第十二章 虎相童子 壱
リクスウがゼンギョウ村の夜警に出た翌朝。
早朝から何度も木戸を叩く音に眼を覚ましたタイコウとオウメイは、戸を開けた先にいた者達に驚き、青褪めた。
「リクスウ?!」
タイコウとオウメイの声が重なる。オウメイの意識下では樂葉の「坊?!」の声も上がっていたが、オウメイ同様ここは聞き流しておく。
開け放った戸口の先にいたのは、ゼンギョウの村人グエンとホクシュン。そして、二人に両脇を抱えられたリクスウ。
リクスウはタイコウ達に名を呼ばれても何の反応も示さないでいる。
その隻眼を開くことも返事をすることも無い。身動き一つさえ。
沈黙する青年の日に焼けた健康的な肌は今では青白く、無数の傷痕の乾いた血が作る暗い赤がやけに目立つ。身につけているコウハ族の装束は砂埃にまみれ、所々裂けていた。
リクスウを抱える村人二人の苦い顔と、彼らに抱えられた青年を見比べ、オウメイの脳裏に最悪の事態がよぎる。
「まさか……」
その先は言ってはいけない気がして、オウメイは口元を覆った。
しかし、そのオウメイのほんの一言だけで隣にいたタイコウの不安は加速し、膨れ上がり、やがて耐え難い重圧となってタイコウの膝を着かせた。
「そんな……いったい……」
力無く呟くタイコウ。
一日の始まりが朝からと言うなら、今日の開始線は底の無い泥沼に引かれたらしい。地に着いた膝がずぶりずぶりと沈んでいくような気がする。眠気など当に晴れた。最悪の目覚めだ。夢なら今すぐ覚めて欲しい。
「朝、村の外れで倒れていたんだ」
驚愕に動けないでいるタイコウとオウメイに、説明するように村人グエンが告げる。
だが、タイコウは虚ろな視線を虚空に漂わせて呆然としたままで、その言葉のほとんど聞いてはいない。いや、目も耳もいつもどおりに機能してはいるものの、肝心の脳がその情報を受け付けていない。
今、彼の心の中では後悔の念と糾弾の声が渦巻き、何度も繰り返し自身を責め立てていた。
昨晩、リクスウ一人で行かせるべきではなかった。夜の内に思い直して彼に加勢すべきだった。リクスウがどう思おうが、村長の機嫌を損ねようが、道士デイコウに助力を請うべきだった。
そもそも村人達の頼みを断っていれば。村に滞在しなければ。立ち寄らなければ。リクスウと旅を共にしなければ。リクスウに出会わなければ。自分が旅に出なければ。
今更取り返すことなど叶わない過去へと遡りながら、ただひたすら今を悔やむ。
「この兄ちゃんは村で休ませてあんた達を呼ぼうとも思ったんだが、あんた達の所に連れて行ったほうがいいと思って……」
グエンに続いてホクシュンが言う。それとて今のタイコウには上の空の響き。オウメイもタイコウ程では無いにしても、ホクシュンの言葉に相槌を打つ事もできずに動かないリクスウを注視している。
「オウメイ、一昨日に息子の怪我を直してくれたろう? あれを使えば……」
ホクシュンの言葉にオウメイの顔が曇る。
無茶を言う。オウメイの血族が伝えてきた神子唄は怪我を治し、神子舞は病を治すが、黄泉路に着いた者を常世に呼び戻すなど出来はしない。
「無理です……。アタシ、怪我は治せても……」
そこまで言ってオウメイの表情は苦りきった。
この先に続く言葉をタイコウの前で口にしたくは無い。言えば、タイコウはその衝撃に打ちのめされてしまうのではないかと思えてならない。
言い淀むオウメイと今尚呆然とするタイコウを前に、グエンとホクシュンはキョトンとした顔で互いを見合わせる。そして、グエンがオウメイに向き直って不思議そうに首を傾げた。
「いや、だから。オウメイは怪我が治せるんだろう?」
グエンの言葉にオウメイは目を見開き、タイコウの目は焦点を取り戻す。
「それって……」
怪我はしているが、まだ生きている。
タイコウの上げた顔に光が戻る。さながら、今この時が日の出と言わんばかりに。
「そりゃあ、兄ちゃん体中傷だらけだし。医者といっても隣村まで行かなきゃならんし。それならオウメイに治してもらったほうが早いんじゃないかと思ったんだが……拙かったんかなぁ」
「あ、いえ! いや、はい! 大丈夫です! アタシ、怪我治せます! 治します!」
オウメイは慌てふためきながらリクスウの襟首を掴み、自分の肩に担ぎ上げる。そして、そのままあたふたと小屋の中へと運び入れる。
「ち、力持ちだな」
ホクシュンの感心するような、半ば呆れたような声。タイコウはその言葉に頷きながら、以前オウメイが気絶した自分とリクスウを医者の所に運んだ話を思い出していた。
(あの時もこんな感じだったのだろうか……)
男二人が抱えてきたリクスウを軽々と運ぶオウメイの姿は、普段の彼女からは想像が付かないほどに逞しい。いや、オウメイ本人さえも気が付いていないかもしれない。
火事場のなんとやら……。
夢中であるが故に出ている力なら、今の彼女にそれを指摘するのもかえって危険かもしれない。夢中で出ている故に力の加減が利かないのだし、寝間に敷いた布団にリクスウを寝かせるつもりでうっかり叩きつけてしまったのは御愛嬌としておこう。
「それにしても、二人とも人が悪いなぁ。本当に驚きましたよ」
治療のまじないを始めたオウメイから村人二人へと視線を戻したタイコウは、少し恨めしげに彼等を見た。
「リクスウは真っ青だし、お二人は神妙な顔しているんですから。僕はてっきり……」
抗議めいたタイコウの言葉にグエンとホクシュンは顔を合わせ、合点がいったとばかりに笑い合う。
「そりゃあ、春先ったってまだ寒いんだ。外で寝てりゃあ、兄ちゃんの身体も冷えて青白くもなるだろうさ。あれでも少しは村で温め直したんだぞ」
「で、俺達が妙な顔になってたのは、あの兄ちゃんのせいだ」
「リクスウの?」
問い返すタイコウに、グエン達はここまでの道中を思い出したのか再び神妙な顔に戻る。いや、よくよく見れば、神妙というよりウンザリという顔だ。
「リクスウだったか。あの兄ちゃん、もじゃもじゃがどうだとか寝言を言うんだ」
「もじゃ?」
寝言など時として理解不能なもの。そうと思いながらも、タイコウは思わず聞き返していた。それはオウメイにしても同じだったようで、タイコウの問いに彼女の声もかぶる。そして、彼女の意中に響いた盟友樂葉の声も同様。
タイコウ達に聞かれて、グエン達は苦笑いを浮かべつつ頷いてみせる。
「もじゃもじゃーもじゃもじゃーと、延々聞かされてたんだ。この小屋に辿り着くまでの道中ずっとだぞ? なんだか俺達まで身体がもじゃもじゃとむず痒くなっちまってな。あれは堪らんよ」
言いながら小屋までの道中を思い出したのか、村人二人は体を掻き始めた。
(なんちゅう紛らわしい話や……)
まじないの為精神集中するオウメイの心に波を立てるような樂葉の呆れ声。オウメイも彼女の意見に同感ではあるが、今はリクスウの治療を優先する。
「うぅ……もじゃもじゃ……」
(これが件のもじゃもじゃやね……)
(そのようね。とりあえず、樂葉。まじないに集中するから話しかけないで頂戴)
オウメイは腕まくりすると改めてリクスウの傷を癒すべく手をかざす。
「もじゃもじゃ……」
(むぅ、確かに繰り返し聞くと何やら体がむずむずと……)
(話しかけないでってば)
気持ちの乱れを吐き出すように息を吐いたオウメイは、改めてリクスウに向かい……。
「もじゃ……」
「リクスウ、黙ってて!」
その声と同時にリクスウの額がゴスッと音を立てたが、タイコウ達の位置からは何が起きたかは見ることは叶わない。彼女がその一撃に至ったオウメイの内心の苦闘も。
「それにしても、リクスウが怪我だなんて、いったいどんな化け物と戦ったんだろう?」
何やら近付くのも恐れ多いオウメイにリクスウを任せ、タイコウは内心に浮かんだ疑問を口にした。
無論、夜の内に起きた事が村人達にわかるはずもない。
「朝早くに遊びに出た息子があわくって帰ってきてな。追い立てられるままに行ってみたら、兄ちゃんが一人倒れてたんだ。他には何もいなかったよ」
村人ホクシュンの言葉にタイコウは首を捻り考え込む。
「何か、動物の毛とか、足跡みたいなものは……」
「ちゃんと見たわけじゃねぇが、見なかったなぁ。道は踏み固められてろくに足跡なんぞ付かないしよぅ」
村人から得られる情報は無し。そうなると、当人に聞いてみるのが一番ということになるのだが……。
(もじゃもじゃって、なんのことなんだろう?)
タイコウはオウメイの治療を受けるリクスウへと視線を移す。
まじないの言葉を紡ぐオウメイの声が小屋に響き、彼女のかざした手の辺りから少しずつリクスウの傷が消えていく。傷が見えなくなるに合わせ、リクスウの顔色も心持ち良くなっているようだ。
「……子をあなたは知っていて、子はあなたを知っている」
オウメイの何度目かの治癒のまじない。最後の一節を唱え終えたオウメイは、リクスウにかざした手を引っ込め小さく息をついた。
「終わったの、オウメイ?」
先程リクスウの額が鳴らした重い一音が印象に残るタイコウは、やや遠慮がちにオウメイに尋ねる。対するオウメイは、そんな事などとうに忘れたといった朗らかな笑顔を対抗に向けて頷き返す。
「リクスウの怪我はほとんど治せたと思うわ。今はただ眠っているだけ。あとは、起きてから本人に何があったのか聞けば……」
オウメイが言い切るより早く、当のリクスウがその隻眼をカッと見開いた。
「あの、もじゃ子がぁぁぁっ!」
目を覚ますなり半身を起こし絶叫するリクスウ。
「もじゃ子……?」
その場にいたリクスウ以外の全員が思わず声を揃えて聞き返す。無論、樂葉込み。
「おう、タイコウ。ここはどこだ? 俺はいったい……」
聞き返す声と一緒に皆の視線も集めたリクスウ。彼は荒く息を吐き出し小屋の中を見回し、唖然とするタイコウを見つけて詰問するように問う。
「僕達が泊めさせてもらっている鍛冶屋の小屋。リクスウはついさっき気を失ったまま運び込まれたんだよ。それで、リクスウ。大丈夫? どこか痛むところとかは無い?」
「身体は万事快調、問題無し。ピンピンしてらぁ」
リクスウはタイコウの問いかけに不敵に笑うと、力こぶを作って叩く仕草で健勝ぶりを見せ付ける。
そんなリクスウの脇に座っていたオウメイがもの言いたげに大げさな咳払いをした。
「ピンピンしてるなんて良く言えるわね、リクスウ。あなたの怪我はアタシが治したの。さっきまで傷だらけだったんだから」
オウメイにぴしゃりと言われ、リクスウはしおしおと項垂れる。
(ことオウメイ師匠にかかっては、弟子のリクスウも形無しやなぁ……)
オウメイの内心に響く樂葉の笑い声がカラカラと鳴り響く。オウメイはその笑い声を心中から吐き出すように一つ溜息をつき、自らの手で削り取ったリクスウの笑顔を返すように彼に微笑みかける。
「とにかく、無事で良かったわ。それにしても、傷だらけで倒れていたなんて、昨日の夜は一体何があったの?」
オウメイに問われたリクスウは俯きかけた頭を持ち上げた。
ただ、リクスウが顔を上げる程に元気を取り戻した理由としては、オウメイの微笑みからではなく、昨晩の出来事に対する腹立たしさからという方が勝っている。それを証明するように顔を上げたリクスウの表情はすぐれない。この場にいない誰かを睨みつけるように隻眼を吊り上げていた。
「村の入り口でガキと出くわしたんだよ。ったく、あのガキ、遠慮無しに噛み付きやがって……」
「ガキって、さっきリクスウがもじゃ子ーって叫んでた子のこと?」
タイコウの確認が確認するように問うと、リクスウが正にその通りだと力強く頷く。
「おうよ。赤毛の……ボサボサで肩ほどまでだな。年の頃は十くらいの女の子さ。ただ、目つきと気性は獣の類だ、ありゃあ」
タイコウに言って返すなり、その場にいたゼンギョウ村人二人に隻眼を向けるリクスウ。
赤毛の少女を知らないか?
リクスウの目はそう尋ねている。だが、グエンもホクシュンも思案顔を傾けるだけで色の良い返事は無い。
そもそも、この村に赤毛の者がいない。いや、厳密には一人いるのだが、彼の頭からは何年も前に赤毛が抜け落ち、すっかり禿げ上がってしまっている。第一、赤毛と言っても年老いた爺だ。少女という条件からは性別も年齢もかけ離れてしまっている。
「やっぱゼンギョウ村の者じゃねぇのか……」
「とにかく、リクスウはその謎の赤毛の女の子にのされたと……」
「人の子相手に本気が出せるか! 手加減が過ぎただけだ!」
タイコウの解釈は遺憾だとばかりにリクスウが怒鳴る。
(加減が過ぎた言うても、ただの子供相手に負かされるとはちと頼りないなぁ)
樂葉のぼやきにはオウメイも少し頷きたくなった。
戦闘においてリクスウの強みは、彼の背後にいる先祖の霊トウコウの力によるものも大きいが、リクスウ自身も運動能力は人並み以上。武芸と呼べるものは収めていないにしても、実戦で培った身のこなしは確かなものだ。子供一人を相手にして容易く後れを取るものではない。
或いは、リクスウは負けるほどに手を抜く気の優しい男なのか……。否、昨日のタイコウとの組み手からすれば、いくら子供でも不審者相手にそこまで加減するような甘い性格でもない。
「そのもじゃ子ちゃんって、そんなに強かったの?」
「ガキにしちゃあ良く動く奴だった。そこいらで同じ年頃集めて喧嘩させたら間違いなく一番だろ。ま、だからと言って俺が負けるもんでもねぇがよ……」
リクスウの返答にその場の一同が首を傾げる。
だったら、なんでこの青年は一人倒れていたのだ? 皆の視線がリクスウにそう尋ねている。
「一度は捕まえたんだよ。そしたら、あのガキが赤毛の虎に変わりやがって……」
「とらぁ?」
これまた一同声を揃えて聞き返す。もちろん樂葉も。