第十四章 紫髭開放 肆
(紫龍母様には毛ほども興味を持っとらんかったあの坊が、なんで拝紫教お抱えの道士とつるむんかと思っとったが……。得心いったわ)
(全ては紫髭の氾濫を鎮めるためってわけね)
レイザンからリクスウについて一通り話を聞き、胸中で響く樂葉の声にオウメイは内心頷いて返す。
そんな彼女の背後で、タイコウは止め処ない不安に脂汗を浮かべていた。
(リクスウ……教主様に無礼を働いていなければいいのだけど……)
オウメイを納得させ、タイコウを不安へと落とし込んだ当人レイザンは、話はこれまでとばかりに踵を返す。
「繰り返し念を押すが、町の者に不安が広がる事は避けたい。くれぐれも内密に願う。それでは、私はこれで失礼する」
「待って下さい! その一件、アタシもお連れ下さい!」
帰路へ踏み出そうとするレイザン。その背中に向けられたオウメイの言葉に、タイコウの額に浮かばせていた脂汗が驚きのあまりに吹き飛んだ。
「な……!」
何を言い出すのか。
そう問い質そうとするタイコウの口上は、下ろされる事のないオウメイの制止の手によって舌先から僅かに零れるのみに留まる。そして、そのまま口から出る事の無かった言葉の数々が胸のうちへと流れ戻っていく。
なぜオウメイがレイザンへの同行を願い出た? いや、リクスウの身を案じるならばそれも良いが、ならば自分も共に行っても良いのではないか? それが、なぜ未だに口を閉ざすように指示を送り続け、この場にタイコウはいないかのように振舞っている? タイコウが話に加わるには役不足だと思われているのか? ひょっとすると、オウメイはかざしている手の事を忘れてしまっているのか?
再びタイコウの口からそれらの疑問が飛び出すより早く、レイザンが僅かに振り返り口を開く。
「オウメイ、貴方が拝紫教の巫女であることはリクスウからも聞いている。私が貴方にこの話を拒んだ理由の一つもそこにある。或いは、こうして願い出てくるのではないかと」
レイザンは小さく溜息をついてそう話すと、改めてオウメイに向き直る。
「我々がこれから赴くのは巡礼地への拝礼とはわけが違う。魑魅魍魎の類を相手にする事になるやもしれぬ危険な話だ。リクスウに助力を願ったのは、腕に見込みがあると思ったが故のこと。貴方を連れて行くわけにはいかんのだ」
発言の機先を取られ、再び口を噤むタイコウ。
再び胸中へと数々の思いが小波となって返り、三度口元を目指す頃には複雑に絡み合った思いの塊となって喉元で詰まり舌先に達する事は無かった。
「……!」
何を言うべきか、何を言おうとしていたのか、困惑し青褪めるタイコウ。
そんな青年の様子を横目に見ていた老婆デンシュクが、おずおずとオウメイとレイザンの間に割って入る。
「恐れながら申し上げます、レイザン道士様。確かにオウメイは道士様のおっしゃる通りに拝紫教の巫女。なれど、オウメイは件のホウ王様の御触れに応じて、リクスウ、タイコウと共に首都コウランへと参じようとする者にございます。オウメイの技量は道を同じくするリクスウ等に引けを取らぬもの。かく言う我等一座も道中妖魔に襲われ死にかけたところを助けられております。オウメイの腕をお疑いになるのでしたら、レイザン道士様の道術をもって我等一座が生者か死人かをお改め下さいませ」
デンシュクの声は凛として老齢を感じさせず、うちに秘める気迫にタイコウは喉元に詰まらせた言葉の数々を唾と共に飲み込む。オウメイも些か驚いた風で目を丸くし、そのうちに住まう樂葉の気配は老婆の堂々とした口上に感嘆の声を上げる。
デンシュクを前にしたレイザンもまた、立て続けに並べられた言葉に返す手を打てずに「しかし……」と言ったきり断りを入れられずにいた。
「如何にレイザン道士様と言えども、オウメイ同道の意思は変えられぬものと見ました。ならばいっそオウメイを教主メイケイ様にお引き合わせ下さってはいかがでしょうか? メイケイ様に解きほぐされれば、或いはオウメイも諦めるやもしれませぬ。メイケイ様が同行をお許しになられるなら、このオウメイも巫女としてメイケイ様の御身の為に十分な働きをすることでしょう」
レイザンが何事か断りの言葉を発する間も無く、デンシュクが畳み掛ける。
返答に窮するレイザンを真っ直ぐに見据えるデンシュク。まるでレイザンの布に覆われた双眸が自身を見ているとした上で、見返しているように。
事実、レイザンは目には見えなくても長けた道士の力によって、デンシュクの気配を見ていたし、デンシュクが自分を真っ直ぐに見返している事は感じていた。その感じ様はデンシュクの眼光に潜む気を眼前に置いている分、この場にいる誰よりもレイザンが勝っている事だろう。
「……よろしい。メイケイ様にお引き合わせするという事で、如何か?」
レイザンとデンシュクが睨み合う事数秒、負けを認めたレイザンは軽く息をつくとオウメイにそう声をかけた。
安堵の息をつくオウメイと、してやったりと笑みを浮かべるデンシュク。二人の後ろではタイコウが複雑な表情を浮かべている。
「ありがとうございます」
深々と頭を下げるオウメイに対し、レイザンはひらひらと手を振ってみせる。
「いや、私はメイケイ様へのお目通りを許しただけのこと。その先は貴方次第だ。さて、リクスウの事を伝えるだけのつもりが、些か長居が過ぎた。私は急ぎ戻るつもりゆえ、同行するなら急いで仕度をしてもらえるか、オウメイ」
「あ、大丈夫です。すぐに出られますから」
今度こそ背を向けて歩み出そうとするレイザンを追ってオウメイが走り出し、二、三歩進んだところで彼女は慌てて振り返った。
「っと、タイ……タイシュン君。タイコウに、いつでも出られるように支度をしておいてって伝えておいてね」
そうオウメイが言付けたのはタイシュンならぬタイコウ。
「うぇ? あ、うん。はい」
タイコウは一瞬戸惑ったものの素直に返事を返し、オウメイは満足げに頷いて再びレイザンに付き従うべく振り返る。
そのオウメイを教主メイケイの元へ連れて行くレイザンなのだが……。
「あの……レイザンさん?」
急ぐはずの帰路で立ち止まったままのレイザンを不審に思い、オウメイが問いかける。
レイザンは何度か鼻をひくつかせると、不意にタイコウへと振り返った。
「少年……タイシュンだったかな?」
「あ、はい。なんでしょう……?」
タイコウの存在を全く気に留める素振りを見せなかったレイザン。タイコウはここにきて初めて彼に声をかけられてドギマギとしながら問い返し、ここまでタイコウの素性を隠していたオウメイは内心舌打ちする。
(タイコウってバレたのかしら?)
タイコウとオウメイがレイザンの反応を窺う中、当のレイザンはもう一度鼻をひくつかせてからタイコウを指差した。
「なにやら焦げ臭いのだが、大丈夫かね?」
訂正。レイザンはタイコウの目の前にあった大鍋を指差した。
「へ? あ! うわぁっ!」
慌てて休めていた手を働かせ大鍋の中身をかき混ぜる。
……ちょっと遅かったらしい。
「遅い! レイザンはまだ帰らぬのですか!」
部屋に響いた女の甲高い声に、リクスウとチョウエン達三狼士は揃って声のした方へと目を向けた。
部屋の入り口……リクスウの入ってきた場所とは別の、恐らくはアンガンの社に通じるであろう出入り口に立つ女を見て、リクスウは訝しげな表情を浮かべる。
歳は四十ほどだろうが、厚く塗りたくった化粧のせいではっきりとは分からない。ただ、どんなに厚化粧をしても内面から出る性格は隠しきれるものでもないらしく、女からは冷酷ともとれる冷ややかな雰囲気が漂っている。この場にタイコウがいれば、一目見て竦みあがっているかもしれないほどに。
(この女……もしや、こいつが?)
女の表情や雰囲気はさておき、リクスウは彼女の着ている服装で彼女の正体に検討をつけた。
拝紫教などの宗教事に疎いリクスウではあるが、女の着ている服が拝紫教関係者の着るものである事は知っている。それも、高位の者がなんらかの儀式を行う時などに身に付ける正装だ。
このリクスウの読みは当たっているらしく、チョウエンを始めリハンとライシンも女に向かって慌しくも深々と礼をする。
「へ、へぇ、メイケイ様。レイザンの旦那は町の外にいる旅芸人の一座の元に向かわれまして……」
「そんな事はわかっています! 私はレイザンがその使いから帰っていないのかと申したのです!」
礼の姿勢をとったまま答えるチョウエンの白髪に向かって、頭ごなしに言い放つ女。チョウエンの話からすれば彼女が拝紫教の教主メイケイその人というわけなのだが……。
リクスウはメイケイとチョウエンのやりとりを見ながら、あからさまに苦い顔をした。
(これが教主様ってか?)
先代の教主が亡くなり、天啓を受けて新たな教主になったという徳の高い巫女様とは誰からの情報だったか。
リクスウが面識のある拝紫教の巫女はオウメイ一人であり、巫女と問われればオウメイのような年頃という印象が強かった。目の前にいる教主メイケイとオウメイでは歳の差は親子ほどもあるだろう。リクスウが感じた違和感はまずその年齢差にあった。
いや、年齢に関してはリクスウの認識不足でもあるのだが、それ以上に彼をげんなりとさせたのは、メイケイの気性。
気が強いというよりは短気。そして冷たい印象。今もチョウエンに当り散らしているメイケイを見ては、とても教主として崇められる人物とは思えない。ひょっとすると今の顔が素で、教徒の前では穏やかで慈悲に満ちた教主様の顔を作っているのかもしれないが、そうだとするなら……。
(女ってのは怖ぇなぁ……)
しみじみとそんな事を思うリクスウ。平謝りのチョウエンを怒鳴りつけていたメイケイが、今存在に気が付いたかのようにリクスウへと冷たく鋭い視線を向ける。
「見ない顔ですわね。何かおっしゃりたいようですけど、私に何か御用かしら?」
「……いや、別に。なんでもねぇよ」
気に入らない視線ではあるが、だからといって喧嘩を売る気にもなれず。リクスウはそっと視線をそらしながら返した。
そのリクスウの横顔。昔争った妖魔に受けた傷によって縫い止められたリクスウの右目を見たメイケイは、なるほどと納得顔で頷く。
「あなたがレイザンの言っていたリクスウですわね。確かに、腕はともかく礼儀はご存じないようですこと」
(この女……!)
さらりと毒を吐くメイケイにムッとして何か言い返してやろうとするリクスウ。だが、メイケイはそれよりも早くチョウエン達へと話題をそらしていた。
「あなた達! 出立の準備は済んだのですか?」
「へ、へぇ、ぼちぼち……」
「出立は今夜ですのよ! 既に準備万端整えておくものでしょう! さあ、今やりなさい! 今すぐです!」
メイケイにぴしゃりと言い放たれ、中岸の三狼士は蜘蛛の子を散らすようにあたふたと走り回る。
そんな彼等の様子を他人事のように傍観していた……正しくはメイケイの横暴ぶりに呆れていたリクスウ。どちらにしても、メイケイがそれを見逃すはずもない。
「リクスウ、あなたもです! 新参だからといって容赦は……いえ、新入りなら新入りらしく率先して雑務に砕身なさい!」
「お、おう……」
メイケイの剣幕に押し切られ、リクスウも三狼士の仲間へと加わる。
「おい、チョウエン。あれ、ホントに教主様なのか?」
リクスウは木箱を抱えて走るチョウエンに近寄りボソリと問う。チョウエンは苦虫を噛み潰したような顔で頷いた。
「兄貴の言いたい事は、よーくわかります。あれで外面はすごぶる良いんでさぁ。その慈悲深そうな顔に、教徒の者はすっかり騙されちまってる」
「俺達も初めて会った時はお優しい方だと思ったもんだが、本性を見慣れちまった今となっちゃあ……」
チョウエンの囁く声の隣で、リハンがやれやれと首を振ってみせる。
「……怖い」
さらにリハンの隣に付いたライシンが、伏せ目がちに呟く。
「あなた達! 何をこそこそと話し込んでいるの! 話す暇があったら手を動かしなさい! 急げと言っているのがわからないの!」
『へ、へい!』
背後から飛ぶメイケイの怒声に再び散開するリクスウと三狼士。
さながら夜逃げの準備のように、メイケイの指示によって次々と片付けられていく荷物。
「違う、リクスウ! それはそちらの葛篭に入れなさい!」
リクスウは、本来の職務を終える前からタイコウ達の元に帰りたくなっていた。
オウメイがレイザンと共にアンガンの市街地へ向かってからしばらく、夕食を終えたデンシュク一座はそれぞれにくつろいでいた。
その一座の幕舎の裏。簡素な炊事場で一人呑気に鍋を磨くタイコウ。
タイコウが夕食にと作った大鍋一杯の料理。作り過ぎたのではないか? 少し焦げたが大丈夫か? といった青年の心配を他所に、一座の者には至極好評で大鍋が空になるにはさしたる時間はかからなかった。
「ふう、さすがにこれだけ大きいと洗い甲斐があるなぁ」
大鍋から手を放し一息つくタイコウの声が、幾分明るいのは一座の満足げな顔あっての事だろう。
「おや、タイコウ。洗い物とは、すっかりウチの者が世話になっちまってるねぇ」
一人大鍋と格闘するタイコウの様子を見にやってきた座長のデンシュクがそう言うと、タイコウは笑って返す。
「一座のみんなには明日からの公演に向けて鋭気を養ってもらいたいですから。お役に立てて僕も嬉しいです」
「だからって、あまり甘やかさないでおくれよ。一座の者達が付け上がると後が大変だ」
タイコウの返答に苦笑いするデンシュク。
「それに、忙しいのはタイコウも一緒だろう? オウメイが言っていた支度は済んだのかい?」
「え? あぁ、旅の支度ならこれを洗い終えたらしますよ。旅支度と言っても、元々いつでも出られるようにまとまっていますし」
笑顔はそのままに返すタイコウだったが、対するデンシュクからは笑みが消える。
「妙だね。なら、なんでオウメイはタイコウに支度しておくように言ったんだい?」
訝しげな顔をしたデンシュクの指摘をきっかけにタイコウの手が止まり、代わってタイコウの思考が急速に早められていく。
レイザンと対した時のオウメイの様子。終始タイコウがいないものとして進められた会話。去り際のオウメイの伝言。
――いつでも出られるように支度をしておいて――
伝言の際、オウメイは旅支度とは言っていない。代わりにいつでも出られるようにと言っている。オウメイの指示通りに支度をするとして、タイコウがする事といえば何か?
(しまった!)
タイコウは内心舌打ちしつつ立ち上がると、大鍋を放り投げて走り出した。
「え? ちょ、ちょっと、タイコウ! どうしたんだい!」
背後からデンシュクの驚き慌てる声や大鍋が落ちた派手な金属音がしているが、タイコウはかまわず走る。自身の察しの悪さを呪いながら。
タイコウはデンシュク一座の幕舎脇に設けられた小さな天幕へと飛び込んだ。
そこはタイコウ達のために用意された一座の天幕であり、それを証明するように天幕の中にはタイコウ達の荷物が置いてある。
タイコウは迷う事無く自分の持ち物である錫杖魯智を掴む。
炊事場から天幕まで、僅かな距離だが内心から湧き出した焦燥が手伝ったのか息が荒い。
タイコウは目を閉じて二度三度と深呼吸をすると、両手で掴んだ魯智に向かって念じた。
(オウメイ……!)
魯智の持つ力の一つ霊感の覚醒と五感の鋭敏化。それによる気配の感知。交易都市カリュウで行方知れずになった雪割りを探した時に使った手段だ。
オウメイはタイコウに魯智を使って自分を追跡するよう仕向けたのではないか? そう思って手にした魯智だったが……。
「まったく、急にどうしちまったんだい、タイコウ」
遅れて天幕にやってきたデンシュクがタイコウに尋ねる。
だが、タイコウはデンシュクの問いかけに対する答えるは無い。
タイコウは不意に目を見開くと、蒼白の顔で口元をわななかせ力無く膝を付いた。
「オウメイの気配が……無い……です……」
~次回予告、タイコウ語り~
忽然と消えたオウメイの気配。
僕はリクスウを頼るべくメイケイ教主率いる紫髭解放の一団を目指します。
そして、リクスウ達は紫髭解放のため、アンガンの沿岸にある洞窟へと向かっていました。
僕、リクスウ、メイケイ教主、レイザン道士、三狼士、そしてオウメイ。
全ては奇岩の洞窟へと結ばれていくのです。
龍神の巫女は闇に消え、隻眼道士は街の外。
錫杖片手に向かった先は、鬼岩が大口開く中。
紫髭にはびこる悪鬼成敗!
次回『第十五章 鬼岩結界』に乞うご期待。