第五章 老師再来 弐
「オウメイさん。これだけ集まれば大丈夫だと思います。そろそろ帰りましょうか?」
少年の幼さの残る声に娘は周囲の草木から視線を上げた。
「え? もういいの?」
「はい、欲張って必要以上に採ってはいけないと先生にも言われていますし」
その言葉にオウメイと呼ばれた娘は立ち上がり、少年の持つ籠を覗き込む。
籠の中には摘み取られた野草が八分目ほど。見る人が見れば、それがどれも薬になるとわかるだろう。少年の師匠にして二人が暮らす村の医者カコが使うために集めた物だ。
「まあ、ハクタ君が言うなら、これぐらいにしておきますか」
地に生える野草を相手にして丸まった腰を伸ばしつつオウメイが告げると、少年は深々と頭を下げる。
「手伝って下さってありがとうございました」
少年の丁寧な口調にオウメイは慌てたようにパタパタと両手を振ってみせた。
「いいよいいよ、アタシも仕事がお休みで暇だったから」
「でも、オウメイさんのおかげで早く片付きました。やっぱり感謝です」
言ってもう一度頭を下げる少年に娘は苦笑いを浮かべる。
ハクタ少年はいつもこんな調子だ。厳しいカコ医師の下で働いているせいか、育ちが良いのか終始穏やかな物腰で、話し方は他人行儀と取れるほどに丁寧。
「アタシには真似できそうもないわね」
「はい?」
「いやいや、こっちの話。ひとり言だから」
「それじゃあ僕は帰りますけど、オウメイさんも一緒に来ますか? よろしければ薬草茶をご馳走しますよ」
籠を抱えなおすハクタに対しオウメイはあからさまに嫌な顔をする。
ハクタと一緒に村に戻る事が嫌なのではない。問題はその後の提案だ。
(アタシって、好き嫌いは無い方だと思っているんだけど……)
以前ご馳走になった薬草茶の味を思い出す。舌に触れた瞬間、薬の苦味を濃縮したような強烈にえぐい味。あまりのインパクトに卒倒しそうになったその味は忘れたくても脳裏に焼き付いている。思い出しただけで舌先が悲鳴を上げている気がする。
「せっかくだけど遠慮させてもらおうかな。ちょっと散歩してこようと思うんだ」
少年の薬草茶の一言で逃げ腰になっているのが自分でもわかる。
「そうですか。いい味を出してくれる野草も見つかったんですけど。残念です」
心底残念そうに言うハクタに対し、オウメイは少年が食い下がらなかった事に心底安堵した。無論、顔には出せないが。
オウメイの記憶ではハクタは平然とした顔であの劇薬を飲んでいた。ハクタの味覚がおかしいのか、自分の味覚がおかしいのか。
「とにかく、ちょっと川の方にでも足を伸ばしてみるわ。それじゃあね」
言うが早いかオウメイはハクタから、というよりは薬草茶から逃げるようにその場を離れる。
「お気をつけて」
そんな言葉をかけてくる少年の姿はすでに藪の向こうだ。
「あれを飲むなら虎にでも襲われた方がマシだと思うわ」
実際虎に襲われたら「虎に襲われるぐらいなら……」と言葉を翻すだろうが、そう言いたいぐらい抵抗のある飲み物だ。
少年と別れて森を進むオウメイ。
「さて、これからどうしたものかなぁ」
川へ行くとはただ逃げるための口上だ。だが、これといってどこかに行かなければならない用事も無い。久しぶりにもらった休みを返上してまで仕事に戻る気にもなれない。どうしたものかと考えながら、川へと足を進める。
「うーん、こんなことなら釣竿でも持ってこればよかったかな」
朝方偶然ハクタに出くわし暇つぶしがてら彼の手伝いをしていたが、これほど早く手伝いが終わるとは思っていなかった。
川に行ったところで水浴びするには季節的にまだ早い。今から引き返して釣竿を取ってこようか。
歩きながら迷うオウメイの耳に突如轟音が飛び込んできた。
「な、何事?」
静寂とは言わないまでも静かな森の中に不釣合いの音量に驚き立ち止まる。轟音の発生した方角は今から向かおうとしていた川。
「崖から岩でも落ちたのかしら?」
なんの予定も無い暇な時間。人並に野次馬精神も持っている。おまけに音はこれから向かおうとした川の方とくればオウメイの判断は一つだった。
「行って確かめればわかるわよね」
彼女は音のした方へと走り出した。
もともと、向かっていた方角だ。それほど距離は離れておらずすぐに目的地の川辺に到着した。
「って、人?」
そう、彼女が辿り着いた川辺から見えるのは水面に浮かぶ二人の人。二人共浮かぶだけで泳いだり溺れたりする様子も無い。
「まさか、これって……」
オウメイは呟き川の上へと視線を向けた。
村人から聞いた話。稀にだが、旅人が崖から足を踏み外してこの谷川へと転落する事がある。さほど深くもない川に落ちた旅人達は頭を打ち大量出血で死亡。そのまま魚の餌になる。時には川の下流にある村の池にまで流れ着くことがあるらしい。
「うぅ、とんでもない所に出くわしちゃったなぁ……」
そうは言っても見て見ぬ振りするわけにもいかない。今この場を逃げて、後で村に流れ着かれたら尚更滅入る。これも何かの縁だ。川から引き上げて弔ってあげねばなるまい。
「……あ!」
流され始めている死体を眺めて困りはてていた彼女だったが、二人の様子に気が付いた途端川に飛び込んでいた。
川底で頭なり打てば当然のように出血する。だが、二人共全く血が出ていなかった。
おまけに崖から落ちてきたからといっても先程のような轟音はしないだろう。何が起きたのかは皆目見当がつかないが、ひょっとしたら二人は……。
(生きてるかもしれない!)
死んでいるかもしれない。
オウメイの考えに対し自身の内側から否定的な意見が出たが、今はその声に耳を貸すわけにはいかない。生きている可能性がある限り絶対助ける。
泳いで近寄ってみると、やはり外傷は無い。
急いで川岸に二人を引き上げると、オウメイは改めて二人の状態を調べだした。
旅人の一方、落ち方が良かったのかどこかの民族衣装らしき服を着た隻眼の青年は呼吸もある。ただ、熱に浮かされた様子で目は開けない。
もう一方、作業服とも思える装束の青年はというと……。
(息してない!)
脈はある。まだ助けられる。
一瞬躊躇ったオウメイだったが、意を決して青年の口に唇を重ねた。
ハクタの師匠カコ医師から方法は聞いていたが、まさか自分が人工呼吸をすることになるとは思いもしなかった。
(死んじゃダメ! 死んじゃダメ! 死んじゃダメ! 死んじゃダメ!)
それだけを念じて何度息を吹き込んだだろう。
やがて、オウメイの顔に青年が水を吐き出した。
「ゲホッ! ゲホッゴホッ!」
しばらく咳き込んで涙目になりながら旅人はオウメイを見る。
「大丈夫。どこか痛い所とかは無い?」
「いえ……ええっと」
「アタシはオウメイ。この近くの村に住んでいるのよ」
まだぼんやりとした表情の青年に名乗る。
「僕はタイコウ……ここは?」
「ここはメンサイって村の近くの森。たまたま川からもの凄い音がしたから来てみたら人が浮いてんだから、ホント驚いたわ。それにしても、崖から落ちたんでしょうけど二人共良く生きていられたわね」
彼女の言葉にタイコウの目は次第に焦点を合わせ、不意に体を起こした。
「リクスウ!」
「ああ! まだ動いちゃダメよ!」
慌てて起き上がる彼を、オウメイも慌てて寝かせる。
「大丈夫、タイコウさんのお仲間の……リクスウさんだっけ? 彼ならそこにいるから」
彼女の指差すほうに視線を向けると確かに隻眼の青年リクスウが寝ている。
「良かった……」
「え? あ、ちょっと」
再び目を閉じたタイコウ。慌てて声をかけるオウメイだったが、彼が穏やかに寝息を立て始めたと知ると、その場にへたり込んだ。
「良かった……」
安堵の息を吐きながらオウメイが呟く。
(なんだかとんでもない休日になっちゃったわね)
その言葉が出る代わりに彼女の口からは溜息が出てきた。
「ひとまず落ち着いたか。火のような高熱と泥酔したような筋肉の弛緩。火酒と呼ばれるこの地域特有の風土病だ。火酒に効く薬草ならすぐ手に入る。それを煎じて飲ませ、安静にしていれば二、三日で完治するだろう。それまではこの村で休む事だな」
穏やかな寝息をたてるリクスウを見ながら医者は言った。
「ありがとうございました、先生」
タイコウはリクスウの容態を診る初老の医師に深々と頭を下げた。
彼もまた上半身こそ起こしているがベッドの上。
医者は憮然とした表情でタイコウを見る。顔を上げたタイコウは彼の視線がやけに痛く感じた。
「その礼は儂に言う前にオウメイに言うのだな。下手をすればお主はこの小僧の身を案じる事も無く死んでおったのだぞ」
「はい?」
聞き覚えの無い人名の登場に思わず間の抜けた返事を返すタイコウ。
彼が目を覚ました時にはこの部屋のベッドの中。ここに運び込まれたのは昨日だというのだから一日近く眠っていたわけだ。目の前にいる人物がカコという名の医者であることは当人から聞いている。ここがメンサイという村の医者の家の一室だということも、このカコ医師から教えてもらった。だが、それ以外はリクスウを診てから話すと会話を打ち切られていた。
「オウメイ……さんですか?」
「左様。この村に住む娘だ。村長の家で下働きをしている。ふむ、粥なら食べられんこともないな。隣の部屋で薬を作っている。目を覚ましたら言ってくれ。ハクタに作らせる」
カコはリクスウを診終えると席を立った。
「あの……それで御代ですけど……」
言いかけたタイコウだったが、カコ医師の視線に言葉を詰まらせた。
「余計な心配をする暇があったら自分の体を案じろ」
言い放つと部屋の扉に向かって歩き出す。
「いや、しかし……」
もう一度呼び止めようとしたタイコウの言葉も医者の視線に止められる。
この医者の角ばった眼鏡の奥、細い目に宿る瞳には人の行動を押し留める何かしらの力がある気がする。
カコ医師は、言葉を詰まらせたまま止まっているタイコウと「リホウちゃん……」などと寝言を言っているリクスウを交互に見比べるとタイコウへと顔を向けた。
「旅の者か?」
「はい?」
「世間話だ」
世間話と言うよりは尋問でもしているような口調だ。
「あ、はい。そうです。首都のコウランまで向かうところで」
「コウランか。首都の状態がどのようなことになっているのか。噂程度には聞いているのだろう?」
「ええ、噂程度には」
「それを知っても、首都に向かうとは物好きな話だな」
カコの抑揚の無い調子からは、感心されているのか呆れられているのか判断しにくい。
「その、首都に化け物が現れていると聞いているからこそ向かうんです。僕はそれを退治できる武器を持っているし、彼はその武器を使って化け物を退治するので」
「神器の所有者と道士という組み合わせか。なら、なおさら養生して早いところ首都に向かわねばならん」
「それで、その養生する御代ですけど。お金なら持って……」
もう一度蒸し返そうとしたが、医者の例の視線に言葉を止められる。
「そうだな。首都で成果を上げて来い。それで礼金にしておく」
「期待していただけるのはありがたいです。でも、その礼金を払える保証も無いし……」
言いかけて、またも視線で止められる。
「クドイ男だな。今はまず休め。無理に動かれて倒れられたとあっては余計な仕事が増えるだけだ」
そう言い残しカコ医師は部屋を出た。入れ違いになるように茶器を乗せた盆を持った少年が部屋の中に入ってくる。
「あっと、君は確か」
目覚めてすぐ少年の名も聞いたと思ったのだが、まだ頭が寝ていたのかタイコウの記憶に彼の名が見つからない。
「ハクタです。カコ先生の下で医術を学ばせてもらっています」
ハクタ少年は改めて名乗ると二人のベッドの間に置かれた小さなテーブルに盆を置く。
「でも、お二人とも無事で何よりです。オウメイさんが二人を担ぎこんできた時は本当に驚きましたよ」
また謎の娘の登場だ。
「オウメイさんって、この村の村長のところで下働きしている人?」
「あれ? ご存知だったんですか?」
「いや、今聞いたところなのだけど」
大の男二人を担いでくるなんて相当の力持ち。下働きというのも薪割とか力仕事専門なのだろうか。
「あの細身のどこにお二人を担ぐ力があるのか、不思議です。それに聞けばお二人は崖から落ちてきたというから二度驚きでしたよ」
どうやら細身らしい。
「谷に落ちてこられた方はまず落ちた時点で亡くなってしまわれます。それが大きな怪我も無し。お二人とも幸運な方です」
ハクタ少年の言葉に今更体が震える。もしも、もう一度同じ事をやっても上手く生き延びる自信は無い。
「でも、タイコウさんは呼吸が止まっていたそうですし、リクスウさんはご病気で動けなかった。そのままなら川を流れていたらお二人とも危険だった。そこにオウメイさんが偶然出くわして助けられた。やはり、お二人は凄い幸運です」
なるほど、カコ医師が言うようにオウメイという女性は命の恩人というわけだ。
「ああ、すみません。怖がらせるような事ばかり言ってしまって……」
無言でハクタの話を聞いているタイコウの様子を怯えと捉えたのか。少年は慌ててタイコウに謝った。
「いや、実際に危ないところだったわけだから……。オウメイさんにはお礼を言わないといけないな」
「その前に安静、ですよ。オウメイさん、仕事が一段落したら様子を見に来ると言っておられましたから、その時でよろしいんじゃないですか? ああ、そうでした。お茶を出そうとしていたんです」
二人の奇跡の生還劇を話すのに夢中で忘れていたらしい。ハクタはテーブルに置かれた盆から急須を取ると湯飲みに茶を注ぐ。何の茶かわからない独特の匂いが湯気と一緒に周囲に広がっていく。
「薬草茶です。どうぞ。落ち着きますし、体にも良いですよ」
「ああ……ありがとう」
タイコウの脳裏に不安がよぎる。本能がこのお茶は危険だと叫んでいる。でも、笑顔でお茶を勧めてくるハクタ少年を見ていると断りにくい。
「お茶、お嫌いですか?」
「え? いや。そんなことはない。うん、好きだよ。いただきます」
僅かに寂しげな顔を見せた少年に対しタイコウは反射的にそう受け答え湯飲みを手にしてしまった。
ここまできてやっぱりイヤとも言いにくい。
(……薬草茶だ。少々味が悪くても体に害は無いはずだ)
覚悟を決めて湯飲みを握り締めると口元へ……。
(臭いなんて気にするな。味なんて気にするな。体に良いはずだ)
近付けるとなおさら目の前の液体が危険に思えてくるが、必死に自分に言い聞かせて湯飲みに口をつけ……。
「ハクタ。ハクタはいるか?」
「あ、はい! ただいま!」
少年の師、カコの声にハクタが部屋のドアに向き返事をすると、タイコウはここぞとばかりに口から湯飲みを離す。
危機を回避し安堵の息をつくタイコウの様子に気付く事も無く、ハクタは慌てた足取りで部屋の戸を開けて出ていった。
熱心に勧めてくれたハクタには悪いが、あの液体を喉に通すのは度胸がいる。
(まあ、また今度ということで……)
部屋の外でカコと何やら話しているハクタ少年に内心謝りつつ、薬草茶の入った湯飲みを盆に戻す。
後先考え無しでありったけの気力を術に使ったせいだろうか。大して疲労していないはずの体だが、ベッドで半身起こしていることさえ嫌がっている。
タイコウが気だるさの残る体を改めてベッドに横たえると、すぐに眠気が襲ってきた。
以前カリュウの町で妖魔の大群に襲われた時に同じような事をしたが、あの時寝込んだのは丸三日間。それを思えば約一日の睡眠で目覚めたのは症状が軽いとも言える。旅の道中、何度と無く術を使い慣れてきたという事なのか。
寝しなのまどろみの中そんな事を考えていたタイコウだったが、やがて考える気力さえ失っていたはずの頭はまどろみを押しのけ、急加速で回転し始める。
彼の眠気を打ち消していった存在。それは……。
「雪割り!」
叫び慌てて跳ね起き、可能な限り体を右へ左へとねじり部屋中を見回す。
リクスウの眠るベッドの向こうに見覚えのある、忘れるはずも無いその刀は立てかけてあった。
それを確認したタイコウは安堵の息とともにもう一度ベッドへ……寝付く前にまたも跳ね起きた。
「魯智!」
雪割りを探していた時と変わらない勢いで部屋を見回してみるものの彼の望む答えは部屋の中には無かった。