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キミと出会えた偶然、もしくは必然に感謝を。

作者: 狐桜 雪

 私が好きになったのは、不登校の彼だった。


 騒がしい教室に馴染めなかったあの日、私は静かで日当たりの良い教室を求めて学校を彷徨い歩いた。そんな中見つけた、1つの教室。

 廊下の端っこに、ひっそりと存在しているそこは元文芸部の部室らしく、今は使われている気配がない。

 静かで、そこだけ異空間のようで。太陽が程よく射して、一番窓際の真ん中の席に座ってみるとぽかぽか暖かかった。窓の前には大きな樹が緑色の葉をたくさん茂らせ、風にそよそよ靡いている。


 気持ち良くうとうとと微睡んでいると、ガラガラと扉の開く音が聞こえた。

 はっとして振り向くと、私服で私をガン見している彼がいた。扉の前から1歩も動かず、まるで石のように固まっている彼に、私は躊躇いがちに声をかけた。

「あ……こんにちは。もしかしてここ、君のテリトリー?」

 しばらく目が合った私たち。少しすると、彼は私の質問に答えることなく窓側の席に座った。

 私と机2つ分離れたところで、ぼーっと外を眺めている。その横顔はどこか寂しそうで、孤独で、独特の雰囲気を漂わせていて。

 今思うと、私はあの時から彼に惹かれていたのだと思う。


 キーンコーンカーンコーン。

 昼休みの終わりを告げるチャイムが遠くで鳴っているのが聞こえた。静かに、ゆっくりと、この不思議な世界を終わらせるかのように。

 この教室を出ると、私はまたあの騒がしい教室に戻らなければならない。そう思うと、ここを出る気がなくなってしまう。この場所から動きたくない。ただここに座って暮れゆく太陽を見ながら、この静かな空間に居たいと思った。


 キーンコーンカーンコーン。

 授業開始のチャイムが遠くで鳴る。

 ここの教室のスピーカー音量はゼロだ。廊下から静かに鳴るチャイムを、私は微動だにせず聞いていた。

「……授業」

「……え?」

 急にどこからか発せられた声に驚き、反射的に聞き返してしまう。この教室には二人きりなので、彼以外ありえないのだけれど。

「授業、サボんの?」

 彼は、やはり頬杖をついたまま、窓の外、遠くをじっと見つめたまま私に聞いた。

「サボる……そんなことを考えた事なかったけど、今はそれも良いなって思ってる」

 私も彼に倣って、遠くを見ながらそう答えた。

「毎日授業受けて、休み時間になるとあの騒がしさに耐えて。自分の居場所なんてわからなくて。毎日毎日同じことの繰り返し。それってつまんないよね」

 私の言葉は口から飛び出ると行き場を失い、この異空間を漂っていった。

「この静かな空間にずっといたいと思ってしまう。ここには私がずっと求めていたような……静かな空間がある。私はあんなに騒がしい空間は望んでいないもの」

 異空間を漂う私の言葉は、少し開け放たれた窓から少しずつ外へ出ていった。そして、はるか彼方、遠く遠く、誰にも手の届かない場所へと昇っていく。


 ガタタ、と椅子をずらして私はん〜っと伸びをした。サボりというのを私もやってみたいけれど、それをするにはまだ少し勇気が足りない。今の私には、一時間まるまるすっぽかすなんてチャレンジャーな事は出来そうにない。

 時計を見ると、まだ授業開始から五分しか経っていなかった。ここでは時間さえゆっくり過ぎていくかのように、時間の流れもゆっくりに感じる。

 一瞬彼に声をかけてから出ようかとも思ったけれど、そこまで仲良くないし知り合ってたかが数分だったので、無言でその場を立ち去ることにした。

 きっと彼は不登校……いや、授業をサボる不良なのだ。私とは無縁の世界の住人。関わらない方が良い人。

 だけど何故か私は、彼にもう一度会いたいと思った。いいや、会えると確信していた。なんの根拠もないけれど、あそこに行くと、必ず彼が居るような気がした。



 退屈な授業、退屈な休み時間。

 昨日、プチ授業サボりの理由として、お腹の調子が悪かったのでトイレにこもっていた、という幼稚なことを言った。

 でも、この高校は進学校であり私も割と真面目な普通の高校生で通っているから、なんら疑問には思われなかった。


 また今日もあそこに行きたい気もしたが、それだと彼に悪い気がして、また今度にしようかと思い直す。きっとあそこは、彼にとって特別で大事な場所だ。私がいた時のあの顔と、私を無視した行動で納得がいく。きっと彼は、自分の空間を誰かに崩されたくはないはずだ。


☆★☆★☆★


 ある日、アイツが突然俺の目の前に現れた。

 俺が昼飯を買いに行っていたたった数分の間に、アイツが俺の場所に入って来た。

 最初、目を疑った。俺以外の奴は、ここを知らないものだと思っていたから。ここは静かで、居心地が良くて、面倒なことを考えなくてすむ俺の憩いの場。

 進学校だかなんだか知らないけれど、結局ここも学校という場所には変わりなかった。頭のいい奴が集う高校ならあるいは、と思って入学してきたのに。

 休み時間に馬鹿騒ぎする奴らはいるし、女子はきゃっきゃとなにやら集まって談笑し始めたり下品に笑ったり。中学となんら変わりのない風景。俺はもっと静かに過ごしたい。

 それなのに、家も学校もうるさいうるさいうるさい……。話しかけられてもしょーもない事で、何が楽しいんだか分からない。

 そのうち俺は教室にいるのにうんざりして行くことをやめた。

 授業なんて聞いていなくともテストで良い点は取れる。自分で勉強する方が断然有意義だ。あんな奴らと一緒に勉強するなんてヘドが出る。

 本当はこんな学校自体来たくはなかった。不登校になってやりたかった。

 だが家にいてもうるさい親と弟が居るだけ。それになにより、俺はこの居心地のいい場所を見つけてしまった。やっと自分の場所を見つけられたような気がしていた。

 それなのに。あの日、突如アイツが現れて。そのせいで全てが変わってしまった……。



「あ……こんにちは。もしかしてここ、君のテリトリー?」

 俺と目が合い、躊躇いがちに尋ねてきた女子。

 急に現れた女子に困惑しながらも、俺は質問に対する答えを考える。


 たしかにここは俺の憩いの場だ。だが、テリトリーかと問われればそれも違う。所詮ここは学校。誰がどこでいつ何をしようが勝手な場所。

 ここが俺のテリトリーだと宣言すれば、きっとこの女子はもう来ないだろう。この場所を守りたいのならテリトリーだと宣言するのが良い。

 だが、それは俗にいうヤンキーとかになってしまうのではないだろうか?

 俺は不良だがヤンキーまでは成り下がってはいないつもりだ。だから俺は無視することに決めた。今は昼休みだし、授業が始まる頃にはきっと彼女も帰るだろうと思ったからだ。あの、うるさい教室へ。


 買ってきた昼飯を食べたかったが、知らない奴の前で食べられるほど俺は他人に心を許していない。することもないので俺はいつもみたいにぼーっと外を眺めていた。

 そよそよと風が木を揺らし小鳥たちが囀っている。俺がちょっと前に、少しだけ開けた窓から心地よい風が入ってくる。

 しばらく外の静けさに浸っていると、キーンコーンカーンコーンと昼休み終わりの時間を告げるチャイムが廊下から聞こえてきた。

 俺は極力ここでは静かに過ごしたいから、前にこの教室のスピーカーの音量はゼロに下げておいた。


 しかし、授業が始まるはずなのに彼女は一向に立ち上がる気配がない。もしかしてコイツも授業をサボる気なのだろうか。

 誰が何をしようと勝手だが、ここにずっといられるのは嫌だった。俺は意を決して言葉を発す。

「……授業」

「……え?」

「授業、サボんの?」

 俺が言葉を発したことが意外だったのか、しばらく沈黙が続く。そして彼女は言った。

「サボる……そんなことを考えた事なかったけど、今はそれも良いなって思ってる」

 ちらっと彼女を見ると、そいつはどこか遠くを見つめていた。

「毎日授業受けて、休み時間になるとあの騒がしさに耐えて。自分の居場所なんてわからなくて。毎日毎日同じことの繰り返し。それってつまんないよね」

 彼女の言葉はどこか宙を彷徨い、消えてしまいそうな儚さをまとっていた。

「この静かな空間にずっといたいと思ってしまう。ここには、私がずっと求めていたような……静かな空間がある。私はあんなに騒がしい空間は望んでいないもの」


 俺は返事に迷った。この言葉は俺に向けられているのだろうか。しかし彼女の言葉は、どこか遠く、空へと発せられているようにも聞こえた。

 彼女も同じだったのだ。教室で居場所を見つけられず、ここみたいな静かな場所を求めていた。

 ただ俺と違うのは、サボるという概念がないこと。サボらずきちんと授業を受けているということだ。

 この進学校に来るだけはあって、やはり授業を受けるという優等生さが身についているようだった。

 ガタタ、と椅子をずらして彼女は立ち上がる。そして、何も言わずここから立ち去っていった。いつもの静寂が戻る。

 いつもの静寂なはずなのに、彼女が来たことにより、少しこの静寂が変わってしまったような気がした。それがなんなのかは分からないけれど。でも俺は、この場所でいつもと変わらないはずの毎日を過ごすだけだ。


☆★☆★☆★


 三日間我慢した、あの神聖で不思議な空間を漂わせる教室に行くのを。

 本当は毎日でも行きたかった。だけどそんなことをしたら彼に嫌われてしまう気がした。しょっちゅう足を運ぶと、彼が何処かへ消えてしまう気がして怖かった。

 どうしてだろう、たかが数分会っただけなのに、彼が頭から離れない。

 今日も彼はあそこに来ているのだろうか、今日も彼はあそこで変わらぬ日常を過ごしているのだろうか。そんなことを考えてしまう。


 ガララ、と扉を開けるとやっぱりそこに彼はいた。

 彼は私を見ると驚いた顔をしたが、すぐに窓の外へと視線を送る。私は前と同じ場所の椅子に座り、ちらっと彼を盗み見る。

 前と同じく、どこか寂しそうで、退屈そうで、孤独で。何となくほっとけないような、独特の雰囲気を漂わせている。

 彼の側にある机を見ると、いちごミルクとあんパンが置いてあった。

 私はどこか冷たい感じを漂わせている彼が、いちごミルクとあんパンを食べるということに何故か興味が湧いた。いつもは誰が何を食べようと、誰が何をしようと全く興味が湧かないのに。これも、この不思議な空間にいるからだろうか。

「……いちごミルク」

 言葉を発すると、この教室全体の空気が一瞬変わったような気がした。話さなければ良かったかなとすぐに後悔する。しかし、一度声に出してしまったものは取り消すことができない。仕方なく続きを言う。

「好きなの?」

 私の声は余韻を持たせながら、静けさの中に溶けてゆく。しばらくの沈黙の後、彼は、

「まぁ」

 と短く返事をした。それ以降、私たちは何も話さなかった。

 何をするでもなく、ただぼーっと外を眺める。わずかに開いた窓の隙間から聞こえる、鳥の囀りと心地よい風の音を聞きながら……。


☆★☆★☆★


 あれから三日間彼女は来なかった。元々ここは俺だけの場所であって欲しかったから、彼女がいないのは嬉しい事だった。

 しかし彼女は、ふとした時に現れる。


 今日の昼飯にと買ったいちごミルクとあんパン。

 俺は甘いものとパンが好きだから、あんパンは最強の食べ物だと思っている。いちごミルクは小さい頃から大好きで、飲み物と言えばいちごミルクだ。

 この高校の自販機にはいちごミルクが売っているので嬉しかった。そこらのスーパーで買うより少し安く手に入るから、それも高校へわざわざくる理由の一つである。

 さぁ食べようと思ったら、いきなり扉の開く音がした。驚いて後ろを見ると、彼女がいた。また来るとは思わなかったから、しばらく顔をガン見してしまった。

 それから食べようと思っていた昼飯を諦め、また前と同じく外を眺めた。


 しばらくすると、静寂の中彼女は、

「……いちごミルク」

 と声を発した。その声は静寂を少しだけ震わせる。

「好きなの?」

 静けさに吸い込まれていく声。

 俺は急にいちごミルクの話をされて、どうすれば良いのか分からなかった。なぜにいちごミルク?

 無視しようかとも思ったが、流石にそれはあからさますぎるのではと思い、短く返事をした。

「まぁ」

 俺の声もまた、静けさの中に消えてゆく。結局その日は、それ以外彼女と話さなかった。


☆★☆★☆★


 ゴールデンウィークでしばらく学校が休みになり、久しぶりの学校。ゴールデンウィーク明けの教室は騒がしさに磨きがかかっており、居心地が更に悪くなっていた。

 別に私は友達が居ないわけじゃない。連絡先だって交換している人はいるし、話す人もいる。ただそれ以上に、私が一人でいるのが好きなだけだ。

天音(あまね)ちゃんはゴールデンウィーク何処かいった?」

 (あかね)がご機嫌な様子で私に聞いてきた。

「え?……んー、おばあちゃんの家に行ったくらいかな」

「へー、そうなんだ!私はねー、ちょっと海外に行ってきたんだよ☆」

 嬉しそうに話す茜の言葉を聞いていた数人の女子が、

「えー、海外!?セレブだねー!」

 と話に加わり、一気に私の周りが騒がしくなる。

「全然セレブじゃないよー、たまたまだもん」

 たまたまで海外に行ける機会なんてそうそうあるわけが無い。私は心の中でそう思った。

「あのねー、私お土産持ってきたんだよ!」

 そう言って茜は鞄の中からどっさりとお菓子と可愛らしい小物を私の机に置く。

「わー、すごぉい!」

 周りの女子のテンションは上がる上がる。

 まるでジェットコースター。一気に頂上までいった彼女らのテンションはもう下がらない。加速する一方だ。恐れを知らない彼女たちの話し声はどんどん大きくなっていく。

 私はただ水平の湖の上を走るボートのように、いつまでもテンションは変わらない。このまま時間が経つと、ペダルを漕ぐのに疲れて失速してしまうだろう。

「好きなの持っていっていいよ〜。あ、天音ちゃんのはコレね!」

 茜が笑顔で大きな袋を私に差し出す。

「ありがとう」

 にこっと笑うことを忘れずに袋を受け取る。おそらく中身はお菓子の詰め合わせ。

「わー、いいなぁ豪華そう!」

 周りの女子は羨ましそうにしているが、私はきっと一番地味なんじゃないかなーと思った。お菓子は小物と違って残らない。消耗品であるから無くなったら最後。それなら消えない小物とかの方が良い気がする。

 きゃっきゃきゃっきゃと私の周りの女子は談笑しながら、机の上に置かれている物を思い思いに手にしていく。茜はにこにこ嬉しそうだ。

 彼女は私が高校に入学してから初めて話した女子だ。彼女からしても私が最初の高校での友達らしく、なにかとよく話しかけてくる。

 彼女のお父さんは有名どころの社長さんで家も裕福だ。私とは無縁の世界の住民。あまりの優雅さに時々反応に困ることがある。

 元々この高校は進学校なので、小さい頃から塾に通ったりとお金をかけて入ってくる裕福な家庭が多い。私は塾に入るお金も気持ちもなかったので、夏期講習や冬期講習でなんとか入れた程度。その高校でも居場所が見つけられないなんて。



 それからいつものように授業を受け昼休み。今日はあの教室に行ってみたいと思ったので行ってみることにした。茜といつものように昼ごはんを食べてあの教室へ足を運ぶ。

 ガララと扉を開けると、そこには彼が居なかった。どこかへ行ってるのだろうと思い、前と同じ場所に座ってぼぉーっと外を眺める。

 しかし、しばらく経っても彼は現れず、ついにチャイムがなった。

 もしかすると、私がこの空間にいることが嫌になったのかもしれない。あの時、私がいちごミルクについて話しかけてしまったから、ここの空間そのものが少し変わってしまったのかもしれない。そう思うと申し訳なくて、彼に謝りたくなってきた。


 それから一週間通ってみたが、一度も彼と会う事はなかった……。


 あれから彼を見かけることなく、もしかしたら本当に不登校になってしまったのかもしれない。

 そう心配しながら例の教室に行くと、彼がいた。彼は私をちらっと見て、またいつものように外を見る。

「いた……」

 思わず漏れてしまった声に、はっとする。

 どうしようかと迷ったが、勇気を出して彼に話しかけることにした。もちろん私の定位置に座ってから。

「あの……一週間みなかったけど、休んでたの?」

 ちらっと彼を見ると、彼は驚いたように私を見ていた。そして顔を逸らして答える。

「うん」

 それで私は、一パーセントぐらい思っていた『彼が真面目に授業を受けている』という可能性はなくなり罪悪感に包まれた。

「それって、私のせい、だったりする……?」

「は?」

 もう一度彼は私の方を驚いた顔で見る。しばらく目が合ったあと、彼はパッと目を逸らし外を見た。

「いや、ここ、最初は君がいたから……きっとここは君の場所なんだろうなって思って。だけど私もここの空間が気に入っちゃって。教室よりも静かで、居心地が良いからつい来ちゃって。前はこの静寂を打ち消すかのように少し話しかけちゃったし。それで、私が君の居心地の良い場所を壊しちゃったかな、って思って。それで不登校になったんだったらって申し訳なくて……その、謝りたくて……」

 途中からこの静寂の中に私の声だけ響く感じがプレッシャーとなり、頭が真っ白になってしまった。何を伝えたいのかごちゃごちゃになり、長くなってしまった。

 彼は、どう受け取っただろう。そもそも、これでうんとか言われたら私はもっとどうすれば良いのか分からない。もうここには来ないからと言って立ち去ればいい?それともごめんと謝ればいい?

 色々な考えが渦巻き心配になっていく中、チャイムが小さく鳴った。休み時間終わりを告げるチャイムだ。


 チャイムが鳴り終わると、彼はポツリと話した。

「……別に、俺が休んだのはそういう理由じゃないから」

 たった一文簡潔に答えた彼。

「そうなの……?」

 その答えに少しホッとした。

 そういう理由じゃないって事は私のせいじゃないって事だ。でも、もしかしたら一割くらいは私のせいなのかもしれないと思い、どうすれば良いのか困ってしまった。

「それに、ここは俺の場所だけど俺の場所じゃない」

「え……?」

 俺の場所だけど、俺の場所じゃない。その意味が分からずきょとんと彼を見つめる。するとその気配を感じ取ったのか、彼は更に続けた。

「ここに誰がいようと俺にはそれを咎める理由がない。お前にとってもここが心地いい場所なら来るも来ないもお前の勝手だ」

 冷たく放たれたように聞こえたその言葉は、何故か私の心に温かく響いた。

 つまり、それは私がここに来ようが来まいが彼には問題ないと言う事だ。もちろん多少は嫌な気持ちにさせるかもしれないが、それでも良いと言ってくれた。それなら、私は迷わずここへ来る。

「……ありがとう。私もここ気に入ってたから出禁にならなくて良かった」

「……ん」

 彼は頬杖をついてどこか遠くを見つめながら言葉を返す。

 私は今日、彼の許可のもと、新しい学校での居場所を見つけた。これから私は彼と仲良くなれるだろうか。少しずつでも、彼のことが知りたいと思った。同じ秘密の場所を共有するものどうし。


☆★☆★☆★


 ゴールデンウィークが終わり、俺は一週間程学校を休んだ。理由は忌引きと風邪。慣れない親戚との話やドタバタしていた疲れも出たのか、久しぶりに風邪を引いた。しかもその風邪は以外としつこくて、熱が下がった後も怠さと咳とが止まらなかった。

 そんな訳で学校にも連絡を入れられて一週間の休み。俺はこんなに風邪を長引かせるのは初めてだった。しかも家は騒がしくて、あの空間が恋しくて仕方がない。

 ようやくの思いで学校に行け、俺はあの教室へと久しぶりに入ることができた。

 六月には定期考査があるらしい。俺は授業には出ていないが定期考査ぐらいはちゃんと受けておかないといけない。それで変な点数でも取ったら親にも先生にも後々面倒な事を言われそうだ。そうならないためにも、俺はここでも勉強する必要がありそうだ。

 基本家では部屋にこもってゲームか勉強をしている。勉強は自分の好きなペースでできる分気楽だ。ただ定期考査の範囲に沿っているのかは分からない。できれば範囲は俺の勉強済みの所が良いのだが……。


 しばらく考えていると、ガララと扉の開く音がした。おおよそまた彼女が来たのだろうと思い振り向くと、やはり彼女だった。

 三回目、か。一回目から約……何日経っただろう。分からないが、三回目にして俺も彼女の顔を覚えたし、なんとなく違和感を覚えず程よく無視できるようになっていた。いないものと思えば良いのだ。


「あの……一週間みなかったけど、休んでたの?」

 いきなりの言葉に驚いて俺は彼女を見る。

 一週間、というなら彼女は俺がいない間毎日来ていたというのだろうか。

 ざわざわ、と風の音がいっそう強くなった気がして、窓の外を見る。窓の外を見ながら返事をすべきか悩んだが、結局無視できずに「うん」と返事をした。

 彼女が一週間続けてこの教室にきて、しかも俺を探していたかのような口ぶりに少し疑問を抱いたからだ。彼女はこの空間を求めているのであって、俺はいない方がいいはずだ。

「それって、私のせい、だったりする……?」

「は?」

 思いがけない言葉に、彼女をガン見してしまう。すると彼女は、少しびくついたような顔をした。

 もしかしたら俺はあまりにも怖い顔をしていたのかもしれない。自分の顔が分からないとは不便な事だ。出来ることなら自分がどんな顔をしているのか他者目線から見てみたいものだ。

 気を取りなおして俺は窓の外をもう一度見る。今日は、雲一つない快晴だった。こんな快晴でも、俺は変わらずここに来て。一体何が楽しいのだろうか。学校の奴隷みたいだ。


「いや、ここ、最初は君がいたから……きっとここは君の場所なんだろうなって思って。だけど私もここの空間が気に入っちゃって。教室よりも静かで、居心地が良いからつい来ちゃって。前はこの静寂を打ち消すかのように少し話しかけちゃったし。それで、私が君の居心地の良い場所を壊しちゃったかな、って思って。それで不登校になったんだったら申し訳なくて……その、謝りたくて……」

 途中から早口になったり、声が小さくなったり、ゆっくりになったり。彼女はたくさんの言葉を俺に向けて放った。最初の何処か遠くへ放たれた言葉ではなく、今回の言葉はきちんと俺に向けられたものだとはっきり分かった。

 でも、意外だった。まさか俺が休んだのは自分のせいだと思っていたなんて。確かに誰か知らない人が来る事は嫌な事だし、若干だがここの空気も変わったような気がした。だが一人でいても彼女が増えても、静寂さはあまり変わらない。ただ二人して外を眺めているだけなのだから。


 キーンコーンカーンコーン。

 遠くでチャイムが鳴る。この控えめなチャイムを聞くのも久しぶりだな。

「……別に、俺が休んだのはそういう理由じゃないから」

 変な誤解を生みたく無かったから正直に答えた。自分の場所に他人が入ってきたから不登校になりました、なんて幼稚な考えを持つ人には思われたくない。

「そうなの……?」

 それでもやや疑問を含んだ言葉が返ってきたので、もう少し付け加えておくことにした。俺は幼稚な考えを持つ残念な高校生だとは思われたくない。少なくとも、教室で馬鹿騒ぎしてるような奴ら以下のレッテルを貼られるのは嫌だ。

「それに、ここは俺の場所だけど俺の場所じゃない」

 数拍おいて、

「え……?」

 とまた疑問符で終わる返事をされた。意味が分からない、の"え"だろうか。


 俺はあまり人と話したくない。その理由の一つが、こうやって自分の言いたいことをうまく言葉で表せないし、こうやって相手に疑問符を投げかけられて、相手が何を分からなかったのか等を考えなきゃいけないことだ。それが俺には面倒でたまらない。

「ここに誰がいようと俺にはそれを咎める理由がない。お前にとってもここが心地いい場所なら来るも来ないもお前の勝手だ」

 頬杖をつきながら、なるべく分かりやすく自分の中で付け足した言葉を相手に送る。すぐに疑問符が返ってこないということは、通じたということだろう。そう思いたい。

 そもそも俺は、たかが一人増えようともこの居心地の良い場所が大きく壊されなければ別に良いのだ。多少の変化はどこにでもつきものだ。人も、関係も、場所も。永遠に変化しないものなんてない。

「……ありがとう。私もここ気に入ってたから出禁にならなくて良かった」

 少しだけ明るみを帯びたその声に、俺も、

「ん……」

 と返す。外ではそよそよと風が吹いている。ぴーちくぱーちく囀りながら、急に翼を広げて鳥が飛び立つ。

 バタタタタ……この鳥のように、俺もいつか飛び立てる日が来るのだろうか。曇りのない大空へ、飛び立てる日が。


☆★☆★☆★


 私はあれから毎日のように教室に通った。

 時には静かに外を見て、時には勉強して、時には彼と軽く言葉を交わしたりと、思い思いの時間を過ごした。

 いつの間にか、私は昼休みや放課後にあの教室に行くのが日課になっていた。そしてその日課の中に必ず彼がいた。名前もクラスも知らない、授業に出ていない彼。でも、私と同じ一年生なことは分かる。一年生の上履きには青色の線が入っているから。


 彼は、いつも孤独さと寂しさを漂わせていた。そんな彼と不思議な時間を共有していくうちに、とある疑問が生じた。それは、出席日数。私は彼と出会ってから、授業に数分……もしくは数十分遅れる事は多くなっても、休んだ事はまだない。だんだん周りの視線を感じるようになったのは、きっと私が授業を少しサボり気味になってきたことを危惧してのことだろう。茜も何度か私に尋ねてきた。もちろんこの場所と彼のことは話していない。

 でも彼は多分ずっと休んでいる。定期考査には出席したらしい。赤点どころか全教科九十点以上のありえない点数を叩き出すほどの天才ぶり。授業に出ていなくてもそんなに良い点数を取れる彼にとって、授業は退屈なものなのだろう。

 でも、点数が良いからといって留年にならない訳ではない。ここは進学校である。成績がよくても、出席日数が足りなければ留年。悪くて退学。確か、おおよそ全教科二ヶ月分の授業数をサボると留年だ。

 私と彼が出会ってから約二ヶ月。いつから彼が授業に出ていないのかは知らないけど、流石にこれ以上休むとやばい気がする。彼とはこれからも一緒にいたいし、もっと仲良くなりたい。そのためにも彼は必ず授業に出なくてはならない。

 しかし私と彼は違うクラスで、彼が何組かも知らない。まして彼の友達関係や彼に対するクラスの思いも知らない。だから無理に授業に出ろと誘っても逆効果で、今まで築き上げたこの関係も一瞬で崩壊しかねない。

 最近になってようやく心を開きかけてくれている気がしているのに。この僅かな隙間を埋めてはならない。


 私は考えに考えたが、それほど頭も良くないので良い案が思いつかなかった。何か、彼を授業に出させるきっかけはないのだろうか。


☆★☆★☆★


「ねぇ、君って授業出ないの?」

 急に彼女が俺に聞いてきた。驚いてちらっと彼女を見ると、彼女も俺と同じように俺の方を見ていた。

 最近、俺は彼女にペースを乱されているような気がする。

「なんで?」

 彼女がここに通うようになり、言葉を交わすようになり。彼女は、教室にいる女子とも男子とも違うなって思った。雰囲気とか、考えていることとか。どことなく俺と似ているような気がした。

「いや、出席日数とかさ。大丈夫なのかなって思って。せっかくここで出会ったんだし、一緒に進級したいじゃん。もしかしたら同じクラスになれるかもだし」

 彼女の声は透き通っていて、俺の心の中にすーっと入っていく。

「進級、ねー……」

 俺は別に留年したいとか退学したいとか、出席日数とか何も考えたくはなかった。ただ何も考えず、好きなだけここにいて、時間を過ごしていたい。

 ただそれは我儘というもので、実際にはできないことだ。永遠なんてない。物事に終わりはつきものだ。


「授業、嫌なの?」

 今日の時間は特別ゆっくりに感じる。

「……俺のペースに合わない。それに、あの教室にいたくない」

 彼女は、俺を我儘だと思うだろうか。でも、彼女ならなんだか分かってくれるような気もした。

 俺は彼女と一緒にいるのが苦ではない。むしろ、一人じゃないんだと感じられてほっとしていたりもする。ただ、彼女の方はどうなんだろう。考えたことはなかったが、彼女は俺のことをどう思っているんだろうか。話しかけてくるあたり、嫌いに思われてはいないはずだけれど。

「……そっか」

 訪れる沈黙。俺はどうすることもなく、ただただ外を見る。

「じゃあ、さ。これから一回授業受けてみよっか」

「は?」

 爆弾発言に驚いて俺はまた彼女を凝視する。彼女の目は、まっすぐ俺を捉えていた。

「だから、一回授業受けてみるの。もしかしたら、そこまで嫌じゃないかもしれないし」

「いや、教科書とか無いし」

 あまりの急展開に脳が追いつかない。

「大丈夫、私が貸すから。何組?」

「え、A……」

「ん、じゃあ行こっか!はいはい立ってー」

 俺は無理矢理立たされ、彼女に引っ張られながら教室を後にする。

 ……え、今何が起こってる?

 気がつくと俺は彼女に、

「頑張ろーね!」

 と言われていた。はっとした頃にはもう遅く、俺は自分の席だと思われる場所に座り、授業を受けていた。周りの視線が痛かった。


☆★☆★☆★


「あ、きた!どうだった?数学の授業は」

 彼は教室に入ってくるなり、私を少し睨みながら教科書とノートを押し付けるようにして返してきた。

「……周りの視線が痛かった」

 少し不機嫌そうに答え、ドスッと椅子に腰掛ける彼。私はノートをパラパラとめくり、彼の書いた授業ノートの部分を切り取って彼に渡した。

「その割にはちゃんと板書したんだね」

「……」

 紙を受け取り小さく畳んでポケットへとしまう彼は、とても不機嫌そうに見えたけれど、私に対しての怒りはないように思えた。思えただけだから、本当はあったのかもしれないけれど。

「私も大変だったんだからね。A組の前通って授業が数学だと確認してから自分の教室に戻り、授業中にも関わらず数学の教科書とかを用意して。一旦教室出て行ってからA組に行って、頭のフリーズしてる君を席に座らせて机の上に教科書やらノートやらを準備して一声かけて退場。視線が痛かったって言うけど、私だってすっごく注目されたんだから!自分の教室に戻った時のあの周りの視線ったらないよー」

 はぁー、とため息をついて机に突っ伏す。

「だったらなんでそんなことしたんだよ」

 不機嫌が直らない彼は、私の方を睨みながら聞いてきた。

「そりゃあ君と一緒に進級したいからに決まってるじゃん」

 私は彼の目を捉えて言葉を続ける。

「君は頭が良いから授業なんて退屈かもしれないけれど。でも、頭が良いからって特別扱いされるわけじゃないんだよ?逃げて良いなんてことはないの。人間は誰しも嫌なことにぶつかるんだよ、きっと。でも、それを我慢してやり抜くか諦めるかで人間の価値が決まるんだと私は思う。少なくとも私は、君の価値がこのまま高くあって欲しい。せっかくそんなに魅力的なのにもったいないよ。私は君に会えて良かったと思ってるの。私には君が必要なんだよ」

 言ってから、少し言葉のチョイスを間違ったかもと恥ずかしくなった。だって、君が必要だなんてこんなの告白みたいじゃない。確かに私は彼が好きだけど……。まだお互いの事も、名前すら分からないのに。


 ちょっと踏み込み過ぎたかな、と反省した。でも、言ってしまったのだからしょうがない。私は目を逸らしたかったけれど、逸らすのは違うと思って目を見ながら話を続ける。

「でも、結局それを決めるのは君自身だよ。私は君の選択にどうこう言うつもりはない。ないけど……できれば一緒に授業を受けたいな。周りの視線に最初は馴染めないと思うけど……でも、君にはここがあるし、私もいる。君にとって私がどういう存在なのかは分からないけど、私は君の味方だからね。私は、君と出会えて良かったと思ってるんだから」

 我ながら何恥ずかしいことをつらつらと述べているんだと思った。彼は、どういう思いでこの言葉を受け取っただろうか。分からないけれど、少しでも彼の心に響いてくれたなら。


 暫く沈黙が続く。静かで、長い長い時間。今までで一番長いんじゃないかっていうぐらいの沈黙の後、チャイムが控えめになった。

 今日のお昼ご飯は、食べ損ねた。


☆★☆★☆★


 俺がいつもの教室に戻ると、ぱっとこっちを振り返って元気よく、

「あ、きた!どうだった?数学の授業は」

 と彼女が聞いてきた。無理矢理授業に出させておいて、謝罪の一つもなしか。

「……周りの視線が痛かった」

 ノートと教科書を押し付け、自分の定位置にドスっと腰掛ける。

 俺が久しぶりに授業に出たものだから、周りの奴らはチラチラと見てくるわ先生も俺の方を驚いた目で見つめるわで本当に居心地が悪かった。おまけに今日習った数字の範囲は、俺がずっと前に勉強を終わらせたところだった。あそこの範囲はもう完璧だ。板書するのさえ面倒だった。

「その割にはちゃんと板書したんだね」

 パラパラとノートを捲りながら俺の板書部分を見つけ、器用にそこだけ切り取って俺に渡してくる。それをテキトーに小さく畳みポケットへ突っ込んだ。

「私も大変だったんだからね。A組の前通って授業が数学だと確認してから自分の教室に戻り、授業中にも関わらず数学の教科書とかを用意して。一旦教室出て行ってからA組に行って、頭のフリーズしてる君を席に座らせて机の上に教科書やらノートやらを準備して一声かけて退場。視線が痛かったって言うけど、私だってすっごく注目されたんだから!自分の教室に戻った時のあの周りの視線ったらないよー」

 わざとらしくため息をつきながら机に突っ伏す彼女。

「だったらなんでそんなことしたんだよ」

 そんなに面倒で嫌で目立ちたくないなら俺に構わなければ良い。俺に無理矢理授業を受けさせなければ良い。そうしたら俺だってあんな目に遭うことはないし、嫌な思いをすることだってない。


「そりゃあ君と一緒に進級したいからに決まってるじゃん」

 当たり前でしょ?というように俺の目を見ながら話す彼女。

「君は頭が良いから授業なんて退屈かもしれないけれど。でも、頭が良いからって特別扱いされるわけじゃないんだよ?逃げて良いなんてことはないの。人間は誰しも嫌なことにぶつかるんだよ、きっと。でも、それを我慢してやり抜くか諦めるかで人間の価値が決まるんだと私は思うんだ。少なくとも私は、君の価値がこのまま高くあって欲しい。せっかくそんなに魅力的なのにもったいないよ。私は君に会えて良かったと思ってるの。私には君が必要なんだよ」

 俺の目を真っ直ぐ見つめながら、そんな恥ずかしいことを平気で言ってのける。俺は彼女の目から目が離せなくなった。

「でも、結局それを決めるのは君自身だよ。私は君の選択にどうこう言うつもりはない。ないけど……できれば一緒に授業を受けたいな。周りの視線に最初は馴染めないと思うけど……でも、君にはここがあるし、私もいる。君にとって私がどういう存在なのかは分からないけど、私は君の味方だからね。私は、君と出会えて良かったと思ってるんだから」

 彼女の言葉が余韻となって俺の心の中に溶けていく。


 君が必要。そんなこと、久しぶりに言われた。

 俺の親は俺が授業をサボっていることを知っている。先生から連絡がくるからだ。

 俺と顔を合わせる度に何故授業に出ない、サボりなんて恥ずかしいことよく出来るわね、進学校に入れてお父さんたちも誇りに思ってたのに何故裏切るんだ、と毎回うるさく言ってくる。しまいには弟にも口うるさくなって、お兄ちゃんみたいになっちゃダメだとかお前はお父さんたちを裏切らないでくれよだとか。もう親は俺を裏切り者だと決めつけている。

 定期考査で高得点を取り、学年順位は一位を取った。これで授業など行かなくても良い点数は取れるんだ、独学でここまで出来るんだと証明できると思っていた。なのに親は、不登校の癖して一位取るなんて頑張って学校行っている子に申し訳ないわなんて言ってきた。

 それで俺は悟った。ああ、この親は俺にいてほしくないんだと。俺が何をしようと、もうこの人たちにとっては目障りでしかないのだと。

 だから素直に嬉しかった。必要だと、味方だと言ってくれて嬉しかった。彼女は親と違って俺を必要としてくれている。ちゃんと向き合って、俺のダメなところを指摘し正しい方へ導こうとしてくれている。何もかも否定して飽きれ、諦め。俺にマイナスの言葉しか言わなくなった親とは違う。俺のことで、悩んでくれていた。


 彼女の真っ直ぐで温かい言葉が、俺の凍った何かを溶かしてくれたような気がした。そして俺は決心した。俺を必要としてくれている彼女のためにも、嫌な授業も少しずつ出席していこうと。退屈で仕方がないかもしれないが、一緒に進級できるよう努力しようと思った。

 キーンコーンカーンコーン。

 遠くでチャイムがなる。ゆっくりと力強くなるそのチャイムは、聴いていて心地良かった。


☆★☆★☆★


 無理矢理彼を授業に出席させてから数日。

 なんとあれから度々授業に出るようになってくれた。私はとても嬉しかった。もしかしたら自分の言葉が、彼に何か影響を与えられたのかもしれないと思えて誇らしくなった。

 でもその反面、私は少しクラスメイトから避けられるようになった。授業を度々遅刻するようになっても、話しかけてくれる子はいた。茜も、

「なぁに、不良になったの〜?」

 なんて笑いながら話しかけてきてた。それなのに、私が『授業を休んでいるくせにテストでは学年一位を取る嫌なやつ』と仲良しだということが分かるとあからさまに私を避けるようになった。茜も近付かなくなった。

 別に元から教室に居場所がないと思っていた私にとって、一人でいることにはなんら支障はない。話す人がいなくても構わない。一緒に話す人がいても、それは表面上楽しくしているだけで心からは通じ合えないのだと知っているから。私を理解してくれる人なんていやしない。

 そう思って小さい時から今まで過ごしてきた。……過ごしてきたはずなのに。何故だろう。こうあからさまに避けられると心がギュッと痛くなる。周りの視線が怖くなる。

 前は平気だったのに、いつの間にか一人でいると落ち着かなくなってしまった。今みんなは私のことどう思ってる?ぼっちだーとか思ってる?笑われてる?見下されてる?怖い、怖い、怖い……。

 急に周りの視線が怖くなり、人に話しかけられなくなった。久しぶりに話しかけられても上手く答えることが出来なくなった。そのせいでまたクラスメイトは私から遠ざかっていく。

 私は、彼がいる教室以外、本当に居場所がなくなった。心を落ち着けられる場所が、なくなった。このままじゃ、進級する前に私の心がやられそう。……早く。早くあの教室へ行きたい。彼と話したい。彼に会いたい。もう、この教室にいたくないよ……。


☆★☆★☆★


 俺は少しだけ真面目になった。彼女と進級するために、授業を受けるようになった。もちろんあの教室には居たくないけど、俺は彼女に必要とされてると思うと頑張れた。嫌な授業も、嫌な視線も、嫌味だってどうってことない。彼女がついているというだけで、何でも出来るような気がしてくる。

 ただ、最近彼女はどこか悲しい顔をするようになった。どうしてだか分からないし、聞いても大丈夫だと返されるだけ。何があったのかは分からないけれど、俺は彼女の力になりたい。そう思った。どうしたら悲しい顔を取り除けるだろうか。俺は、どうすれば良いのだろうか。

 こういう時、俺は今まで人と関わらないようにしていたことが嫌になってくる。俺にもっとコミュ力があれば、もっと上手く彼女と話せたら。もっと気が利けたら。

 何もできない自分がもどかしくなってくる。名前も知らない彼女のことを、もっと知りたいと思ってしまう。もっと彼女と仲良くなりたいと思う。どうしてだろう。いつから俺は、こんなに彼女のことを考えるようになったんだろう。


☆★☆★☆★


 キーンコーンカーンコーン。

 授業終わりのチャイムが鳴る。私は授業をサボった。


 どうしてもあの教室にいられなくなって、苦しくなって、ここへ逃げてきた。今じゃ彼も授業を受けるようになったから、ここは静か。誰もいない。

 もう昼休みになったから、きっと彼はご飯を食べにやってくる。私もお弁当は授業をサボる際に持ってきていた。周りからの冷たい視線、ひそひそと私のことを噂する声。

 あぁ、もう嫌だ。なんでこんな学校に来なければならない。どうして。なんでこんな目に遭わなきゃならないの?

 彼は多少のやっかみや嫌味を言われたりするけれど、それなりに上手くやっているようだった。何人か話し相手も出来たらしい。彼は私と違って頭が良くて、運動も出来て、カッコよくて。彼の良さが広まれば、きっと人気者になるんだろうな……。私とは全然違う。


 ガラララ。ドアの開く音がして、私はゆっくり振り返る。すると思った通り、彼がお弁当を手に持って教室に入ってきた。

「やほー」

 私が手を挙げると彼も手を挙げ返してくれた。いつもの席に座り、彼はお弁当を広げ始める。私もお弁当を広げながら彼に話しかける。

「最近君は真面目くんになったねー。頭も良くて運動も出来てカッコよくて、もうそろそろクラスメイトにモテ始めるんじゃない?」

 わざと冗談っぽく言ってみる。

「そんなわけ。みんな俺の悪口しか言わねーよ」

 ぶっきらぼうに答える彼。

「あははー、じゃあみんなはまだ君を知らないってことだね。教室で話しかけるなオーラでも出してるんじゃないの?」

 訪れる沈黙。

 あー、私何やってんだろ。話題間違えてるし空気もおかしくなった。最近は彼とも上手くお話できないのか。


 上っ面だけの会話、嘘っぽい会話。気持ちが入ってない、その場凌ぎの会話。全部、彼と私の嫌いな会話。それなのに、いつしか私はそんな会話をするようになっていた。家でも外でも。全ては彼と出会って……んーん、違う。彼が真面目くんになってからだ。ちゃんと授業に出て、彼は色々と変わっていく。なのに私は前より酷くなった。なんでだろ。周りの人とそれなりに会話できていた自分が分からない。何がどう間違っていた?そんなのもう分からない。考えるのも億劫だ。もう、色々面倒くさい。歩くのも、話すのも、考えるのも。もう嫌だ。


「大丈夫か?」

 急にかけられた声に驚き、顔を上げると彼がじっと私を見ていた。

「だ、大丈夫ってなにが?」

 少し声が震える。

「なんか辛そうだったから」

 そんな彼の言葉に、色んな感情が渦巻く。

 辛そう?辛そう、私が?そりゃあそうでしょうよ。もう押し潰されそうで、苦しいんだから。


 彼の心配している瞳に耐えられなくなって、目を逸らす。

「いつからか、君はそんな目をするようになったよね」

 私から発せられた声は、思ったよりも冷たかった。

「は?」

「最初はどこか孤独を漂わせていた、悲しい目をしていた。なのにいつからか君は、そんな優しい目をするようになったよね。孤独が君の目からいなくなった」

「なん、の、話?」

 区切りながら言葉を発する彼からは戸惑いが感じられる。それが私の中に黒い感情を生み出していく。

「あははー、なんだろーね。私もう疲れちゃった。周りの視線とか嫌味とかにもう疲れちゃったよ。もう何もしたくない。いつからこんなにダメになったんだろーね私は。こんな私は君と話していて良い訳がない」

 どんどん早口になり、言葉が勝手に口からどんどん飛び出す。今まで溜まっていた感情を抑えきれなくなって、全て私の中から飛び出していく。

「お、おい……」

 彼はお弁当を食べる手を止め、私の方を見る。

「うるさいなぁ!私はもう疲れたんだよっ!君と一緒にいればいるほど、私はどんどん孤独になっていく。君はもうクラスでやっていけるでしょう!?それなりに話し相手もできて、楽しそうじゃない!!」

 私は感情が高ぶって、キッと彼を睨みながら大声を出す。

「それは違う!俺は……」

「違わないよっ!!だって、君は楽しそうに話してるんだもん。自分では気付かないかもしれないけれど、楽しそうに君は話しているんだよ。前に、クラスメイトと一緒に授業を受けるのも、慣れたら苦じゃないって言ってたよね?だったらそーゆーことなんだよ!君はもう私が必要じゃないし、私は君に必要とされるほどの人じゃなくなった。駄目なやつになった。クラスメイトに無視されて人とも上手く話せなくなって家でもイライラが募って。もう精神がおかしくなりそうだよ、押し潰されそうなんだよ。だから……もう、辞める」

 辞める。その言葉は唐突に私の口から放たれ、ものすごい速さで全身を駆け巡った。

「は……?」

「もう学校辞めるから。ここにもこない。じゃーね」

「ちょ、まっ……」

「さようなら」

 私はお弁当を持って教室を飛び出す。嫌なクラスメイトがいる教室に入ってリュックを掴んで走る。


 ごめん、ごめん、ごめん……。

 私は感情を抑えきれなくなって、彼に酷いことを言った。ほんとはあんなこと言うつもりなかった。彼は悪くないのに。悪いのは、全部自分なのに……。

 あぁ、サイテーだ。飛び出してしまった言葉は、もう取り消せない。もう、きっと彼と楽しく話せる日はこない。自分でその関係を終わらせたんだ。なんて自分は情け無い奴なんだ。自分で一緒に進級しようと言ったくせに、約束を破るなんて。あぁ、なんて私はサイテーなんだ……。


☆★☆★☆★


 あの日から、彼女は学校に来なくなった。

 何もかもが急で、言われた言葉がショックで。そして、あんな悲しみに囚われている彼女を救えない自分に腹が立って。どうすれば良いか分からなくなった。

 あの後、俺は彼女の事をさりげなく、良く話すクラスメイトに聞いてみた。そこで初めて、彼女がクラスメイトに無視されたりしていることを知った。

 俺は何も知らなかった。いや、もしかしたら心の何処かでは分かっていたのかもしれない。でも、俺が彼女と仲良くなりたくて、他の人とは仲良くして欲しくなくて、気付かないフリをしていたのかもしれない。

 どっちにしろサイテーだ。俺は彼女に救って貰ったのに。彼女は一人で悩んで苦しんでいた。俺は、本当に何も出来ないのだろうか。このままだと、彼女は一生学校に来ない気がする。もう二度と彼女に会えない気がする。そうなったら嫌だ。でも、俺に何が出来る?会っても彼女を傷付けるだけかもしれない。だったらそっとしておいた方が……。


「おい、(あお)!お前F組の不登校になったやつと仲良いんだろ?」

 急に声をかけられてはっとする。振り向くと、最近良く話す湊人(みなと)だった。

「だったら何だよ」

「お前、このままでいいの?」

「は?」

 キッと目を睨みつけると、湊人は肩をすくめて、

「おお怖い、不良に睨みつけられると寿命が縮みそうだ〜」

 と冗談を言った。でも急に真面目な顔に戻る。

「彼女、お前にとって大切な人なんじゃねーの?本当にもう会えなくてもいいのか?」

「……んなこと言ったって。アイツは俺を拒否ったんだ。行ったところで傷付けるだけだ」

 目を逸らして答える。


 湊人は正義感が強く、イジメとかそういうのは一切許さないヤツだ。だから俺が授業に出席するようになっても、周りの人みたいに俺を邪魔者扱いせず話しかけてくれた。俺がこの教室で居場所を確保できたのも、湊人のおかげだ。

「相手が傷付くとか分かんねーだろ!お前と彼女がどういう関係かは知らないけどさ。でも、お前も言いたいことあるんじゃねーの?言いたいことあるなら正直に言え。じゃないと後悔すっぞ!やらないで後悔するより、やって後悔する方が断然良い!」

 真っ直ぐ俺を見ながら言葉をぶつけてくる湊人。この瞳から目が逸らせなくなる。なんだかコイツは、彼女に似ている。

「でも、学校に来てないし。家も連絡先も知らないのに会える訳ねーよ」

「それはお前の言い訳だろ?お前は結局自分が傷付くのが嫌なだけだ。逃げてていいことなんて何もない!彼女に会える手段なんていくらでもある!お前は何がしたいんだ?自分の心に従えっ!」

 バンッと俺の肩を叩く。俺の、心に……。

「俺は……もう一度アイツと会って話がしたい。アイツがいないのは嫌だ」

 その言葉を聞くと、湊人はにいっと笑って、

「良く言った!」

 と俺に紙を渡しながら言った。

「これは彼女の住所だ。同じ中学で仲の良いやつに聞いてきた」

「え……。なんで?」

 俺は紙を受け取りながらまじまじと湊人を見つめる。

「お前が元気ないのは嫌だからさ。俺はお前の友達だろ?友達が困ってたら助けるのは当たり前だ!」

 ドンッと胸を叩いて誇らし気に言い張る姿は、輝いて見えた。湊人が人気なのも分かる気がする。

「ありがとう、恩にきる」

「おう!」

 俺はリュックを背負って住所をスマホで検索する。場所を確認し、道を覚える。しっかり道順を頭に入れてから湊人に、

「ちょっと言ってくる」

 と言い教室を飛び出した。着くのは十二時頃だろうか。彼女が家にいますように……。

 俺は祈りながら自転車を漕いだ。


☆★☆★☆★


 私が不登校になって何日経つかな。

 最初は一日だけ休むつもりだった。けれど、一度休んでしまうともうあの教室へ行く気になれなくて。それに、唯一の光だった彼に酷いことを言ってしまい、もう二度と話せるチャンスはないと思うと。学校へ行く理由が完全になくなったと思った。

 私は家で勉強する気にもなれず、趣味に時間を費やしていた。家族は急に私が不登校になってしまったことに戸惑い、どうすればいいのか分からないでいる。そのまま普通にしていればいいのに。


 ……学校へ行かないの?勉強ぐらいしなさい。なんで不登校になったの?悩みでもあるの?

 顔を合わせる度にそんな事を言われる。毎日毎日同じことをうんざりするぐらい聞く。そんなにうるさく言われたら、学校に行こうって気にもならない。

 あぁ、きっとこのまま私は学校に行かず、退学になるんだろうな。別にもうどうでも良いけど。


 ピンポォン

 いきなり鳴ったチャイムの音に驚き、ベッドから起き上がる。今日は親が仕事だから、家には私一人。時間を見ると十二時だった。外に出る予定もないのでパジャマ姿だった私は居留守を決めた。

 ピンポォン ピンポォン

 しつこいなぁ、宅配便かなんか?

 私は面倒だったけれど、とりあえず一階へ降りてモニターを見る。すると、

「え?」

 と驚きすぎて声が出てしまった。家の前にいるのは、宅配便でもご近所さんでもなく、彼だった。

 な、なんで私の家の場所知ってるの……?

 ピンポォン

 モニターに、彼がきょろきょろと周りを見ながらも、何回もチャイムを押す姿が映っている。

 なんで?今日学校じゃなかったっけ?まさか休んだ?

 ピンポォン

 居留守を決め込んだ私も、なかなか帰らない彼に痺れを切らしてつい通話ボタンを押してしまった。

「……はい」

 私の声が聞こえると、彼はホッとしたような顔をした。

「えっと……俺、鵜飼(うかい)天音さんの知り合いの楠木(くすのき)蒼ですけど……」

「……私の名前知ってるんだ」

 つい口に出てしまった。


 私は彼の名前を知らなかった。だから彼が私の名前と家の場所を知ってることにとても驚いた。それと同時に、少しだけ嬉しくもなった。

「あ、うん。同じクラスメイトに聞いて……」

「ふぅん。ちょっと待って、今開けるよ玄関」

 私は通話をオフにして玄関へと行く。ガチャリとドアを開けると、彼がすぐ目の前にいた。

「……どーぞ」

「ん」

 彼が玄関に入った後も、しばらく私たちは無言だった。

 何を話せば良いのか分からなくて、どうすれば良いのか分からなくて。彼を見ていられなくて下を向くと、私がまだモコモコのパジャマ姿だということに気づいた。そして、寝起きだから髪もぴょんぴょん跳ねていることにも。私は恥ずかしくなって、髪をくるくる指に巻き付かせながら、彼に、

「来るなら言ってよ」

 と呟いた。

「ごめん、衝動的に来たから」

 彼も頭をかきながら答える。


 久しぶりの彼との会話。あんなに酷いことを言ったのに、わざわざ訪ねて来てくれたことが嬉しかった。また会えると思わなかったから嬉しかった。

「とりあえず上がる?私パジャマだし、着替えてくるよ」

 提案すると彼もこくりと頷いたので、私は彼をリビングへと案内した。お茶を出してから二階の自分の部屋で着替えを済ませる。

 パジャマ以外の服、久しぶりに着たな。外にも出ないから一日中パジャマで良かったし。お気に入りの白パーカーも久しぶりに着たかも。せっかく服着たし、彼が帰ったら本屋にでも行こうかな……。

 そんなことを考えながら階段を下りる。リビングに入ると、彼はお行儀良くお茶を飲んでいた。

「おまたせー」

 ちらっと私の方を見た後、お茶を飲む。

 彼が私の家にいる違和感がすごい。私も自分のお茶を入れて、彼の前の椅子に座る。お茶をぐいっと一気飲みしてから、

「それで?」

 と会話を始める。

「どうして君は私の家を知ってるの?教えた覚えないんだけど……」

 彼はポケットから紙を取り出し、私に見せながら言う。

「俺のクラスメイトの湊人が教えてくれた。そいつ、お前の友達に家の場所聞いたらしい」

 私は紙を眺めながら、

「ふぅん」

 と言葉を発す。友達、かぁ。一体誰のことを言ってるんだろう。私に友達、いるのかな。


「あのさ、学校来ないの?」

「え?」

 急な問いについ反射的に声が出る。

「いや、ずっと休んでるみたいだから心配で……」

「心配、かぁ〜」

 私は頬杖をつきながら呟く。

「立場逆転だね」

 彼は静かに私を見つめ、そーだな、と答えた。まさか彼が私を説得しにくるなんて。私は説得されたら学校行きたくなくなるんだよなぁ〜。

「そーいえば。キミの名前、蒼って言うんだね?」

「は?あぁ、うん」

 いきなり会話が変わって戸惑いながらも、彼はちゃんと答えてくれた。最初出会った頃よりも仲良くなれたってことだよね、きっと。

「じゃあ、私、これから君のこと蒼って言うよ。良いでしょ?」

「は?……まぁ、良いけど」

 私はにっと笑って、

「ありがと」

 と言う。しばらくの沈黙。


 あぁ、この沈黙も久しぶり。気まずくなくて、なんか安心する沈黙。彼がもたらしてくれる、不思議な沈黙。心の中でこっそり、ありがとう、と言う。

「……あの時は、ごめん」

 謝るなら今しかないと思って、勇気を出す。ちゃんと彼の目を真っ直ぐ見て。このチャンスを逃すと、きっともう謝る時がなくなってしまう。そんな気がした。

「あの時は、ちょっと色々溜め込んでて……。心の中がぐちゃぐちゃで、どうすればいいか分からなくて。その気持ち……行き場が分からなくなった気持ちを全部、蒼にぶつけた。蒼は何も悪くないのに、たくさん酷いことを言った。本当に、ごめん」

 私は彼に深々とお辞儀した。彼は私を許してくれるだろうか。

 固唾を呑んで彼の言葉を待つ。時間にしては一瞬だけど、私にはとても長く感じた沈黙。そして、彼が小さく息を吸う音が聞こえた。

「……俺も。お前が悩んでいること、辛かったこと、気づけなくてごめん。……本当は、気づこうとすべきだった。お前が俺を救ってくれたように、俺も何かお前に出来ることがあるのか、もっとちゃんと考えるべきだった。……気付けなくて、力になれなくて、ごめん」

 そう言うと、彼は私と同じようにお辞儀した。

「……」


 長い間、お互い黙ってお辞儀しあう。この光景を誰かが見たら、きっと奇妙に思うかな。

 そんなことを考えると、謝っているのに急に笑いが込み上げてきた。

「ぷっ、あははっ」

 耐えられなくなって、思わず笑い出す。顔を上げると、彼もテーブルを見ながらふるふる体を揺らしていた。

「ご、ごめっ、大事な話してるときに……」

「お前のせいで、笑いが……」

 お互い顔を見合わせ、また大きな声で笑う。

「あ〜あ、こんなに笑ったのは久しぶりだよ〜。だって、お互い無言で頭下げあって……ぷっ、なにかの宗教っ!?あははっ」

「お前のせいで真剣モードが台無しだ」

 彼はすぐに平常心に戻り真面目な顔で言う。それがまた面白くて、笑いが止まらない。

「まって……くくっ、急に真面目な顔に戻らないで、笑いすぎてお腹が、いたい……」

 お腹を押さえながら笑い転げる私を横目に、彼は悠々とお茶を飲む。

 良く吹き出さずに飲めるね!?切り替えはやっ!


 私はそれからしばらく笑い続けた。彼は私が笑い止むまでひたすらお茶を飲んでいた。

「あー、笑った笑った。笑ったらお腹空いてきちゃったよ」

「俺はお茶でタポタポだ」

「飽きずにずーっとお茶飲んでたもんね。良く入るなぁって笑いながら思ったもん」

「だったら笑い止めろよ!」

 それから私たちは、気まずかったのが嘘のように話し続けた。今まで家で何をしていたかだとか、授業はどこまで進んだかとか。お昼ご飯を食べるのを忘れて、ずっと話していた。

「え、もう1時半なの!?わー、ごめん!こんなに長い間……あ、お腹空いたしなんか食べる?冷凍食品しかないけど……」

「いや、弁当あるし」

「そっか」

 私は冷蔵庫をあさり、冷凍食品をお皿に入れてレンジで温める。温まったらさっきの席に座り手を合わせ、

「いただきます」

 と言って箸を持った。彼も自分のお弁当を取り出して食べる。

 話題も尽き、無言が続いたので私はテレビをつけて静かさを消した。リビングには、テレビの音と咀嚼音が響き渡っていた。


☆★☆★☆★


 俺は彼女にもう一度、学校に来ないのかと誘うのを躊躇った。言った方が良いのか、悪いのか、分からなかった。彼女にとって、学校にはもう居心地の良い場所が無くなった、ただの苦痛の場だ。そこに無理に来いと言ったら逆効果な気がする。ようやくまた、彼女と話せるようになったのだ。俺が変なことを言って、また関係が悪化するのは避けたい。

「ねーねー、蒼。ライン交換しない?」

「ライン……?」

 考え事をしていたから、つい疑問系で聞き返してしまう。

「そーそ、ライン。今日みたいに突撃されるのはキツいからね。ライン交換しといたら、あらかじめ教えてもらえるし。ダメ、かな?」

 俺の顔を覗き込むようにして尋ねる彼女。

 まさかこんなことを言ってくれるなんて思わなかったから驚いたけれど、少し嬉しかった。

「別にいいよ」

 俺と彼女は連絡先を交換した。

「ありがとー!」

「……ん」

 俺はスマホで時間を確認する。気がつくともう二時だった。長居しすぎたかもしれない。

「あ、もしかしてもう帰る?」

「うん」

 俺はポケットにスマホをしまって、リュックを背負う。

「今日はありがとね〜、久しぶりに充実した日になったよ」

 彼女はニコッと笑って俺を玄関まで送り出す。

 俺は靴を履き、ドアノブに手をかけ、そして彼女を振り返る。目が合って……俺は、何と言おうか迷った。迷って、迷って、暫くしてから口を開く。

「お邪魔しました」

 結局出たのはその一言。

「はーい」

 彼女はひらひらと手を振って俺を送り出す。一歩外に出て……俺は、彼女の方を振り向かずに、

「いつまでも待ってるから」

 とだけ伝えて扉を閉めた。

 ガチャン。後ろで音が聞こえたと同時に俺は走って自転車に向かう。そのままロックを外して、思うがままにペダルを漕ぐ。

 『待ってるから』という言葉で正解だったのだろうか。俺は彼女の反応を見るのが怖かった。もし気分を害していたらどうしよう。でも、俺にはもう何もできることはない。俺にできることは、彼女が学校に来ると信じて待つことだけだ。

 待つだけ……。なんて、俺は無力なのだろう。そんなことを考えながら、俺は適当に自転車を走らせた。


☆★☆★☆★


「いつまでも待ってるから」

 彼はそう言って私の家を出た。

 いつまでも待ってる。その言葉が、私の心を温かくした。来ないの?とか、行った方が良いよ、とか。私が一歩を踏み出すまで背中を押す言葉よりも。ちょっと先を歩いていて、時々後ろを振り向いて優しく私に手を差し伸べてくれるような、いつまでも待ってるから、という言葉が心地よかった。

 彼が、待っていてくれる。学校という場所で、彼が待っていてくれる。学校に行けば、また彼とお話ができる。そんな気持ちが、私の中で少しの光となって現れた。

 そして、学校に行ってみても良いかもしれないと思えるようになった。あぁ、彼はなんて凄い人なんだろう。なんて優しい人なんだろう。不登校になった私のことを心配して、学校を途中早退して家まで駆けつけてくれた。酷いことを言ってしまったのに、来てくれた。そのことがとても嬉しかった。

 蒼、私、キミと出会えて良かったよ。ごまんと人がいる中で、私たちが出会えた奇跡。この奇跡を、絶対に手放したくない……。


 私はクラスラインに送られてくる時間割を見て、明日の分の教科書類をリュックに入れた。

 彼に会うために、学校へ行こう。そう決心した。しばらく勉強をサボっていたから、ついていくのは厳しいかもしれない。それでも、私には蒼という素晴らしい人がいる。分からないところは彼に聞けばいい。迷惑をかけるかもしれないけれど、人間誰かに迷惑をかけないで生きて行くことなんて出来ないのだと、最近思うようになった。迷惑をかけて、かけられて。そんな関係で良いんだ。一方的に迷惑をかけたりかけられたりすると、きっとその関係はいつか壊れてしまう。ほどよい関係がちょうど良いんだ。壊れないぐらいの、適度な関係。

 それを築くまでには時間がかかってしまうし、築き上げるまでに崩壊してしまうかもしれない。でも、そんなはらはらした、気を抜いたらプツンと糸が切れてしまうような関係を克服できたら。その絆は、もうちょっとやそっとでは壊れない、頑丈なものとなっているはず。

 危険なくして宝は手に入らず。ともに危険を乗り越えたならば、絆という宝が手に入る。そういうものなのかもしれないなと私は思う。ヤマアラシのジレンマにならないように。私は蒼との絆を深めたい。


☆★☆★☆★


 彼女の家に突撃した日、俺は待っていると彼女に言ってしまったから、彼女が来るまで毎日ちゃんと授業に出ようと決心した。ラインも交換したから、もしかしたら勉強で分からないところとか聞かれるかもしれない。そうなった時のために、俺は勉強も頑張ることにした。


 朝、うるさい教室に入って授業の準備をする。しょうもない話をしたりもする。でも最近では、そんな日々も悪くないかもしれないと思えた。もちろんそれは、彼女がいるという彼女の存在が大きく作用しているんだけれど。


 きっと彼女に出会わなければ、俺はまだ授業に参加できずにいただろう。悪ければ退学になっていたかもしれない。彼女との出会い。そんな些細なことで、俺の人生は変わった。俺は彼女に変えられたのだと思う。良い方に。

 きっと、これからも彼女のような人には出会えないだろう。そんな人を失うのは嫌だ。何があっても、彼女との関係は壊さないでいたいと思う。俺がここまで誰かとの関係を望むなんて思いもしなかった。これも、彼女が俺にもたらした変化だ。


 この世に、永遠なんてものはない。変わらないと思われているものだって、日々少しずつ、見えないけれど確実に変化している。その変化が公になった時にはもう遅い。だって永遠などないように、変わってしまったものは、完全な元の姿には戻らないのだから。その変化が良いものになるか、悪いものになるか。それは人それぞれ捉え方も違う。でも、きっとその変化にはなにかしらの理由がある。

 例えば、俺が彼女との縁が切れないように、授業に参加するようになったこととか。

 この世は奇跡と偶然、そして必然でできている。一つの出会いを無駄にするもしないもその人次第。俺は、彼女に出会えたことに、彼女と出会わせてくれたことに感謝する。その感謝の気持ちを無駄にしないためにも、俺は彼女との関わりを手放したくないと思う。俺はもっと、彼女との関わりを深めたいと思っている。


☆★☆★☆★


 ガララララ。思い切って教室の扉を開ける。

 顔をあげると、数人のクラスメートと目が合った。そのまま席に座り、授業の準備をする。

 しばらく不登校だった私に向けられる目線。ひそひそ声。やっぱり簡単には慣れそうにないし、怖いものは怖い。今すぐにでもここから逃げ出したい。

 ……だけど。蒼の隣に居られるなら、逃げない。蒼が私の味方である限り、きっと私は大丈夫。ずっと前に私が彼に言った、

『人間は誰しも嫌なことにぶつかるんだよ、きっと。でも、それを我慢してやり抜くか諦めるかで人間の価値が決まるんだと私は思うんだ。』

 という言葉。彼は我慢しやり抜く方を選んだ。私が彼の隣にいたいと思うのならば、私も我慢しやり抜く方を選ばなければならない。諦めてしまったら、胸を張って彼の隣に居られなくなってしまうから。だから私は、頑張るんだ。


☆★☆★☆★


「おーっす、蒼!お前上手くやったんだな、すげーわ!あの不登校生、学校来たじゃん」

 そう言って俺の背中をばしばし嬉しそうに叩く湊人。俺は耳を疑った。

「まじ?」

 その反応が意外だったのか、

「え、知らなかった?そりゃあ悪い事したな。もしかしたらお前を驚かせようとしてたのかもしれない」

 と言ってきた。俺はその言葉を最後まで聞かずに席を立ち、F組へと向かった。

 ガラララッと勢いよくドアを開けると、F組全員の視線が俺に集まった。彼女も驚いた顔で俺の方を見ている。

 俺はたくさんの視線を集めながら、彼女の席へ近付いた。周りのやつらは顔を合わせなにやらひそひそ話している。俺のクラスよりも雰囲気が悪い。こんな中彼女は毎日学校へ来てたのか。そして、俺に心配させまいと笑顔を取り繕ってあの教室に来てた。

 改めて凄いなと彼女を尊敬した。いつまでも黙っている俺に痺れを切らしたのか、彼女が口を開く。

「私が来たってなんで分かったの?せっかく驚かせようと黙ってたのに」

 少し拗ねながら俺を見上げるその姿は、とても可愛らしく見えた。あぁ、俺は彼女が好きなんだなぁとしみじみと感じる。

「湊人に聞いた。だから確かめに」

「また湊人?誰か分かんないけど情報通だね」

 くすっと笑って楽しそうな彼女。やっぱり彼女には笑っていてほしい。彼女から笑顔を奪わないために、彼女が笑っていられるために、俺は学校へ来よう。


「天音が来てくれて良かった」

 気づいたら、そんな言葉が口から飛び出していた。俺ははっとして口をつぐむ。彼女は驚いた顔で俺の顔を見つめていた。

「今……うちの名前、初めて呼んでくれたよねっ!?しかもむちゃくちゃ笑顔で!わー、レア!!レア中のレアだよ、SSRだよ!!ねね、蒼、もっかい言ってよ」

 急にテンションが上がってにやにやと笑う彼女。SSRなんて言葉普通に出るかよ。

「やだ」

 俺はふいっと横を向いて彼女から視線をそらす。

「わー、照れてる!可愛い〜♡」

 またも彼女は嬉しそうだ。やいやい言ってくる彼女を静める術を知らない俺は、どうにも出来ずにただ彼女の前に立っている。

 でも、元気そうで安心した。俺はほっと息を吐き、自分の教室に戻ろうと踵を返す。

「じゃあ俺教室に帰るわ」

「うん、じゃあお昼休みにね〜」

 背中で彼女の声を受け止め、手を挙げて答える。教室を出るまでの数メートル、視線はひしひしと感じっぱなしだったがどうでもいいと思った。誰が何と言おうと俺は俺だし、みんなも他の誰にもなり得ないのだから。


 この世にいる人はみんな性格も顔も違って、同じ人なんて存在しない。だからこそ対立やいざこざが起こるけれども、それと同時に素晴らしいことも起こる。人生山あり谷あり、それが面白いのかもしれない。人の数だけ考え方が存在するのだから、自分に理解できない考え方だって相反する考え方だってある。でもそれを全部受け止めて、自分は自分だと思えるようになれれば良いのかもしれない。他人から貼られるレッテルや評価はあくまでその人が感じただけのこと。本来の俺ではない。

 俺だってまだ自分のどれが本当なのか分からない。そもそも本当の自分なんてあるのだろうか。今まで生きてきても導き出せない結論を、話したこともないような人に導き出せるはずがない。俺は俺。

 なんだかんだで、結局大事なことは自分がどうしたいのかっていう気持ちなんじゃないかと思う。他人に惑わされず、誰に何を言われようとも、己が進みたい道を行く。カッコいいじゃないか。俺は俺の進みたい道を、胸を張って進めるようになりたい。


☆★☆★☆★


 ひゅ〜っと心地いい風が身体に染み渡る。

 澄んだ空気を目一杯吸い込んで深呼吸。

 あぁ、なんて気持ちいいんだろう。空はキレイな青色。そこに真っ白なふわふわした雲が浮かんでいる。意味もなくわぁ〜っと叫びたくなるようないい天気。


 私はベンチに座って、待ち合わせをしている彼を待つ。張り切って家を早く出てきたから、待ち合わせの時間まであと二十分近くある。私はベンチにもたれかかり、彼と出会ってからの事を思い出していた。

 私たちが初めて会った特別な教室。あの空間がなければ私たちは出会っていなかったんだろうな。私が不登校になることもなかったかも。彼はもしかしたら退学になってたり?わぁ、そう考えると恐ろしいな……。

 たくさん重なりあった偶然と必然で結ばれた私たち。その絆を、これからも保つことはできるかな。んーん、保てるか保てないかじゃないよね。保つかどうか、だ。


 時計を確認すると、待ち合わせ時間まであと五分だった。もうすぐ来るかな?

 私たちは学校で一緒にいることも多くなり、お互いの教室まで足を運ぶことも多くなった。彼の話によく出てくる湊人くんとも仲良くなった。湊人くんはとてもいい人だ。きっと彼が教室で居場所を見つけられたのは湊人くんのおかげだと思う。

 私もクラスメイトとそれなりに会話できるようになってきた。茜もまた話しかけてくれるようになった。それはきっと、彼が悪い人じゃないって認識が出来たからだと思う。

 彼はカッコ良くて運動神経が良くて頭が良くて。本当にスペックの高い人だ。密かに彼に想いを寄せている人だっているだろう。私もその内の一人だ。

 彼は私のこと、どう思っているんだろう。彼の考えていることはよく分からないからなぁ。親友?友達?それとも……。

 人の考えなんて、聞いてみないと分からない。彼も私が想いを寄せていることなんて知らないだろう。しかし、その想いを伝えてしまったらこの関係は壊れてしまうかもしれない。そう思うととても怖い。自分の気持ちを悟られないようにしなきゃと思う。


 遠くを眺めながら色んなことを考えていると、後ろから急に声をかけられた。

「おっす」

 勢いよく振り向くと、輝く太陽を背に、笑顔で手を挙げる彼がいた。その顔を見ると、自然と顔が綻んでしまう。

「いえーい」

 私も手を挙げ返して立ち上がる。今は、彼の隣にいられるだけで幸せだ。彼と出会えたことに、彼と仲良くなれたことに感謝しよう。

 私は彼の隣に行き、笑顔で話しかける。私たちの間を駆け抜ける風が、私たちを照らす太陽の光が、気持ちいい。今日も最高の日だ!!

皆さんこんにちは、または初めまして、狐桜こざくら せつです。『同じ世界に推しがいる』の100ポイント記念で短編を投稿してみました。読んでくださった心優しい方に感謝です。異世界系も好きですが、やっぱり現代のお話も良いですよね。書いていて楽しいです。天音と蒼のような、そんな素敵な存在が自分にもいたらなあって思います。

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