第五章 老師再来 参
(無い! いったいどこで……)
魯智を手放したのか。
記憶を辿るというほどに時間はかからなかった。最後に錫杖を持っていた時から今まではほとんど眠り続けていたのだから。その間に無くしたとしたら……。
いてもたってもいられずベッドから降りると脇に畳んであった上着を掴み、急ぎ足で部屋を出た。
(加減無しに砕破を撃った時だ)
廊下と呼べる長さも無い空間を歩みながら上着を羽織る。焦る気持ちに速まる足を落ち着かせる事も無く、玄関の戸を突き破りそうな勢いで開けた。
「キャッ!」
戸を開けたと同時に向かい側から放たれた女性の声。
それが悲鳴だったのかなんだったのか。声を発したのが誰なのか。
魯智探し一色に染まっていたタイコウの心中にそんな疑問が浮かんだ時には、すでに答えが視界に入っていた。
彼女の澄んだ黒い瞳の中に映ったタイコウの顔が呆けているのは、その瞳の持ち主の顔が整っていて綺麗だったから。それと、彼女の後ろ頭で束ねられた腰元まである黒髪が、風になびいて綺麗だったから。加えて、陽光に照らされた彼女の黒い瞳と黒髪が、僅かに紫色をおびて綺麗だったから。
見惚れていたいところではあったが、危険を感じたタイコウの意識がそれを許さない。
勢い良く外に飛び出てしまったタイコウは止まれない。戸の前に立っていた娘は驚いたまま動けない。一瞬判断が遅れるだけで……。
(ぶつかる!)
慌てて体をひねり彼女との衝突を避ける事に成功したタイコウ。だが、その後の体勢まで考える余裕は無かった。
「うわっ! あわわっ!」
無理な姿勢で踏み出した足はもう一方を蹴りつける形になり、バランスを失った彼は勢いに乗っていた体を地に打ち付け、滑り、転がった。
「え? ちょっと! 大丈夫!」
目の前の惨事に急ぎ駆けつける黒髪の娘に対し、タイコウは大丈夫だと片手で制した。
(うぅ、思いっきりぶつけたなぁ)
内心溜息を付きつつ打ち付けた箇所を見やると、肩から肘にかけて擦り剥けて血が垂れ始めていた。我慢できるとはいえ、痛いものは痛い。
「……って、タイコウさんじゃないの。まだ休んでると思ってたのに、なんでまた先生のところから飛び出してきたの?」
驚きの声を上げる彼女にタイコウも驚いた顔を向けた。
「どうして僕の名を?」
「え? だって、あの時自己紹介したし。アタシの事覚えてない?」
あの時?
彼女と会っている?
首を傾げるタイコウの様子に娘は「まあ、覚えてないか」と早々に諦め、改めて彼の元に歩み寄る。
「すみません。どうにも思い出せなくて、そのあなたは……」
謝り改めて彼女について問おうとしたタイコウだったが、傷口に手を出そうとしてきた娘に対して慌てて半身を引く。
「あ。ごめんなさい。別に触るわけじゃないから。心配しないで」
タイコウを安心させようとして作ったものか、タイコウの慌てた様子が可笑しかったのか娘は彼に微笑んだ。その笑みが前者だとしたら、その目論見は成功と言える。
「ちょっとだけ、動かないで」
何が起きるのか不安顔ではあるものの、タイコウは彼女の言葉に従い大人しくする。
改めて傷口を見た娘は自分が傷ついたかのように顔をしかめたが、それも数秒の事。意を決して一つ大きく息を吐くと目を閉じて傷に手をかざす。
「子の手をあなたは握り、子の手はあなたを握る。子の目にあなたは映り、子の目はあなたを映す。子をあなたは知っていて、子はあなたを知っている」
娘の口から紡ぎだされる謎かけのような口上。
タイコウが言葉の意味を理解しかねて首を傾げるより早く、異変は起きた。
擦り傷が発していたはずのヒリヒリとした痛みが和らぎ、薄れ、消えていく。オウメイがかざしていた手をどけると、そこには傷一つ無い肌と僅かに残る血の跡。
「えーっと、その、ありがとう。これって?」
「うちの家系にずっと昔から伝わるおまじない。タイコウさん、痛そうだったから久しぶりに使ってみました」
目の前の出来事が信じられない様子のタイコウに娘はおどけた調子で言い立ち上がる。
「改めまして、アタシの名はオウメイ。いろいろとあって今はこの村の村長さんの家で下働きをしているの」
差し出されるオウメイの細い手。握手のつもりで軽く握り返したタイコウの手は強く握られ、彼女の「よいしょっ!」の一言でそのまま体を引き起こされた。
「ところで、そんな薄着で地べたに座り込んでたら風邪ひいちゃうわよ」
クスクスと笑うオウメイに言われて、タイコウは自分が羽織っていた上着が転んだ拍子に脱げて地面に広がっている事にようやく気が付いた。
「重ね重ねお気遣いありがとう。えーっと、僕の名はタイコウ……は知ってるんだよね。先生の作った刀を届ける為に首都コウランへ向かっていたところなんだ」
「先生? 刀?」
拾い上げた上着を着込んだタイコウがオウメイの問いに頷く。
「僕は鍛冶屋の見習いでね。ここからずっと西にあるレイホウって村で鍛冶屋をやっているオウシュウ先生が僕の師匠。先生が作った雪割りを届けるのが旅の目的」
「雪割りっていうのが刀の名前なんだ」
「うん。雪割りて新芽吹き、桃花咲き溢れる。首都にはびこる妖魔を退け、コウランの、ひいてはホウ大国に再び安寧を生み出す礎となるべき刃。そういう意味で雪割りって名付けたそうだよ」
「その雪割りを運ぶ途中に崖から落ちた?」
オウメイの言葉にタイコウはようやく思い出した。
崖から落ちた二人を助けた娘の名はオウメイ。目の前にいるその人だ。
「ああ! そうだ! あの時は助けてくれて本当にありがとう。それに今も怪我を治してくれて、なんとお礼を言っていいか……」
「いや、その、そんな……」
深々と頭を下げる彼にオウメイは崖下での救出劇を思い出し、顔を赤らめた。
人命救助とは言え目の前の男と唇を重ねたのだと思うと、なんとも居心地が悪い。
「カコ先生から聞いたよ」
タイコウのその言葉にオウメイがドキリとする。
礼を言ってくれるのは嬉しいが、あの時の状況をわざわざ口にするつもりか。
「下手をすれば死んでいたって。あの時も今みたいにおまじないで治してくれたんだね」
「え?」
続けて出されたタイコウの言葉にオウメイは思わず問い返していた。
「え? って?」
「いや、おまじないって……ううん、なんでもない」
わざわざ自分から訂正して恥ずかしい思いをする必要も無い。
「タイコウさんも、もう一人の……リクスウさんだっけ? 無事で何よりだったわね」
「リクスウの分もありがとう。それにしても凄いよね、さっきのおまじない」
褒めたつもりで口にした彼の言葉だったのだが、オウメイは複雑な表情を浮かべる。
「確かに、オウメイの力は素晴らしいものだと思うがな」
彼女の変化が気になり問いただそうとしたタイコウだったが、不意に背後から響いた男の声に顔が引きつり口が止まる。
「タイコウ。安静にしておくように言っておいたはずだったが……。これはいったい何の真似だ?」
タイコウが振り返った先。声の主であるカコ医師が玄関で仁王立ちしながら彼を見据えている。
修行中に師匠オウシュウに叱られる事は多々あった。その時はオウシュウの怒気に熱を感じたものだ。それに対し目の前の医者から感じる怒気は氷の矢尻のように鋭く冷たい。
「すみません。でも、どうしても探しに行かないといけないものが……」
背中を走る悪寒に耐えながらの必死の言い訳もカコのひと睨みで滞る。
「あ、アタシ、お使いの途中だったんで、それじゃこれで……」
どうやらオウメイもカコの冷気は苦手らしい。自分に飛び火する前にと急ぎ足で去ろうとする。
「待ちなさい、オウメイ」
「はい!」
カコの一声でその場に硬直した。
(アタシ、何かしたっけ? いや、カコ先生に怒られるような事は断じて……まさか。いや待て。それで先生が怒るのはお門違い……でも、先生はそういう理屈が通じないし)
立ち止まったそのままで、呼び止められた原因について、主に怒られそうな方向で考え込むオウメイ。
「ショウセン殿に頼まれていた薬ができている。使いのついでに持って行ってくれんか」
「ああ、村長の胃薬ですか。そういうことでしたら」
怒られるわけではなかったのだと安堵するオウメイだったが、再びカコの凍てつくような怒気を肌で感じてまた体が強張る。
「どこに行くつもりだ、タイコウ」
怒りの矛先はオウメイでは無くタイコウ。
見ればタイコウはカコがオウメイの方を向いている間に忍び足で逃げようとしていた。
「いや、本当に大事な物を無くしてしまって……」
「おおかた崖から落ちた時にだろう。ならばすでに龍神の池にでも流れ着いている」
「でしたら、龍神の池へ探しに……」
「体調を診てからでも遅くは無い。池にはハクタが薬草を採りに行っている。案外、ハクタが見つけてくるかもしれん」
「でも……」
「安静だ」
それが食い下がるタイコウを黙らせるトドメだった。
怒鳴るわけでもないただの一言。それでもカコ医師の鋭い眼光が伴うと決して抗えないと思わせるような力を持つらしい。
「あの、カコ先生?」
それまでタイコウとカコの問答を傍観していたオウメイが口を挟む。
「何かね」
「そのハクタ君が……」
言い澱みながらカコの診療所から伸びる道の先を指し示した。
オウメイの指の先。カコとタイコウが目を向けるとその先には慌てて走ってくるハクタ少年の姿。
「た、大変ですー!」
三人の元まで残り僅かで蹴躓きバランスを崩した。
慌てて彼を抱きとめたタイコウに対し、ハクタは肩で息をしながら早口で話し始める。
「あ! タイコウさん! た、大変なんです! 僕、この先の池に薬草を採りに行って……そしたらすっごく大きな……あの薬草は水辺にしか生えていないヤツだから……それで僕、慌てて逃げ出して……化け物が出てきたもんだから……桶が……」
「桶?」
支離滅裂とはこういうことか。
「ちょ、ちょっとハクタ君。落ち着いて」
「あ! オウメイさん! た、大変なんです! 大きい化け物が……あれは水辺にしか生えてないから……僕、慌てて……薬草採りに行ってたんですけど……桶が……」
「大きい化け物が水辺に生えていて、ハクタ君が慌てて薬草採りに行った? ああ、ダメだ。これだと桶が余るわね」
今度は声をかけたオウメイに対してもう一度説明しようとする。無論、タイコウにした説明以上に支離滅裂ぶりを発揮したその情報は、彼女を混乱させるだけで全く通じていないが。
「落ち着かんか、ハクタ。いったい何があったのだ?」
そのカコ医師の声に一旦は落ち着いたようだったが、またすぐに興奮した声で三人に話し始める。
「僕、先生に言われてこの先の池に生えている薬草を採りに行ったんです。そしたら、その池の近くに凄く大きな化け物がいて、それで慌てて逃げて……」
今度はまともに聞ける説明である。でも、桶はどこに行った?
「化け物って……」
「それでおまえは襲われたりしなかったのか? 大事無いか?」
さすがに自分の弟子が危機に直面した事は心配なのだろう。やや狼狽した様子でカコ医師が問う。
「その化け物が追いかけてきましたが、怪我はしませんでした」
「追いかけてきたって……ハクタ君、良く逃げ切れたね」
ハクタの言葉にタイコウが驚きの声を上げる。旅の道中、妖魔に出くわして逃げられたためしのないタイコウにとっては信じられない話なのだ。もっとも、リクスウと同道してからは逃げる事も無かったのだが……。
「とても逃げ切れるものじゃないですよ! その化け物がもの凄く足が速くて、もう少しで捕まっちゃうところだったんですから!」
その時の事を思い出したのか、身震いしながらタイコウに抗議するハクタ。
ここまで逃げてきたハクタの口から出た、逃げ切れないという言葉。矛盾するそれにオウメイが首を傾げた。
「え? じゃあ、どうやってここまで逃げてきたの?」
「仙人様が助けて下さったんです」
そう言って来た道を指差すハクタ。三人が向けた視線の先には一人の老人がのろのろと歩いてこちらに向かっていた。
(あれって……まさか……)
ゆっくりと近づく姿。やがて姿がはっきりと見えてくると、その覚えのある容姿にタイコウが声を上げた。
「鉄冠子!」
タイコウに錫杖魯智を譲った謎の老人。その人だった。
~次回予告、タイコウ語り~
鉄冠子の来訪から一夜明け、魯智を探しに森の中へ。
一向に見つからず途方に暮れていた僕は、龍神池で祈りを捧げるオウメイさんに会います。
彼女は別の村から祭りの為にやってきた巫女だと、その素性を明かしてくれました。
オウメイさんと別れた僕が次に出会ったのは鉄冠子。
彼はリクスウに興味を持ち見舞いにやって来ました。
青年の顔を見て、意味深な笑みを浮かべる鉄冠子……。
錫杖魯智は見当たらぬ。巫女の悩みは尽きやせぬ。
悩みの多き若人を、老師は一人嘲笑う。
秘かに芽吹く裏切りの種。
次回『第六章 人身御供』に乞うご期待。