第六章 人身御供 参
「……フェックシッ!」
長い眠りからリクスウを目覚めさせたのは彼自身のクシャミの音だった。
目を開けてすぐに入ってきたのは見知らぬ天井。視線を移せば、これもまた見覚えの無い部屋。
半身を起こして辺りを見回してみるが、それも長くは続かなかった。
「うぅ、だりぃ……」
体を動かすたびに悪い酒に酔ったような気分の悪さに襲われ、彼の体は寝そべる事を欲してくる。それは抗い難い欲求であり、抗うだけの理屈を並べられるほどリクスウの脳も機能していない。それが当然というように、もう一度横になる。
(何がどうなったんだ?)
記憶を手繰ろうとするがどうにも上手くいかない。記憶にあるのはタイコウと桟道を歩いていた事ぐらいだ。
「……タイコウ?」
旅の連れの名を呼ぶが返事は無い。先ほど起きて見回した空間にその姿も無かった。
リクスウは嫌がる体を無理矢理起こし改めて部屋を見回してみる。
(……いねぇな)
部屋には自分一人。ベッドの脇にはタイコウから渡された雪割りが立てかけてある。隣にベッドがもう一つあるが、綺麗に整えられて使われていたようには見えない。部屋の雰囲気からすれば賊の類に捕まったわけでは無いようだが、タイコウの安否はわからない。
「こうしちゃいられねぇ」
リクスウは傍らの雪割りを掴みタイコウを探すべく寝台から起き上がり……。
「お? あら? うぉわっ!」
起き上がろうとする意思とは裏腹に彼の体は起き上がることを拒み、結果顔から床に墜落した。本当ならば痛む顔を抑えて悶絶するところだが、動く事を拒否し続ける体はずるずるとベッドからずり落ちていく。
「む、ぐぅ……」
成すすべなく床にずり落ちたリクスウの耳に響くノックの音。
「失礼しま……リクスウさん!」
器を載せた盆を持って入ってきた少年が彼の惨状に驚き駆け寄ってくる。
「起きちゃダメですよ! まだ動けないんですから安静にしていてください!」
「ぐ、むぅ……」
動けないでいるリクスウを助け起こしたのはハクタ少年。
「おい! タイコウを……!」
もしタイコウを知っているなら脅してでも居所を聞こうと声を荒げかけてやめる。
目の前にいるのは純朴そうな少年で悪意は感じられない。加えて、大声を出しかけて強烈な頭痛に襲われた。今、自分にとって大声は危険なものだと痛む頭で悟る。
「……俺以外に誰かいなかったか?」
リクスウは改めて、なるべく少年に対しても自分の痛む頭に対しても傷つけないよう配慮した穏やかな声で問う。
「タイコウさんなら仙人様からいただいた杖を捜しに行っていますよ。えーっと、なんて名前でしたか……無知?」
「魯智か…」
「そう、それです」
ハクタは頷きながら彼をベッドへと押し上げた。
「魯智を探しに、ねぇ……仙人様の頂き物だって?」
リクスウも魯智についてはタイコウから聞いている。曰く、鉄冠子という謎の老人から受け取った錫杖だと。そして、只ならぬ力持つ物だということはこの目で見ている。
「それじゃあ、何か? 鉄冠子って爺さんは仙人だったと? つーか、そんな大層なものをなんで無くすかな、あいつも」
「それは、リクスウさんにも関係が……」
「俺がか?」
桟道から落ちた一件以来眠り続けていたリクスウにしてみれば、わかるはずもない事の成り行きだ。
ハクタ少年は彼にこれまでの経緯をかいつまんで説明する。彼の病気、それが元で起きた桟道転落、瀕死の二人を助けた娘、ハクタ自身が体験した妖魔遭遇、そして仙人鉄冠子の登場。
「まったく、まーったく、我ながら情けねぇ話だ。坊主にも迷惑かけたな」
素直に頭を下げて礼を言いたいところだが生憎体が思うように動かない。そんなリクスウの内心を知ってか知らずかハクタは気にしないでほしいと首を振って見せた。
「それで、リクスウさんの火酒を治す薬ができたのでお持ちしたんです」
「おお、ホントか!」
「ああ、慌てないで! 落ち着いて!」
ハクタが押し留めるが遅かった。歓声を上げかけたリクスウは再び頭痛に襲われて悶絶する。
リクスウの頭痛が治まるのを待ってから、少年は手にした盆をリクスウに差し出した。
「……あー、ハクタ君と言ったかな?」
「はい。なんでしょう?」
「これは?」
リクスウは聞かずにはいられなかった。
もちろん、今までの会話を忘れたわけではないし、この場面で自分の目の前に出されるものが何かは察しがつく。
自分の病気、火酒に効く薬。それが答えだ。
それでもリクスウは聞かずにいられなかった。
目の前の盆に載せられた湯飲み。その中で湯気を立てているソレは毒だと彼の直感が告げるのだ。
「いやだなぁ、冗談は無しですよ。もちろん火酒に効く薬草を煎じた飲み薬です。ささ、病気を治すためにちゃんと飲んでください」
笑顔で毒の載った盆を差し出してくるハクタからは何も悪意は感じられない。おそらく少年は嘘などついていない。これは薬に違いない。でも……。
(ええい! 良薬口に苦しだ! 病気を治すためだ! 南無三!)
精一杯自分を鼓舞して決意を固めると、湯飲みを掴み一気に飲み干した。
「ああ! まだ熱いですから、そんな一気に飲んじゃ!」
ハクタが慌てているがもう遅い。リクスウは空になった湯飲みを手に息をついた。
そして、数秒の沈黙。
「あの……リクスウさん?」
ハクタの声にリクスウの反応が無い。気になった少年は彼の顔を覗き込んでみる。
リクスウは湯飲みを持った姿勢そのままで気絶していた。
「ただいま、ハクタ君……って、リクスウ! 目が覚めたの?」
間をおかず戻ってきたタイコウがベッドに座している彼を見て駆け寄ってきた。
「……リクスウ?」
返事は無い。彼は湯飲み片手に虚空を見据えたまま瞬き一つせずに静止している。
(湯飲み……リクスウ、まさかあの薬草茶を)
「薬の副作用だ」
「ひゃっ!」
背後からの声に驚いたタイコウが、悲鳴をあげつつ振り返る。
タイコウの後ろに立っていたのはカコ医師。
「この薬は些か強いものでな。服用したものは必ずこうなる。命に別状は無い。一晩安静にさせておけば完治する」
カコは相変わらずの無愛想な調子で言いながら、不動のリクスウから湯飲みを取り上げて床に就かせる。
そして一連の動作を終えたカコは改めてタイコウに向き直った。
その眼光はそう簡単に見慣れるものではない。見られた瞬間タイコウの体は凍りついたように強張り動く事を忘れた。
「あ、あの……」
「日が暮れるまでに帰るように言っておいたはずだったが?」
ちらりと視線をそらせば外は既に暗い。
「あ、いや、その……帰りに鉄冠子に会いまして」
「鉄冠子仙人に?」
「は、はい!」
「タイコウさんが捜しておられる錫杖は仙人様から頂いたそうです」
カコから渡された湯飲みを盆に乗せながらハクタが補足する。
「ふむ、仙人と知り合いだったのか」
「は、はい! あ、それで! あとでリクスウのお見舞いに来るそうなんですけど」
その言葉にカコが黙る。沈黙はしているが視線はタイコウに向けられたままだ。
(リクスウの状態を考えると面会は控えてもらうべきだったか? それを勝手に面会の約束をしてきた事をカコ先生は怒るだろうか? しかし、昼に部屋を出た時点ではリクスウの今の状態を想像するのは無理があったわけで……。あ、いや、それはそれとして日暮れまでに帰れなかった事を根に持たれている?)
時間にして一秒あるなし。カコの視界の中央で、タイコウはあれこれと思考を巡りに巡らせる。対するカコは。
「そうか」
頷くとタイコウから視線を外し扉に向かって歩き出した。
「カ、カコ先生?」
「なんだ?」
呆気無く素っ気無く終わった会話に戸惑い、タイコウは思わず医師を呼び止める。
「その、どちらへ?」
「来客の用意だ。鉄冠子はハクタの恩人だからな。ハクタ、とっておきの薬草茶が残してあったな? アレをお出ししよう」
「あ、はい! とびきりのお茶を淹れますよ!」
意気揚々と部屋を後にする二人。
(それは止めたほうが良いと思います)
彼らにそう言う勇気は溜息と共に流れた。
「明日には治るとして……出発は明後日か明々後日になるかな」
今は静かに眠りについている仲間リクスウを見ながら、タイコウは一人呟いた。
錫杖魯智が見つからないのは困ったものだが、そもそもの旅の目的は師匠の作った刀、雪割りをホウ王に献上する事だ。リクスウが回復したら早々に旅立たねば。
「少し、名残惜しいな……」
その言葉の先にあるのは見つからない錫杖と、一人の娘……。
しかし、タイコウがそのまま物思いにふける事は無かった。
「ふむ、そやつがリクスウか……」
「ひょえっ!」
不意に背後から発された声にタイコウは慌てて振り返る。
声の主はタイコウの知っている者。彼が来訪する事は自分自身が約束していた事。それでも、この登場はあまりにも不意打ち。
「て、鉄冠子! どうしてここに?」
タイコウはそう問わずにいられなかった。
「どうしても何も、おまえさんがそやつを紹介すると言ったじゃろうに」
確かにタイコウは鉄冠子にリクスウを紹介すると別れ際に話した。話はしたが……。
「まさか、こんなに早く来られるとは思いませんでした」
それも、来た事さえ気付かせないで。
「いやなに、どうにもそやつの事が気になったのでな。一刻も早く顔を見てみたくなったのじゃ。……寝ておるのか?」
「まあ、そんなところで。カコ先生の話では一晩で目を覚ますらしいんですが、今晩中は気絶しっぱなしみたいで……」
「そうかそうか、それは重畳。都合が良いわい」
「え?」
鉄冠子の言葉にタイコウが問うが、老人は応える様子が無い。リクスウの寝顔をまじまじと見たあとニタリと笑みを浮かべた。
「おうおう、確かにあの時の小僧じゃ。あやつの助力もあれば、なるほど確かにあの数の妖魔を相手に引けを取らなんだ理由も納得がいくわい」
「鉄冠子? いったい何……を?」
その問いは鉄冠子の杖の一振りで留められる。
「タイコウ……であったな。この村の伝承は聞いたかの?」
改めて老人の振った杖がリクスウの鼻先に突きつけられ、解答を迫ってくる。
「伝承って……龍神の池の話ですか?」
「その様子だと聞いたようじゃな」
問い返したタイコウの言葉は、鉄冠子の問いに対する答えとして足りたらしい。
「遥か昔、池の底が開き妖魔が溢れ出た。その妖魔を追い払い龍の力によって開いた池の底を封じた。……遥か昔か、忌々しい事であったが今となっては懐かしくもあるわい」
急に何を言い出すのだろう。
そんなタイコウの疑問を知ってか知らずか、鉄冠子は話を続ける。
「龍は今尚律儀に封を守っておる。それは堅牢なものだが、人の歴史にあるように難攻不落の要塞も時には容易く崩されてしまうものじゃ。龍の守りとて例外では無い」
「……鉄冠子?」
否。
老人の名を呼んだ途端、タイコウの中でありもしない魯智から否定の言葉があげられたような気がした。
(違う……こいつは違う。鉄冠子じゃない)
魯智の声が空耳であったとしても、自分の感覚もまた今更ながら目の前の老人を否定し始めている。
鉄冠子は先ほどまで話していた時と雰囲気が変わっている。温和な気配は霞のように消え失せ、代わりに滲み出ているのは瘴気。それも魯智も無しで、戦いに疎いタイコウでさえ感じ取れるほどに禍々しい代物だ。
「おまえは何者なんだ?」
「おまえ? 何者? 口を慎め若造が!」
老人はタイコウを睨みつけダンと杖で床を打ち鳴らし叫ぶ。それを合図にしたかのように、タイコウの両腕に何者かが組み付いた。
左右に組み付いた相手を見てタイコウは驚愕する。
「え? って、カコ先生? ハクタ君?」
二人の名を呼んだが返事は無い。
カコもハクタもタイコウに顔を向けているものの、二人ともどこか朦朧とした様子で焦点が合っていない。その様子に危機感を感じ振り払おうとしたが、腕を掴む力は双方共に尋常ではない。
「おまえ! 二人に何を!」
鉄冠子を名乗っていた老人を睨みつけるが、当人は悪びれる様子も無く鼻で笑う。
「口の利き方がなっておらぬな。まあ良い。躾なんぞする必要も無し」
老人は言いながら懐から小さな香炉を取り出した。
「離して! 二人とも、離してくださいって!」
身をよじるタイコウの声は彼を抑える二人に聞こえる様子も無い。
暴れる彼を他所に老人は香炉を差し出してくる。
目の前の香炉はいったい何なのか。この香炉で何をしようというのか。タイコウが問いただす前に変化は起きた。
いつの間にか香炉からは薄桃色の煙が僅かに立ち上っている。
(まずい!)
そう思ったが遅かった。
タイコウの口から鼻から入った微量の煙に一瞬気を失いそうになる。気絶寸前で辛うじて堪えた。
「頑張るじゃないか」
「……五月蝿い」
目の前のニタリと笑みを浮かべる老人に思わず口答えして、また後悔。
また吸ってしまった。
改めて吸い込んだ煙は決して不快なものではない。むしろ……。
(この香は……桃源の夢を見るようだ)
そう、心地良い。
桃源郷に咲く桃花はこの世のものとは思えない馨しさをもつと言われているが、この香りもそれに劣らないのではないか。或いは、この香こそが桃源の香そのものではないかとさえ思わせる。
だが、それ故にタイコウの心の警鐘が鳴る。この香りに溺れた先に何があるのか……。それはきっと危険な場所だろう。これ以上この香を吸ってはいけないのだ。何とかして抵抗すべきなのだ。
しかし、警鐘を鳴らしていたはずの心がすでに逆転して香の快楽を欲している。
それからタイコウが動きを止めるまで、さほどの時間はかからなかった。
すっかり気の抜けたタイコウの顔を見て、老人はもう一度ニタリと笑みを浮かべる。
「砂楼香。お気に召したようじゃな、タイコウ。もっとも、儂としてはこの香を焚くのはフェイアンに借りを作るようで気が進まなんだが……。まあ、先ほども使ったんじゃ。これ一つで貸し一つならば、せいぜいこの香は利用させてもらうとするかの」
決して小さくなかったその鉄冠子の言葉も、今のタイコウには聞こえた様子は無い。
「先ほど少し話していた龍の封印じゃがな。儂一人では封を破る事は難しいが、協力する者がいれば案外容易く破れるんじゃよ。この村には紫龍を祭る巫女が来ていると聞いた。当初はその娘にしようかと思っておったんじゃが……気が変わった」
香の立ち込める香炉・砂楼香を待った老人は、そのままタイコウに近づき耳元で囁く。
「タイコウよ。今宵そのリクスウを抱えて龍神の池に来い。お前達が龍への生贄じゃ」
~次回予告、オウメイ語り~
姿無き声の先にあった一本の杖、魯智との出会い。
そして、その夜。月下の龍神の池。
鉄冠子はタイコウとリクスウを生贄とし、異界の門を封じる龍神の解放を試みます。
鉄冠子の計画を妨害すべく乱入したアタシでしたが返り討ちにあい、傷を負って龍神の池に没しました。
力尽き、消えつつある命の火は走馬灯となりアタシを夢の中へといざないます。
そして、夢の終着点。故郷の桃園の夢の中で、アタシは一人の女性に出会いました。
瘴気渦巻く外法の儀式。娘一人に止められぬ。
今際の夢に出会った姫は、池の龍神、名は樂葉。
桃園の巫女、只今覚醒。
次回『第七章 龍神巫女』に乞うご期待♪