後編
ある程度体の倦怠感が抜けてきた頃、私は保健室の先生にお礼を言い自分の教室に帰って行きました。
教室につくと、彼がそばに寄ってきて心配の言葉を投げかけてきます。
心の内の落ち着かなさに合わせるように返答もどこか角があるようなものになってしまっても、彼は安心したような表情を浮かべていました。
そんな様子の彼をみて、ふと疑問が湧き上がってきました。
一体全体どんな人生を生きてくればそんな人になるのか。
彼の話を聞き、そのエピソードたちを繋ぎ合わせたところで、なんの模様もできないような平凡なものでした。
そんな彼の描く無地の模様と自分を比べてよく理解できました。
自分のキャンバスがいかに歪で惨めな様相を放っているのかを。
気がつくと、強めの口調と共に、彼への恨み節が溢れていました。
恨み節だと思って吐いていた言葉は、いつの間にか身の上への悲観へと変わってしまっていました。
全てを聴き終えた彼は、同情なのか、慰めなのか、どんな言葉を吐くのだろうと思っていたのに。
それなのに、彼はただ無言で私のことをゆっくりと包み込みました。
彼から貸してもらったハンカチを洗って返すと言い捨て、私は教室への帰路につきました。
教室に戻ってすぐに、目が潰れてしまうような煌びやかな女子たちに話しかけられました。
どうやら要件があるとのことで、女子トイレに半ば連行される形で向かうことに決まってしまいました。
ピーチクパーチクと煩い囀りを整頓すると、どうやら彼に気がある内の一人のために、ライオンの群れで蟻に詰め寄っているようでした。
もちろんのことながら、自分のことがわからない私が説明できるわけはありません。
それでも、妙なことに巻き込まれるのは嫌だったので、否定の言葉をきちんと口から零しました。
ある日のこといつものように彼と二人きりの教室に西陽が指し始めた頃。
彼はいつもと異なり、何も声をかけることもなく、一人で帰る支度を始めました。
もともと私たちの間では当然だったことなのに、いつの間にか不自然を感じるようになってしまっていたことに気づかされました。
彼が教室を離れる直前、自然と口から言葉が漏れ出ていました。
私の呼び止める声に、彼は振り返ることなく歩みを止めました。
何を話せばいいのかわからないコミュニケーションが下手な私の言葉を彼は辛抱強く待ってくれました。
彼がいつもと違う理由は、この前のトイレでの拒絶の意思を誰かが録画して見せて居たのだと理解しました。
それからはどちらともなく、極めて不自然に、自然に振る舞おうとしていました。
小石のような何かでさえ、「今」を変えてしまうような感覚が絶えず襲ってきました。
いつもと同じような他愛無いような内容の会話、いつもと同じ帰り道。
いつもと違うような浮き足立ってしまいそうな雰囲気、いつもと違う分かれ道での言い表せない沈黙の時間。
カラカラの雑巾を無理やり捻って滴を出すかのように息が口から通り抜ける。
最後に告げることができたのは「この関係に名前をつけれるようになるまで待ってほしい。」と言うセリフだけだった。
家に帰ると、いつものように喧嘩の声で溢れていると思っていた空間は静謐で満たされていました。
どうやら私が変わらなくても、世界は変わっていってしまうのだと刻み込まれました。
これから私は苗字が変わるのだと、住む場所が変わるのだと、何もかもと別れなければいけないのだと。
せめてその全てに対して、時間的猶予というものが存在していれば。そんな感想がまるで他人事のようにただ頭に浮かんで沈んでいった。
それからの人生には語るようなことはなく。いや、語りたくなるような事は何も無かった。
ありきたりで普遍的でチープな緩やかな破滅という表現をすることが精一杯だった。
目の焦点すらあっていないような母親が持つ鈍色の金属の冷たさを感じた。
すぐに人体の持つ温かさが、染み出し始めたことを理解した。
まるで体温が抜け出ているような錯覚を覚える中、視界の端に子供の頃からの宝物を入れていたダンバールが視界に入った。
昔は家族みんなでジグソーパズルを解くようなこともあったなと、思い出していた。これが俗にいう走馬灯なのだろうか。
ふと、ある言葉が浮かんできた。
「パズルのピース」
この言葉をもっと早く解答欄に書き込めたらよかったのに。
たとえそれが正解であっても不正解であっても、どっちだっていいのかもしれない。
その言葉はカタチを成して、欠けていた最後の場所にぴたりとハマっていくようだった。