08
もうずいぶん長い間過ごした部屋の窓辺に身を寄りかからせた私は、どことなく薄暗い外の景色を眺めながらそっとため息を吐いた。
エリオスが手を入れていないと言っていた庭は確かに野生に近い有様ではあったが、小さなビオラが健気に咲き誇り愛らしい様子を見せている。相変わらず素晴らしい景色は私の心を幾ばくか慰めたが、町の様子を窺い知るにはてんで向いていない。窓の先に広がった緑に似つかわしくない閉塞感はどうしたって私の気分を重くさせた。
本当にあの日エリオスの部屋で気を失ってから不可解なことばかりだ。
私の帰宅を拒否する頑なな冷たい声と、私を見る熱の籠った眼差しを同時に思い出して、二つの相反する感情に苛まれた私はもう何度目か知れないため息を吐き出す。
なにかがおかしいのだということはわかっても、どうしたらいいのか私には未だなにもわからなかった。あの後まるでなにもなかったかのように振る舞うエリオスに、不可解な態度のどちらの理由も問い質せないまま無為に時間だけが消費されてゆく。
もう一度大きなため息を吐き、なんの悩みもなさそうに朗らかに鳴く小鳥の群れを見送って、私は朝食の準備を手伝うために部屋を後にした。
「ニナ。午後からちょっと出かける用事があるから、留守番頼んでいいかな」
いつも通りの朝食を終えたあと。
エリオスの言葉に私は持ち上げかけていた紅茶を口に運ぶのも忘れて、目を数度瞬かせた。その言葉の意味することをきちんと飲み込む前に反射的に頷いてから数秒、じわじわと身体に緊張が走る。
「もうずいぶん身体の調子はいいと思うけど、過信しないで大人しくしているんだよ」
内心の動揺を気取られなかっただろうか。咄嗟に俯くことだけはできたから顔に出る前に隠すことができた、と思いたい。エリオスの忠告を右から左へ聞き流し完全に気を散らせながら、私は顔を上げすぎないようにもう一度慎重に頷いて見せた。
「……夕食、用意しておく。帰りは遅いの?」
「夕方には帰るから大丈夫だよ。また一緒に作ろうか」
「うん……」
夕食までエリオスがいないということは彼に気がつかれずに何かを成すいい機会だ、ということでもある。この胸に満ちるわだかまりをどうにかするためになにをしたらいいのかはわからないが、少なくともなにか打開策の一端を掴めないだろうか。
「あ、もしかして俺がいなくてさみしい?」
「え」
ついついそんなふうに考え込んでしまったせいで、深刻な表情でも浮かべてしまったのかもしれない。冗談めかした声にびっくりして顔を上げると、そこには眉を下げて苦笑いを口の端に上らせたエリオスの姿があった。
「あはは、そんなことカケラも考えてませんでしたって顔。はいはいごめんごめん、調子に乗りました。……俺の顔なんてここのところずっと見てるからもう見飽きてるかな」
「そんな、ちがっ! さ、さみしい! 飽きない!」
笑みの混じった声の後に、ささやくようにつけたされた言葉にかっと顔が熱くなる。
慌てて否定したはいいが、今度は自分の言葉にさらにうろたえる羽目になってしまった。
ようやく長年思いを寄せていた人と同じ家で二人きりで過ごしていることに慣れてきたところだったのに、あらためてその事実がのしかかってきて心臓がうるさいくらいに自己主張を始める。
「ほんと? 嬉しいな」
外に飛び出す勢いのそれをなんとか宥めるために、私は無理矢理思考を切り替えることにした。
そう、そうだ。
エリオスがいない間に少しだけ、ほんの少しだけ外へ散歩に出てみよう。そうすれば何故エリオスがあれほどまでに私を外に出したがらないのか、その理由を――せめてその一掴みでも――知ることができるかもしれない。
エリオスはことあるごとに心配してくれるけど、体調は正直倒れる前となにが違うのかまったくわからないほどに回復していたし、最初に言われた人に会うなというエリオスの言いつけだって強く言われたわけではない。あくまでその方がいいという程度だと受け取っていた。
もともとこのあたりは町の郊外に近く人通りもさほど多くないのだから、あえて人に近づくような真似をしなければ大丈夫だろう。
私はきっと、安心したいだけなのだ。
こうして私を一人にして家を留守にしようというのだから、結局軟禁されているかもしれないだなんてやっぱり私の被害妄想に違いないのだろう。だけどどうしても残る凝りの正体は、たぶん様子のおかしい彼にその理由をはっきり問い質せない自分のふがいなさのせいだ。
それに何もわからないで戻る羽目になっても、外の空気を吸えばこもりきりになっているせいでどうしたって暗く塞ぐ私の弱い心だって上向きになるはず。そうしたらエリオスに聞きたかったことを全部、満足するまで聞いてみよう。
エリオスが家にひとりぼっちで籠りきりだった時のこと。
なにか私に隠していることがあるんじゃないかってこと。
そして、クレアのことと、私へのおかしな、そうおかしな態度のこと。
そう決心するとほんの少しだけ心が軽くなったような気がした。
「ニナ?」
黙ってしまった私を不審に思ったのか、いぶかしげに覗き込んできたエリオスの瞳と視線がかち合って、私は固まっていた表情をゆっくりと弛緩させる。
「ごめんなさい。エリオスが帰ってくるの、待ってる」
「……うん。うん、待ってて」
一体エリオスはなにを思ったのだろうか。
なにかを噛みしめるように頷いた彼は、それはそれはとろけるような極上の笑みを私にくれた。
*
扉に手をかけたときほんの一瞬だけ走った緊張は、なんの抵抗もなく開かれた扉にあっけなく拭い去られた。
さっと頬を撫でてゆく外気が柔らかく涼しげで気持ちがいい。
えいやっと思い切って家の外へと一歩踏み出せば、見慣れたいつも通りの町並みにほっと体の力が抜けてゆくのがよくわかった。家に引きこもっていたのはほんの数日だけなのに何故だか懐かしさすら感じるような気になってくる。
私は大きく息を吸い込むと、家の中から拝借してきた鍵で扉を施錠してゆっくりと歩きはじめた。エリオスの家には貴重なものがたくさんあるのだ。
つい最近までまだまだ肌寒さを感じた季節は少しずつではあるが順調に春の気配を深めている。ちょうどよい麗らかな気候に浮かれて、私の足取りは自然と軽くなって石畳を軽快に叩いていった。大丈夫だと自己判断で出てきてしまったが懸念していたような体調の変化もないし、エリオスがなにを私から遠ざけようとしているのかはわかりそうにもない。
だけどその代わり明るい外の空気は私の不安を実に簡単に吹き飛ばしてくれた。
このまま川沿いをすこし歩いたら家へ戻ってエリオスを待とう。エリオスへわだかまりを吐き出すことにほんの少しだけ恐れもあるけど、きっと大丈夫だ。
通りから見える川面はきらきらと陽の光を受けてきらめいていて、見ているだけで勇気がわいてくるような気さえした。
昔はよくこの通りをエリオスとクレアと一緒に歩いて父が司書を務める図書館に通い詰めていたっけ。幼い頃から同い年の子と比べても小柄だった私は年上の二人について行くのがやっとで、よく転んでは泣いて二人を困らせていたように記憶している。
懐かしさに顔が緩みそうになったとき、ふと視線を感じて私は慌てて表情を引き締めた。
「お母さん」
なんて偶然なんだろう。
数日ぶりに見る母の姿に意味もなくどきりとして立ち止まる。買い物用の籠をぶら下げてこちらを凝視しながら立ちつくしているのを見るに、母もエリオスの家で療養しているはずの娘を外で見つけてびっくりしているのだろう。遠目だから気のせいかも知れないけれど、母の顔はいささか強ばっているように見えた。
もしかして、怒ってるんだろうか?
エリオスは両親が私のことをただ心配していたと言ってくれたが、母――父は私になにも言おうとはしなかった――は私がエリオスの元へ通うことをあまりよくは思っていなかったのだ。挙げ句の果てに倒れたと聞いて呆れかえっているのかもしれない。連絡を一切くれなかったのもそれが理由だろうか。
とりあえず心配をかけたのは間違いないのだから謝らなきゃいけない。
はっきりと叱咤されることに怯えながらもそろそろと母の元へ歩み寄る。近づく度に深くなる彼女の眉間のしわがはっきりと見える頃には、私はもうすっかりと怒られる覚悟を決めていた。
「……あの、なにかご用でしょうか?」
いくら怒っているとはいえ久々に会う娘に対してその冗談はあまりにひどすぎるじゃないか。
思わず顔を緩めて笑い飛ばすよりも前に、とても冗談を言っているようには見えない真剣な表情に気がついて私はひゅっと喉を鳴らした。
ついさっきまで凪いでいたはずの胸の内が途端ざわつきはじめて、バクバクと痛いほどに騒ぎはじめた心臓を押さえる。
いや、そんなことあるはずない。娘の顔を忘れただなんて、そんなバカなことがあるはずがないのだから当然冗談のはずだ。
「ええ……と、お知り合い、じゃないですよね?」
それなのに、戸惑いがちな母の声には到底嘘の気配は感じ取れなかった。だからといって私が見慣れた母の顔を見間違えるはずもない。
まさか、本当に母ではないとでもいうのだろうか。
理解できない状況に私はどうすることもできずに、ただおどおどと母とまったく同じ顔をしたその人を見つめることしかできない。
「……あの?」
「ああ、よかった! ここにいたんだね」
声を失って立ちつくす私に不審げな声が重ねられたそのとき、張り詰めていた空気に穏やかな声が分け入った。
「エリ、オス……」
陽に透けて冴えた灰色を覗かせる瞳と視線がかち合って、私は呆然とその名を呟く。何故エリオスがここに、だとかそんな疑問がとりとめもなく浮かんでは形にならずに消えていった。
「あら、エリオス」
「こんにちは、アトリーさん」
「ええ、こんにちは。あの、……こちらの方はエリオスのお知り合いなの?」
何故私のことはまるで知らない人間だというような態度なのに、エリオスとはいつもと変わらぬ様子で話をするんだろう。見慣れたものと見慣れぬものが混在するその光景に、なおさら不安と違和感が膨れあがって、私は身動ぎすらできずに息を止めた。
「ええ、彼女俺が王都で学んでいたときの同級生なんです。向こうにほっぽりだしてきた研究を進めることになって……わざわざこの町まで手伝いに」
「そうだったの」
二人の会話に割り込むこともできずに息を止めたまま愕然と眺めていると、母がまるで懐かしむような瞳で私を見ていることに気がつく。
「……似てる、でしょう。俺も最初は本当に驚いて」
「ええ……、本当に似てるわ」
いったい、誰に似ていると言うんだ。
そう問いかけたかったのに、私の唇はまるで縫い止められたかのようにぴくりとも動かなかった。ただ狼狽えてエリオスと彼女とを交互に見る私になにを思ったのだろう。その人は母とまったく同じ表情で眦のしわを深めて笑った。
「ごめんなさいね、おかしなことを言って。あなたが……死んだ娘にあまりにもそっくりだったから」