03
大きな手のひらが頭を優しく撫でてくれていた。時折額に触れるひんやりとした感触が心地良くて、うっとりと身を寄せる。するとその手は一瞬だけためらいを見せたあとに、するすると頬に触れた。
は、と目を開く。
途端離れてゆく手のひらに名残惜しさを感じる私の視界に入ったのは、どこか見覚えがあるような天井と、こちらを心配そうにのぞき込むエリオスの姿だった。
「よかった、目が覚めたんだ」
そう、エリオス。
エリオスだ。
なんだか信じられないようなものを見るような心持ちで、その黒い瞳を見返す。随分と久しぶりに見るエリオスの姿は、想像していたようなやつれも感じさせず――それこそ、クレアが生きていた頃のような――私が見知ったいつも通りの姿を見せていた。
いや、少し髪が伸びただろうか。でもずっと部屋に籠もりきりで手を入れる機会もなかったのだろうから、それも当然だろう。
でも本当に元気そうでよかった。
というか、なぜ私はベッドの上に寝かされているんだっけ。
しばらくとりとめのないことを考えて散らばった思考をなんとかかき集める。
とりあえず現状の把握のためにゆっくりと周りを見渡せば、どうやら私は彼の家の客間で寝かされていたみたいだった。それから目覚める直前に見た青白い光を思い起こす。たぶん、私はあの光を見たあとに気絶したんだと思う。
「ごめんなさい。エリオス、私」
「待って。ニナ、ダメだよ」
慌てて身を起こそうとした私をエリオスがやんわりと止めた。ゆっくりとベッドに押し戻されて、ついでに優しく頭を撫でられる。そんな風にエリオスに触れられるのは初めてのことだった私は、どきりと胸を高鳴らせたあとに慌ててわき上がる感情を振り払った。
たぶん、これはただ単に熱を出した子どもにするような意味合いを持った行動であって、きっとそこに深い意味なんてない。
そう、絶対にないんだ。
言い聞かせる言葉の裏に願望が透けてみえるようで、顔から火が出るみたいにカッと頬が熱くなる。
「エリオス、私どのくらい寝ていたの」
「ほんの二刻くらいだよ」
エリオスの言葉を聞いて私は思わず小さく唸ってしまった。彼の家に寄ったあとは父の仕事を手伝う約束だったのだ。連絡もせずにすっぽかしたとなれば心配されるだろうし、なによりここに通うことをよく思っていない母がなにか言ってくるかもしれない。
「私、帰らないと」
どうも私をまだベッドに縛りつけていたいらしいエリオスに、訴えかけるように目を見つめてみるが彼はわずかに目を細めただけではっきりと首を横に振った。
「ニナ、ごめん。君、俺の実験に巻き込まれたんだよ」
「実験?」
「そう。ちょっと複雑な魔道具の実験をしていたら失敗しちゃって。暴発した濃い純魔素にあてられて倒れたんだ。俺は対策していたから大丈夫だけど、加工されていない純粋な魔素は普通の人には毒になるから、毒が抜けるまでしばらくここでゆっくり休んでいてくれないかな」
魔道具を動かす動力として、私たちの生活に欠かせない魔素。どこにだってあるそれを動力として利用するために精製すると、ともすれば毒になるというのは有名な話だ。でも一般に流通している魔道具に使うそれは既に安全対策がなされているもので、今までその危険性を身近に感じたことはない。
それにけして数は多くないけど、今までエリオスの研究成果を見せてもらったときにはそんなことは一度も起らなかった。きっと最大限に配慮してくれていたからなんだろう。
あの青白い光がそうだったのか。
気絶する前にほんの少しだけ見た光は、確かに尋常じゃない光量だった。気絶してしまったのもその毒が原因だと思えば、なおさら合点がいった。
天才と名高いエリオスの言うことだし、さらに今回に限っては私が勝手に扉を開けてしまったのが原因なのは明白だ。戻る時間が遅くなればなるほど両親の心配と、私が彼らに怒られる可能性は加速するだろうが自業自得だ。大人しく言うことを聞くしかない。
ああ、なんで、私はいつも。
「毒って、どのくらいで抜けるの?」
己の要領の悪さに落ち込みながらも聞いた私は、返ってきた言葉に愕然と目を見開いた。
「うーん……半月くらい、かな」
「は、半月っ?」
せいぜい長くて一晩やそこらだと思っていた。
今度こそ止められる間もなく飛び起きた私は、ぐるりと回る視界と急激におそってきた吐き気に耐えきれずにすぐにベッドに倒れ込んだ。
「ニナ!」
慌てたエリオスの大きな手が伸びてきて、ぐらぐらと揺れる私の視界を塞ぐようにそっと目の上を覆う。なにかしてくれているのだろうか、ひんやりとした感触が心地よくて目眩と吐き気はすぐに薄れていった。
「ごめんニナ、俺のせいで……」
「ううん、私が悪い。ごめんなさい。少し落ち着いたら家に戻る、から」
暗い視界の中、苦しそうなエリオスの声がつらくて必死に首を振る。これ以上迷惑をかけたくない一心で訴えてみるが、離れていった手のひらの先に待ち受けていたエリオスの表情は頑なだった。
「……ダメ。魔素を抜くには特殊な処置が必要だから、ここに居てもらうのが一番いいんだ。ニナの両親にはもうきちんと事情説明と謝罪は済ませて許可ももらってる。お願いだから俺の言うことを聞いて」
「でも、そんなのエリオスに迷惑……」
それでも消えない罪悪感に背中を押されてもう一度だけ言い縋ってみたが、エリオスは私がそれを言い切らないうちに話をそらすことに決めたみたいだった。
「……あのとき、ニナが現れたものだから……本当にびっくりした。ずっと、俺のことを心配してくれてたんでしょう?」
部屋の明かりが反射して、エリオスの綺麗な黒い瞳が湖面が揺らぐみたいに瞬いた。なんだかその視線がかつてエリオスがクレアに向けていたものと似ているような気がして、どきりと心臓がはねる。同時にずいぶんと長い間彼と会えなかった理由を思い出して、つきりと心臓が痛んだ。
「それは、だって。……エリオスは、その大丈夫?」
私はなんでこう気の利いたことひとつも言えないんだろう。
複雑に絡んだ感情を吐き出したくて開いたはずの唇は、情けないまでになにもほどけずにごちゃごちゃしたものを絡ませたままぼそりと落とす。
エリオスはその言葉に困惑ひとつ見せずにそっと瞳を伏せて、それから唇に薄く笑みを乗せると小さく首を振った。
「もう、大丈夫だよ」
笑うエリオスの表情から真実を読み取ろうとじっと見つめてみても、私にはなにもわからない。それは心からの言葉のようでもあり、ただ私を心配させないように張っている虚勢のようでもあった。
いや、どう考えたって虚勢じゃないか。
つい昨日のことのように思い出せる、魂が抜け落ちたみたいなエリオスの姿を思い出して、痛ましさに涙がにじむ。そっと伺う薄暗い家の明かりに沈む彼の黒い瞳は、あのときと違って確かに光を取り戻してはいるけれど、奥底に潜む哀しみが見て取れるような気がした。
なんにせよ、こうして表情に色が戻っているのはよいことなのだと、思うけど。
「そんな顔をしないでもう少しゆっくり寝ていなさい。次に目が覚める頃にはもう少し楽になってると思うよ」
エリオスは乱れた上掛けを綺麗に整えると、そのまま優しく私の頭を撫でた。
ああ、そうだ。
彼がクレアを優先するようになってからすっかりと忘れていたけれど、昔はよくこんな風に甘やかされたこともあったっけ。まるで、子どもにするみたいに。実際、子どもだったわけだけれど。
「さあ、目を閉じて」
体の奥に響くような声に誘導されるままにまぶたを閉じる。
つらいエリオスを助ける為に毎日通っていたはずなのに、こうして迷惑をかけて気を遣わせるなんて、不甲斐ない自分に涙が出てきそうだ。罪悪感がぐるぐると頭を巡って、到底寝ていられるはずなんてない。
「ニナ……」
それなのに心地よい彼の手のひらと声にゆらゆらと揺られて、結局私の意識はゆっくりと闇に抱きかかえられるみたいに暗い暗い底へと落ちていった。