。勘違い、せえへんでな。」
「……ばーか。どうせ後付けだろ?ま、そういうことにしといてやる」
箱の扉が閉まり、ゆっくりと上昇していく。タカとツネツグはなんだかんだ言っておきながら、互いが見えなくなるまで手を振り合っていた。
もうすぐ地上だろうか。いよいよここから旅が始まる。この先、何が待っているのか。どんな人と出会い、別れを経験するのだろう。正直言って怖くもある。誰に恨まれ、誰に傷を残すのだろう。しかし、もうとっくに覚悟は決めていた。八岐大蛇を倒し、呪いを解き、そして次の人生を歩めるように。ここから、人生の続きが始まるのだ。
*
「やめてくれ!! 助けて、助けてくれぇ!!」
「あらあラ、そんなに大声を出されたラ、困りますワ」
江戸の町、ひっそりとした路地で助けてと叫ぶ百姓。舌なめずりしながら百姓に近づく女は、頭こそ女性ではあるが、首から下が蜘蛛の姿をした、妖そのものであった。
「大丈夫ですワ。ここで殺さズ、住処でゆっくりト、噛み砕いて差し上げますワァ!!」
「あ、ああ……!」
絶体絶命かと思われたその時。
「アハハハハ!! ハ――ガッ、ギィィ?!」
蜘蛛の体を鋭い痛みが襲った。
「ッしゃあ! 奇襲成功や!」
「キサマァ!! ナニヲシテクレタノダ!!」
「おいおいおい、背中を向けていいんですかい?」
「ハァ――?!」
蜘蛛女が振り返るも、時すでに遅し。そこには、自身の背に乗る青年がいた。
「練習通りに頼むで、泉はん!」
「分かっている!」
青年は深く息を吸うと大きく飛び上がり、刀の先を蜘蛛女の額に突き立てた。
「な、ナニヲ!」
「《紫電必殺》――!!」
直後、青年が刀を引き抜くと同時に、破裂音が響き渡った。
「アァ…………」
蜘蛛女はその後、ぐったりと動かなくなった。蜘蛛女をつつき、生死を確認した少年は青年に駆け寄った。
「トドメもバッチリ、流石やな泉はん!」
「上手くいって良かった。さてと、残る妖も討伐せねばな」
恐怖に震えて、上手く声が出せない。しかし、彼らがこちらを目視すると、青年が手を差し伸べる。
「立てるか?」
「あ、あんた達は一体――」
「別に名乗っても、意味はないと思うんやけどなぁ……ま、一応自己紹介しとくわ」
「ワイらは妖退治の旅の一行、ワイは『タカムラ』、そしてこいつが――」
「――『霧波泉』と申す」