第十四章 紫髭開放 弐
(いやー、堪能堪能。やっぱりこの旅芸人の一座と一緒になったのは正解やったわぁ)
賑やかな幕舎を出たオウメイは、内心に響く龍の貴人樂葉の声に少し疲れた笑みを浮かべた。
オウメイ達と一緒にアンガンを訪れたデン婆ことデンシュク座長が率いる大道芸の一座。デンシュク達一座の者達はアンガンの町外れに幕舎を築くと、明日からの営業活動に備えて熱心に芸を磨きだした。そこへ町から幕舎へと帰ってきたオウメイの……いや、彼女の意識下に存在する樂葉の好奇心に火が点いた。
華麗な剣舞。百発百中の投擲。綱の上で玉乗りもすれば、火も吐く、剣も飲む。芸人達の多彩な芸に樂葉はハラハラドキドキ、成功すればやんやの大喝采。そのたびにオウメイの中では樂葉から右を見ろ、左を向け、奥の者だ、いやいや前だと指示が飛び、終いにはオウメイ自身もやってみせろとせがむ始末。
(まあ、樂葉に楽しんでもらえたのなら何よりだわ)
樂葉相手に猿廻しでもさせられたかのような疲労感こそあったが、オウメイも芸人達の稽古風景は楽しかったのは確かだ。
(ホンマに眼福やわぁ。そうや、オウメイ! 今度メンサイに戻ったら村の者にこの一座を呼んでもらうように頼んでみてくれへんか? 今度のウチの鎮魂の祭事には、この大道芸を奉納してもらおうやないか!)
(ほっほーう。それはつまり、アタシや母様がやってきた奉納の舞は見飽きたとおっしゃりたいのかしら?)
聞き捨てならないとばかりに、内心樂葉に言い返すオウメイ。
(何を言うてんの、この子は! あれはあれで見たいんや!)
オウメイの発言こそ聞き捨てならないとばかりに、間髪入れずに答える樂葉。彼女の姿が目に映るなら、力一杯首を横に振っているところだろう。
(せやから、ここはどっちも一緒にしてどどーんと盛大に……)
「贅沢な龍神様だなぁ」
樂葉の提案に、オウメイはクスクスと笑みをこぼしながら幕舎を背に歩き出した。
幕舎の中では未だに一座の者達が稽古に励んでいる。オウメイが練習半ばで外に出る際に樂葉から不満の声が出たが、これは却下された。正しくは、最初はオウメイが折れて稽古鑑賞を続けていたのだが、何度か同じやり取りを続けるうちにとうとうオウメイが首を縦に振らなくなった。
「あーあ、すっかり長居しちゃったわね」
星が瞬き始める夜空を見上げて一人気まずそうに呟くオウメイ。
彼女はデンシュク一座の夕飯の支度を手伝う心積もりでいた。一座の者に頼まれていたわけではないが、一座の元に泊めてもらう身の上としては何もせずにただただ客人扱いされるというのも気分が落ち着かない。
夕飯の支度をしている幕舎の裏手に向かって足早に歩むオウメイ。だが……。
(一足遅かったようやねぇ)
そんな声がオウメイの内心に響く。
樂葉の言うとおり、幕舎の裏からは香辛料の効いた香ばしい匂いが漂ってきていた。
(もう、誰のせいよ、誰の。せめて盛り付けくらいは手伝わないと)
予定の遅れを取り戻すように、或いは美味しそうな匂いに誘われるように、オウメイが足を速める。
(若いのに感心なこっちゃなぁ)
(働かざる者食うべからずが、うちの家訓なんでね)
そう言い返しながら歩き続けるオウメイは、不意に影から姿にぶつかりそうになって慌てて足を止めた。
「デン婆さん!」
驚いたのも束の間、オウメイは影の正体に気が付くとその名を呼ぶ。
「ああ、オウメイかい。ビックリしたよ。どうかしたのかい?」
デンシュクもまた飛び出してきたオウメイに驚いたようだが、すぐに柔和な表情を取り戻して尋ねてきた。
「いえ、夕御飯の支度を手伝おうと思いまして……」
「なぁんだ。そんな事はウチの者達がやるよ。あんた達は私達の命の恩人なんだから、そんなに気を使わないでおくれよ」
「でも、ただお世話になるだけではなんだか落ち着かなくて……」
「本当に気にしなくていいんだよ。ここで遠慮無く食べて寝てくれてかまわないし、私達の芸が見たいなら思う存分見せてあげるとも。それでも、どうしても料理がしたいって言うなら、手伝ってもらえるのはそりゃあありがたい話だけどね」
オウメイはデンシュクの言葉に便乗して稽古見物の再開を要請してきた樂葉の意識を押さえ込み、料理の手伝いを願い出ようとする。
だが、オウメイよりも早く、デンシュクが「もっとも……」と話を続けた。
「今日の夕飯の仕度ってのは、あの子が先に取っちゃったけどねぇ」
「あの子って?」
思わずそう問い返してしまったものの、デンシュクが誰の事を言っているのかはオウメイにも容易に想像がついた。
(まあ、当然あの子の事やわなぁ……)
樂葉もまたオウメイに尋ねるまでもなく青年の名に思い当たる。
オウメイはデンシュク越しに炊事場を覗き、自分と樂葉の推測が間違っていない事と確信した。
オウメイの視線の先、一座の者が作ったらしい簡易の釜戸に乗せられた大鍋。先程から食をそそる香りを放っているのはその大鍋の中身で間違いは無いだろう。そして、その大鍋を暢気にかき回している青年は、旅の道中ですっかり見慣れた顔だ。
「タイコウ! いつの間に帰ってきていたの?」
オウメイに呼ばれ、タイコウは煮立つ大鍋から視線を上げたニコリと笑った。
「ああ、ただいまオウメイ。結構前に帰っていたのだけれど、料理の仕込みを始めたらつい手が離せなくなっちゃって……」
挨拶を交わしながらも大鍋をかき混ぜる手は休めないタイコウ。彼が相手にしている大鍋の中をチラリと見たオウメイは内心溜息をついた。
肉と野菜をふんだんに入れられコトコトと煮立つ汁物。その煮え具合とタイコウの額に浮かぶ汗からすれば、随分と時間をかけて丹念に煮込んでいる。そして、逆にそこに一度も出くわさなかったという事は、オウメイはそれだけ長い間幕舎から出ずに樂葉の稽古鑑賞に付き合っていたという事だ。
(一応言うとくけどね、稽古見物はオウメイも楽しんどったんやからね。夕餉の仕度に遅れたんをウチのせいだけにせんといてや)
オウメイの脳裏によぎった思いをいち早く察知した樂葉が、先手を打って自身を弁護する。
そんなオウメイの内心に気付いた様子も無いタイコウは、ニコニコと微笑みながら大鍋の煮汁を小皿に取ると、オウメイに向かって差し出した。
オウメイは促されるがままに小皿を手に取り味見してみる。
「あ、美味し」
煮汁を口にした途端、調理場に辿り着くまでにすでに味わっていた香辛料の香りが口の中に広がり舌をピリリと刺激する。さりとて、それは長く舌を痛めつける事も無く、肉や野菜から出た旨みが広がっていく。
「ほう、こいつはいいねぇ。きっとうちの連中も気に入るよ。この味付けは故郷の料理なのかい?」
オウメイに続いて味見をしたデンシュクからも賛辞を受けて気を良くしたタイコウは、満面の笑みを浮かべながら首を振る。
「いえ、僕も作るのは初めて、というか作り方を聞いたのも今日という代物で……。実はリクスウの面会の帰り道で露店の通りに迷い込んじゃいまして……」
そう話を切り出したタイコウ。その出だしでオウメイと樂葉はその後の様子がなんとなく頭に浮かんだ。
タイコウ曰く、露店通りで野菜売りの男に帰り道を尋ねているうちに、気付けば何故か売り物の話に変わってしまい、あれよあれよといううちに彼の目の前に野菜が並び、どうしたものかと悩んでいたら、隣の露店の女が食材を上手く料理する方法を教えてくれたのだが、その女に調度良い調味料を扱っていると数種類の香辛料を渡され、さらに隣の店の男からその料理ならこの肉がつきものだと……。
あまりにも予想通りなタイコウの話に、オウメイは苦い笑みを浮かべた。
「オウメイ、今度タイコウが町に行く時は付いてってあげなね」
デンシュクは隣にいたオウメイに呆れ顔を向けて言う。この調子で露店通りを通り続ければ、タイコウは毎度格好のカモになってしまうだろう。
「まあ、経緯はなんだがこの料理のおかげで明日からの興行も一段と力が入るってもんさ。ありがとうよ、タイコウ」
まだ呆れ顔が抜けないデンシュクの礼に、オウメイは思い出したように手を打つ。
「そういえば、デン婆さんの方はどうでした?」
どう、とはデンシュク一座の明日からの興行について。デンシュクは座長として明日からの興行のため、市街地の敷地確保のためにアンガンの役場に出向いていたのだ。
オウメイがタイコウと共に拝紫教アンガンの宮からデンシュク一座の元に返ってきたのが昼過ぎの事。その後リクスウ捕縛の報せを受けてタイコウが面会に向かってからというもの、オウメイは樂葉に促されて一座の稽古見物を続けていた。タイコウやリクスウの動向はもちろん、デンシュク一座の話も全く聞いていない。
朗報を期待するオウメイの視線を浴びて、デンシュクは呆れ顔を弱り顔に変える。
「紫髭が渡れなくなってるってぇ話は、あんた達も町に行ったのなら耳にしたろう?」
デンシュクの問いにタイコウもオウメイも揃って頷き返す。
「そのおかげで行商人や旅人の往来も滞っている。もちろん私達のような旅芸人もさ。おかげで一座の間で場所の取り合いになっちまってんだ。中には客の集まりが良い場所をほかの一座に高値で譲るような連中もいるってんだから、困ったもんだよ」
芸人なら芸で稼がなくてどうするとぼやくデンシュク。彼女の様子では市街地での興行は無理だったらしい。
「それじゃあ、明日からは……」
「何もせずに次の町に移りたくもないしね。明日からもここに幕舎を張って営業さ。なぁに、見る目のあるお客は町外れだろうと来てくれるもんだ」
タイコウの問いにデンシュクは努めて笑顔で返す。
「とは言っても、他の一座とやる事が同じじゃあ拙いねぇ。ここは古典の演劇でもやってみせようか……」
そう呟くデンシュクの顔は経営者のそれへと変わっている。
「演劇。演目は大国演技とかですか?」
「ああ、大国演技は老若男女を問わず昔から人気があるからねぇ。旦那が生きていた頃はよくやったもんさ。ホウセンの役をやらせたらなかなかのものだったんだよ。惚気を言えば、私は旦那の演技に心底惚れちまってね」
惚気話と聞いて不意に聞き耳を立てる樂葉はさておき、オウメイはホウセンの名を頭に浮かべた。
ホウセン。大国記の時代、軍師コウタツと共に数々の戦いを勝利に導いたホウ国屈指の名将。将としての指揮能力はもちろんの事、彼個人の武勇も凄まじく軍師コウタツをして「彼無くして我が策無し」と言わしめた程の傑物だ。いざ戦となれば猛々しいが普段は寡黙な大男であり、大柄な男性に対する褒め言葉として「ホウセン将軍のようだ」と言ったりもする。
「演劇か……。よし、明日からの催しは演劇にしようじゃないか。そうと決まれば、舞台の用意と演技の見直しと……」
言うが早いか早速一座の者達に報せに行こうとするデンシュクをタイコウが呼び止める。
「あーっと、待って下さいデンお婆さん。その前に皆で夕飯……」
大鍋の中も十分に仕上がっている。オウメイやデンシュクの反応を見れば味付けも上々。長らく稽古を続けていた一座の者達も喜んでくれそうだ。
ただ、デンシュクにかけた声はその途中で途切れた。
何事かとタイコウを見るオウメイ。
タイコウの顔はオウメイやデンシュクに向けられているものの、その目は彼女達を見ていない。視線は二人の間を通り過ぎてオウメイ達の背後へ。
オウメイはタイコウの視線を辿り、自身の背後へと振り返り、ようやく彼が何を見たのか把握し、同時に驚愕した。
オウメイ達の後ろに立っていたのは一人の男。背丈や髪型はリクスウと変わりないが、大きく違うのは装束。厚手の外套と、そこから見え隠れしている手足に枷のように巻き付けられた鎖。何より目に付くのが、目元をしっかりと覆い隠す深紅の布。
酒場でリクスウが始めて彼を見た時と同様、オウメイにも男の気配を感じ取る事ができないでいた。
(嘘……)
愕然とした表情を隠すことも出来ずにいるオウメイ。物心付いた時から気配を探る事を自然に行っていた巫女の彼女ならばこそ、眼前の男の気配の無さは尚更不自然に思えるのだろう。そして、男の姿を視認して尚、生気も霊気も感じ取れないその存在は違和感を禁じえない。
(こいつ……なんの気配も見せへんとは、なんとも気色悪い奴っちゃなぁ)
オウメイの中で唸るように呟く樂葉の声。オウメイより遥かに気を読むことに長けている樂葉でさえ、背後に立っている男の気配に気付いていなかったらしい。
デンシュクも、知らないうちに背後に立っていた男に驚きこそしたが、元々気配を探るといった行いに縁遠いだけあって立ち直りも早い。男の身なりに思い当たるところがあったらしく小さく「ああ」と声を上げた。
「貴方様は、拝紫教教主メイケイ様の護衛をしているというレイザン道士様であらせられますね」
「いかにも。御老体はこの一座の座長デンシュク殿でよろしいか?」
頷き問い返してくるレイザンに対し、デンシュクが恭しく礼をしてみせる。
「ええ、確かに私がデンシュクに御座います。それにしても、教主様にお仕えなさる道士様が一体どういった御用件でこちらに? 物見遊山なれば私どももお客様として歓迎いたしますが、生憎と我が一座の興行は明日からで御座いまして……」
突然デンシュクの口振りが変わった事にオウメイは少しばかり驚いたが、レイザンと呼ばれた男の立場を知ってすぐに納得した。
道士と呼ばれる職種は元来尊ばれることが多い。ましてや、拝紫教の教主に仕える者ともなれば、敬われるのも無理は無い。
「いや、あなた方の芸事も大変興味深くはあるのだが、今回こちらに窺ったのは別の用件でな。こちらの一座にタイコウとオウメイという旅の者が同行していると聞いて参った次第だ」
レイザンの言葉にタイコウと小首を傾げ、オウメイは眉根を寄せた。