第九章 鎮魂舞踏 弐
「魯智を振る? ……拍子?」
タイコウが戸惑い尋ねるが、オウメイは背を向けたまま答える様子は無い。困り顔で魯智へと視線を移したタイコウは、そこで初めて魯智が輝いている事に気がついた。
「これは……!」
驚く彼の手が独りでに動き、光を放つ錫杖を振り上げる。
――シャラン――
枝葉が風に揺れ、たわわに実った果実を振り落とすように。魯智の放つ金色の光が金輪の音と共に虚空へ舞い飛ぶ。
――シャラン――
一定の拍子で振り鳴らされる魯智の音に次々と光の粒が舞い、龍神の池を包んでいた瘴気を押し出していく。
薄れていく瘴気に代わって周囲を包む暖かい光の中、オウメイは心地良さそうに微笑み、トウコウはその表情を怯えから苦悶へと変えていく。
錫杖の金輪が音を立てるたびに、光の粒が舞うたびに、一歩二歩と後ずさりするリクスウ。
「勇猛なる虎よ。恐れることはありません。これはあなたの内にもあったものです。大きな悲しみと怒りに忘れてしまっているだけ……」
オウメイは苦しむトウコウに向けて、穏やかに微笑みかける。
「時として悲しむ事も怒る事もあるでしょう。でも、時には笑い、喜べる事もあります。あなたが忘れているのなら、アタシが糸を紡ぎましょう。歓喜の記憶へと繋がる糸を……」
怯え恐れて身を屈めるトウコウを、誘い助け上げるようにオウメイはそっと手を出した。
「どうか、思い出して下さい……」
心より願って頭を垂れたオウメイの背後で、タイコウが魯智に促されるまま錫杖で円を描くように振り、金輪が一際大きく音を立てる。
音を合図にするように、オウメイの両足が地を蹴った。それは樂葉布による跳躍ではなく、ただ跳ねただけ。しかし、それこそが始まり。
再び地に降り立ち身を捻り、樂葉布を翻す。両腕はしなやかに揺れ動き、両足も一所に留まらず。タイコウの鳴らす錫杖の音に合わせて、オウメイは軽やかに舞い踊る。
円を描く様は一滴の雫に揺れる水面のように、弧を描く様は悪戯な微風のように。
「綺麗だ……」
惚けたタイコウの口からそんな言葉が零れ落ちる。飾り気の無い稚拙な賛辞だが、彼の本心そのままの言葉。
金色の光が浮かぶ中で、黒髪をなびかせ一心に舞うオウメイの姿は美しかった。
その思いはタイコウだけではなく、間近で見ていた樂葉も同じ。
(これが、オウメイが奉納してくれるはずやった舞なんやね……)
オウメイの耳元にそんな囁き声が響き、樂葉布が薄緑の光を放った。光は樂葉布から離れ、虚空に麗人の輪郭を描き出す。
(樂葉……!)
夢の中で出会った龍の姫の姿に、目を見開いて驚くオウメイ。樂葉は踊りを止めてくれるなと言わんばかりに、自らも舞い始めた。
「今宵は奉納の祭事に非ず。ほんなら、ウチが舞う側に回るっちゅうのも、一興やと思わへんか?」
そう言ってニカッと悪戯っぽく笑いかける樂葉に、オウメイは笑みを湛えて頷いた。
揺れ動く樂葉の両手が一陣の風を生み、気を失っていた村人達の頬を撫でていく。
「ほれ、皆の衆! 美女二人の華麗なる舞や! 寝惚けて見逃したら損するで!」
未だ怯えの色を見せるトウコウに、目覚めを迎えた村人達に、陽気な宴の始まりを伝える樂葉の言葉。
その声に応えたか、それとも錫杖の音に促されたか、村人達は一人また一人と身を起こす。そして、オウメイと樂葉の舞を目の当たりにして息を呑む。
時に歩調を合わせ、時に天と地の如き個々の所作で。絶え間無く振り鳴らされるタイコウの錫杖から舞い散る金色の光の中、楽しげに舞う二人の姿はさながら天女の姉妹。
オウメイと樂葉の舞に見惚れる村人達の誰が始めたものか。錫杖の音に合わせて手拍子が生まれ、小さな手拍子が新たな手拍子足拍子を呼び起こしていく。
龍神の池のほとりが光に満たされ、陽気に手を打ち鳴らす村人達。
(なんだろう。とても温かい……)
タイコウは、つい先程までの戦いを忘れて口元をほころばせた。
錫杖の放つ光に熱は無い。村人の手拍子にも、舞う二人にも。
それでも、タイコウは暖かな日差しに包まれているかのように感じられずにはいられない。穏やかにして、冬を越えた雪を溶かしつくすほどに力強い春の日差し。
それは、タイコウの視線の先にいるトウコウも同じと見える。
タイコウの錫杖が鳴るたびに、オウメイが弧を描くたびに、樂葉が跳ねるたびに、村人達が手を叩くたびに、トウコウの顔から怯えの色が薄れる。それどころか、内から満ち溢れていた殺気そのものさえ解きほぐされていく。
皆が歓喜の宴に湧き上がる中、オウメイと樂葉は示し合わせたように輪を描くように舞い始めた。
ぐるりぐるりと、双方の軌跡を追うように。
ぐるりぐるりと、己のいた位置に戻るように。
次第に早まる二人の歩調に、錫杖の音と村人達の手拍子が早まる。
二人の生み出す薄緑の旋風に誘われて、金色に輝く光の粒達は大きく渦巻き始めた。風に押されるように動き出した光は、やがて薄緑の風に追いつき、さらには自らが風となって二人を包み込んでいく。
「これは……」
タイコウが異変に気付いて呟いた。手を止める事無く振り鳴らしていた魯智から伝わってくる感覚が変わっている。
(森の瘴気が消えていく……)
オウメイ達を中心に巡る金色の風が、トウコウの邪気も森の瘴気も吸い上げている。
「悲しみの雨は永久には続かず……」
金色の旋風の中、最初にそう呟いたのは樂葉。
その言葉が意味するものが何か。オウメイがそれに気付けたのは、樂葉を盟友としたからなのか、巫女の血筋だからなのか、はたまた魂の記憶か。
「憤怒の雲も永久には続かず……」
樂葉の一声に続く言葉が、オウメイの口から自然と漏れる。
オウメイと樂葉は微笑みあい、どちらからともなく口を開いた。
「終宴の刻は来たれり……」
「雨よ……」
「雲よ……」
「風に逆巻き、月天へ還れ!」
二人の声が揃い、各々の手を天へとかざす。その所作に合わせるように、魯智が一際大きく振り鳴らされた。
盛大に鳴り響いた金輪の音を合図に、渦巻いていた金色の光は一陣の風となって月夜の天に向かって吹き上がる。
森の澱んだ瘴気を飲み下しても尚輝きを損なわないその姿は、昇天する黄金の龍。
タイコウや村人達の見守る中、龍は輝く身をうねらせながら空高く舞い上がる。雄大な姿に圧倒されるように誰しもが息を呑み、星屑の中へと消えていくまで龍を見上げ続けていた。
黄金の龍が消えて再び静寂に包まれた龍神の池ほとり。龍の飛び立った地に残ったオウメイの隣に樂葉の幻影は無く、彼女が纏っていた樂葉布も消えている。彼女はただ一人、その身に月光を浴びて静かに佇んでいた。
一心に踊り続けたせいか鼓動が早い。高揚に朱を帯びて火照った彼女の頬を冷やすように、一陣の風が通り過ぎていく。
オウメイは高鳴る鼓動を抑えるように胸に手を当て、舞踏の余韻に浸るように小さく溜息をついた。
それから僅かに遅れて村人達が喝采の声が上がる。爆ぜるような歓声にオウメイは驚いて我に返り、村人達を見た。
時期外れの奉納の舞に、崇めていた龍神の姫の登場に、甘美なる悪夢からの目覚めに、村人の皆が拍手し歓喜している。
喝采を一心に浴びたオウメイは、村人達に一礼するとタイコウの元へ駆け出した。彼女を迎えようと、魯智を支えに立ち上がったタイコウがバランスを崩し、慌ててオウメイが彼を抱き支える。
「ごめん! 無理させちゃったわね、タイコウ」
「大丈夫。舞のおかげで元気が出たよ」
オウメイの心からの謝罪に笑って答えるタイコウ。とても元気とは言えない足取りではあるが、その言葉に偽りは無い。それほどにタイコウの心は清々しさに満たされていた。
(リクスウは……トウコウは、どうなったのだろう……)
胸の内に湧いたタイコウの疑問に、錫杖魯智が答えるように金輪を小さく鳴らす。
舞踏の間、終始光を放ち続けていた魯智だったが、既に光は失せている。もちろん、金輪が鳴ったところで金色の光が舞う事も無い。いつもの錫杖に戻っている。そんな魯智から伝わるリクスウとトウコウの気配もまた、いつもどおり。
魯智に促されるように視線を移し、行き着いた先には大の字になって眠るリクスウの姿があった。
(リクスウ、元に戻ったのかな……)
肯。
度重なる戦いの最中鳴り続けていた警告の声とは違う。穏やかな答えが魯智から返ってくる。
「う、うぅん……」
魯智の答えに間違いが無い事を示すように、リクスウが目覚めて半身を起こす。
「あ、リクスウ……」
タイコウの声にオウメイも振り返った。
リクスウの方はまだ寝惚けているようで、後ろ頭をかきながら辺りを見回している。
「全く、まーったく、何が何やら……」
拍手喝采を続けている村人達を五月蝿そうに見るリクスウと、その後ろで大人しくしているトウコウ。その姿に彼が元に戻った事を悟り、タイコウとオウメイは安堵の息をついた。
「タイコウ、歩ける?」
オウメイの問いにタイコウは疲れの残る顔に笑みを作ってみせた。
「うん、大丈……ッ!」
タイコウの言葉は最後まで発する事は無く、彼の表情が急激に曇る。
「リクスウ! 池だ!」
そう叫んだタイコウはオウメイを振り払った。
「あ? タイコウ、何を……ッ!」
気だるそうな返事をしかけたリクスウの表情もまた、一瞬にして険しくなった。
大人しくなったとは言えトウコウの力が全て消えたわけではない。その力が、リクスウの背後、龍神の池に残る殺気を感じ取っていた。
そして、その殺気の存在を証明するかのように池の水面が飛沫を上げた。そこから飛び出した妖魔白猿候の姿に、村人達の歓声が悲鳴に変わる。
消えていった同族の弔い合戦か、はたまた未だに残るトウコウへの恐れからか。半狂乱になった白猿候が、背を向けるリクスウへ向かって飛び掛る。
「受け取って!」
タイコウはふらつく足で大地を踏みしめて錫杖を振りかざすと、リクスウに向けて足元の雪割りを打ち弾く。
「全く、まーったく、こっちは寝覚めが悪いってのに……」
低空を飛来する雪割りを蹴り上げたリクスウの手に雪割りが収まる。それと同時に背後に迫る妖魔に向かって、振り向きざま鞘から刃を抜き放った。
一閃。
月光が生んだリクスウと白猿候の影が交錯し、白猿候の姿が二つに割れた。
そして、リクスウは振り向いた瞬間に見た妖魔の姿に確信した。今しがた自分の見た悪夢が夢ではないのだ、と。
雪割りを振り切ったリクスウの後ろで、絶命した白猿候は漆黒の塵となって霧散した。後に残るは、モウエンの投げつけた小さな頭蓋骨のみ。
「……すまん。迷惑かけた」
一瞬の退治劇に再び村人達が湧き上がり、タイコウとオウメイも改めて安堵の息をつく。そんな中、リクスウはバツが悪そうな顔で誰にとも無く呟いた。