第十五章 鬼岩結界 壱
拝紫教アンガンの宮の裏手に置かれた三台の馬車。その荷台に最後の積荷を乗せ終えたリクスウは溜息をついた。
「やれやれ。全く、まーったく、人使いの荒い教主様だよなぁ」
リクスウと中岸の三狼士ことチョウエン、ライシン、リハンは、教主メイケイに仕える拝紫教の者達と共に延々と馬車へと荷物を運ばされていたのである。宮の一室に軟禁されて退屈していたとはいえ、登場と同時にあれやこれやと指示を飛ばすメイケイにリクスウは閉口していた。愚痴の一つも言いたくなる。
そんな彼のぼやきに、共に荷を積んでいた中岸三狼士の末弟リハンが頷く。
「初めてあの教主様の本性を見た時ゃ、シン兄なんぞ半泣きになってたッスからねぇ」
そんなリハンの言葉にリクスウは苦笑いを浮かべた。
シン兄ことライシンは三狼士の次兄。リクスウよりも背が高く筋肉質、無口な仏頂面と、外見こそ強面なのだが、実際に話してみればその性格は温厚。むしろ、タイコウに通じる気弱さをリクスウに感じさせ、そんな性格でよく長兄であるチョウエンやリハンと三狼士にくくられたものだと思うほど。
そんなライシンは義兄チョウエン共々、拝紫教教主メイケイの御小言の真っ最中。流石に慣れてきたのか泣きこそしていないが、耳障りな金切り声を上げる教主を前にして粛々としている。
「見てりゃ見てるほど、ホントに徳の高い御仁とは思えなくなってくんなぁ」
いつ終わるとも知れないメイケイの説教を遠巻きに眺めつつリクスウが呟き、それに同意するようにリハンが腕組みしてしみじみと頷いた。
「まったくで。まあ、あの御大の手綱を捌けるのはレイザンの旦那ぐらいなもんで……」
「やれやれ、我が主は随分な言われようだな」
リクスウとリハンは突如背後から洩れ出た声に飛び上がって驚き、二人して振り返る。
その声と全く感じさせない気配の主レイザンは、驚く二人を前にして困ったように眉根を寄せていた。
積荷を乗せた馬車の周囲には、リクスウ達以外にも十人あまりの拝紫教の教徒達がいる。そんな中で教主を悪いように言われては、教主の守り手であるレイザンとしてはたまらないのだろう。
「だ、旦那! いるなら一言言ってくださいや」
「驚かせた事は謝ろう。だが、今のような話は控えてもらいたいものだな」
抗議するリハンに切り返して抗議するレイザン。リクスウはその傍らで苦い顔で帰還した道士を見た。
(やっぱ微塵も気配を感じさせねぇ……)
レイザンの気配を捉えられないのは己の未熟さゆえなのか。或いは、自分より気を読むに長けたオウメイならばレイザンの気配を掴めるのか。
そんな思いがふとリクスウの脳裏をよぎり、それを自身で否定する。
レイザンの気配の無さは異常だ。おそらくはオウメイでも捉える事はできない類の代物。そう思えてならない。
(妖魔だって気配の一つも見せるってのに……)
相変わらず掴み所の無いレイザンの存在にリクスウが歯噛みし、当のレイザンはリクスウの視線を気にした様子も無く主であるメイケイの元へと歩み出した。
「メイケイ様、いかがなさいましたか?」
レイザンの声に、メイケイは険しい顔をそのままに視線を三狼士からレイザンへと視線を移す。
「大した事ではありません。この者達の不手際を少し諌めたです」
(あれで少しか?)
内心思いこそすれ、リクスウの口からそれが出る事は無かった。これで余計な事を言えば次に矢面に立つ羽目になるのは間違いない。
メイケイに目の敵にされるのは誰しもが勘弁というところだろう。いつ終わるとも知れないメイケイの有り難い説法からレイザン登場でようやく解放されたチョウエンとライシンも、メイケイの後ろで目立たないように深い溜息をついていた。
「で、有り難くも教主様直々の指揮の元、何やら色々と荷物を運ばされたわけだが……。よもや夜逃げってわけでもねぇんだろ、レイザン?」
冗談めかした問いにメイケイが何か言いたそうにリクスウを見たが、それより早くレイザンがリクスウに振り返って頷いて見せた。
「無論だ。これより先こそが貴公等の本領を発揮する場となる」
静かに、だが確かに宣言したレイザン。
その言葉が放つ戦いの臭いを嗅ぎ付けたリクスウと三狼士達が目の色を変える。鋭く、冷たく、視線そのものが敵を断つ刃であるかのような刃の眼光。
そして、変貌は彼等を見ていたメイケイもまた同様だった。感情の一切を消したような彼女の顔は、穏やかなようで憂いているようでもある。言うなれば見た者の心象を移す水鏡のような無限の表情を秘めた面。
リクスウや三狼士、レイザン。そして、メイケイの雰囲気の変化に他の教徒達も何かしら感じ取ったらしく、皆揃ってメイケイの元へと急ぎ足で集まっていく。
メイケイは周囲の者達によって張り詰められていく空気の中を一陣の風の如くふらりと歩み、教徒達の前で立ち止まる。
「我が同胞よ。今宵我々は長らくアンガンを、ひいては紫髭流域を苦しめてきた諸悪の根源を断ちます」
人が入れ替わったのではないかと思うほどの落ち着き払ったメイケイの言葉に、リクスウは驚き息を呑む。
「紫髭の水面が朝日に煌くか、はたまた曇り澱むか……全ては私達の働き一つ」
リクスウと三狼士を除けばこの場にいるのは拝紫教の熱心な信仰者であり、彼等にとっては教主メイケイの演説は心を振るわせるに足りることだろう。
「ですが、私は信じています。紫龍様の導きと貴方達の雄志により我等が勝利すると」
メイケイが周囲を見回し諭すように話しかけると、教徒達は競うように跪いて教主に頭を垂れた。
レイザンはメイケイの脇に進み出ると、信者達の様が見えているかのようにそれを見回して満足げに頷く。
「さあ、参ろう。我々の手で平穏を掴むのだ」
澄んだ夜の空気に一際響いたレイザンの声。教徒達は黙礼をもってこれに応え、各々馬車へと乗り込んだ。
時は僅かに遡る。
夜空に浮かぶ月が煌く星々を道標に天の頂へと昇ろうとする中、オウメイはレイザンに付いてアンガンの町を歩いていた。
アンガンの町並みは、繁華街を中心として昼間とは少し違った賑わいを見せている。
(こんな時やなかったら、ウチもあっちへ顔を出したいところなんやけど……)
オウメイの内心に響く樂葉の意識は、飯店で陽気に笑いながら酒を酌み交わす酔っ払い達へと向いていた。
(こんな時じゃなかったら、夜中にアンガンの外門は開けてもらえなかったでしょうよ)
オウメイは樂葉の呟きに答えながら先を行くレイザンの後を追う。
交易都市アンガンは古来より流通の要であり、町を形作る外壁を越えて繁栄していった。その発展はホウ大国建国によって訪れた平穏によってさらに加速し、今では町を守るはずの外壁が壁の内外の交通の利便性を損ないもしている。
だが、この町を治める者達の口から壁を崩すという案が出た事は一度も無い。それは戦乱の世ともなれば必須となる防壁だと心得ている為であり、ホウ大国が収めるより以前には軍事拠点として幾度と無くアンガンが襲われた歴史がある事も要因である。
そして、外壁に設けられた門は、かつての戦乱に怯えるように毎夜閉ざされ、次の朝が来るまで開かない。アンガンに関わる有力者の口添えでもあれば、話は別だが……。
(開かへん門を開けさせるっちゅうんやから、流石は母様んトコの使い走りやねぇ)
(メイケイ様の護衛を仰せつかっている人を使い走りとか言わないの)
オウメイが樂葉との対話に意識を取られているうちにも、レイザンは道を先へと進んでいる。オウメイは自分の遅れに気付くと、慌ててレイザンを追いかけた。
生まれた家柄もあって万物の気を読むことが日常的な事だったオウメイにとっては、気配の読めないレイザンに付いて歩くのは手を焼く話だ。
常にレイザンを視界に収めておけばいい。普通の者にはそれが普通な事なのだろうが、なまじ無意識に気配を探る習慣が身に付いてしまっているオウメイにとっては疲れる事。樂葉の横槍という要素も加わって、尚更骨が折れる。周囲の者より背の高く、その装束が特徴的なレイザンが相手でなければ、すでに見失っているかもしれない。
「レイザンさん、メイケイ様やリクスウはどこに?」
「貴方もここアンガンの拝紫教の宮は存じているだろう? そこの紫龍様の御社の奥に社務所がある。メイケイ様とそれに仕える者達は皆そちらにいるのだ。無論、リクスウもそこだな」
早足で追いついてきたオウメイの問いにレイザンが答える。彼の答えに、オウメイの内では樂葉がやれやれと安堵の息をつく。
(あのお宮さんなら昼にも行ったし道順はわかるわ。ほんなら、もしレイザンを見失ってもリクスウんトコには行けるわけやね)
(樂葉、宮の門も閉められてるわよ……)
(レイザンから目ぇ離しなや、オウメイ)
だったら、いちいち声をかけてレイザン追跡の邪魔をしないで欲しいものだ。樂葉の言葉に今度はオウメイが溜息をついた。
樂葉の楽観視ではないが、道順さえわかれば目的地さえわかればレイザンが次に進む道も予測しやすい。何より、繁華街を抜けてしまえば出入りの止められたアンガンの街中は人通りが極端に減り、レイザンを見失う機会も格段に減る。
夜の街中を行くオウメイは道中でレイザンを見失う事も無く、やがて彼と共に拝紫教アンガンの宮へと辿り着いた。
案の定オウメイの指摘通り宮の門は閉ざされていたものの、レイザンが門の番をしている宮司の一人に何事か話しかけると容易に門は開かれる。
(はぁ、昼間とはまた随分と雰囲気が変わるもんやねぇ)
オウメイは樂葉の声に頷いた。
門が閉ざされて参拝者のいない夜の境内。斜めに射す月光が社を照らし、遮る者のいない境内に大きな影を作り出している。人気は無いが、昼間訪れた参拝者の意識の残り香のような気配がオウメイの感覚を刺激する。気配の無いレイザンを追っていた今のオウメイには尚更色濃く感じられた。
いや、視線を巡らせたオウメイが紫龍の社脇にいる人の気配を捉える。
「あれは……?」
社の影になってはっきりとした姿が見えない。
オウメイが目を凝らし影の姿を確かめようとしているうちに、影もオウメイとレイザンの存在に気付いたらしく門に向かって歩き出した。
「これは、探す手間が省けましたな」
オウメイの隣にいたレイザンがぼそりと言う。
そうしているうちにも少しずつ近付いてくる影の者。社の影から月明かりの中へと踏み入った姿にオウメイは息を呑んだ。
レイザンが探す手間が省けたと言った相手。それはリクスウではなく、目前の者を指して言った言葉だ。
その者が誰だっだかと思い出すよりも早く、目にした者の姿がオウメイに答えを導き出させていた。
「レイザン、やっと戻りましたか」
そう言って隣のレイザンを出迎えた女性。彼女の装束は拝紫教の高位の者がなんらかの儀式を行う際に身に付ける正装であり、その装飾や衣に記された文様は高位の者達が着る装束の中でも唯一無二のもの。拝紫教最高位である教主のものだ。
そして、それに思い至った瞬間、オウメイと樂葉は揃って彼女の気配からもう一つの答えを導き出していた。
(オウメイ、こいつ!)
「この人……!」
オウメイの口から何事か出ようとした途端に、レイザンが動いた。
目の前の女性に意識が向いていたオウメイは、いや、そうでなかったとしても彼女の視界から外れていたレイザンの行動に、オウメイが反応する暇は無かった。
レイザンの外套の下から伸ばした片腕からいくつもの鎖がざらりと飛び出し、蛇のようにオウメイに絡みつく。
突然の事に動揺したオウメイの意識が抵抗へと変わるより早く、レイザンは片手で印を組んだ。
「禁」
「きゃっ!」
短くも力持つレイザンの一声で、鎖がオウメイを締め上げる。
(オウメイ、何をやられとんねん! 樂葉布や!)
樂葉の叱咤に、彼女との盟友の証である龍の衣を紡ぎ出そうとするオウメイ。
だが、オウメイはすぐさま愕然とした表情を浮かべ、体中を締め上げる鎖の痛みに倒れ伏した。
(ちょっ、オウメイ! ウチの話を聞いとんのか!)
(……出てこないのよ)
オウメイは、意識下で尚も激を飛ばす樂葉に悔しげにそう言い返す。
「ふむ。あの座長殿に押し切られた時点で覚悟はしていたが……。メイケイ様の本性に気付いた上に、どうやら何かしらの力も隠し持っていたようだな。流石は、あのリクスウと共に旅をする拝紫教の巫女といったところか……」
オウメイの言葉の真意を問いただそうとした樂葉だったが、地に伏した彼女を見下ろすレイザンの言葉に全てを悟る。
(こいつ……。ウチの力を封じてくるとは、なかなかやってくれるやないか)
憎々しげに呟く樂葉。もちろん、オウメイの中でのみ響くその声がレイザンに届くはずも無い。
樂葉のそんな気持ちを代弁するように、オウメイはレイザンを睨みつけるべく顔を上げる。
オウメイの見上げた視線の先、手にした鎌を振り上げたレイザンが満足そうに頷いた。
「これはなかなかに力良い気迫。ここで絶つには惜しい程だ」
その言葉が本心なのかどうかは定かでは無い。例え本当に惜しんでいるとしても、レイザンは手にした鎌を振り下ろす事は止めないだろう。
緩む事の無い鎖に締め上げられながら、オウメイは現状を打破すべく考えを巡らせる。
タイコウに後を追ってくるように言い含めたつもりだったが、外門で止められてしまったのだろうか。レイザンの名を出せば或いは門も通れるかもしれないが、そこまで機転が利かないかもしれない。
リクスウは確かに宮の奥にその気配があったように思えたが、今となっては全く感じ取る事ができない。リクスウだけではない。レイザンは元より、眼前の女性からも気配を感じ取れなくなってしまっている。
(ああ、なるほど……)
オウメイは僅かに身をよじり、レイザンから自身にまとわり付く鎖へ視線をそらした。
どうやらレイザンから全く気配が読み取れなかったのは彼自身の問題ではなく、彼が身に付け、オウメイが絡め捕られた鎖に呪がかけられている為らしい。その呪の影響で周囲との気の循環を遮断されて気配が読めず、オウメイの樂葉布も紡ぎ出せなくなっているのだ。
(もっとも、今更気が付いても遅いで、それ……)
樂葉に言われてもう一度レイザンへ視線を戻すオウメイ。
レイザンの振り上げた鎌の刃が月光を受けて三日月のように煌いている。
オウメイはしたくもない死の覚悟を強制され、その事実を拒むように硬く目を閉じる。
「確かに、その娘は殺すには惜しいですわね。それに、ここで流血沙汰を起こしては色々と面倒も増えますわよ」
「御意」
閉ざした両目とは違い、閉ざす事を許されないオウメイの耳がレイザンと女性のやり取りを聞き取る。
女がオウメイの何を惜しんだのかに疑問を持つ間も無く。殺されずに済むと安堵する間も無く。オウメイの意識はレイザンの振り下ろした鎌によって刈り取られた。