第六章 人身御供 弐
タイコウの背をしばらく見送ってからオウメイは再び祠に向かい祈り始めたが、ふいに名を呼ばれたような気がして顔を上げた。
(……誰?)
見回してみるが祠の前に座する自分以外の誰も見当たらない。
(気のせい……じゃない)
気まぐれにふいたそよ風に彼女の髪がなびく。何故か、それさえも誰かに髪を触られたような錯覚を思える。
ただ、それは決して不快なものではない。かと言って心地良いと思うものでもない。五感で表現できない何かが彼女の中にある。
オウメイは今まで感じた事のない感覚に戸惑いながら立ち上がった。
(紫龍様の声? 違うと思う。では、樂葉様の? でも無いと思う)
もちろん、紫龍の声も樂葉の声も聞いたことがあるわけではない。それでも、自分の中の何かが違うと言う。聞いたことが無いはずの声なのに何故か懐かしくもある不思議な響きだ。
(……悪意は感じない)
意を決して声を感じる方に向かって歩き出す。
無造作に茂る草をかき分け、遮る小枝をくぐり、真っ直ぐ。真っ直ぐ。声に呼ばれて歩みを進める。
無意識に近い状態で歩いていたオウメイには把握しきれてはいなかった。改めて図れば結構な距離を歩いてきている事に気付いただろうが、今の彼女の意識は声に向き、歩いた事への疲れを感じる事も無い。
「ここは……」
辿り着いたのは馴染み深い川原。タイコウとリクスウが浮かんでいた場所だった。
タイコウを助けた時の光景を思い出し、無事であった事への安堵と助ける為に行った行為に照れくささを感じたオウメイ。立ち止まり沈黙していた彼女だったが、もう一度響いた呼び声に我に返る。
呼ばれた方へ振り向いたオウメイの視線の先に、それは居た。
「鉄冠子!」
夕暮れの帰路。タイコウは村の中にかかる橋の上に見覚えのある老人を見つけて呼びかけた。
「おまえさんは……誰じゃったかの?」
駆け寄るタイコウが蹴躓く。
「いや、まあ、忙しい身の上でしょうから忘れても仕方ないか。廃寺でお会いしたタイコウです。鍛冶屋見習いの」
思わぬ返答だったが、なんとか自分を納得させると改めて名乗る。
「むぅ、どうじゃったかの……」
ここまで言っても思い出されないか……。
「鉄冠子が持っていた錫杖。魯智を譲り受けたタイコウです。これでもダメですか?」
これでさすがに思い出したのか、鉄冠子はポンと手を打ってみせる。
「おうおう、あの時の小僧か。いやはや、しばらく見ぬうちに大きくなったものじゃ、見違えてしもうたわい」
「いや、あれから一月と経っていませんけど……」
「細かいことを言うでないわい。神経質な男は嫌われるぞい」
聞き覚えのある台詞にタイコウから笑みがこぼれた。
「それにしても鉄冠子が仙人だとは思いませんでした。どうして言ってくれなかったんですか?」
「いやなに、様を付けられて祀り上げられるのはどうにも好かんでの」
禿げ上がった頭とは反比例に豊かな白髭をしごきながら答える。
彼の言葉に思い当たる節があったタイコウは思わず苦笑いしていた。カリュウの町で妖魔を退治した後、周囲から受けた賛美の声は褒められ慣れていないタイコウは悪い気こそしなかったが辟易した。
「でも、そんなに凄い人なら初めて会った時もう少し引き止めておくべきでした。あの後で大変だったんですよ」
「ふむ?」
小首を傾げて話の続きを促す鉄冠子にタイコウは彼と別れてから樹木子なる妖魔に襲われた事を話した。
樹木の形をした妖魔樹木子との遭遇。魯智の助言を受けながらの戦い、そして撃破。
静かにタイコウの話を聞いていた鉄冠子は、事の顛末を聞き終えるとフォフォと愉快そうに笑った。
「そうかそうか。あの錫杖が役に立ってなによりじゃったわい」
「ええ、魯智が無ければ今ここでこうして歩いている事は無かったです。カリュウでの戦いもあの錫杖にどれだけ救われた事か……」
「カリュウでの……妖魔が大量に湧いて出たという噂は耳にしたが、お主もそこにおったのか?」
驚いた様子で問う鉄冠子にタイコウが頷いてみせる。
「真っ只中でした」
「廃寺の一件どころでは無いのぉ。それこそ良くぞ生きていられたものじゃ」
「あの時は本当に死ぬかと思いましたよ。魯智とリクスウのおかげでなんとか生き延びたというのが本音です」
カリュウで大量の妖魔を相手にした事を思い出し力無く言うタイコウ。錫杖魯智の助力とリクスウという仲間。それと幾重にも重なった幸運あっての結末だ。もう一度やれと言われてもやりとげる自信は無い。
「リクスウ?」
鉄冠子がまたもや小首を傾げてみせる。
「あっと、言い忘れていましたね。カリュウでいろいろあって知り合った仲間です。彼もコウランに向かう途中だったらしくて。何より雪割りが自分の持ち主に選んだ事もあって一緒にここまで旅してきたんですよ」
ここで三度首を傾げる鉄冠子。
「……ひょっとして雪割りも覚えていませんか?」
(仙人でも歳は取るだろうし、やっぱり鉄冠子って……)
「ボケたわけではないぞい。ただ物忘れがはげしいだけじゃ」
それをボケたと言うのではないだろうかとも思ったが、それを言えば鉄冠子の機嫌を損ねるのは間違いないだろう。
タイコウは改めて雪割りの説明をする事にした。
「雪割りは僕の師匠オウシュウがうった一振りの刀です。鉄冠子が不可視の力を持つと言われた刀。雪割りて新芽拭き、桃花咲き溢れるという願いを込めてオウシュウ先生が雪割りと名付けたんですよ。思い出しました?」
「おぅ。カチ割りて白目剥き豆腐湧き溢れる。あのカチ割りのことじゃったか」
「……雪割りて新芽拭き、桃花咲き溢れる。ユ・キ・ワ・リです」
「おうおう、その雪割り。使い手を選ぶとは随分と妙な話だのぅ」
「僕も雪割りが鞘から抜けなかった時は驚きましたが、リクスウが抜いてみせた時に鉄冠子が言った力を持つ刀というのがわかった気がしました。あの刀はただ切れるだけじゃない。なんというか、使い手を選ぶ意思があるんです。刃に合った鞘があるように、あの刀の柄はそれを握るに見合った手でないと許さない。カリュウでリクスウが雪割りを手にした瞬間、あの刀はリクスウが自分の使い手に足りると見抜き鞘から抜かれた。実際に数知れない妖魔を屠ったのだから大した目利きです」
言いながら、タイコウは使い手や作り手の意思が物に宿るという話をオウシュウ自身から聞いた事を思い出した。
「雪割りが破邪の力を持つのも持ち主を選ぶのも先生の意思が成した事……か。うーん、自分の師匠ながらとんでもない人だなぁ」
自分の意思を刀に吹き込むとは……。オウシュウが腕利きの鍛冶屋だという認識はタイコウにもあったが、師の技量はその認識を上回っている。
「その雪割りを扱うリクスウもとんでもない奴ですけどね」
初めて出会った飯店でのチンピラ相手の喧嘩に始まり、詰め所脱獄、リホウ達行商一家救出劇、そして、たった二人のカリュウ防衛戦。
仲間と共に戦った話を興奮した様子で話し続けるタイコウ。鉄冠子は終始黙して彼の話を聞き続けた。
「結局、妖魔が出てきていた場所の直前で僕は気を失って、目覚めた時にはリクスウが一人で終わらせちゃったんです」
「ふむ、虎の相を持つ先祖の霊か」
リクスウに憑くトウコウの事だ。
「トウコウの力はそんじょそこらの道士よりよっぽど強いってリクスウは自慢げに言ってましたよ」
「そのトウコウとやら、コウタツに率いられたホウ国の軍に滅ぼされたと言うたな……。世に留まり子孫に憑き今尚それだけの力を揮うか。さぞ恨みが深いのであろう」
「……鉄冠子?」
いつにない真剣な表情に当惑するタイコウ。彼の心配顔を仙人は気にするなとばかりにフォフォと笑い飛ばした。
「そんな辛気臭い顔をした男は嫌われるぞい。いやなに、儂も霊だのなんだのを相手にするのが生業じゃからの。つい気にし過ぎてしもうたわい。それで……リクスウといったか? その旅の仲間はどうしておるんじゃ?」
「リクスウなら火酒という病気にかかってこの村の医者のところで寝込んでますよ」