07
「もう目、開けて大丈夫だよ」
エリオスの合図を受けてゆっくりと目を開く。朝食後に行われる魔素抜きの治療もこれでもう七回目だ。すっかり習慣と化して慣れてしまったうとうとするようなこの感覚。
慣れるにつれ眠気へ抵抗するのも面倒になってきてしまっているせいなのか、いつものようにグラスを受け取ってお茶を飲んでも私の身体は心地よい微睡みに包まれているままだった。
いつもより時間をかけてお茶を飲みながら、ほっと息を吐く。
ここに来てしばらく悩まされていた頭痛と倦怠感はもうすっかりと消え失せていて、最近の私はといえば寝ているか食べているかエリオスの仕事を眺めているか本を読んでいるか。完全に病人ですらないただの穀潰しと化していた。
最初に聞いていた半月という期間のその半分が過ぎ去って、私は最近常によぎる思いをエリオスに伝えるべきかお茶を飲みながらもまだ眠気の残る頭でぼうっと考えていた。
よぎるのはもちろん、帰宅である。
言えばだめだと言われるのはなんとなく予想がついていて、素人の判断で療養を終わらせることが愚かしい真似であることも十分承知している。
だが日に日に膨らんでいく欲求は、相談くらいはしてみてもいいのではないかという考えをどんどん私の頭にこびり付かせた。
エリオスと一緒に過ごすことができるのは嬉しい。良心の呵責に目をつぶれば生活は快適だし、間近で好きな人を見続けられるというのは抗いがたい魅力だ。だけどやはりこのままではなにかが良くないのではないかと小さなわだかまりのようなものも抱えていた。
それはまったく便りを寄越さない薄情な両親のせいかもしれないし、病人とは思えない程に調子のいい自分の体調のせいかもしれない。
「調子はどう? もう頭が痛かったりだるかったりはしない?」
「うん。もう平気」
「よかった」
「……エリオス」
「ん?」
折良く私の体調の話になったので少しだけ悩んだ末に、道具を箱の中に手際よくしまうエリオスに視線を向けておずおずと呼びかける。エリオスはすぐに手を止めるとしっかりと私の目を見て返事をしてくれた。
その邪気のない瞳に気勢を削がれかけながらも私は意を決して口を開く。あくまで相談をするだけだ。絶対家に帰して欲しいと主張して喧嘩も辞さないと思っているわけではないのだ。
「やっぱりまだ家に帰るのは無理? 私」
「ダメだ」
それなのに返ってきたびっくりするほど冷たい口調に、僅かに身体に残っていた温度も一気に吹き飛ぶ。
「ダメだよ。しっかり治さないでニナによくないことが起きたら俺はどう責任をとれば良いのかわからない」
エリオスの声はすぐにいつもの優しいそれへと戻ったけれど、私の小心はいっそ情けないくらいにびくびくと縮み上がっていた。
「ごめんなさい」
同時に胸の内で急激に育ってゆく違和感に戸惑う。エリオスの態度が、なにかおかしくはないだろうか。
「……家の中にずっといると疲れるよね。もし良かったらあとで一緒に庭にでも出ようか。ほとんど手を入れてないから庭ってよりも狭い野原だけど、気晴らしにはなるかも」
「う、ん」
道具を詰めた箱を持って仕事部屋へ向かうエリオスをソファの上で縮こまったまま見送って、私はぎゅっと膝の上で拳を握った。
もしかしてエリオスは、私をこの家から出したくないんじゃないだろうか。それも、彼の言う魔素中毒とは別の理由で。
ふいに浮かんだはっきりとした形の疑念にぎくりとする。
だけどそんなふうにぎくりとする一方で、考えすぎだと笑い飛ばす自分も存在した。別に鍵をかけられた檻の中に閉じ込められているわけではないのだ。出ようと思えばいつだってこの家から出て行くことだってできる状況でそんなの大げさすぎる。
だいたいエリオスが私を閉じ込めておく必要性がいったいどこにあるというんだろう。
ぐちゃぐちゃとまとまらない思考にずんと胸に重りが落とされたみたいで、私は少しでも楽になるために重い重いため息を吐き出した。
エリオス。
ふと掠めた熱を思い出して疼く身体をそっと自ら戒める。あの優しく触れる長い指先をただなにも考えずに受け入れてしまいたいと思うのは愚かなことだろうか。もういっそなにもかもを忘れてこの生活を楽しむことができたらいいのに。
ずるずるとクッションを抱きしめながらソファへ身体を預ける。目をつぶると闇の帳が下りて、私はできるだけなにも考えないようにしてその闇へと身を投げ入れた。
*
あの日躊躇いがちに扉を開けた私を出迎えたのは、陰鬱な重苦しい空気と、闇に沈んだ薄暗いがらんどうの部屋だった。
クレアが亡くなってすぐの私は彼女のことを思い出すのがつらくて、ただ自分の心を守るためだけに家に引きこもって鬱々と過ごしていた。今となっては彼女との思い出を懐かしむことができるくらいには立ち直っているつもりだけど、どこにだって残るクレアの気配に気がつけば涙を流していたことも多かったように思う。
そうしてただただ余裕を失っていた私が、エリオスのことを思い出したのは――ああ、そうだ――確か六日ほど経った頃のことだ。
きっかけは確か母の一言だったように思う。
今、家に一人なのではとそう気遣わしげに告げる母の言葉で、私はすでにエリオスの父親がこの町を発ったことにはじめて気がついた。
クレアの葬式で久しぶりに言葉を交したエリオスの父親は、クレアの死を悼むと同時に自身の息子の精神状態を憂いていたように記憶している。逆に父親が帰ってきていたのを見たからこそ、私はすっかりエリオスのことを頭から閉め出せていたとも言えるだろう。
だけど彼が家に一人だと気がつけば、どうしたって浮かんでしまう嫌な想像が私を苛んだ。
弾かれたように家を飛び出して、家主の許可も得ずに家に押し入った――普段だったら絶対にしないことだ――先で見つけたエリオスの姿は最悪の想像のようにはなっていなかったけれど、想像よりもずっと酷い表情をその顔に貼り付けていた。
いや、正確に表現するならばなにも貼り付けていなかったと言うべきかもしれない。
元々男性にしては白かった肌は、青白さすら通り越して死人のようだ。そして私が大好きだった知性と好奇心に煌めいていたはずの瞳は、まるで先の見えない穴みたいにぽっかりと口を開けていた。
灯りもつけない暗い自室でなにもせず座り込んでいたエリオスは、まるで感情の一切合切を失ってしまったかのように、暗く、からっぽで。
私はその姿にただ純粋に打ちのめされながらも、彼にとってクレアがどれほどに大きな存在であったのか、まざまざと見せつけられたのだ。
*
「……ナ」
遠くから私を呼ぶ声が聞こえた。
「ニナ」
いつの間に眠ってしまったのだろうか。
大きな手のひらが頭を優しく撫でてくれていた。覚えのある感覚が心地よくて、つい強請るよう頭を擦り寄せる。いつかのように躊躇うようにひやりとした指先がするりと頬を撫でたが、私はそれでも目を覚ます気になれずにそのままうっとりと身を寄せた。
「……ニナ、起きないと……」
こんなに気持ちがいいのに、覚醒を促すようないじわるな声は無視だ。
数日間気を張っていたせいで疲れていたのだろうか、私にとりついた睡魔は驚くほどに強力だった。そうしてしばらく最高に幸福な微睡を心ゆくまでむさぼって、ようやく満足した私はゆっくりと目を開く。
ばちり、と黒い瞳と目が合った。
驚くほどに近い距離に眠気が一瞬で引っ込んで身体が硬直する。絡む視線は熱っぽく、唇は吐息がかかるほどに近い。エリオスは驚きに見開く私の瞳をまじまじと見つめて、刹那慌てたように身体を引き離して小さく呻いた。
顔を両手で覆って俯いた髪の毛からのぞく耳がわずかに赤いのは、見間違いだろうか。
「……!?」
一方の私はといえばまったく掴めない自分の状況に混乱の渦へと叩き込まれていた。
とりあえず直前の記憶を思い出そう。
今日は朝食を終えた後、いつものように魔素抜きの治療をして。そうだ、考えごとをしながら寝てしまったのだ。自分がソファの上でクッションを抱きしめているのを確認して、記憶に誤りがないことを確認する。
それで、起きた後は。
起きた、後は。
触れそうなほどに近くに寄せられたエリオスの顔を思い出して、爆発したみたいに意識が飛びそうになって顔が火を噴きそうなくらい熱くなってゆく。
あれではまるで、まるでキスをしようとしていたみたいじゃないか。
自分で考えたことにまた頭が沸騰しそうになって、混乱のままありえない状況になんとか理由を見つけようと逡巡する。ぐちゃぐちゃの思考をなんとか引っ掻き回した私は、深くも考えずにとにかく真っ先に思い付いたことをそのまま口に出した。
「ク、クレアと間違えたの?」
「え……?」
しまったと思ったときにはもう遅い。
エリオスを悲しませてはならないと、けして口に出すまいとしていた少女の名前を口に出した途端、ソファの端で俯いていたエリオスはばっと顔を上げて私を見た。
だけどその顔に浮かんでいた表情は私の想像とは、まるで違う。
瞳にまたあの暗い色を呼び覚ますのだと思っていた彼は暗さもなにもなくただぽかんと口を開けて、まるで私の言っていることが理解できないとでもいうように私を見ていた。
「あ……」
それからなにかにはっとしたように気がつくと、再び頭を抱えてゆっくりと息を吐く。
「ああ、そうだった。そう、だね。クラ……クレアと……」
「エリ、オス?」
「……ごめん。違うよ」
悩むように口ごもって肯定するようなそぶりを見せて、だけど結局ただぽつりと投げやりな謝罪を添えてはっきりと首を振る。私の言葉を否定したきり俯いて黙り込んだエリオスのその様子を見て、何故か私はひどくショックを受けている自分に気がついた。
エリオスとクレアは本当に仲の良い恋人同士だった。
クレアはよくエリオスの才能を褒めていたけれど、本当はエリオスの方こそクレアのことを尊敬していたんじゃないだろうか。まるで崇拝しているかのような目でクレアのことを見ていた彼を思い出す。
私が間に入る込む余地なんて、二人の間にはほんのすこしもなかったのだ。
それなのに、ついさっき見たばかりの忘れるはずもない 熱を孕んだエリオスの視線を思い出して、ぎゅっと身体の奥が締め付けられる。あんなふうに甘い熱を私に向けるエリオスなんて、私は知らない。エリオスはいつだってクレアのことしか見ていなかったのに。
今のエリオスは、まるで彼女への執着をぽっかりと抜け落としてしまったみたいじゃないか。
二人の間を支配する気まずい沈黙の中で、私はエリオスに抱いた違和感をさらに大きく膨れあがらせていた。