第十六章 魍魎招来 壱
草木も眠るような深夜にあって、紫髭の沿岸は存外賑やかなものである。風が吹けば周囲の木々が枝を打ち鳴らし、あても無く歩めば足元で小石が音を立てる。そして、例え風が止み、歩む事をやめて息を殺したとしても、絶え間無く流れる紫髭のせせらぎが耳をくすぐる。
そんな紫髭のせせらぎが微かに響き渡る中、中岸の三狼士の長兄チョウエンはにわかに身震いをした。
「エン兄?」
隣にいた次兄ライシンが心配そうにチョウエンに声をかけ、リハンはライシンの声に何事かと兄二人を見比べる。チョウエンはライシンやリハンを見返すことも無く、眼前の洞窟を睨みつけたまま歯噛みした。
タイコウに指示されるままに馬車を走らせ、奇岩の立ち並ぶ紫髭の川辺へとやってきた。そして、タイコウは三狼士達にオウメイを任せ、一人洞窟の中へと駆けていった。
洞窟の中でいったい何が起こっているのか。不思議な錫杖を手にした青年タイコウは洞窟内で何が起きているかある程度把握できていたようだが、道士の修練半ばで挫折したチョウエンにはそれを知る事は叶わない。
ただ、チョウエンにも洞窟の中で異変が起きた事はわかった。未成熟の感覚をもってしてもはっきりと感じ取る事のできるほどの異変。それも良くない方に。
「シンよぉ、嬢ちゃん達の所に行って有事に備えとけ」
長兄の言葉にライシンは何を問うまでもなく黙って頷き、オウメイ達が乗る馬車へと向かう。
「ってことは、俺はエン兄と突入ですかい?」
待ってましたとばかりに双棍を振り不敵な笑みを浮かべる末弟リハン。チョウエンはそんなリハンの丸々とした腹を小突く。
「おめぇはこの太っ腹で洞窟を塞ぐつもりか?」
チョウエンは呆れた口調でそう言うが、洞窟は狭いと言ってもさすがにリハンが入れないというほどではない。
しかし、戦闘となれば話が変わる。リハンが存分に双棍を振り回す事はできない。彼に十分な働きをさせたければ洞窟に踏み入るべきではない。
「ハンは儂とここに待機だ。気ぃ締めてかかれよ」
「おうさ!」
チョウエンの指示にリハンが声を張る。
「チョウエンさん、何かあったんですか?」
急に慌しくなった三狼士の様子に、馬車の中にいたオウメイが顔を出して尋ねる。チョウエンは振り返ると、困り顔でオウメイを見た。
「おいおい、嬢ちゃん。危なっかしいから馬車の中に引っ込んでてくれ。あと、ついでに祈っておいてくれや」
「祈る?」
「リクスウの兄貴とタイコウの無事。ついでに儂等のこともな。偽教主様のお祈りなんぞより、嬢ちゃんに祈ってもらったほうが御利益あるってもんさ」
それだけ言うと、チョウエンは徐々に近付きつつある邪気に対するべく再び洞窟へと向き直った。
龍神に仕える神官の娘として育ったオウメイ。瀕死の傷を負って後に先祖トウコウの力に目覚めたリクスウ。二人はレイザンの放った鎖に囚われた瞬間から気の流れを制限されて、自らの気を外に出す事も、周りの気を読む事も出来なくなっていた。
気配を探る事の熟達者二名がその力を封じられ、三狼士の次兄ライシンと末弟リハンは元よりその手の力は有していない。
残るは三狼士長兄チョウエンと錫杖魯智を手にしたタイコウ。その一方であるチョウエンが何かに震え上がった時、タイコウもまた自身の肌を走る寒気を感じずにはいられなかった。
そして、魯智によってチョウエン以上に高められた霊感と、チョウエンよりも遥かにそれの近くに位置していた事で、より鮮明に悪寒を味わう事になった。
(この感覚は、前に……)
震える両手を鼓舞して魯智を握り締めるタイコウ。その錫杖魯智がタイコウに発した警告は以前にも聞いた事のあるものだった。
妖魔襲来。異世界から波の如く押し寄せてくる、と。
タイコウは怯えの残る目でレイザンの立つ祭壇を見据える。その祭壇こそが、寒気を生み出した根源であり、恐らくは妖魔が湧き出る源泉となるであろう場所だ。
このまま傍観を続ければ、懸念した通りに妖魔がこの世界に呼び出される。それを止めるにはレイザンの傍らにある禍々しい祭壇を破壊するべきか。
否。
タイコウが祭壇へと魯智を差し向けた瞬間、その魯智がそれを拒絶した。
祭壇が如何なる規則性を持って構成されているものかは、妖魔や呪法に詳しい錫杖魯智でさえ知り得ない代物。祭壇を破壊する事でレイザンの思惑を阻止できるというのなら、レイザン自身が祭壇に向けて己の鎌を投げつけるような真似はしない。むしろ祭壇の破壊こそが妖魔招来の鍵とも成り得る。
ならば、その祭壇を用いようとする者を止めるのが懸命。
(今から間に合うか?)
タイコウは改めて魯智をレイザンへと向け、震える唇を開く。
「天を駆けるもの。地を巡るもの。そのもの何処より湧き出で。何処へと流れ行かん」
錫杖の狙いを祭壇からレイザンへと変え呪文を口にするタイコウ。その姿を見ていたリクスウは、タイコウと魯智の間で交わされた問答を察してレイザンへと目を向けた。
祭壇に何をするかは当然リクスウにもわかりはしないが、自分達にとって都合の良い行動では無い事は確かだろう。レイザンの行動を阻止するなら、飛び掛るよりも手っ取り早い手段を今のリクスウは文字通り手にしている。
「テメェが何する気か知らねぇが、黙って見逃しゃしねぇってんだ!」
そう言うと同時にリクスウは自身の腕に巻き付いた鎖を力一杯引いた。
レイザンによって絡められた腕の鎖は、今尚リクスウとレイザンをつないでいる。先の戦闘で面と向かって鎖を引き合えば扱いに慣れたレイザンに分があるが、祭壇に注意が向いている今ならまだ効果は期待できる。いち早くレイザンの動きを牽制するという意味では悪くない手段。
だが……。
「あり?」
鎖から伝わる手応えの無さにリクスウが間の抜けた声を上げ、リクスウが引いた鎖はざらりと音を立てて彼の足元に落ちた。
「ああ、鎖は外させてもらった。これからの立ち回りには些か邪魔になるのでな」
鎖を握る手と足元を見比べるリクスウに対し、彼を見る事も無く告げるレイザン。その間も、レイザンの手は祭壇に並ぶ祭器に伸びている。
リクスウを苦しめた鎖を手放し、あまつさえ彼と相対する事もせずに祭壇に向かうレイザン。その様は決してリクスウ達に対して油断しているわけでも余裕を見せているわけでもない。一見祭壇を破壊しているようにしか見えないその作業が、今のレイザンにとってリクスウを相手にする以上の優先事項なのだろう。
無論、それを黙って見守るリクスウではない。
「おいおい、いいのか? 俺を自由にさせておいてよ!」
リクスウは好機とばかりに雪割りを振り上げレイザンに飛び掛る。レイザンは祭器の一つを鎌で叩き割ると同時に手首を返し、横合いから振り下ろされる雪割りを打ち弾いた。
「良くはないな。だが、今言った通り、この先は私にとっても鎖は枷となるのだ」
「この先も何もアンタは今ここで仕舞いだ、レイザン!」
弾かれた雪割りを捻り、リクスウはさらに踏み込み刃を切り上げる。
しかし、白刃の軌道には最早レイザンはいない。リクスウから、祭壇から、大きく飛び退いたレイザンは口元に僅かに笑みを作った。
「仕舞いにはならぬさ。今からが、先刻告げたこの先なのだからな」
レイザンの冷淡とした宣言にタイコウが内心舌を打つ。
(間に合わなかった。だからって……)
祭壇への干渉を済ませたからといって、レイザンをそのままにしておけば危険であることには変わりない。
タイコウは錫杖の穂先にある目隠しの道士を見据える。
「我が意思はかの地を指さん。砕破!」
術を発動させる一言をタイコウが口にした瞬間、事は起こった。
タイコウの感じていた瘴気の膨らみが急速に加速していく中で、祭壇を中心とした空間がぐらりと歪む。歪んだ虚空に闇より暗い穴が開いた途端、穴は祭壇そのものを覆い隠すほどに一気に広がる。
そして、レイザンめがけて魯智から撃ち出された白槍の如き閃光は、虚無の穴から湧き出た影によって遮られた。
「妖魔……!」
タイコウは影の正体に愕然として声を上げた。
砕破の光が貫いたのは、虚無の穴からいち早く抜け出てきた妖魔。如何なる妖魔であったかは、術の直撃を受けて妖魔が塵と化した今となっては知れない。だが、少なくとも人ならざる姿のモノだった事は確かだ。
もし、消え失せた妖魔が姿を残っていたとしても、タイコウやリクスウがその妖魔を検分する暇など無い。
すでに第二、第三の妖魔が穴を抜けて獣のように唸りを上げている。
祭壇の間近にいたリクスウは、眼前に突如として現れた妖魔達を前に舌打ちした。
「くそっ! 異界の門だと?!」
リクスウには妖魔達を導き出した空間の歪みに少なからず覚えがある。ホウ大国三大道士の一人デイコウと共に山村ゼンギョウ近郊の森を散策した際に発見している。
異界の門は、その名の通りこの世界とは異なる世界とが繋がってしまうという考えがたい現象。言わば、常世の秩序のほころび。異界の門は何時何処にどれほどの規模で発生するかは予測できず、いつ消滅するかも定かでは無い。
今リクスウの目の前にある空間の歪み、異界の門がいつ消えるかは彼には到底わからないが、少なくともその規模は比較できる。歪みの範囲は以前にデイコウと共に発見した異界の門よりも大きい。それは、異界の住人である妖魔が出現する可能性が高まるということ。
そして、異界の門の大きさと妖魔出没の可能性の大小を論じるのも愚かに思えるほどの大量の妖魔が、開門を待っていたかのように異界の門を抜けて姿を現していく。
猪や狼の頭を持つ人型、見たことも無い獣、小鬼。種は大小様々異なるが、総じて異形の妖魔。いくら規模が大きくなったからといって、この妖魔の量は異常だ。まるで妖魔達はこの地に異界の門ができると知って集っていたかのよう。
「全く、まーったく、やりづれぇ!」
リクスウの腕に絡みついた鎖の束縛は健在。レイザンが鎖を手放してもその効果が途切れる事はないらしく、未だに虎霊トウコウの力が彼の内に湧いてこない。
リクスウは雪割りを振りかざし、次々と現れる妖魔を切りつけ牽制するが、湧き出る妖魔の勢いに後ずさる。
「これは……まるでカリュウの時みたいだ」
襲い掛かる妖魔を錫杖で打ち据えたタイコウが呟く。
リクスウと出会った小都市カリュウで起きた妖魔の大量出没。レイザンが異形な祭壇を破壊した時に感じた瘴気の膨れ方は、妖魔が大量に湧いて出た時に感じたそれに酷似している。
カリュウの妖魔大量発生の首謀者。オウメイと共に戦った龍神池のほとり。そして、壊れた祭壇から生じた異界の門。
タイコウの言葉に、リクスウの頭の中で何かが繋がる。
「ってぇことは……レイザン、おまえも妖魔の類ってわけかい!」
「いかにも」
濁流のように湧き流れる妖魔達の間をどう渡ってきたのか。リクスウの背後に立ったレイザンは、短くあっさりと答えると手にした鎌を振り下ろした。