第七章 竜神巫女 弐
(仙人様!)
はっきりと見えなかったが、顎にあれだけ豊かな白髭を蓄えている者は、村の者の中にはいない。
否。
(え?)
魯智からの返答に、またもや声に出しそうになる。
手にした錫杖は言う。アレは鉄冠子では無い。異界の者であると。
(いや、でも……あの姿は鉄冠子仙人にしか見えないじゃない)
オウメイの抗議に魯智は再び言う。杖であるが故にその者の姿は見えない。だが、見えないからこそ、観えるモノもあると。
言われてオウメイも合点がいった。
鉄冠子から魯智を渡された話は、タイコウから聞いている。五感ではない感覚、気を感じることに特化しているこの錫杖なら、前の持ち主である鉄冠子の気配も覚えているというもの。それが彼の地に立つ者の気配と合致しないのだろう。
(じゃあ、いったい何者なんだろう……)
瘴気の間近にいて、それに抗う様子も無い事を考えれば危険な存在。村に何らかの災いをもたらしかねない何かだ。
(鉄冠子の偽者と……まだ誰かの声がする)
気配を探りなおすが、色濃い瘴気に邪魔されて感知しきれない。だが、森は漂う瘴気にあてられたのか、周囲に鳥や獣といった生き物の気配が無く、澱んだ空気を薙ぎ払う風も無い。全神経を聞く事に集中させれば、なんとか会話は聞き取れそうだ。
オウメイは軽く深呼吸すると、目を閉じて微かに耳に入る声達に意識を集中させた。
「へぇ、そりゃあ驚きだ。あのカリュウで暴れた坊やと鉄冠子に縁のある子ねぇ」
まず聞こえたのは、さして驚いてもいない調子の女の声。
「せっかくじゃ、奴等を使う事にした。お前の香を使わせてもろうたぞ、フェイアン」
老人の言葉に女はフフッと笑みをこぼす。
「好きに使ってかまやしないよ。砂楼香はアンタに進呈した物だからね」
「ふん、恩着せがましいことを……」
「恩だなんて思う事ぁないさ。あの御方のお役に立つと思えばこその一手なんだから。たまたま、その布石の先にアンタがいたってだけのことよ」
そのやりとりを聞いていた男が、苛立たしげに溜息をつく。
「ったく、お前等のやり方にはついていけねぇな。村を丸ごと叩いちまえば、それでお終いだろうが」
男の台詞を、老人は鼻で笑う。
「単細胞が。異界から妖魔共を呼び寄せるのだぞ。餌の一つも用意しておかねば集まりも悪いわい」
「そうやってまどろっこしい事をしてやがるから、クソ爺ィの間抜けな弟子はくたばっちまったんだろうが」
「暇つぶしの戯れに呪詛を二つ三つ教えてやっただけじゃ。あんな小物を人の弟子扱いするでないわ、バカモノ」
「およしよ、二人共。今はつまらない口喧嘩なんぞしてる場合じゃないだろう」
女が呆れながら二人を諌める。
「さあ、あの龍を黙らせる二人の生贄。妖魔達を呼び寄せる餌。お膳立てはできたんだ。せいぜい盛大にやっとくれよ、モウエン」
「ったく、枯れ木爺ィに仕事を譲るってのは気乗りしねぇな」
「文句があるなら術の一つも使ってみるんじゃの、若僧が」
「んだと、コラァッ!」
「あーもう、ホラ、とっとと帰るよ、ドウマ」
女の声と共に曖昧だった気配が消え、瘴気の渦の中に残ったのは鉄冠子の偽者一人。
オウメイは一歩も動けないでいた。
(龍を黙らせる二人の生贄。妖魔を呼び寄せる餌……)
ゆっくりと目を開け、女の言葉を頭の中で思い返す。
会話からすると、偽の鉄冠子はモウエンという名の老人。彼が行おうとしているのは、龍神の池の封印を解除し、異界との道を開いて妖魔を呼び出すという計画。実行されれば村の者は皆殺し、生贄となるタイコウとリクスウはもちろん……。
(死ぬ……)
一瞬。ほんの一瞬。苦悶するタイコウを思い浮かべ、その途端に気が散じた。その気の乱れを待ちわびていたかのように、瘴気がオウメイの気を蝕む。
圧倒的な圧力で押しつぶそうとしてくる瘴気に悲鳴を上げそうになるが、ギリギリで食い止める。
だが、声を上げない事だけが彼女にできた最後の抵抗。体勢を崩したオウメイは立て直す間も無くその場に倒れた。
動くもののいない静寂の森の中で、その音ははっきりと偽鉄冠子の耳にも届いた。
「誰じゃ!」
偽鉄冠子の怒鳴り声が森に響き、オウメイは内心舌打ちする。
「盗み聞きとは悪趣味な輩がいたものじゃな。それ相応の罰を受けてもらうぞ」
落ち葉を踏み、茂る枝を押しのけながら進むその音は確実にオウメイに向かってきている。
(落ち着け、アタシ! もう一度気を保つんだ)
もう一度、目を閉じて気を静めるようと試みる。だが……。
「ほう、巫女の小娘か」
間近で響く老人の声に、それは中断させられた。目を開けてみれば、眼前に立ち塞がる偽鉄冠子モウエン。発狂して奇声の一つも上げたくなったオウメイだが、ギリギリで押し留める。
「この瘴気深い森の中に踏み込むとは、巫女の血は伊達ではないと言ったところか」
褒められているようだが、老人の表情からはそうは見えない。むしろ邪魔者扱いである。事実、計画を聞いてしまったオウメイは偽鉄冠子からすればその通りなのだろう。
対するオウメイに言葉を返す余裕など無かった。
瘴気の具現とも言える老人を前にしたオウメイは、頬をゆっくりと伝う脂汗を拭うどころか、恐怖に指一本動かすことさえ考えられない。目は瞬きを忘れたように見開かれ、正しい呼吸を忘れたように浅く荒い息を吐いている。
「じゃが、それも限界が近いらしいの。この場で殺してやろうと思わんでもないが、儂も儀式の準備で忙しい。おまえはこのまま捨て置こう。残り数刻、この瘴気にせいぜいもがき苦しんで死ね、小娘」
地に這いつくばったまま動けないオウメイの姿を嘲笑いながら、偽鉄冠子が告げる。
このまま死を迎えるなんて御免だ。そう思いはするが、体中に絡みついた瘴気に蝕まれたオウメイには、抗う事も逃げる事も許されない。悔しさに涙する事さえも。
(タイ……コウ……)
胸の内に、その名を呼ぶ。
例え口に出して呼んだとしても、届くはずも無い者の名。
その一言を最後に、オウメイの意識はゆっくりと暗転していく。
刹那。
誰かが微笑みかけたような気がして、オウメイは閉じかけた目を見開く。
視界に入るのは、静寂の闇に包まれた森の木々と草むら。
しかし、確かに誰かが自分を見た。一瞬だけだったが、何かが目の前にあった。
その笑みは、瘴気にあてられて苦しむオウメイを嘲笑う老人のそれではない。まるで、オウメイを心配ないと励ますようにそれは暖かかった。
(魯智……じゃないか)
敵か味方かはわからない。ただ、その笑顔に元気付けられたのは間違いない。それを証明するように、オウメイの心は瘴気の渦を受け流す程に立ち直っている。顔もろくに覚えていない相手だが、オウメイは心から感謝した。
文字通り気を取り直した彼女は、偽鉄冠子の様子を窺う。
老人はオウメイの変化に気付いた様子も無く、静寂の森の上に上る満月へ視線を向けていた。
「ふむ、近いな。もうすぐ時が満ちる……」
ククと笑う。
ニタリと口元を歪ませたその笑顔は、誰かの微笑とは対極。オウメイを不快にさせる。
時が満ちる。それは先ほど話していた儀式の始まりの時だろう。
(なんとかならないかしらね)
ここであの偽鉄冠子ことモウエンを抑えてしまえば事は終わるだろうが、一人ではあまりに力不足。苦も無く返り討ちにされるだろう。
だが、手元の魯智の持ち主タイコウならば。彼の仲間リクスウならば、或いは……。
このまま留まっているわけにはいかないが、下手に動くわけにもいかない。成す術を思いつかない。魯智からも良い提案が出てこない。今はあの老人をやり過ごすしかない。
そんなオウメイの焦燥の念が通じたのか、モウエンは踵を返し歩き出した。足の向く先からすれば龍神の池。
(儀式の準備に行く気だ)
すぐにでも村に戻りたい気分だが動かない。ただじっとモウエンが離れるのを待つ。
やがて老人の姿がオウメイの視界から消え、静寂に響いたその足音も消えた。
不意に駆け抜けた一陣の風に森を漂う瘴気が揺らぎ、薄れ、消えていく。
風に揺れる枝葉。虫の音。鳥の声。まるで、静止していた時間が動き出したかのように森の息吹が蘇っていく。それらの音色に、オウメイはようやく張り詰めいていた気を緩めて安堵の息を吐いた。
「つっかれたー」
それがオウメイの正直な気持ちだ。
いっその事このまま寝転がり、四肢を伸ばして眠りにつけたらとさえ思うが、魯智が許しはしない。もちろん、自分自身そんな事をしている場合ではない事は承知している。穏やかな眠りにつけるのは、村の窮地を乗り切ってからだ。
「ここからが反撃。そうでしょ、魯智?」
応。
魯智の答えは力強く思えた。
まずは、あの旅人二人と合流する。タイコウにはこの魯智を渡す。無事ならばリクスウにも戦ってもらわねばならない。眠っていた彼の傍らにあったあの刀を手に。
「雪割りて新芽吹き、桃花咲き溢れる……か」
口に出た言葉に、刀の由来を熱心に話すタイコウの姿を思い出す。
オウメイはクスリと笑い、村に向かって走り出した。